追想編3 デリア

「オメロッ、そっちに行ったぞ! 仕留めろよっ!」

「はいっ!」

「逃したら、お仕置きだからなっ!?」

「えっ!?」


 あたいが言った直後、オメロがなんでか硬直した。

 あぁ、もう、バカ!

 なんで今動きを止めるんだよ!?


 獲物が目の前に来たら、何があっても、どんなことが起こっても確実に仕留める!

 それが川漁ギルドの鉄則だろう!?


 案の定、獲物はオメロの足元を掻い潜り水深の深いところへと逃げてしまった。

 水の中では魚には勝てない。


 あたいにもし、マーシャみたいな鱗とヒレがついていたら、今の獲物だって絶対に逃がしはしなかったのに……


「くそ……っ」


 苛立ち紛れに、自分の手のひらに拳を打ちつける。

 同時に、川面が波立ち、オメロが全身の毛を逆立てた。……なんだ? 威嚇か?


「す、すすす、すみまままままま…………あぁぁぁああの……オレ、死ぬんでしょうか?」

「はぁ?」


 こいつは何をバカなことを言ってんだ?

 一匹逃したくらいで給料を下げられるとでも思ったのか? 飢え死にするほど出し渋りゃしねぇよ。

 ウチの川漁ギルドは、鮭の需要が爆発的に増えて利益を上げてるんだ。

 それもこれも、みんなヤシロのおかげで…………


「……っ!」


 突然、胸が痛み出す。

 いや。本当は朝からずっと痛かったんだ。


 あたいはそれを誤魔化そうとして…………


「オメロ……」

「は、はいっ!?」

「今日はもう上がっていいぞ。他の連中にもそう言っておいてくれ」

「え……あぁ、そうですね。今日はもう随分と捕りましたし、十分でしょう」


 オメロがそう言うから、魚篭びくを覗き込んでみたら、鮭がひしめき合っていた。

 あれ……あたい、こんなに捕ったっけ?


「親方。何かあったんですか?」

「――っ!?」

「今日は気迫っちゅうか……オーラが凄まじいですよ。もしかして悩みとかがあるなら……」

「なんもねぇよっ!」


 牙を剥き出して、思わず怒鳴ってしまった。


 ……ダメだ。これじゃあ、『いつも通り』じゃない。


「……悪い」

「あ…………い、いえ……」


 オメロがすくみ上がってしまった。

 こいつはいつもびくびくして頼りない。腕はいいんだけどなぁ……


「オメロ。獲物を持ってギルドに戻っててくれ。魚の処理は任せる」

「は、はぃ…………えっ、親方は戻らないんですか?」

「あたいは……」


 ダメだ。

 今ギルドに戻っても、きっとあたいは『いつも通り』ではいられない。


「もう少し漁を続ける」

「で、でも……今日の分はもう……」

「あたいはっ、いつも通りにしてなきゃいけないんだよっ!」


 そうでなければ…………ヤシロが、あたいのことを忘れちまうんだ…………っ!


 レジーナが言っていた。

 あたいたちは下手なことをしないで、『いつも通り』にしていろって。

 けど、『いつも通り』ってなんだ?

 あたいは、いつも何をしてるんだ?


