後日譚23 シラハ
大きな門をくぐり、寂れた庭を進む。
ずっと閉じこもっているなら庭くらい綺麗にしておけばいいのに、と思う。
ミリィを見ると、俺と同じようなことを考えているのか、閑散とした庭を見て寂しそうな表情を浮かべていた。
「あまりキョロキョロするなデスヨ」
俺にだけ厳しい言葉を向け、ニッカが先頭を歩く。
古い木戸を引き、平屋の中へと誘われる。
靴は脱がず、廊下へと上がる。床が軋みを上げる。
時間が止まっているかのような静けさの中、床の上げる軋みだけが聞こえる。
建物の奥へと案内され、大きな木戸の前に立たされる。
「この部屋が、シラハ様の部屋デス」
俺に冷たい視線を寄越し、ニッカが木戸に手をかける。
ゆっくりと開かれた木戸の向こうに、そいつはいた。
大きなアゲハチョウの羽を背中から生やし、触角を揺らして食事をする一人の老婆……
「はぁぁあ……ラード最高だわぁっ!」
ぶっくぶくに太ったババアが、見るからにギットギトの汁物を豪快に一気飲みしていた。
「お労しいデス、シラハ様……っ」
「いやいやいや! メッチャ幸せそうですけどっ!?」
傷付き、暗い部屋で泣き濡つ薄幸の美女を想像してたのに……期待外れもいいとこだっ!
「ん…………あなたたちは……」
シラハの開いてるんだか閉じてるんだか分からない、頬肉に埋もれた目がこちらを向く。……おそらく向いているのだろうと思われる。顔の向きと首の角度から推察すると、十中八九こちらを向いているはずだ。
ジッと俺たちを見つめた後、シラハは開閉に余分なエネルギーを浪費しそうな肉のつきまくった頬を動かして口を開く。
「おかわりの人かしら?」
「違ぇよ!」
まだ食う気か、このババァ!?
「……あげないわよ?」
「いらんっ!」
誰が、そんな見るからに肝臓に悪そうな油汁を欲するか!
「何者ダゾ、貴様!?」
ついつい声を荒らげてしまったからだろう。シラハの隣に控えていたアゲハチョウ人族の男が俺に向かって走ってきた。
いや、アゲハチョウ人族っていうか…………
「アゲハチョウの幼虫人族か?」
「誰が幼虫ダゾっ!?」
そいつの顔は、100%混じり気無しのイモムシだった。
その証拠に、怒った拍子に鼻付近から黄色い枝状の臭いヤツ――臭覚を突き出してきやがった。
部屋の中に腐ったミカンのような悪臭が立ち込める。
「臭い角を出すな、イモムシ!」
「アゲハチョウ人族ダゾ! 子供扱いすると承知しないダゾッ!」
いやいや。子供じゃん。
サナギになる前じゃん。
「カールは今年成人を迎えた大人デスネ! 無礼は控えるデスヨ、カタクチイワシ!」
「ぷっ。カタクチイワシだって……変な名前ダゾ」
「黙れ、イモムシ」
口を押さえてケタケタ笑うイモムシはカールという名前らしい。
成人を迎えるってことは今年で十五になるのか。……ロレッタの一個下か。
虫人族って、幼体からサナギを経て成虫になるのかな?
あとでエステラかウェンディにでも聞いてみるか。
「で、このタガメ人族のババアがシラハなのか?」
「アゲハチョウ人族デスネッ!」
「誰がタガメダゾ!? 失礼ダゾッ!」
その発言はタガメ人族に失礼だろう。……いるのかどうかは知らんが。
しかし、見事なまでにまん丸だ。
顔だけ見りゃパグみたいだな。
「とりあえず、エサを取り上げろよ。これ以上食わせると色々ヤバイぞ」
「バカ言うなデスッ! 傷心は食を細らせ命をも奪う恐ろしいものデスネッ! シラハ様には、無理にでも食べていただかないといけないのデスッ!」
「誰の食が細くなってんだよ!?」
ぶっくぶくじゃねぇか!
「ため息の回数が、最近増えてきたデスヨッ!」
「食い過ぎて胃もたれでも起こしてんだろうが、どうせっ!」
今さっきもおかわり欲してたしねっ!
全然細くなってないよ、食も体も神経も!
「心なしか、またおやつれになったような気がするデスネ……」
「気のせいだっ! あり得ねぇよ!」
お前の神経の方が衰弱しちゃってんじゃねぇの!?
幻覚見えてるよ!?
