アスパシア


 ヒコヤンは木の柱に設置されている滑車を操作して、鳥籠に監禁されたままの女性を地上に降ろした。


「大丈夫か? ちょっとどいてろ」


 細い木材でできている檻の扉は固く施錠されていたが、銃で弾き飛ばし中の女性に手を伸ばす。


「…………」


 薄明かりの中に巫女装束でふわりと舞い降りた女性は、まだ少女の面影が残る20歳前後の顔立ち。後ろ結びを解いた栗色の髪に見え隠れする薄い色の瞳とぷっくりとした唇は、刹那に引き込まれるような魅力を放ち、一時たりとも目を逸らすことができない。


「君の名は?」


 白衣に千早を羽織った女性は、怯えるような悲しい表情でヒコヤンと目を合わせた。


「――ブリュッケ……」


「……ファーストネームは?」


「ニーナ。助けてもらってありがとうって言いたいところだけど……」


「どうした? 何か事情がありそうだな」


 ヒコヤンは囚われの美女を救い出す事には成功したが、儚げな巫女姿の彼女が時折垣間見せる暗い影の表情に、心が灰色に染め上げられそうになるのだ。



   ☆☆☆



 夜の闇を切り裂くようにタクティカルライトの光束が道を明るく照らし出す。ニーナと名乗る彼女の家に向かって2人で夜道を急ぐのだ。


「大丈夫か? 怪我してないのか」


「ええ……ありがとう。まさかカルキノスハンターのヒコヤン様に助けていただけるとは」


 ニーナは狼狽えのニュアンスを含むような感謝の言葉を紡ぎ、形容のし難い表情をおぼろげな光の中に見出させた。周辺地域のコロニー都市にまで自分の名前が知れ渡っている事実に、ヒコヤンは複雑な思いを抱く。


「君の家はこっちなのか。案外近くにあるじゃないか」


 車が通れないような荒れた廃墟群の中になぜかポツンと、ニーナの家族が住む屋敷が存在した。彼女は母親と2人で暮らしているらしい。電気の灯った家は他になく、屋根瓦で板張りの古風な建物は、いわゆる和風建築様式で昨今においては貴重とも言える存在だ。


「……母さん、帰ったよ」


「……その声はニーナ! ニーナなのかい!」


 奥の座敷から両目を涙で赤く腫らした中年の女性が、フラフラと這いずり出てきた。ここに至り、ようやくヒコヤンは娘の置かれた身の毛もよだつ悲惨な状況を説明され、把握する事ができたのだ。


 カルキノス教団によって一部支配されているオーミナガハマ市。ケプラーノコギリガザミを神の使いと崇める同教団は、信者の中から数年ごとに人身御供を選定して神の使いに捧げるらしい。生け贄に選ばれるアマゾネスは未婚の美少女で、教祖が神のお告げと称するトランス状態の占いにより、その名前を挙げてゆくとの事。

 全く馬鹿げている。中央の支配が及びにくい辺境の地において、人の荒んだ心の闇が生み出した狂気だ。


「感謝いたします、ヒコヤン様。もう娘は帰ってこないのだと思い悩み、私も一緒に死のうかと考えていた所だったのです」


 いたく嬉しかったのだろうか……ニーナの母親は、心ばかりのおもてなしの料理を振る舞うという。ささやかと言っても、台所に娘を連れて引っ込んだ時間は1時間にも及んだ。そして並べられた料理を前にしてヒコヤンは目を丸くした。

 湖の恵みをふんだんに使った豪華な料理が、所狭しと提供されたのだ。エビ豆に甲冑魚後半の柔らかな部分の煮物と焼き物、ふなずしと呼ばれる発酵食品、巨大シジミの酒蒸しなど。珍しい湖北の手料理からは、ほのかな出汁の香りがして空腹中枢を大いに刺激してくる。


「突然の来訪者に対する多大なるお心遣い、誠に感謝いたします」


 ヒコヤンがお礼の意を示し、親子の和やかな表情を交互に見遣る時、野生の勘が心中に電撃のように駆け抜けた。『予告なしに関わらず、かような過疎地にてここまでの周到さは、あまりに不自然……』


「……大変に申し訳ない、今宵は体調が優れないゆえ、先に休ませて貰えませんか。そのお気持ちだけを、ありがたく頂戴いたします」


 意を決したヒコヤンは、無情にもご馳走を前にして一切手を付けずに立ち去った。背後からは失望と当惑の眼差しが突き刺さり、彼の良心を棘の縄で締め上げたのだ。

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