 考えれば考えるほど分からなくなる。

 焦る……


 ちゃんと『いつも通り』にしてないと、ヤシロは、あたいのことを…………


「とにかく、あたいは鮭を捕るっ!」

「じゃ、じゃあ……俺はこの獲物を持って帰りますね…………あの、お疲れ様です」


 遠慮がちに言って、オメロは川から上がる。

 魚篭の中の鮭を樽に移し替えて、デカい樽を抱えて河原を後にする。

 何度も何度も、こちらを振り返りながら、でも何も言わないで、オメロは去っていった。

 他の連中もオメロに続く。


 河原にはあたい一人だけが残った。


 魚篭は空っぽ。

 そこに空の魚篭があるなら、日が暮れるまでに獲物でいっぱいにしてやれ。

 代々川漁ギルドはそうやってきた。

 だから、あたいも…………『いつも通り』に。


「くっそぉ!」


 川面を掻けば水しぶきが上がる。

 自分でもバカみたいだと思う。

 こんな漁は、ただの八つ当たりだ。……こんなの、全然『いつも通り』じゃない…………けど、あたいは他にやり方がないから…………


「お~、精が出るなぁ!」

「――っ!?」


 不意に聞こえた声に、全身がしびれた。

 まるで体の中を電気が走ったみたいな……電気ウナギにやられた時みたいな衝撃があった。


 振り返ると、堤防にヤシロが立っていて、こっちに向かって手を振っていた。

 いつの間にか太陽が昇っていて、朝陽がヤシロの影をあたいのそばにまで伸ばしている。


 ヤシロが、いる。


「…………ぐすっ!」


 一瞬で目の前の景色が滲む。ぐにゃぐにゃになってかすんで見える。

 けど、泣いちゃダメだ。

 あたいはいつも泣いたりなんかしない。『いつも通り』にしなきゃ……


 グッと涙をこらえて、飛び跳ねた水しぶきを拭うフリで涙を拭う。

 一度ノドの奥に力を込めて…………すぅ……はぁ…………よし。


「ヤシロォ~!」


『いつも通り』の声で、『いつも通り』ヤシロに手を振る。

 川から上がってヤシロの方へ駆けていく。


 ははっ。変なの。

 ただ走ってるだけなのに、なんだか楽しいや。

 ヤシロがどんどん近くなって…………目の前まで来る。


「どうしたんだ? 鮭が食べたくなったのか?」

「だったら陽だまり亭に行くよ」

「なんでだよぉ。こっちの方が鮮度は上だぞ? まだ生きてるし」

「上過ぎてもなぁ……焼いてあるくらいが理想なんだが」

「焼き鮭な! 美味いよな! あたいも大好きだ!」

「うん……なんか、話が逸れてる気もするが……まぁ、いいか」

「おう! いい! 美味いもんな、焼き鮭!」


 嬉しいなぁ。

 なんだろうなぁ。

 ヤシロと話をしていると、嫌なこととか不安なこととかみんな忘れられるんだよなぁ。


「それにしても、凄い大物だな」

「へ?」


 ヤシロの視線を追うと、あたいの右手に鮭が握られていた。


「なんでこんなところにっ!?」

「いや、お前が捕ってきたんだろう!?」


 そうだっけ?

 まぁ、そうか。


 けどなぁ……


「全然大物じゃないぞ?」

「そうか? これだけあれば焼き鮭定食十人前くらい作れんじゃないか?」

「あたいならそれくらい一人で食えるっ!」

「どこと張り合ってんだよ……」


 だってさぁ、こんなの本当に大物じゃないんだもんよぉ。


「さっき、もっと大きな鮭を追い詰めたんだよ。なのにオメロが急に硬直してさぁ……取り逃がしちゃったんだよなぁ」

「硬直? なんかあったのか?」

「分かんないけど、『逃がしたらお仕置きだ』って言ったら、急に」

「…………だからだな」

「ん?」


 なんかヤシロが、『あいたたたぁ……』みたいな顔をしている気がする。

 なんだろう? ヤシロはオメロの気持ちが分かるのかな?

 生意気だな、オメロのくせに。


「とりあえず、今度洗っておくかな」

「やめてやれ。それはあまりに理不尽だから」

「でもさぁ……本当に大きかったんだぞ」


 逃げていった魚影を思い浮かべると、ため息しか出てこない。


「捕まえて、ヤシロに見せてやりたかったのに……」


 きっと、あの大物を見たらヤシロはビックリして、そして…………「凄いな、デリア!」って褒めてくれたかもしれない。そしたら………………あたいのこと、忘れないでいてくれるかもしれない…………って、思ったんだ。


 …………ぐすっ。


「水しぶき!」

「どうした、急にっ!?」


 水しぶきを拭くフリをして涙を拭う。

 まったく。川にいるとずっと濡れっぱなしだ。


 ……まいるよ、まったく。


「なぁ。漁ってもう終わっちまったのか? 他の連中がいないけど」


 ヤシロが川辺をキョロキョロと見渡す。

 たまにヤシロが覗きに来てくれる時は、あっちこっちでウチの漁師が魚を捕っている。

 それと比べてるんだろうな。


「他の連中はもう終わりだ。けど、あたいは……その、もうちょっと……」


 どうしよう。

『ヤシロに忘れられたくないから漁を続けてる』なんて、言っちゃっていいのかな?

