旅立ち
小鳥のさえずりがはっきり聞こえる道場の広々とした空間に、間を空けて一直線上に二人は向かい合っていた。 その表情はどちらも真剣で、邪魔などできる雰囲気ではない。
「お願いします」
少年がそう言うと、五十代程の男性は少年を人差し指をくいっと自分のほうへと動かし招く。 それに従い、少年は気合の声と共に男性の方へと駆けていく。
拳を振るうも男性は軽く避け、後頭部の方に左手を振るう。
少年もそれを頭を下げて避け、体勢をかがませると男性に足払いをかけるも、やはり男性もジャンプすることで回避する。
それからは少しばかり拳の受け止め合いが続くも、少年の方が先に勝負に出る。
再び足払いをかけ、それを跳んで避けた男性の正面に右手の拳を振り受け止められるも、着地した男性に今度は素早く内払いを仕掛け、片足立ちになった不安定な男性の隙を逃さず左手でお腹に拳をぶちこんだ。
ぶちこまれた男性は床に倒れ、疲れたと言いたげに大の字になり息を吐いた。
「腕を上げたな、泪。 合格じゃ」
「やったーーーー!」
少年、もとい涙は満面の笑みでその場で何度も飛び跳ねる。
「これでやっとヘレンを……!」
おろした拳を握り閉め、ぽつりと呟いた。
「よいか、後で地図を渡すからな。 その場所へ行って、わしの息子の家族を頼るといい。 わしのサイン付きの地図を見せれば力になってくれるはずじゃ」
「サンキュー師匠!」
食卓にはサラダ、味噌汁、煮魚、白ご飯と健康そうなメニューが並べられており、泪と男性、
話していることは今後のことだ。
「お前が修行を始めて、一年か。 竹刀の振るい方も、拳の振るいも様になった。 自信を持て」
「……あの時、地下にいた俺を、救ってくれて、本当にありがとうございました」
「やめい、お前が敬語なぞ。 今更気持ち悪いわ」
「こっの、じじい! 折角お礼言ってんのに……!」
「湿っぽいのは嫌いじゃ。 とっとと出て行く準備でもせんか」
そう言うと幸蔵は立ち上がり、自分の食器を流しへと運ぶ。
「ああ。 でも……言っておきたいんだ。 あの時拾ってもらえなかったらきっと、俺は何も考えずにヘレンを助けに行って、返り討ちにされてたと思う。 ここまで強くなれたのも、これからやるべきことを教えてくれたのも師匠だ。 本当にありがとな」
「別に。 わしはあやつとの約束通り、毎日森を眺めてお主が無事か確認してただけじゃ。 感謝するなら、あやつにするんじゃな」
そう言って幸蔵は、庭にある一つの墓へと視線を向ける。 それを追って泪も視界へと入れる。
「ああ……」
旅立つ当日、朝ごはんを食べ終えて泪は墓の前に座っていた。 林田俊樹と彫られている墓石に瞑想して、手を合わせている。
涙とヘレンを庇おうとして、林田は亡くなった。 その林田はこうなることを予想していたのかもしれない。
親友である幸蔵に、林田は一度だけ連絡を取っていた。 詳しい説明は省き、毎日森で木を切らせるからそれが途切れた時は助けてくれ、と。
その約束通り、幸蔵は毎日森を眺めていた。
途切れたあの日、家に行くと人気はなく、和式トイレのあの穴を見つけ、ロープを用意して下におりれば倒れている少年と、亡くなっている林田の姿。
林田は供養し、少年が目を覚ましてから事情を聞き。 道場で昔から鍛錬していた幸蔵が師匠として、少年を鍛えることになったのだ。
目の前にいる幸蔵が強いと分かると、「俺を鍛えてください」と土下座をして頼んだ泪があまりにも真剣だった。 そして僅か一年で師匠を越えてみせた。 年というのもあったが、それでも快挙である。
そしてヘレンを助けるべく、今日は旅立ちの日。 感慨深そうに、縁側から墓石の前にいる泪の背中を眺めていた。
「行ってきます」
縁側に置いていた荷物を持って、どこか決意に満ちた顔でそう告げた。 太陽の光で更にその姿は凛々しく見え、孫の成長に思わず熱くなる目頭に我慢するのだと命令を送る。
「行ってらっしゃい。 お前とヘレンが揃って顔を見せてくれるのを楽しみに待っておるぞ」
「うっす! 師匠!」
満面の笑みでそう言うと、一度も振り向くことなく歩いて行った。その立派な背中を見えなくなってからも追うように暫く眺めていた。
「……二人で帰ってくるんじゃぞ」
泪は前だけを向いていた。
絶対ここに、ヘレンを連れて戻ってくる。
そう固く決意して。
泪はそっと、自分の胸に手を当てた。
1年前のあの日、泪は確かに林田を貫通した弾を受けた。
しかしそこに、傷はない。
あの左腕に人魚のような紋章をつけた男が言っていた、「人魚の雫には不老不死の力がある」という言葉。 きっと俺は、ヘレンに救われたのだ。
情けない話である。 この悔しさを糧にこの1年間、全力で強くなるために頑張ってきた。
「お前に救われたこの命、お前のために使うよ。 絶対に、助けてみせる」
泪の旅が今ここに、始まった。
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