「シラハ様は、ご覧の通り心も体も傷だらけなのデスヨッ!」
「ごめん。かすり傷一つ見つけられねぇ……」
「触角を見るですっ!」
言われて、シラハの触角を見つめると、右の触角が左よりも短かった。半分くらいのところで切れてしまっているようだ。
「あぁ、お労しいデス、シラハ様…………触角を失ったせいで、もう飛ぶことすら出来なくなって……」
「いや、飛べないのは他にも理由があると思うぞ」
あのウェイトで空を飛べる生き物なんか見たことない。
「どうデスカ!? お会いするだけで、心が張り裂けそうになったデスヨネッ!?」
「ごめん。どっちかって言うと笑いそう」
俺たちが話をしている間も、シラハは皿に盛られた揚げ饅頭のような物体を「もっちもっちもっちもっち」と食い続けていた。
なんて幸せそうな顔で食いやがるんだ……つい、エサを与えたくなってくる。俺、意外とパグとか好きだし。
「シラハ。久しいな」
ルシアが、頑丈な椅子にどっしりと座るシラハに近付いていく。
立てよ、ババア。曲がりなりにも領主が訪ねてきてるんだからよ。体にムチ打ってでも立ち上がれや。
「………………?」
シラハはルシアをじぃ~っと見つめた後、油汁が入っていた空の器を差し出した。
「おかわりの人ね?」
「違うぞ、シラハ。領主のルシアだ」
「あらあら。ルシアちゃんなの? まぁ~、大きくなったのねぇ~」
「……そこまで久しい再会でもないだろう。先月顔を合わせたはずだ」
このババア、ボケ始めてるのか? それとも、食い物以外のことに興味がないのか…………たぶん後者だな。
「今日は客人を連れてきた。他区の者なのだが……ウェンたん」
「は、はい」
名を呼ばれ、ウェンディがぎこちない動きでルシアの隣へ小走りで駆けていく。
「このヤママユガ人族の娘が、この度人間と結婚することになったのだ」
「あらっ、まぁ……」
シラハは目をまん丸く開いてウェンディを見つめる。
マシュマロみたいな両手を口に当てて――食う気じゃないだろうな? 食いそうに見えて冷や冷やするな――驚きの表情を浮かべる。
「あなた……」
「は、はい。ウェンディと申します」
「私の若い頃にそっくり」
満面の笑みで言うシラハ。
一瞬「パチィッ」と発光するウェンディ。
「こ、光栄です」
嘘吐け!
今、一瞬「えっ、マジでっ!?」ってショック受けたろう!? 受けたよね!?
「それで、少し不安になったのかしらねぇ?」
ウェンディの手を取り、両手で優しく包み込む。シラハの行動は、幼い子をあやす時のように、穏やかで包み込むような優しさに満ちていた。
気遣うような視線を向けられて、ウェンディははっきりと首を横に振る。
「いいえ。不安はありません。私は、セロン……彼を信じていますので」
「そう……」
たっぷりと息を吸い込み、ゆったりと吐き出す。
シラハの大きなおなかがそれに合わせて大きく膨らみ、しぼんでいく。
「…………そうなの」
発せられた言葉は、どこか幸せそうな響きを含んでいると、俺には思えた。
「どうしてウェンディちゃんをここへ連れてきたのかしら、ルシアちゃん?」
ルシアは、シラハにちゃん付けで呼ばれることに不快感を示していない。領主を一般人がちゃん付けしているにもかかわらずだ。
これも、かつて亜種と呼ばれた者たちへ対する配慮なのか。それとも、幼い頃から気心の知れた付き合いをしてきたからか……
シラハの前では、ルシアも一人の少女のように見えた。
「話を聞かせてやってほしいのだ。シラハが体験したことと、その時に思ったことを……」
「聞かせて、どうしたいの?」
「…………」
シラハの問いを受け、ルシアは一度口を閉じる。
そして、ウェンディに向かって真剣な眼差しを向ける。
シラハに手を握られ、ルシアに視線を注がれ、逃げることも出来ずにウェンディはオロオロと視線を行き来させる。
「…………あとのことは、その者が考えるだろう。その考える機会を、与えてやってほしいのだ」
「そう…………そうなの」
ルシアとシラハ。二人の中で会話が完結したようだ。
シラハは首を持ち上げてこちらに視線を向ける。
「ニッカ、カール」
「はいデス!」
「はいダゾ!」
「すこ~しだけ、席を外してくれるかい?」
「えっ!? デ、デスケド、シラハ様!?」
「そ、そ、そんなこと…………やっぱマズいダゾ!」
シラハが見たのは俺ではなく、俺を警戒するように両隣に立っていたニッカとカールだったようだ。
当然のように、ニッカたちは反発するのだが……
「おねがい」
幼子をあやすような声音で、甘えるようにシラハに言われては、ニッカたちは反論出来ない。
不承不承、シラハの申し出を了承する。
その際、俺をギロッと睨むのを忘れずに。
「では、木戸の前で待たせてもらうデス」
「何かあったらすぐ呼んでくださいダゾ! 駆け込んでこの男を取り押さえるダゾ!」
「なんで何かするのが俺だという前提なんだよ」
イモムシが一丁前に俺を睨んできやがる。
そんな態度は、サナギになってからにしやがれ。
「大丈夫だから、表で待っていてね。『ニッカとカールの二人っきり』で」
「はぅっ!?」
「……? そりゃ、二人で待ちますデスケド……?」
シラハの言葉に、カールは分かりやすく顔を真っ赤に染め、対するニッカは意味が分からないと言った風に小首を傾げた。
あぁ……な~る。
そういう関係なんだ。
大好きだけどその想いが伝えられない純情イモムシに、そんなイモムシの気持ちに一切気が付かない鈍感アゲハチョウ(Eカップ)。
俺は茹で上がったイモムシの肩をぽんぽんと叩き、人生の先輩として一言言っておいてやる。
「お前、ガキだな」
「うっさいダゾッ!」
茹でイモムシ・カールが臭覚をにょっきりと突き出してくる。
やめろ! 臭いっ!