 そんなの『いつも通り』じゃないよな?

 じゃあなんて言う?

 えっと……え~っと…………


「さてはお前、逃がした大物が惜しくて、そいつを捕まえようとしてんだろ?」

「へ? ……あ、う、うん! そう! そうなんだよ!」


 なんて言っていいか分からないあたいに代わって、ヤシロが理由をつけてくれた。

 やっぱりヤシロはいいなぁ。あたいが困っていると絶対助けてくれる。どんな小さなことでもだ。

 こんなに細くて小さい体なのに、他の誰よりも頼りになる…………凄い男だよ、ヤシロは。


「少し見学させてもらっていいか?」

「見学?」

「漁をするところを見たいんだ」

「あたいも見たい! 一緒に見よう!」

「いやっ、お前が捕るところを見たいんだよ!」

「じゃあ、一緒に捕ろう!」

「はぁっ!?」


 そうだ!

 それはいい考えだ!


 ヤシロと一緒にさっき逃がした大物を捕まえたい。

 ヤシロとだったらきっと捕まえられる。


 ……不思議だなぁ。

 ヤシロと一緒にいると、どんなことだって出来そうな気がする。

 不可能なんてこの世にはないんじゃないかって、そんな気になる。


「な? 一緒にやろう? な? な?」

「……見学に来ただけなのに…………着替えとか持ってないから、お手柔らかに頼むぞ」

「うんっ!」


 ヤシロの手を引いて、河原へと戻る。



 ……ヤシロの手、あったかいな。



「よぉし! デカいのを捕まえるぞぉ!」

「その前に、右手の鮭をどうにかしろよ」


 言われて右手を見てみると、まだ鮭がいた。

 お前、いつまでそこにいるんだよ? ……まったく、この鮭は。


「ヤシロ、魚篭に入れといてくれ」

「ちょっ!? いきなり投げぶっ!」


 鮭を放り投げると、ヤシロがキャッチを失敗して顔面に「びたーん!」ってなった。

 ……ぷっ!


「あははははっ! 何やってんだよぉ、ヤシロォ!」

「何やってんだはこっちのセリフだっ! ……うわっ、生臭っ!?」

「あはははっ!」


 服の袖で顔を拭いて「臭っ!」とかやるヤシロが面白くて、思わずお腹を抱える。

 楽しい。

 あ~、楽しいなぁ。


 ヤシロといると、いつもこんな気分になれるんだよなぁ。


 やっぱり、ヤシロはいいな。


「ヤシロ」

「んだよ」


 名前を呼ぶと、ちゃんと返事をして、あたいのことを見てくれる。


「にひっ。呼んでみただけ!」

「なんだよ、それ……」


 唇をとんがらせてそっぽを向く仕草……マグダが言うには、あれは照れてる時のクセなんだって。

 そっか、今ヤシロは照れたのか。あはは。可愛いなぁ。


「ヤシロは可愛いな!」

「お前もな」

「――っ!?」


 突然そんなことを言われて、心臓がぎゅってなった。ぎゅってなったから血が一気に顔に集まった。一瞬で顔が熱くなる。

 な……なんだよぅ…………急に、そういうこと、言うなよなぁ……


 あたいは思わず唇をとんがらせてそっぽを向いてしまった。

 …………あ。


 あたいもヤシロと同じことしてる。


「ふふっ…………くくくく……あはははっ」


 なんだよなんだよ。

 お揃いだ。


 似てるんだなぁ、あたいとヤシロ。なんだか嬉しいなぁ。


「いつまで笑ってんだよ」


 ヤシロがあたいの髪の毛をくしゃってして、頭をぽんって叩く。

 …………ぁう。それ、照れるから、いきなりはやめてほしい…………いや、やっぱやめないでほしい。けど、いきなりは…………ぁう。


「大物狙おうな」


 親指を立てて、あたいに向かって突き出してくる。

 なんか、それ。凄くやる気出るな。


「おう! あたいから逃げられると思うなよ、川の主っ!」

「今ので引きこもっちゃったんじゃないか、主?」


 ははっ、川の主がそんなのでビビるかよぉ。

 だって川の主だぞ? 一番強いんだぞ?

