崩壊

 世は戦乱の中。

石油に代わる新たなエネルギーをアメリカが発見したと発表したことが発端となり、少量で莫大なエネルギーを各国は欲しがり、少しずつ歯車は狂い始めた。

戦争が各地で起こり、日本もその余波を受けてしまっている。

 犯罪件数は比べ物にならない程に増え、未解決事件も比例するように増えている。

そしてついに、「大都市大爆発」事件は起こった。福岡、大阪、愛知、東京、北海道で同時に大爆発が起こり、日本の機能は停止した。

 無理もない。 爆発が起きた付近は広範囲が更地になっており、今も尚立ち入り禁止区域となっている。 東京はほぼ壊滅状態の為、 被害があまりなく海に囲まれている沖縄と四国二つを仮の首都として怪しい人物がいないか厳重に毎日管理をし仮首都を爆破されないように警戒をしながら復興を目指している。


 そんな大きな世の中の変動も、この島ではあまり関係がないのである。


るい! 起っきろー!」

「ぐえっ!」


 布団で涎を垂らしながらのんきに睡眠欲を貪る少年の腹の上にダイブするように、少女は飛び乗る。少年は呻き声を上げて、少女を中心として上半身と下半身を跳ね上げさせた。


「ヘレン、お前……!」

「あははっ、泪ってば涙目!」

「ったく、毎朝毎朝起こし方がバイオレンスなんだよ! どけっ!」


少年、泪は左手で少女、ヘレンをどかす。

ヘレンは「きゃー」とどこか楽しそうに言うと、左手に従って泪の上から退いた。


「ったく、前はもうちっとおしとやかだったのに……」

「何か言いましたー?」

「別に! ほら何座ってるんだよ、ご飯できたから呼びに来たんだろ?」

「何よ、寝坊助がエラそうに!」


 泪は少しすねたヘレンの横顔をチラリと見て、心の中で前よりかは幾分マシかと思うのだった。






 泪は気を失ったヘレンを救出し背負い、洞窟の奥で目にした横道をただひたすら進んだ。

気を失ったヘレンが死なないうちに、早く誰かに。

誰かに助けてもらわなければ。 頭の中はそれだけでいっぱいだった。


 どれだけ歩いたか分からない。

足の感覚が痺れてきたころ漸く外の景色が顔を出す。 それが泪の希望となった。

泪は走って少しのところに、木造の一軒家を見つけて必死に引き戸を叩いて助けを請うた。

 引き戸を内側から開けたのは、五十代程の優しそうな男性だった。






「遅いですよ、何してたんですか」

「別に、ちょっと話してただけだよ」

「泪がね、私に愛の告白をー」

「はあ!? お前何嘘ぶっこいてんだよ!」

「はは、本当に随分と仲良くなったね」

「ちょ、信じるなって!」

「はいはい、料理が冷めちゃうからね。 席に着いてね」


 パン、パンと両手で二回音を奏でる。

泪は助かったと安堵の表情、ヘレンは残念そうな表情で席に着いた。


 泪がヘレンを救出して、丁度一年。

この家の主である男性、林田はやしだ俊樹としきに二人が助けられてから。とも言える。

 ヘレンがここで目を覚ました時には、名前以外の記憶を全てなくしていた。

そのため泪は自分の見た全てのことを本人に伏せた。

ヘレンの事情は全く持って知らなかったが、思い出させてもいいことがあるとは言えない状況だということだけは理解できていた。

 しかしながらヘレンの中に、過去に怯える一面が見られることもある。

泪の寝起きの会話時にもそれは垣間見れた。

ヘレンの過去はあの洞窟でのことしか分からない。


ーもう過去は必要ない。

これから、これからも共に幸せな日々が送れたら。

ヘレンと、共に。

