六皿目 おあいそ。

第19話 絶望の淵にて

 終わった。

 俺とマグロの楽しいお仕事タイムが、終わった。

 朝、登校する足取りが重かったのは、昨日の疲れによるものだ。肉体的にも、精神的にも。

 最終日、8000皿を売り上げた俺らは、しかしながら、目標を達成できなかった。

 あと一皿。

 それさえ売れてくれれば、こうはならなかったであろうに。

 重たい足を引きずりながら、途中、理衣花の家に寄った。インターホンをならすと、はぁいという寝ぼけた声が帰ってくる。

 俺はその声にどこか安心感を覚えつつ、理衣花の出てくるのを待つ。

「…………おはよ」

「…………ん」

「…………行こっか」

「…………ん」

「…………」

「…………」

 恐らく、史上最も陰気な朝を迎えている。

 鬱陶しいくらいの日差しを横から受けながら、俺と理衣花は二人、誰もいない通学路を歩く。

 ゴールデンウィークはとっくにすぎた。

 どうしたって土日しか休みの無い六月がもうすぐ始まる。梅雨の季節、心も体も不完全燃焼。

 周囲の喧騒が大きくなって、ようやく周りに人がいることに気づく。ここからはあまり陰鬱にしていると何か思われそうだからやめる。元気だしていきましょー。

「ほんとにクビになっちゃうのかな……」

 出鼻をくじく発言が理衣花から飛び出した。せっかくもうちょいで吹っ切れたのに。

「もうわかんね。どうにでもなれ」

 かなりの度合いで諦めに入った発言が俺から飛び出したところで、理衣花それ以降何も話してこなくなった。


 ――大事な連絡があります。五時に店に来てください。

 とは、理衣花の携帯に送られた店長からのメールである。宛先は一斉送信で、俺のアドレスも含まれていたことから、トイレに泣いたあの携帯にも送られているということか。うわ、そっか店長にも教えてたのか。何で教えたんだ俺。

「……決まったのかな、誰クビにするか」

「……い、行ってみないと分からないから」

 逃げていた核心をついてきた理衣花に慌てて返答すると、「行くぞ」と半ば強引にその話を中断させる。

 逆側に傾いた夕日が、意地悪にこちらを照らす。高度の低い太陽が、俺と理衣花の影を長く伸ばす。

 横並びになって歩く。十年前くらいからこんな感じの関係は続いている。どんなに楽しいときも、辛いときも、いつもとなりにいたのはこいつだった。悔しいけど。

 腐れ縁って、こういうことなのかな。

 俺と理衣花の影は、ずっと長く伸びていた。

「私さ、もしクビになったら、あんたに伝えることあるから」

 突然、遺言めいたことを言い出す理衣花。死ぬなよ?

「大丈夫、事務的なことだから。それに」

 理衣花は、隣からものすごい笑みで俺を見る。まぶしい。百万ドルの笑顔。

 そして、口を開く。

「もし、私がクビになるなら、あんたも同時にクビになってると思うから」

 絶えず、変わらないその笑顔は、夕日を背にしていることもあって、いっそう眩しく見えた。

「不穏なこと言うな」

 俺は努めて平静に、ひとつだけツッコむ。どうして平静を保とうとしたのか、それは分からない。

 けど、その何かを振り払うように、俺は、すたすたと歩きだした。

「あっちょっと、待ってよ」

 後ろから、幼馴染みの声が聞こえる。

 前に、店が見える。


 ガチャ。キーーー、ダン!