 まったく、ヤシロは面白いヤツだな。


「ぅっくはぁ~、水、冷てぇ……」


 ズボンの裾を膝まで捲って、ヤシロが川に入る。

 覚束ない足取りで川の中ほどまで進む。


「ヤシロ。その向こう、急に深くなるから気を付けろ!」

「おっと! ……ホントだな。そこからすげぇ深いじゃねぇか」

「そこに主がいるんだ」

「うわぁ、いそうだなぁ……」

「だから、いるんだって」


 あたいも川に入ってヤシロの隣まで行く。

 ヤシロは泳げるけど、川は危険だ。ちょっとの油断が命取りになることだってある。

 いつだって手の届くところにいて、あたいがヤシロを守ってやる。


 いつだって……手が届くところに………………ぐすっ。


「ん? どした?」

「水しぶきっ!」


 背中を向けて涙を拭う。もちろん、水しぶきを拭うフリで。

 泣かない。あたいは『いつも通り』魚を捕るんだ!


「それじゃあ、魚の捕り方を教えるな」

「プロの講義か。しっかり聞かせてもらおうかな」


 ヤシロはこういうところでいつも前向きだ。

 出来ないとか無理だとか、そういうことを言わない。

 川漁ギルドに来てくれたら、すぐにでも副ギルド長にしてやるのに。

 他の漁師も、そこんとこは同意してくれている。

 オメロなんか「マジで来てくれねぇかなぁ、兄ちゃんっ!」って言ってたしな。


 技術を教えれば、きっとすぐに上手くなる。

 ヤシロなら、それが出来る。


「まず、魚を見つける。美味しそうなヤツな」

「それはどこで見分けるんだ?」

「見た瞬間よだれが出るのが美味しい鮭だ」

「……それで判別出来るのは、お前だけだ」


 なんでだよぉ?

 美味しい鮭を見たらよだれ出るだろう?

 陽だまり亭の客だってよだれ垂らしてたぞ?


「それで、魚を見つけたら、次はどうするんだ?」

「捕まえるっ!」

「だから、その方法を教えろってんだよ!」

「勢いよく『ばしゃーん!』ってする!」

「すげぇアバウトッ!?」

「そうか? じゃあ、こう……『ぐーん』っていって、『ばしゃーん!』」

「情報量増えてねぇよ!」


 なんだよぉ!

 なんで分かんないんだよぉ!?


「まぁ、いい。とにかく、一人が魚を浅瀬へ追い込んで、もう一人が仕留めればいいんだろ」

「そう! さすがヤシロだ! ちゃんとあたいの説明を理解してるじゃねぇか!」

「……お前の説明で理解したわけじゃねぇよ」


 やっぱりヤシロだ。

 ちゃんと魚の捕り方も覚えたみたいだ。


「それじゃあ、あたいが一回深いところに潜って、主をおびき出してくるな」

「おびき出すって、どうするんだ?」

「巣の周りで大暴れする!」

「……それ、『おびき出す』じゃなくて『追い出す』だよ……」


 何が違うんだ?

 主が出てくればそれでいいじゃないか。変なところにこだわるヤツだなぁ。


「んじゃ、ちょっと行ってくるな!」

「ちょっと待て!」


 潜る前の準備運動を始めると、ヤシロが慌てた様子であたいを止めた。

 なんだ?

 心配ならいらないぞ。あたい、泳ぎは得意なんだ。


「いや、その…………お前ってさぁ……」


 視線を逸らして、ごにょごにょと口ごもるヤシロ。

 心なしか、顔が赤い気がする。


「……泳ぐ時って、全裸なんだよな?」

「ふなっ!?」


 た、確かに、昔は全然気にしてなかったからそういうこともあったけど……でもそれは、周りの連中があたいの親父くらいのオッサンばっかりだったし、親父の知り合いばっかで、あたいがもっとずっと小さい……三歳くらいから知ってる連中ばっかりだったから、特に気にしてなかっただけで、……特にそういう目で見てくるヤツもいなかったし……でも!