「うふふ。可愛らしい方ですね」
過大評価も甚だしい感想をジネットが漏らす。
そういえばジネットは虫や爬虫類を一切怖がらない。
むしろ「小さくて可愛い」とすら思っている節がある。ロレッタなんかは、虫が飛んでくるとワーキャー騒いだりするのだが、ジネットはそういうことが一切ない。
見た目の雰囲気からはいささか意外なジネットの一面だ。
……けど、やっぱこのイモムシ男が可愛いってのはない。うん、ないな。
「いいからお前らは外に出て手でも繋いで待ってろ」
「て、てっ、手なんか繋がないんダゾッ!」
「そうデスヨッ! 何があっても瞬時に対応出来るように武器を装備しておくデスカラ! 肝に銘じておくデスヨッ!」
あ~ぁ……男の方が純情こじらせてるのに、まったく気付いてないんだな。
見ろよ。カールがちょっとへこんでんじゃねぇかよ。
つか、武器を装備すんじゃねぇよ。お前らだと誤爆が怖いんだよ。
『うっかり刺しちゃいました』とか、甘栗みたいに言ってもシャレにならねぇんだからな。
「おい、カール」
臭い角を収納したカールの肩に手を置いて、俺は心を込めて告げる。
「しっかりと、ニッカの手を握っていてくれ」
俺が刺されないように。
特に、謂れのない罪で刺されないようにっ!
「あ、あんた…………応援、してくれてるダゾ?」
ううん。微塵も。
保身、保身。一から十まで、全部自分のための発言だよ。
「いいヤツ…………かも、ダゾ」
あっはっはっ、それ気のせいだわぁ。
「お、オレ、頑張るダゾッ!」
カールが意欲に燃える瞳で俺に宣言する。拳が力強く握られている。
まぁ、うん。勝手に頑張れ。
ニッカが俺に険しい視線を送り、カールが俺に「やってやるぜ!」的な熱い視線を送り、二人揃って出ていく。
なんか、騒がしい連中だったなぁ。
「ヤシロは、ホント……誰とでもすぐ仲良くなるよね」
「仲良くねぇよ」
呆れ顔のエステラに呆れるばかりだ。
こっちは刺される寸前なんだっつうの。
「さて。それじゃあ、お話をしましょうかねぇ。みんな、こっち来て座って」
シラハが穏やかな声で言い、俺たちを手招きする。
土足で上がり込んだ板張りの床だ。ここに座るのか?
「ギルベルタちゃん。あっちに『おざぶ』があるから持ってきてあげて」
「了解した、私は」
シラハがギルベルタに指示を出している。
ルシアが咎めないところから、それは問題のない行為なのだろう。
……手伝おうか?
とか、思ったのだが、俺が動くよりも早くジネットとミリィがギルベルタを追いかけて手伝いをしていた。
うむ。よく出来た子たちだこと。
ウェンディは、いまだにシラハに手を握られているせいで動けなかったようだ。
ふかふかの座布団が運ばれてきて、俺たちの前に並べられる。
シラハを基準にくるっと円になるように座る。
土足の場所に座布団ってのが、ちょっと違和感あるなぁ……畳でも作れれば靴を脱ぐようになるのかもしれんが。さすがに畳は作れんしなぁ。
「凄いです。ふかふかです」
「ぅん……ふかふか……気持ちいぃ」
ジネットとミリィはふかふかの座布団がお気に召したようだ。
何度も座り直してふかふかの感触を楽しんでいる。
まぁ、楽しいんならいいけどな。確かに座り心地はいい。
「さて。それじゃあ話をさせてもらおうかしらねぇ」
シラハは椅子に深く座り直し、深く長い息を吐く。
……と、その前に。
「いい加減ウェンディを解放してやれよ」
「え? まぁ、あらあら」
まるで今気付いたかのように、シラハはウェンディの手を握っていた両手を離す。
え、なに? 忘れてたの?