 そろそろ老朽化も甚だしくなってきたこのドアを開けて店に入ると、そこには誰もいなかった。つまり、そこには誰もいなかったのだ。もぬけの殻。

「あのおっさんはどこ行ったのさ」

 呼びつけておきながら逃亡したのかよ。ツンデレか。おっさんのツンデレなんてもはやどの層への需要だよ。供給側がカンストしちまってるよ。

「ねぇ、着替えんの? これ」

「っても俺ら今日仕事無いしなー」

 何連勤もさせられたので、労働基準法と店長の厚意に甘えて今日は休みだ。ありがとう法律。

 そうしている間にも時は過ぎている……はずなのだが、いっこうに店長は帰ってこない。なにしてんのあの人。呼んどいていないとかもうあれだぞ、超あれだぞ。

 ていうか電気もついていない。夕方のパートさんは入っているのをみたので、やってないわけではないのだが、それにしてもこれでは。

「……電気つけない?」

「……確かにそうだな」

 パチン、パチパチン。

 部屋の電気は、昨晩からチカチカ点滅している蛍光灯を除いて正常についた。だったらなおさら電気を落としている理由が分からない。

 帆立はまだ来ていない。この近辺の学校から通っているはずなのだが、俺らの学校よりは遠いので、若干だが俺らよりも時間がかかるのだ。

 二人きり。

「久しぶりだな、二人っきりだっていうの」

「えっ!? あ、うん! そうだねー」

「……どうしたの?」

「ん!? いやっ、別に…………意識させないでよ…………」

「?」

 やけに動揺している理衣花。やっぱりあれなのかな、店長がいないことに一抹の不安を感じているのかな。

 しばらく、二人何もしなかった。もはや代名詞とも言える理衣花のスマホ中毒も、その力を最大限に発揮できていない。しっかりしろよ。

 と、その時。

「お疲れさまでーす……」

 背後の老朽化したドアから、漫画家さんがお出でになった。やっぱり若干遅れてきた。もうちょっと早く来てくれてたらこんなに焦ることなかったのに。

「てあれ? 誰もいないんですか?」

「パートさんは来てるよ。でも、肝心のあれが来てない」

「あれ? ……ああ、あいつか」

 帆立は事態を飲み込んだようだ。どんなに真面目な人でもムカつくものにはムカつくんだね。限に今「あいつ」呼ばわりしてたからね。相当溜め込んでるね。

 チラチラ視界の端に光るのは西日。なんとまあ日の延びてきたことか。五時前でも明るい。

 刹那、テーブルから物音。

「ったくなんなんですか!? 人を呼びつけておいて自分だけだらだらでもしてるんですか!?」

「抑えろ帆立。まだ早まる時間じゃない」

「でも!」

「やめろ、お客さんいるんだぞ」

「あの人は……!」

「そろそろその握ったハサミを下ろそうか⁉」

 物理的な死人は許されない。いくらなんでもここは飲食店だ。どーどー。ちなみに精神的な死人は出ている。名を田中鯵夫といったか。詳しいことは記憶にございません。

「……こんなことしても解決しないか」

 パタン。帆立は手に持った凶器を静かにまた元あった場所に戻す。そうそう。それでこそ帆立だ。

 そんな喧騒があったからか、急に静まる事務室内。嵐のあとの静けさとは上手く言ったものだ。山田くん座布団一枚。

 そして、その沈黙を突き破る者がいた。


「おっ、みんな、おつかれー」

 それは、ゆるゆるした表情の店長だった。


「店長! どこ行ってたんですか⁉」

「いやー、めんごめんご」

 年齢を感じさせる言い方だな。

「いや、上から届いた資料に目を通すのに時間がかかっちゃって。でも五時前にはここにいるでしょ? この辺が学生と社会人の差だよね」

 変に饒舌になっている店長。どうしたんだろう。吹っ切れたのかな?

「あの、店長、何の話で呼ばれたんですか? 私たち」

 理衣花が店長に問う。そうだよそれそれ。一番重要なのそれだよ。何のために呼ばれたのさ俺ら。

「あー、例の件だよ」

「例の?」

「そう。つまり……赤貝の」

 …………あ。

「帰ろう理衣花。ここに俺らの居場所はない」

「そうだね、そうする。浅利さんも原稿上げた方がいいです」

「ですね。では、店長」

「まてまてまてい!」

 突然の裏切り行為にとっさに俺の右腕をつかんだ店長は、そのまま全体重を俺にかける。重い重い重い!

「腕がもげるわ!」

「逃げ出そうとした君らが悪いよね⁉」

 店長、必死の弁明。とりあえず腕から離れろしがみつくな。

「だってもう負け決まってるんですもん! クビですか? クビなんでしょ!」

「まって、話聞いて!」

 なおもすがり付くおっさんをなんとか振り払う。「あっ」という店長の軽い悲鳴に似た声に振り返るのも一瞬。

「じゃあ、今までありがとうございました」

「ありがとうございました」

「私も、ありがとうございました」

「えっ、マジで言ってる?」

 三人で別れの挨拶を告げる。疲れでひん曲がった店長の顔に、絶望が更に乗る。

「……行くぞ」

「……うん」

 かれこれ半年ほどお世話になった店に、背を向ける。永久の別れとまでは行かないが、しかし、ある一定の区切りをつけることにはなる。

 初夏の風が、ひどく優しく頬を撫でた。

 目の前には横断歩道がある。小学生の通る、長い横断歩道。

 その一つめの白線を踏もうとしたところで。


「負けてないよ!」


 そんな声が、届いた。

「は? 何言って――」

 どっかの交差点とは違い、交通量の無いこの道路。この信号要らねえからあっちに信号つけろよ。

「ったく、あんたのせいで利益だけじゃなくて大事なバイトさんまで失いそうだよ!」

 店の入り口には、まだその丸っこい身体のシルエットが浮かぶ。てかものすんごい逆光なんだけど。なぜそこに立ったし。

「なんですかなんですか」

 呆れた感じでその影に近づく。もういいよ。諦めさせてよ。いいのいいの。二週間の努力は水の泡。なかったことになってる。いいのさ。

 一歩。二歩。その差を縮める。

 夕日は沈まない。いつまでも、地上を照らし続ける。

「なんなんですか一体」

 はあ。ため息混じりにそう言った理衣花。同じ気持ちだったようだ。

「ほら、出てきなさい!」

 店長の声と同時に、一人の老人が出てくる。

 それは、何日か前に見た人。

「あ、あなたは…………」

 その顔を、三人で覗き見る。同じくこの不条理を駆け抜けてきた、いわば戦友で。

 そこにいたのは――


「誠に申し訳ございませんでした!」

 先日、理衣花の叫び声で上がりをこぼしたおじいさんだった。


「…………え?」

「誰? …………あー!」

 理衣花が思い出したのか叫ぶ。またこの人はびっくりする。

「ふっふーん」

 店長は得意気に鼻をならした。そして――


「まったく、お皿持って帰っちゃダメだからね?」


 いつもどおり人気の無い店先で、叫んだ。

 小学校のチャイムが響く。


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