 ヤシロに会ってからは……そういうのにも、気を遣うようになったんだぞ…………なんか、人に見られるのが恥ずかしいなって、思うようになったし……服だって気を遣うようになったし…………泳ぐ時は、ヤシロがくれた水着を着るようになったし……漁の時は服を着たままだし……だから、だからさぁ!


「な、なるわけないだろう!?」

「いや、だって、前にオメロが……」

「子供の頃の話だ!」

「……去年の話なんだか?」

「とりあえずオメロを消すっ!」

「いや、待て! 子供の頃! そうだ、子供の頃の話だから大丈夫だ! 誰も消すな!」


 くそぉ……オメロのヤツ…………洗ってやる。絶対洗ってやる! 漂白してやるぅっ!


「ふ、服を着たまま潜るから、そ、その……変な目で見るなよっ!」

「見ねぇよ」


 ………………なにも、そんなきっぱり言わなくてもさぁ……なんだよぉ、あたいには興味ないのかよぉ…………


「なんで耳がぺたーんってしてんのかは聞かんが……」


 じゃぶじゃぶと、ヤシロがあたいに近付いてくる。

 そして、また急に、髪の毛をくしゃくしゃって、今度は二回も、撫でてくれた。


「行くなら気を付けろよ。お前なら大丈夫だとは思うが、川は危険が潜んでいるからな」

「うん! 分かった!」


 あぁ……やっぱりヤシロはいいなぁ。

 ヤシロだけだもんなぁ、あたいのことこうやって心配してくれるの。優しいなぁ。


「じゃあ、行ってくる! 主が出てきたらそっちの浅瀬に追いやってくれな」

「おう! 任せとけ」


 視線を交わして、あたいは深くなってるところへ飛び込む。

 水の音しか聞こえなくなり、水圧で体が微かに締めつけられる。


 ヤシロの声が聞こえなくなった…………早く主をおびき出して戻ろう。


 この場所だけ、水深が3メートル近くあって、主はその深くなっている場所の川底をねぐらにしている。

 いつもは一人だから仕留められないけれど……二人なら…………ヤシロがいれば……


「……がぼがぼっ(出てこい、主っ! 今日こそ仕留めてやるぜっ!)」


 ねぐらの穴の前で全身から闘気を放出する。

 川底に気泡が大量発生し、渦を巻いて上っていく。

 強制的に生み出された濁流が主のねぐらに流れ込んで……ぬらりと主が穴から姿を現した!


 川の底から凄いスピードで上へと逃げる主。

 懸命に追うが、やはりスピードでは勝てない。

 けど、上にはヤシロがいる。

 お前に逃げ場はないぞ、主っ!


 全力で泳ぎ、主より遅れること十数秒……


「ぶはっ! ヤシロ、主は!?」

「あぁ! 今追い詰めて……張りついてぼぃーん!」


 ん?

 なんだそれ?

 ヤシロが変な叫びを上げた。アレかな? ヤシロ流の気合い入れかな?