やっぱり始まっちゃってんの、ババア?
「ごめんなさいねぇ。すべすべで握り心地がよかったものだから、ついねぇ」
「い、いえ。光栄です」
困り顔ながらも、嫌そうではない。
相手がジジイだったら、ウェンディも泣き出していたかもしれんが、ババアなら問題ないのだろう。
あんな毒気のない顔で言われりゃ、怒る気も失せるか。…………そうかっ!
「なぁ、ジネット。凄く揉み心地がよさそ……」
「懺悔してください」
にっこりと、言葉を遮られてしまった。
……そうか。揉んでから「ごめんねぇ」って言わなきゃいけなかったのか……手順を間違えちまったぜ。
ウェンディがシラハの隣に腰を降ろし、全員が座った状態になる。
シラハから右回りにルシア、ギルベルタ、エステラ、俺、ジネット、ミリィ、ウェンディだ。
なんの偶然か、俺がババアの真正面になっている。……景観悪ぃな、この席。
「私があの人と知り合ったのは……そうねぇ、そっちのテントウムシの女の子くらいの歳だったかしらねぇ……」
「九歳くらいか?」
「ぁの、てんとうむしさん……みりぃ、今年十五歳だょ……?」
「そうそう。ちょうど九歳の頃だったわ」
「はぅ…………ひどぃよぅ……」
ミリィががくりと肩を落とす。
しょうがないじゃないか。実年齢は見た目には表れないんだ。
『それくらいの年齢』って話なら、実年齢じゃなくて外観年齢を指す場合がほとんどだ。
うな垂れるミリィをジネットが慰めている。ぽんぽんと頭を撫でている様は、幼い子をあやしているようで……やっぱみんな無意識に子供扱いしてるよな、ミリィのこと。
「『あの人』というのは、その……シラハさんがご結婚された男性なんですね」
エステラは一瞬言い淀みつつも、問いを投げる。
そこはぼやかさずに、明確にしておきたい部分だ。
「えぇ、そうよ」
名前こそ明かさないが、その事実は認めた。
結婚相手が誰なのかなんてのは、今は割とどうでもいい。
シラハが言いたくないなら、無理に聞く必要のないことだ。
それよりも、『そいつと何があったのか』――それが問題なのだ。
「あの人とはねぇ、それはそれは燃えるような恋愛を……」
「シラハ。そのあたりの話はいい。触角のことを話してやってくれないか」
「でもねぇ、ルシアちゃん。あの人ったらね、花も恥じらう年頃の私にね、外で……」
「シラハッ! ……若い娘もいるのだ。配慮してくれぬか」
赤く染まった頬を押さえて身もだえ始めたシラハを、ルシアがきつめに制止する。
助かったよ、ルシア。……ババアの桃色トークとか聞きたくもねぇ。
「でもねぇ、こういうお話、聞いてくれる人がいないのよ。私、お話したいわぁ」
「後日、ニッカやカールにでも語り聞かせてやれよ」
ここいら一帯、吐しゃ物まみれになるだろうけどな。
「ダメなのよ。あの子たち……うぅん。アゲハチョウ人族のみんな、他の亜人たちもかしらねぇ……私の過去を『悲しいもの』って決めつけて、お話させてくれないのよ」
そう言ったシラハの顔は、とても寂しそうだった。
『悲しいもの』と決めつけられた過去の話は、シラハの心の傷を思い出させるから口外させてはいけない…………とか、考えていそうだな。
それで、目の前の楽しいもので過去の傷を覆い隠し、誤魔化そうとしているのか。
だとしたら……
「分かった。ババア恋愛記は空腹時に聞いてやる」
吐く物がない時にな。
「だが、今は先に結論を知りたい。触角の話を聞かせてくれないか?」
「あら、そう? うん、そうなの……そう、なのねぇ」
少し物足りなそうに、弱々しい笑みを浮かべるシラハ。
しかし、次の瞬間には晴れやかな表情に変え――
「それじゃあ、楽しみが一つ増えたってことねぇ」
――と、ころころと喉を鳴らして笑う。
ようやく分かってきた。
今回の問題の肝が。
そして、ルシアもシラハもそれに気付きつつも、手を打てないでいるのだ。
無作為に浴びせられ続ける善意に翻弄されて。
「けれど、結論だけを口にするのは味気ないわねぇ。少しだけ、お話に付き合ってくれるかしら?」
シラハは俺を見て言う。
俺に話を聞けというのだ。
いいだろう。聞いてやるよ。
話の中に、お前の気持ちが含まれてるってんならな。
「あの人はね、とても変わり者だったのよ。亜種の私に、とても優しかった」
「『亜種』ってのは、そいつに言われたのか?」