それが泪の願いであった。






「じゃあ、行ってくる」

「行ってらっしゃい」


 いつも通り、泪は森に木を刈りに斧を持って家を出る。

それを見送るのはヘレン。 いつも決まってそうだった。


「今日は、君たちが来て丁度一年目だから豪華な料理を用意しようと思っていてね。そこで祝う相手の君に言うのも変な話だが、手伝っていただけるかな」

「はい、もちろん!」


 泪を見送るヘレンの背後からそう言って、買い物をしてくると付け加える。

ヘレンもついて行こうとするが、林田に「いいから」と制される。

残念そうにそれを受け入れて、出かける後姿を黙って見ていた。


 ヘレンはここにくるまでの記憶がない。 自身の名前を覗けば。

泪も林田も、ヘレンを外に出そうとはしない。

ヘレンが過去に怯え、外に出ることも怖がっていることを二人が察しているからだろう。

昔と比べて、最近外に出ようとするが二人はそれを許さない。


 ー変わりたいー


その思いがこの三年で膨らんで、ヘレンの行動を変えつつあったのだ。

過去を思い出せなくても、もし思い出しても関係ない。

今が自分の全てなのだから。

ヘレンの中の決意だった。

しかしながら、その決意が更に確固となるのはもう少し先の話となりそうだ。






 斬った木を運ぶのは持っているのが最後。

その時、家の戸を開けて出迎えるのはやはり、ヘレンで。


「お帰りなさい! 今日も大量ね!」

「ああ、ただいま。 そりゃ、俺が頑張ったからな。 これくらい軽い軽い」

「はいはい、今日はご馳走よ! 早く片してきなさい」

「おいおい、頑張った俺に冷たくないか?」


「褒美が欲しいの?」


 初めてのその言葉に、涙は戸惑う。

ヘレンの方に顔を向ければ、視界に映るのは美白の額、艶やかで美しいブロンドの髪。 頬に感じる感触は、まぎれもなく柔らかな目の前の少女の唇で。


「わ、うわあ! 何すんだよ!」


飛び退いて、その残る感触の上に手を重ねて叫ぶ。

耳も、首まで真っ赤にしているその様にそうさせたヘレンが可笑しそうに笑う。


「笑うな!」

「いや、だって真っ赤……くくっ!」

「お前のせいだろ!」

「照れちゃって、かーわい」

「~~お前なっ!」

「おお、泪くん、帰ってた……どうかしたかい?」


 朝と同じように林田が出てくると、泪は「何でもない!」と言って林田と入れ替わりのように家へと入る。

林田がヘレンに何があったか問うても、ヘレンは何でもないと微笑むのだった。






 宴はとても賑やかなものだった。

いつものようにヘレンが涙をからかい、泪が反論し、林田がそれを収める。

卓に並ぶ豪華な料理以外、いつもの日常と何ら変わりない。

 しかし今日の夜は珍しく、泪は縁側で満月を見上げていた。

寝る前にトイレに行ったヘレンが帰り道に、満月に照らされた涙を見つける。

 その姿はいつもヘレンに反論する子どもっぽい一面が嘘かのように、美しい影を落としている。

無表情に月を見上げている泪の表情から、ヘレンは何も読み取ることができない。


「眠れないの?」


 そう問うと、いつもの間抜け面をこちらに向けた。

その表情に安心したようにヘレンはわずかに微笑み、泪の隣へと腰を下ろす。


「……何か、嫌な予感がして」

「嫌な予感?」

「胸騒ぎ、と言えばいいのか……妙に、ざわついててさ」


 心臓の場所に右手を当て、そのヶ所の服を掴む。

妙に真剣なその表情を、ヘレンは暫く見つめていた。

どう声をかけるべきか、悩んでいたのだ。

どう返すのが正解なのだろう。 考えても、答えは何も浮かばない。


