第13話 数学の時間です

「えー、関ヶ原の戦いというのは、徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍が――」

 食後の5限。襲いかかる睡魔と戦いながら、教師の話を聞く。教師自身はとても楽しそうに語っているのだが、俺は対して楽しくもない。なんともまあ他人事って感じがしてしまっている。まあ歴史上の偉人なんてのは会ったこともなければしゃべったこともなく、遠い存在なのである。

「えー、二百年にわたる長期政権の礎を築いたわけですが、地方の大名のケアも怠りませんでした。三代目将軍家光は――」

 参勤交代。先生が黄色チョークで板書したところは試験に絶対出てくるので、バーッと、ノートに書き写す。

「…………ふみゃー」

 後ろを向けば、これまた気持ち良さそうに眠りに落ちている理衣花さんの姿が。

「…………さすがにそろそろ当てますよ蒼さん?」

 しびれを切らした教師がそう言うと、クラス中の視線が伏している理衣花に集まる。

「…………」

 警告めいたその発言に対しても、ただ単に受け流すのみ。

「はあ……参勤交代とは――」

 あっ、あきらめたなこれ。集中していた視線が、その対象を変える。カンカンカン、と、リズミカルに刻まれる文字一文字一文字が、今まさに過去の歴史を遡って描く。

 さっきまで三成と戦火を交えていた家康が、もうとっくに世代交代を済ませている。速いものだ。

 なんて、授業中に下手に悟りを開きそうな俺の耳を、ゆるい言葉が通り抜ける。

「…………おいしー」

 幸せそうで何よりです。


「行くぞ」

「待って待って」

 時は進んで放課後。月曜日は、俺と理衣花の出勤日ではないが、状況が状況のため、今日明日は出勤が決まっている。そんな職場に、二人で向かう。

 校門を出るなり、理衣花は携帯を取り出す。

「お前さー、マジで中毒者だろ」

「まだ大丈夫だって」

「まだって……一日にどれくらい使ってんだ?」

「五時間」

「それを世間では中毒者というんだ!」

「まだ大丈夫。私、裸眼だし」

「視力だけの問題か?」

「うるさい」

「なんだよ」

 こういう会話をしているときも、携帯から目を離さない理衣花。集中しています。その集中授業にとっとけよ。

「あっ、理衣花、ぶつかる!」

「ひゃっ!?」

 唐突に叫んだ俺に、全身で驚きを表した理衣花は、前を確認して、刹那、俺に向き直る。

 若干、怒りのこもったその顔に、満面の笑みで返す。

「うっそぴょーん」

「ふざけんな!」

「なんだよかわいくねぇな」

「あんたにかわいいって言われたって嬉しかないよ!」

「なーに言ってんだ。かわいいぞ」

「うるさい!」

「そういう怒りっぽいのも、まとめてかわいい」

「うるさいうるさい!」

「顔赤いくせに」

「えっ……?」

「うっそぴょーん」

「も、もう!」

 老舗のガラス屋のある交差点を渡り、駅に向かう。ここ交通量多いのに信号ないんだよな。危ないと思うんだが。

「……実際、どのくらいかわいいと思ってる?」

 車の通りをうまく見切って、横断歩道を先にわたった理衣花は、対岸からそう問う。軽トラが来たんだもん。あいつの方が命知らずなんだよ。チキンじゃねぇし。

「それ聞いてどうすんだよ」

 区切りが悪かった。断続的に目の前を通りすぎる車の列は、全く先が見えない。信号が変わらないのだろうか。

「べ、別に……」

 理衣花は、車の走行音の隙間に声を通す。ギリギリ聞こえるかどうか。

 さっきまでの高圧的な態度が一転、しおらしくなってしまった理衣花を見ると、ちょっといたずらしてみたくなる。

「かわいいよ! 昔っから! 隣でどうしようかと思ってたよ!」

 理衣花の追試を待っていたため、微妙な時間となってしまった。仕事には間に合うが、周りに下校中らしき生徒は見当たらない。

 だから、こんなことが言えたのかもしれない。

「…………っ」

 開いた口が塞がらないとは、まさにこの事であろう。理衣花は右手を開けっぱなしの口に当て、そのまま立ち尽くしている。

 でかい2トントラックがちかづいてくる。これはまだ渡れなさそうだ。


「やっぱ…………わた…………の……と、…………き、…………」


「あ?」

 ゴオオオオという凄まじい音と共に、その2トントラックは理衣花の言葉を掻き消した。

「なんか言ったか?」