「ううん。あの人は一度もそんなことは口にしなかったわ。街全体で、そういうのはやめましょうって雰囲気は、当時からもう出来上がっていたから」
けれど、人間――特に貴族連中はそういう意思を根強く持ち続けていたのだろう。
これまでに得たシラハの情報では、『シラハは貴族と結婚した』と言われていた。
『あの人』とやらが貴族であるなら、本人の意思に反して、周りはとやかくうるさかったに違いない。
変わり者……か。
いい行いをして変わり者扱いされるってのも、皮肉なもんだな。
「私の家は貧しくてね。九歳の頃には働きに出ていたのよ。生花ギルドにはお世話になったわ」
「ぇ……」
シラハがかつて生花ギルドにいたと聞き、ミリィの触角がぴくりと動く。
自分と共通点があると、無性に嬉しくなる時がある。
今のミリィの表情は、まさにそんな感じだ。
「そこで私はあの人と出会い……お互い、まだまだ子供だったけれど、一生懸命恋をして、そして…………ある日あの人は私のことを外で……」
「その話はまた今度って言ったよな!?」
どうしてもか!?
どうしてもその話をしたいのか!?
つか『外で』ってワードが物凄く嫌な予感しかしないんだよ!
「それじゃあ、この話は、今度、二人っきりの時にね」
「意味深な発言やめてくれる!? なんやかんやあって結婚して、その先の話をしてくれ!」
俺に流し目を向けるババアを叱りつけ、先を促す。
ジネットやミリィ、エステラまでもが赤い顔をしている。乙女に聞かせられない話はするんじゃない。
「ごめんなさいね。なんだか恥ずかしくて……つい、誤魔化しちゃうのよ」
いや、お前が話そうとしていることの方がはるかに恥ずかしい話のはずだぞ。
「こんなこと、自分で言うのは口幅ったいのだけれど……」
シラハは少し照れた素振りを見せ、そして……ふわりとした笑みを浮かべた。
春の風に揺れる菜の花のような、優しい笑みを。
「あの人は、私を正妻として迎えてくれたの」
「ぇ……」
ミリィが声を漏らす。
ミリィは、馬車に乗るのを遠慮するほど、亜種の立場を低く思い込んでいる節がある。
その亜種が貴族の正妻になれるなど、信じられなかったのだろう。
一方のウェンディは……きっと、セロンと色々話をしたのだろうな……温かい笑みを浮かべてシラハの言葉を受け止めていた。
亜種だの亜系統だの、そんなものは関係なく、一人の女性として愛する男性と結婚をしようと考えている。そんな余裕を感じる。
「周りの者は……親族たちは反対しなかったんですか?」
質問をしたのはエステラだった。
こいつも貴族だ。貴族が裏でどういうことを考え、実行しているのかよく知っているのだろう。
その経験や知識から、『貴族の者が亜種を正妻にする』なんてことは認められるはずがないという結論に至ったのだろう。
「されたわねぇ。それはもう、苛烈に」
言葉の選択には、その人の人となりが表れる。
経験した時間やその時感じた感情が言語に影響を与えるからだ。
『苛烈』
そんな言葉を選んだシラハ。こいつは、一体何を思ってその時を生きていたのだろう。
「でも、あの人も頑固でね……うふふ」
苛烈な反発の中、きっと二人きりでそれに抗い続けたのだろう。
昔を懐かしむようなその笑みには、同時に悲哀も感じられた。
「長男だった彼が、家を捨てると言い出して…………そして………………焼き討ちにあったわ」
息をのむ音が室内の空気を揺らす。
家を捨て、シラハと生きることを決意した貴族の長男。
それを良しとせず、逆らうならばと強硬手段に出た親族。
ありがちといえばありがちで、三流悲劇のようなその出来事は、若い二人に消えない傷を負わせたのだろう。
その傷は、伝聞ですら、周りの者の心を締めつける。
「火の海に囲まれて、私は必死で飛んだのよ。あの人を抱えて、前も見ずに、がむしゃらに……そうして、命からがら逃げ伸びた時、私の触角は途中から切れて、無くなっていたわ」
半分の長さになった右の触角。
それは、愛する者を救うために負った名誉の負傷……
しかし、その名誉の代償は大きかった。
「結局、それがきっかけで私たちは離れ離れになっちゃったのよ……まぁ、二人とも命があったのだから、それだけでも幸せだと思わないとね」
その時浮かんだ笑みは、まるで泣き顔のように切なげに見えた。
その言葉は本心ではない。けれど、そう言わなければやっていられない。