「本当に嫌な予感?」


 は? という間抜けな言葉にヘレンは意地悪そうな顔を向ける。


「胸騒ぎって……私にキスされたドキドキが治まらないだけでしょ?」

「なっ、ちげーよ! あれくらいどってことないし!」


 真っ赤な顔でそう言って立ち上がると、早足で逃げるように立ち去る。


「もう寝ちゃうの? もう少しお月見しよーよ」

「便所だ便所!」


 ヘレンは泪の後姿が曲がり角を曲がって見えなくなると、顔を少しの間俯かせて再び月を見上げる。


 ー結局、いつもみたいに振舞っちゃったな。


 静寂の中にぽつりと零した。






「あれ、開かねえ」


 トイレの入口の戸の鍵が開かず、困惑するも何回かガチャガチャと開けようと試みるが、無駄だと分かり手を離す。


「しょうがねえ、緊急事態だしー」


 この家にはトイレが二つ存在する。

泪とヘレンがやってきたときには一つだった。

昔ながらの古汚いそれにヘレンは可哀想だと、林田が突如新しいトイレを作ったのだ。それからそのトイレはヘレン専用となった。

泪は使うなと林田に言われている。

しかし存外宴で飲みすぎたらしい。 行けないと分かると余計に行きたくなるもので。

林田のじっちゃん、すまねえ! と心の中で謝罪しながらヘレン専用トイレへと向かう。

この家に似合わない真新しい戸を開けると、中には新しくはあるが、洋風式ではなく和風なそれがそこには鎮座していた。

何で和風式トイレ、と思わず独り言を呟いてしまうのも仕方のないことだろう。

丁度呟いた、その時。

ブザーのような大きい音がそのトイレの中でこだまする。


「な、何だ!? うわっ!」






 遅い。

まさかトイレで寝ているのでは、とトイレの方へ向かうが明かりが漏れていないことを確認する。

 まさかと自分のトイレの方へ向かうと、便器とトイレの入口である戸の間には闇へと繋がる落とし穴が存在していた。

既にその落とし穴の前には見知らぬ男がいた。


「あ~あ、だから使っちゃいけないって言ったのに」


 優しげな声だった。しかしヘレンは確かに恐怖した。

駆け寄ろうとした歩みを止め、曲がり角に視線だけを残して隠れるが、反対側から聞こえる足音に、姿を完全に壁で隠す。


「おい、どういうことだこれは。 音が大きすぎる。

あの娘が駆けつけたらどうするんだ」

「誰に言ってるんですか。

ちゃんと人魚には聞こえない音にしてますから大丈夫ですって」


 ー人魚ー


 その言葉に、ヘレンの胸がどくりと身を穿つ。

苦しさに背を壁に這わせ、ゆっくりと床に腰を下ろす。

心臓の部分の服を掴み、気がつかれないように苦しげに呼吸をする。


「さて、落ちた男の処分でもしてくるとするか」

「こ、殺してしまうんですか?」

「何だ、林田……元からそういう話だっただろ?」

「し、しかし……」

「これ以上足止めするなら、殺すぞ」

「ひいっ!」

「……行くぞ」


 頭の中で、昔のことが走馬灯のように映像として蘇る。

それと同時に林田と知らない声も頭の中に流れてくる。

 母と共に、地下牢に入れられた映像。

希望を失わない瞳を鬱陶しく思われ、母と別の場所に連れていかれた映像。

洞窟で人魚の雫を搾り取られ続けた映像。

洞窟で、涙と出会った映像。

そして先程の話声で、ヘレンの中で全てが繋がる。


 ーそうか、私、人魚、だー


 もう既に、声は聞こえなくなっていた。

遠ざかる足音さえないのは、先程からいくらか時間が経っていることを意味している。

 

