第2話 こういうのって大人がどうにかするんじゃないの?
しん、と静まり返った事務室に、椅子のきしむ音だけが響く。もう何杯も飲んだのであろうコーヒーカップが、机の上に鎮座したまま、時だけがむなしく過ぎていく。
「なあ、理衣花」
「…………」
「理衣花」
「…………」
返事がない。肩を揺すってみても、背中を叩いてみても。
「おい、理衣花、どうした」
あまりのショックに気絶してしまったのだろうか。テレビとかでマイケルジャクソンのライブで卒倒するファンとかを見るけど、こんなん嘘だろと高をくくっていた。まさか。
「…………まあ、いっか」
全く動かなくなってしまった理衣花をもう放置して、パソコンの前に両肘をつき、考えに耽る。
ミッション、赤貝を一日に1000皿売れ。
無理だよね、無理だよ。マグロとかサーモンとかじゃないもん。赤貝だもん。
野球だったら八番・キャッチャーみたいなもんだよ。必要なんだけど、いらないみたいな。そんなことないか。全国のキャッチャーに謝ろう。
いや、それよりも先にあのおっさんが上層部に謝るのが先決だろうよ。そうだよ、それがいいよ。
ミッション、クリア。店長に謝らせる。
これだ、これだよ。もうすべて認めて、全身全霊かけて謝って、それで潔くクビになればいいよ。
そう思って立ち上がろうとしたところで、なんの拍子か、カップが倒れそうになる。
もう空になってしまっていたが、俺はそれが倒れる寸前にキャッチ、もとの体勢に戻す。これでパソコンまで逝ったら泣く。
そのとき、不意に視界に入る、一枚の写真。
そこには、中学か高校生であろう娘さんと、小学生らしい息子さん、そして、笑顔の奥さん、そして、どこにでもいそうなおっさんが写っていて。
上げた腰を下ろす。上がった気持ちも落とす。
あっちゃー、家族あるじゃん……
これは安易にクビにはできない。こんな売れない寿司屋の店長でも、大切な家族があった。写真に写る四人――まあこのおっさんはどうでもいいか――の幸せを考えれば、店長は極力クビを残したい。
なら、どうすべきか。
時計を見れば、今は17時半。シフトのうち30分をこの薄汚い部屋ですごそうとは。
重苦しい空気が立ち込める。まずい、俺こういう雰囲気嫌い。
「…………むぁ?」
「ん?」
しかし突如、そんな静寂を打ち破る脱力感のある声が。
声の主は――
「……あ、ちょっと寝てた」
「お前ふざけんなよ!」
寝ぼけた理衣花だった。マジで力抜けるわー。
「……さすがに戻らないとまずくない?」
「どうせ客いねぇし大丈夫だろ」
「……悔しいけどそうね」
理衣花はポケットから携帯を取り出すと、のんきにツイッターをチェックしている。おいこら、仕事中だぞ。
「なんでそんなにいっぱいストラップつけてんの?」
「え、これ知らない?」
「知らない」
「知らないかー、そっかそっか」
バカにしてんのか。
「今一番期待されてるマンガのキャラクターなんだけどね、これがまたかわいくて」
「そうなのか」
別に興味もないし。
「で、その原作者がこの近くに住んでるらしいの。それでなんていうの、親近感わいてきて」
勝手に親近感わかされた原作者の方は不憫である。
一瞬の静寂。
「そういえばさ、最近こんな画像が流行ってるらしいのよ」
「仕事中だって」
「まあいいじゃん。誰も見てないし」
「…………で?」
「これ」
数回画面をタップしてこちらに差し出してくる理衣花。
そこには、白と金の縞模様の洋服の画像が。
「これがどうしたって?」
「これ、何色に見える?」
「白と金」
「これ、私には青と黒に見えるの」
「眼科行け」
画面の見すぎでついに目が終わったらしい。
「いや、そういうんじゃなくて、世間にはこの服が何色に見えるか論争が巻き起こってるのよ」
「へーふーんほー」
「いっぺん死んでみる?」
やめてそれトラウマ。
「錯覚か」
「まあ、そんなところね。やっぱり見えかた違う人いるんだ……」
理衣花はそう呟いてまた画面に目を落とす。それだから見えかたおかしいんじゃねぇか?
「錯覚か…………」
目の錯覚関連は、世代、性別、国籍を問わずUFOと共に万人共通のネタだ。みんな人間だからね。感覚近いんだね。
…………万人共通のネタ?
「これだ!」
「ちょっと、何よ」
ついたり消えたりする蛍光灯の下、俺は高らかに宣言する。
「赤貝、錯覚で売ってやるぞ!」
「錯覚でって?」
さっきまで下を向いていた理衣花も、俺の発するただならぬオーラに感づいたらしい。二つの目でこちらをじっと見てくる。若干の緊張。
「まずは、そうだな、赤貝をモチーフにしたポスターを作る。よく、寿司屋のCMとかに寿司ネタ出てきたりすんじゃん。あんな感じで赤貝をポスターにする」
「赤貝のポスターて意味わかんない」
「それな」
でかでかと赤貝のポスターを作ったって、口の中に広がる絶妙に微妙な味を想像するだけだ。それだったらマグロの素晴らしい美味を想像していただきたいね。グレート。
しかし、クビを繋ぎたい俺はここで止まらない。アドレナリン最高潮。
「そこで、錯覚を使う」
ばん、と机を叩く。この行為に特に意味はないつもりだったが、なんか雰囲気出てきたのでまあよし。なりきりスティーブジョブズ。
「どういう?」
「とびだす赤貝」
つまり、ポスターにトリックを仕掛け、飛び出てきて見える作画にするのだ。赤貝を。
さあ、理衣花さんよ、どうですかこの案!
「…………ちょっと」
「…………ちょっと?」
「…………気持ち悪い」
「デスヨネー」
わかってた。わかってたよ。だって赤貝飛び出してたら俺通報するもん。正義は我にあり。
だってどうよ? 道にマグロ落ちてんのと赤貝落ちてんのだったらどっちが気持ち悪いよ? 赤貝だな。絶対赤貝だな。俺は誰にどんな問いかけをしてどんな答えを得ようとしたんだろう。
いったんは気持ち悪いの一言で一蹴した理衣花は、しかし真面目な顔に戻る。そうそう。黙ってりゃかわいいんだ黙ってりゃ。お口チャック。
「でも、話題性はありそう」
「そうだよな」
どうやら本当に真面目に考えてくれたらしい。
「話題になれば、『えっ、それどこ?』みたいな流れになって来客数が増える。そして自然と赤貝の消費が増えるわけだ」
「確かに一理あるわね」
「だろ?」
ほいきた、一丁あがり。
「でも、誰が絵を描くの? ただの赤貝ならネットに転がってるかもしれないけど、トリックアートなんて描けないでしょ?」
「まあな」
「いやいや『まあな』って……どうすんの?」
「まあ、手がある。今日のところは普通に仕事しよう」
「…………そう?」
上目使いで不安そうに尋ねる理衣花。
「大丈夫」
俺はかつて体感したことのない自信にみちあふれながら、立ち上がる。
空の段ボール箱をどかして、ドアを開ける。
「戻るぞ」
「あっ、ちょっと」
ガシャン。
適当に据え付けられた感満載の軽いドアがしまる音が追いかけてきて、通りすぎた。
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