何より、自分自身が耐えられないのだろう。
「シラハ……あんた、あいつらの前ではワザとボケたフリをしてるだろ?」
「うふふ……そんなつもりはないのだけれどねぇ……」
口元を押さえ、静かに笑う。
こんなにはっきりとした受け答えをして、こちらの言葉の裏を呼んで……このババアがボケているわけがない。
部屋に閉じこもって、与えられるものを美味しそうに食べるだけの婆さん……ってのは、周りの者の目をくらませるための演技なのだ。
「あんたらが引き離されたのは、周りの連中が騒ぎ過ぎたせいだな」
「あらっ……あなた、頭がいいのねぇ」
純粋な驚きを見せて、シラハが俺を見つめる。
「どういうこと……なんですか、ヤシロさん?」
ジネットが俺に問いかけてくる。
焼き討ちから逃げ、それが原因で離れ離れになった。
それだけなら、怪我のせいだとか、相手が絶命した、愛想を尽かした、ケンカが絶えなくなった……と、様々な理由が考えられるが、現在のシラハがとぼけたババアを演じ続けているということを考えれば、答えは一つだ。
「シラハはその事件の後、仲間たちに助けを求めたんだよ。貴族の長男であった旦那が焼き討ちに遭ったんだ。それは相当な事件だ。そこから先、まともに生きていくことは不可能だろう」
貴族として生きていけなくなったとか、怪我をしたとか……
シラハがその男を『抱えて飛んだ』ということは、そいつが自力で逃げ出せない状態だったということだ。
火の手から逃げ出した後も、まだまだシラハたちは追い詰められた状態だった。
そんな状況で頼れるのは親族や同族……仲間たちだ。
「あなたの言う通りよ。ビックリ。見てきたみたいだわね」
「与えられた情報を組み合わせて推論を立てているだけだ」
「そうなの。でも、凄いわ」
ぱちぱちと、マシュマロみたいな手を叩いて俺に称賛をくれる。
やめろ。
そんな寂しそうな顔で送られる拍手なんざ欲しくもねぇ。
「あの人はね……爆発の際、私を庇って大火傷をしたのよ。意識も戻らなくて……本当に肝を冷やしたわ」
そんな状態の旦那を抱えて逃げ出し、行く当てもなかったシラハはこの地へ戻ってきた。
「そして、仲間の元へ戻って……捕まったんだな。仲間たちに」
「えぇ。そうよ」
すっとアゴを上げ、木戸の向こうを窺うような仕草を見せる。
ニッカやカールが聞いていないか、確認したのだろう。
「満身創痍で帰郷した私を見て、家族は大騒ぎをしたのよ。『人間に傷付けられた』って……私の話は、まともに聞いてもらえなかったわ」
「どうして……なのでしょうか? 真実を話せば、分かってもらえたのでは……」
ジネットが困惑気味に言う。
だが、その質問は少し酷だ。シラハに答えさせるわけにはいかない。
代わりに俺が口を開く。
「想像だが……シラハがどんなに真実を口にしたところで、『騙されている』『脅されて、そう言わされているんじゃないか』と、そんな風に取り合ってもらえなかったんだろうよ」
例えば、「この人は悪い人じゃない」とシラハが訴えても、家族は満身創痍のシラハを目の当たりにしているせいでその言葉を信用することが出来ない。
娘の命を危険にさらした者の血縁者である男を、どうして信じられるだろうか。
シラハが懸命に訴えれば訴えるほど、『言わされている』『洗脳でもされているのか』と、そういう思考に走ってしまうのだ。
「そんな……そこまで極端に、思い込むものなのでしょうか……シラハさんの言葉を、一切無視するほどに……」
「ウェンディの両親も、ウェンディの言葉には耳を傾けていないじゃねぇか」
「あ……」
ジネットも実際に見ているはずだ。
何度説得しようと、『お前は騙されている』の一点張りで一歩も譲らないあの両親を。
「それもこれも、『亜種』だの『亜系統』だのいう、くだらない身分があったせいなんだ。『人間は他人種を騙し、差別する』という刷り込みに起因しているんだよ」
「…………」
ジネットが黙ってしまった。
悲しみが胸に広がり、重くのしかかっているのだろう。
お前はあまり触れる機会がなかったのかもしれないな。陽だまり亭で、爺さんたちに守られて暮らしてこられたから。
それは、とても幸せなことなんだぞ。
「すまんな、ウェンディ。例えに利用しちまって」
「え……、あ、いえ。お気になさらないでください」
あまりよくない例えに両親を使ってしまった非礼を詫びておく。