ヘレンは早足でその落とし穴へと駆け寄る。

底が見えない。 恐怖で手足が震える。

『さて、落ちた男の処分でもしてくるとするか』


 このままでは、泪が殺されてしまう。

泪と過ごした一年間が頭をよぎる。

 自分をあの洞窟から救い出し、助けてくれた泪が自分のせいで殺されてしまう。

少し怒ったような表情も、照れたような表情も、ふくれっ面も、呆けた表情も、可愛い顔で眠る表情も、笑った顔も。 全てが愛おしく想える。


 震える膝を叩き、震える腕を叩き、頬を両手で挟むように叩く。

底の見えない闇を睨み、覚悟を決めたようにそこへと足を踏み入れた。

 重力に従って下へと落ちる。 強く目を瞑る。 浮遊感が気持ち悪くて、恐怖から目を開けることも、身動きすらもできない。


「ぐえっ!」


 随分長い時のように思えたが、そこまで深いものではなかったようだ。

呻き声に目を開ければ、見慣れたお尻がそこにあった。

どうやら、涙の腰に着地したのだと気がつき、慌ててヘレンは腰を上げる。


「ご、ごめん泪っ!大丈夫!?」

「全然大丈夫じゃねーよ!」


 いてて、と上半身を起こし、壁に背を預ける。

ヘレンは痛がる泪の腰に手を当て、優しく慰めるようにさする。


「いって、ここどこだ? 俺……」


 泪の脳内に、トイレでの出来事が思い出される。

自分が落とし穴に落ちて気を失ったこと。 ヘレンが降ってきたおかげとでもいうべきか、気がついたこと。


「お前まで何でここにいるんだよ」

「はっそうだった! 林田のおじちゃんもグルなの。

逃げなきゃ! 逃げなきゃ殺されちゃう!」

「は? 何の冗談だよ、それ」

「こんな時に冗談言わないよ! もうじきここにー」


 二人の話声しか聞こえなかったその空間に、僅かに聞こえた数人の足音。

それは走る音で、立ち上がった時にはもうろうそくの火で姿を灯されていた。


「声がするから、もしかしたらと思ったが……娘まで落ちていたか」

「林田さん……誰なんだよ、そいつ」


 数人の人の後ろに身を隠すようにしていた林田だけを涙は見ていた。

 信じたい。

表情からその気持ちが読み取れる。


 一番前に立つ男は眼鏡の中心を自然な流れでくいっと上げると、泪を見て微笑した。

まるで嘲笑うかのようなそれに、泪は「何だよ」と問う。


「いや、実に滑稽だと思ってな。 お前が疑っている通り、こいつはお前たちの敵だ」

「嘘だ!」

「目が揺らいでるぞ。 嘘つきはどちらか、理解しているだろう」


 泪は何も言えない。

揺らいだ瞳で眼鏡の男と林田を交互に見ていたが、照準を眼鏡の男に合わせると、睨みつける。


「お前、何が目的だ」

「目的? それは、洞窟で少女を見た君なら分かるだろう?」


 背中越しに、ぴくりと身体を跳ねさせたのが分かる。

泪はヘレンを庇うように右腕を上げながら、洞窟でのことを思い出す。


 裸のヘレンの四肢は鎖で繋がれ、腕には注射器のようなものが刺さっており、管が通ったそれは所謂点滴道具一式。

しかし管の先にあるビニールにある血液は減るどころか増えていて、与えるのではなく吸い取るための機械だった。


 あの時は意識も正直朦朧としていたこともあり、思考は正常ではなかった。

しかし今なら多少の考察もできる。

 彼女から血液を採取する装置を仕掛け、逃げ出さないように四肢を鎖に繋がれていて。

そして助け出して逃げ込んだ家の主、林田は敵で。

 ヘレン専用のトイレに入ると侵入者を排除とでも言いたげに落とし穴に落とされた。 トイレにヘレン以外入れないためのそれ。


 つまりー。

そこまで考えて、涙は吐き気に襲われる。


 気持ち悪い。 嘔吐の声に、眼鏡の男が笑う。


「この周囲一帯は俺たちの監視下にある。 脱出を許すはずがないだろう。

三年間もあの洞窟から逃げて、追手が来ないことを疑問に思わなかったのか?

簡単に人魚の雫を手放すはずないだろう。

この方法だと俺らも幸せ、お前らも幸せに暮らせる。 いい方法だろ?」


「この下衆がああああああ!」


 男に向かって走り出した涙に、眼鏡の男は無慈悲にも拳銃で足下を撃って脅す。

驚きからその足を止め、銃口を見た。


「それ以上動くと、今度は当てるぞ」


 ヘレンの方を見ると、羞恥からか顔を真っ赤に染め上げて、力が抜けたのかへたり込んでしまっていた。 何も聞きたくない、とでも言いたげに手で両耳を塞いでいた。

 それを見て、泪は頭に血が上る感覚を覚える。

未だ銃口を向けるこの男が、この集団がそうさせている。

そう思うと、無性に腹が立った。


「人魚の雫ってなんだよ! なんでそんなことする必要があるんだよ!」

「……そうか、お前何にも知らないんだな」


 そう言うと銃口を下げ、得意げに話し始める。


「いいだろう、教えてやる。

人魚の雫には不老不死の力がある。 人魚から出る水滴なら何でもいい 。俺たちはそれを搾取するのが仕事なんだ。 もしお前たちが今まで通りにしてくれるなら、退いてやってもいい。 どうだ、悪い話ではないだろ?」