 ようやく車の波がおさまり、向こう岸に渡れるようになった。

「なにも言ってませんよーだ」

 べーっ、とでも言いそうな雰囲気で言い放った理衣花は、そのまま小走りで前に進む。

「早くしないと、遅れちゃうよ!」

「誰のせいだっつーの!」

「うるさい!」

 西日が前から差し込んでくる。それはまんべんなく地球を照らす。

 もうすぐ、少しずつ沈み始めるのだろう。

「あっ、見て!」

 突然立ち止まった理衣花が、天の一点を指差す。

「一番星!」

「ん?  ……ほんとだ」

「どれがアルタイル?」

「まだ春だろ」

 やっぱりこいつ、授業聞いてねぇな。

 しかし、なんのために俺がこいつの追試を待ったのか。それには訳がある。

「すまん、理衣花、ちょっと手伝ってくれ」


「お疲れさまです」

「大間くん何してくれてんの」

 出社と共に聞こえてきたのは、挨拶よりも先に、店長の文句であった。お前が挨拶しろって言ってるんじゃねぇのか。

「なんの話ですか?」

「女子更衣室の話だよ」

「盗撮ならしてませんよ」

「違う違う! 赤貝保管庫の方!」

 目に見えて怒りを露にしている店長。万物をも射殺そうとしているかのようなその両の目は、隈に囲まれている。死ぬなよ?

「だからなんの話なんですかって」

「ちょっと来て」

 すたすたと歩き出してしまった店長に、仕方なくついていく。どうしたものか。俺がなにかしたか。

「行くよ?」

 まるで下水を処理するかのように歪んだ店長の顔を見せられながら、俺は部屋のなかを見る。

 ひんやりした温度は、空調とドライアイスの賜物。そして。


 この前より更に増えた赤貝の箱。


 そら見たことか、みたいに微ドヤ顔を見せる店長に、俺はこう返した。

「あー、届きましたか」

 かなり余裕綽々と、これだけ。

「……なにその薄い反応」

 店長からしたら、ドッキリ大失敗である。

 なぜ、俺がこんなに期待はずれの素人みたいな反応をしたか。それは。


、届きましたね」


「は?」

 なに言ってんの? 頭ダイジョブ? みたいな感じで見てくる店長。ダイジョブダイジョブ。

「君さあ、1000皿売れない店に、赤貝を8000皿発注するってどういうこと?」

 さすがに店長もお怒りである。想定内。

「店長、数学の時間です」

「は?」

 何を言われようと、先程歩いているときに考えていた台本を思い出してなぞる。

「二週間――14日としましょう。その間、一日に1000皿ずつ届く赤貝があります。そのうち10000皿を売れば黒字になり、ミッションコンプリートです」

「なにかと思ったら現状かい」

「そこ、静かに」

 静止をきかせると、店長は思いの外素直にいうことを聞く。これは想定外。

「今、12000皿中4060皿が売れている状況です。残り何皿を売れば黒字になりますか?」

「だから、6000皿――まあ揚げ足とられないようにすると5940皿を売らなきゃいけないけど無理でしょ?」

「ブー、不正解」

 両腕でバツをつくり、半ば挑発的にそう言う。

「じゃあなんだっつーんだよ!」

 バン!

 珍しく店長が音をたててキレた。本当に珍しい。

「もう俺はいいんだよ。二人の子供も嫁も、全部パー。水に流すの。決めたの。もういいよ」

「店長…………顔をあげてください」

 かたくなに顔をあげない店長に、俺はそれ以上なにもすることもなく、声だけで言う。

「正解は、分母を変えるんです」

「分母を変える?」

「そうです」

 俺は参考書の解説レベルに丁寧な解説をする。

「10000/14000というのは、約分して5/7。つまり、黒字になる割合は5/7の時。それって、必ずしも分母が14000でなくていいんです」

 紙とペンをとり、簡単に式を書く。

 10000/14000=5/7=20000/28000。

「つまり、28000皿中20000皿売れるのと同じなんです」

「それで? 君は二日でプラス14000皿の16000皿を売れるというのかな?」

 そう言った店長の顔は、いやらしい、ひとを雇用している側の顔。いつでも君の人生を変えられるんだよ? という皮肉の混じった顔。

 だから俺は、その笑顔を更に皮肉っぽく、策士っぽくして返す。


「ええ、売って見せます」

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