さすがにいい気はしないだろうしな。
ウェンディも、そしてミリィも、複雑な表情をしている。
この二人は、もしかしたらそんな軋轢を垣間見たことがあるのかもしれない。
何かを思い出しているような、そういう感じの表情に見える。
「何度かね、ここを出ようかと試みたことがあるの……けど、ダメだったわ」
そうして、いつしかシラハは諦めてしまった……いや、妥協してしまったのだ。
逃げようと、抗おうと、そうする度に、周りからの干渉と拘束は厳重になるからな。
「三年頑張って……領主様にも相談したりもしたけれど……結局、私たちは離れ離れで暮らすことを選んだの」
「……力になれず、申し訳なかった」
「あら。あなたのお爺さんの時代の話よ、ルシアちゃん」
「それでも…………私は……っ」
「やめてちょうだい」
眉根を寄せるルシアの髪を撫で、シラハは子に向けるような優しい笑みを浮かべる。
「あなたのおかげで、今でもあの人とお手紙のやり取りが出来ているんだもの。私は、それだけで幸せよ」
「文通を、されているんですか?」
微かに見えた希望。
それにジネットが反応を示した。
「えぇ。月に一度」
「そう……なんですか…………よかった」
本当に些細なことだが……シラハは心の底から幸せそうな顔をしている。
おそらくそれが、今のシラハの生きる力になっているのだろう。
抗い続けた三年間で互いに疲弊してしまった二人は、このままでは本当に引き離されてしまうと考え抵抗をやめることにしたのだそうだ。
離れて暮らし、領主経由で手紙のやり取りをする。
そうして、お互いが元気に生きている――そう思うことで心を慰め続けてきた。
「人間である私が下手に介入してしまえば、アゲハチョウ人族をはじめ、虫人族にあらぬ誤解を与えかねない。『領主はやはり人間を庇うのか』とな。双方の軋轢を、私は望まない……故に、今に至るまで決定打を打てずいるのだ」
己の力不足を嘆き、ルシアが深く頭を下げる。
「シラハ……申し訳ない。心の底から詫びさせてほしい」
「あらあら。やめてってば。いいのよ、もう。私は今でも十分幸せだわ」
「しかし、そなたたちの時間は……」
「時間はね、過ぎれば二度と戻らないものよ。後悔している間に過ぎてしまった時間もそう。なら、今を楽しく生きなきゃ、この先ずっと後悔を後悔し続けることになるわ。ね? さぁ、もう頭を上げて」
後悔をするために時間を浪費すれば、その浪費をいつかは後悔することになる。
どうしようにもないことはどうしようにもないと割り切って、今を楽しく生きるべき……か。
それは一見前向きな考えに見えて……その実、とても悲しい考え方だ。
「あの子たちもね、本当によくしてくれているのよ。みんな、私のことを思って、私のために、毎日毎日頑張ってくれているの。これで不満なんて言ったら、あの子たちを悪く言うのと同じだわ。私は、今の生活で幸せよ」
シラハの言葉に耳を貸さないアゲハチョウ人族たち。
だが、それはどこまでも純粋な善意から来るもので、シラハはそれを悪しざまに非難することは出来ないのだ。
度が過ぎるお節介。善意の押しつけ。
だが、それがすべて自分のためにと向けられたものなら……拒絶することは難しいだろう。
人間と亜種との確執。刷り込まれた感情。
そして、シラハが触角を失った時から始まった『シラハは人間に傷付けられた』という噂話。
それらが合わさって『ほら見ろ、やっぱり人間は酷いんだ』という風潮が出来上がってしまったのだ。
ニッカやカールみたいな若い連中は、それを疑うことすらないのだろう。
ある種の諦めか……シラハも、もう今更それをどうこう言うつもりはないらしい。
「けれど、……そうね。もし、生まれ変わることがあるのなら……その時は、一緒になれれば、嬉しいわねぇ」
「……ぐすっ」
ミリィが鼻を鳴らす。
慌てた様子でジネットがミリィの背中を撫で落ち着かせる。
結ばれない二人……
仕方のないこと…………
……だが。
「おい、ババア」
俺は、この三流悲劇を悲劇のままにしておくわけにはいかねぇんだ。
「なに勝手に諦めてくれてんだよ?」
テメェが怪我をしたせいで、ウェンディの両親は意固地なまでに人間を疑い、ウェンディの結婚に猛反対してんだぞ。
「散々手を尽くして、もう為す術なしだみたいな顔しやがってよ……」
この結婚が、どれだけの利益を生み出すか知ってんのか?