 涙は拳を強く握りしめた。

悪い話であるに決まっている。

羞恥に耐えきれなくなったヘレンが、泣いている。

どうしてそんなヘレンを見て、悪い話ではないだろ、なんて笑って言えるのか。

 全てを知った今、もう笑って暮らせるわけがない。


「ふざけー」

「暮らします。 だから、だからここから出て行って!」

「おま、何言ってんだよ! 馬鹿か!」

「いいの! だってそしたらー」

「ふざけるな!」


 そう叫ぶと、涙の背中に縋りつくようにしていたヘレンを払い、眼鏡の男に向かって走り出す。

しかしその男に到達するまでに構えられた銃口から弾丸が放たれる。

 不思議と体感時間はゆっくりだった。

ゆっくりと、弾丸が自分に迫ってくる。 避けられない。 けれど目線も逸らせない。

 弾丸しか目に入っていなかった。 弾丸を遮ろうと視界に飛び込んできたのは、眼鏡の男の後ろに隠れていた林田だった。 しかし、遅かった。


 その弾丸は泪の心に近いところに突き刺さった。 林田は泪に覆いかぶさるようにして、二人は倒れこむ。


「泪! 林田のおじちゃん!」


 ヘレンは倒れこんだ二人へと駆け寄る。


「どういうつもりだ、林田」


 林田は立ち上がり、ヘレンと涙の前に両手を上げて立ちはだかる。

その林田に怪我は一切なく、庇うのが間に合わなかったのが見て取れる。

 涙は撃たれたところから夥しい血を流し、虚ろな目で目の前に立っている林田を見ていた。


「泪、泪、しっかりして!」

「ヘ、レン……逃げ、ろ」

「一人じゃ嫌だよ!」

「……泣く、なよ」


 虫の息で、泪は右手をヘレンへと伸ばす。

ヘレンがそれを目で追うと、親指が目に当てらて咄嗟に目を瞑る。

泪は優しく拭われて、再び手が下がっていく。 それが名残惜しくて、その右手を両手で優しく包み込み、自身の頬に当てる。


「折角拭った、のに」

「あんたのせいじゃん、馬鹿」


 それは留まることを知らず。 溢れて、頬に当てられた泪の右手を伝う程に零れていた。


「……死なせない。 絶対に、死なせない」


 そう言ったヘレンの顔が、ゆっくりと涙の顔へと落ちていく。

泪の虚ろな視界でもヘレンの顔がはっきり認識できそうな程の距離になった瞬間、柔らかな感触を唇に感じた。

 夕方、頬に感じたものと同じだと分かれば、思わず三途の川を渡ろうとしていた泪の視界をこちら側に引き戻すのには十二分だった。


「自分の命が惜しくて協力したくせに。 今更自分が何をしているのか分かっているのか」

「ああ、分かっているさ。 けど、情が移ってしまったんだから、仕方ないだろう……!」

「……馬鹿だな、お前」


 ヘレンは泪へと口づけて、自身の流した涙を泪へと送る。

 仰向けの泪はその行為に抗う暇もなく、飲まされる。

喉仏が動いたのを確認して、ヘレンは泪から顔を離す。


「お、ま……!」


 驚いて真っ赤な泪の顔に、涙を流したまま満足気にヘレンは微笑む。


 カチャリ。

銃が放たれる準備の音が聞こえる。


「死ね」


 ヘレンと泪が林田を咄嗟に引っ張ろうと手を伸ばす。

しかしそれを見越したかのように、林田は後ろに右手を払い、足を半歩下げた。

またしても咄嗟に掴もうとしたそれがこちらに力強く向けられ、思わず怯んで手を止めてしまう。


 林田の顔を見れば、後ろを振り返っていた。

今まで見た中で、一等晴れやかな微笑みだった。


 ーバンっー


 目の前で血が飛び散り、後ろにいた二人にもそれがかかる。

林田が倒れるそれがスローモーションのように見える。 倒れ切った林田の顔は、撃たれる間際に見たのと同じ表情をしていた。


「林だっ……!」


 痛いはずの身体も不思議と痛みを忘れ、林田に駆け寄ろうとした泪に、追撃が放たれる。


「泪っ! あっ! 離して!」


 再び倒れこんだ泪にヘレンが駆け寄ろうとするが、それを目の前の集団に拒まれる。

 その集団の一人が即効性のある麻酔を打つと、ヘレンの身体から力は抜け、大人しく腕に抱えられた。


「行くぞ」

「この二人の始末、いかがいたしましょう」

「構わん、どうせここら一帯はこいつしか住んでなかったんだ。 この1年間誰とも会っていなかったようだし……捨て置け」

「はっ」


 泪は辛うじて繋いだ意識で、その去る後姿を睨みつけていた。

左側の腕に縫い付けられた、魚のような、少し人魚を彷彿とさせる紋章が虚ろな目に映る。 そして、力の抜けているヘレンの姿も。


 ー絶対、助ける。 俺が、ヘレンをー


 そこで、泪の意識は途絶えた。






********************************************************************************






 小鳥が縁側に降りたち、何も餌がないのを確認して飛び立った。

それをこの家の主である男は何かを考えながら目で追っていた。


「……遅れてるだけか? それとも……」


 真剣な瞳で、森の方を見て一人ごちた。



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