「はりついてぼぃ~ん」

「真似しなくていいから! と、とにかく、手伝ってくれ。すばしっこくて追い込むのが大変なんだ!」

「おう! 任せろ!」


 川底を蹴ってヤシロに駆け寄る。

 ヤシロはどこから持ってきたのか、幅の広い木の板を使って器用に主を浅瀬へと誘導していた。

 頭いいなぁ……今度真似しよっと。


「お前は、向こうに回ってくれ! そっちへ追い込む!」

「分かった! 逃がすなよ!」

「善処する!」


 何度も逃げられた主を追い詰める。

 ヤシロとなら、きっと出来る。


 不思議だなぁ。

 ヤシロとだったら、絶対上手くいくって、そんな気がする。

 凄い自信満々だもんな、今のあたい。


「ヤシロ! 準備出来たぞ!」

「ちょっ、待ってくれっ、こいつっ、すばしっこくて…………だぁ、そっち行くな!」

「何してんだよヤシロ!? そっちじゃないぞ! こっちこっち!」

「分かってるって! けど、…………えぇい、ちょろちょろとっ!」

「板でガードだ! そう! じゃあ次は水を蹴って水流を掻き乱して! そう! 最後に腕をにょーんって伸ばせ! 2メートルほど!」

「出来るかっ!」


 えぇ……もう一歩なのに。


「あたいも手伝おうか!?」

「いい! お前はそこにいろ!」

「でもさぁ……」

「俺が絶対そっちに誘い込む! 俺を信じて、お前はそこで待ってろ!」


 ………………胸が、ぎゅってなった。


『俺を信じて』


 ……うん。あたいは、ヤシロを信じるよ。

 いつだって、信じてるよ。


「信じるぞぉ、ヤシロ! 頑張れぇ!」

「おう! 見てろ!」


 うん。見てる。

 ずっと、あたいはヤシロのことを、見てるから。


「よしっ! そっちに行ったぞ、デリアッ!」

「――っ!?」


 全身に電気が走った。

 頭の中が真っ白になって、体が硬直した。


 獲物が目の前に来たら、何があっても、どんなことが起こっても確実に仕留める!


 ……けど、無理だった。


 ヤシロが……

 ヤシロがぁ…………


「おい、何やってんだよ、デリア!?」


 ヤシロが叫んで、巨大な鮭があたいの足の横を通り過ぎていく。


「あ~ぁ、逃げちまったじゃねぇか」


 じゃぶじゃぶと、ヤシロがあたいのところまでやって来る。

 落胆の息を漏らして、あたいを見る。


「どうしたんだよ、デリア」

「…………ぐずっ!」


 ヤシロが……『デリア』って言ったぁ……


 あたいの名前を、呼んでくれたぁ!


「ぅぅう…………えぇぇぇえええええんっ!」

「ちょっ!? デリア!?」

「ぴぇぇぇぇええええええんっ!」

「号泣じゃねぇか!?」


 膝から力が抜けて、川の水を跳ねさせてその場に座り込む。

 ダメだ、もう立てない……


「そんなに悔しかったのか? 大丈夫だって、また今度挑戦すりゃあいいんだから。な?」


 違う。

 そうじゃない……


 主なんかどうでもいいんだよ、ヤシロ。

 あたいは……あたいは…………


「やじどぉぉぉおおおっ!」

「あぁ、もう。はいはい。悔しかったな、悲しかったなぁ」


 違うよぉ!

 嬉しいんだよぉ!


「やしろ……やしろ…………やしろぉぉおっ!」


 堪らず腰にしがみついて、ヤシロのお腹に顔を埋める。

 もう嫌だ。こんなの絶対嫌だ。


 忘れさせないように、あたいの匂いをしっかりつけといてやる!


 くしゃくしゃくしゃと、今度は何度も何度も、ヤシロがあたいを撫でてくれる。

 あぁ……不思議だな……やっぱりヤシロといると不安なことも寂しいことも悲しいことも嫌なことも、全部嬉しいことに変わっちまう。…………でもやっぱり不思議だな……嬉しいのに涙が止まらない……


 不意に、あたいの顔に何かが触れる、

 ヤシロの服の中に何か変なものが…………


 一瞬だけ顔を離すと、ヤシロの服の裾から種が一個転げ落ちてきた。


 こいつがヤシロの記憶を…………


 すぐに握り潰してやろうかと思ったけど、今はやめておく。レジーナに渡して色々調べてもらった方がいい気がする。


 それよりも、今は…………今だけは、ヤシロの温もりと匂いを感じていたい。

 頭をもっと、撫でてほしい。



 だからあたいは、もう一回ヤシロのお腹に顔を埋めて、川の中でわんわん泣いた。

 子供みたいかもしれないけど、いいよな?

 ヤシロ、子供好きだもんな。


 うん。今だけは、いいよな。



「ぐすっ…………なぁ、ヤシロ……あたいの名前ってなんだ?」

「えっ!? 名前忘れたのか? ……お前、大丈夫か、デリア?」

「ぅぇぇぇえええええんっ!? やしろぉぉおっ!」

「あぁ、もう……はいはい。よしよし」


 あぁ……不思議だなぁ…………ヤシロといると、あたい、いつだって幸せなんだもんなぁ。

 不思議だなぁ……なんでかなぁ…………




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