定着すれば、想像をはるかに超える莫大な利益を生むんだぞ?
「歳さえ食ってりゃ見識が広がると思ったら大間違いだぞ」
このまま、波風立てずに、誰も傷付けずに、平穏無事に過ごせたらいいだなんて、そんな生温い考えを持っているんなら残念だったな。気の毒だが、お前はもうすでに巻き込まれちまったんだよ。俺の、儲け話にな。
「シラハ。お前は今の生活で十分幸せだと言ったな? ……そいつは本心か?」
確かに、今のお前は優しい仲間に囲まれて、誰からも気遣われて、手紙だけとはいえ最愛の者の安否も確認出来る。
そこそこ幸せな生活を送っているのだろう。
だがな。
そこそこで満足してんじゃねぇよ。
「世間にはな、まだまだお前の知らないものがたくさんあるんだぞ。そいつを見たいと思わねぇのか? 本当に最高の景色がそこにあるのに、それを知らないまま、与えられただけの安易な幸せで満足して目を逸らして……お前はそれでいいのか?」
「ヤシロ……」
黙っていろ、エステラ。
視線を向けることで、俺はエステラの言葉を封殺する。
礼も無礼もねぇんだよ。そういうことじゃないんだ。
長い時間、色んなヤツに担ぎ上げられ続けちまったこいつを引き摺り下ろすにゃ、これくらいでなきゃダメなんだよ。
「お前には協力してもらうぞ。気の毒だが拒否権はない」
俺は立ち上がり、シラハの目の前まで歩み寄る。
俺を見上げてくる瞳は、すっかり枯れた風を装いながらも、驚きと期待を潜ませていた。
その細い目でしっかり見ておきやがれ。
これが、お前の枯れきったしわしわの心を引っ掻き回す男の顔だ。
だいたいな。
これから結婚して幸せになろうってヤツに、辛気臭い話聞かせてんじゃねぇよ。結婚に対して不安を抱いちまったらどうするんだよ。
あまつさえ、それが原因でウェンディが結婚式をやめたいなんて言い出したら、俺はテメェに損害賠償を請求するぞ。
なぁ、シラハよ。お前も本当は気が付いてるんだろ?
波風を立てず、誰も傷付かないことを優先させている。そんな顔してよ……何よりテメェがずっと傷付き続けてんじゃねぇかよ。
ウェンディはな、セロンといる時は本当に幸せそうな顔をするんだ。
お前だって、きっとそうなんだろ?
「賭けをしようぜ、シラハ」
「……賭け?」
「あぁ、そうだ」
「あんまり難しいのはイヤよ?」
「なぁに、簡単なことだ」
人生の酸いも甘いも噛み分けた、そんな顔をしているお前に分からせてやるよ。
お前は、まだまだ無知だってな。
「お前は色んな美味いものを食ってきたよな?」
「そうねぇ。みんながたくさん持ってきてくれるからねぇ。この辺りで手に入るものは、だいたい食べたかしらねぇ」
「『この辺りで手に入るものはだいたい』……か」
それが、無知だっつうの。
「なら、俺がこれから、この辺りで取れる、お前らがよく知った物ですげぇ美味い物を作ってやる。おそらく、お前の口にしたこともないような物をな」
「あらあら。そんなもの、あるのかしら?」
「もしあったら……俺に協力しろ。ニッカや仲間が何を言ったとしても、全面的にだ」
「うふふ……面白い子ねぇ。あなた、お名前は?」
「ヤシロだ」
「うんうん。ヤシロちゃんね。いいわ。その賭け、乗ってあげる」
よし。
なら、さっさとこの賭けに勝っちまおう。
「ジネット。それからミリィ」
「は、はい」
「ぇ…………くすん…………なに?」
いまだ赤い目をしているミリィと、それを慰めているジネット。
この二人にも、笑顔を取り戻してやんなきゃな。
「手伝ってくれ。この婆さんを、心から笑顔にするための作戦をな」
柄ではないのだが……ウィンクなんかを飛ばしてみたところ、効果は覿面だったようだ。
ジネットとミリィは一瞬言葉を失い、顔を見合わせた後、揃って弾けるような笑みを浮かべた。
「はいっ!」
「ぅん!」
俺は二人に指示を出し、ちょっとしたおつかいを頼んだ。
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