一皿目 とりあえず店長のせいだっていうことをまずアピールします。

第1話 泥沼の始まり(いかに店長がポンコツかをよく表しています)

 ヤバい、遅刻った。

 朝の八時半から、俺はダッシュを余儀なくされた。

 学校まで、残り300メートル。長くもなく短くもないこの距離を残り3分で走るという、サバイバルマッチ。

 生き残るか、死ぬか。

 進級早々、早くも遅刻ギリギリというレッテルを押し付けられるのはなんとしても避けたい。

 大体、誰かがふざけて非常停止ボタンを押すのがいけないと思う。お前がありもしない非常を作り上げるせいで、俺がありもしない非常を食らうことになんだぞ。

 まあ、そもそも2分の遅延程度であーだこーだなる時間に登校するのがいけないかもしれないんだけどね。

 いかんせん、なってしまったものはしかたない。校門をくぐってすぐ立ちはだかる登り坂を死に物狂いで走り抜き、校舎内の階段を二段飛ばしでかけ上がって、教室に滑り込む。

 瞬間、チャイムが鳴り響いた。

「間に合った……」

 そう呟いた瞬間、朝から走った疲れが波のように押し寄せる。朝食べたパンと目玉焼きが胃のなかでシャッフルされ、ちょうどよく気持ち悪い。

「――きりーつ、れーい」

 日直の間延びした号令が耳に入る。朝のホームルームが終わったらしい。恐怖。ホームルームの進行に一切気づかなかった。

 なけなしの体力を振り絞って立ち上がると、うなだれるように頭を下げ、ドサッとイスに落ちる。そのまま机の上に体を預けてセットポジション。このまま6限まで寝てしまえばいい――

「何朝から寝てんのよ!」

 背後から突然に声をかけられた。

「うるっせぇな誰だよ」

「誰だよじゃないわよ! 私よ私」

「詐欺か何かか?」

「本気でそれ言ってんの?」

「冗談だよ。お前こそ朝からすごいテンションだな、理衣花」

 さっきから人目も気にせず俺の後ろでぎゃんぎゃんわめいているのは、幼なじみの蒼理衣花。

 クラスでも理衣花と俺は幼なじみで、かなり仲のいいほうだ、ということは知れ渡っている。というのも、理衣花が常日頃からそういうことを周りに話しているからである。

「朝からそんなんじゃ、一日乗りきれないわ」

「お前にそんなこと気にされる筋合いはねぇよ。お前は俺の親か」

「別にそういうわけじゃ……」

「俺は眠いんだよ」

「何言ってんの?」

「は? じゃあえーと……I am sleepy」

「何言ってんの?」

「いや……日本語で言った後に『何言ってんの』とかいうから日本語理解できないのかと思って」

「そういう意味じゃないし……もうめんどくさいわね」

「めんどくさいのはお前だよ」

「はぁ⁉ めんどくさいのはあんたよ!」

「いやお前だって」

「いや絶対あんた……もういいわ、なんかこの話不毛だし」

「俺も今そう思った」

 この掛け合いは将来絶対役立たないって誓えるわ。

「ていうか、俺は眠いんだよ。寝かせろ」

「朝から眠いって……ちゃんと寝てるの? まさか徹夜とかしてるわけじゃないわよね」

「しねぇよ」

「じゃあなんでそんな眠いのよ」

「さっきこの話題不毛だって言ってたよな?」

「そういう問題じゃ…………まぁいいか、しっかりしなさいよ」

「お前こそおせっかいも大概にしろよな」

「……はいはーい」

 自分から話しかけといて勝手に機嫌悪くなるのどうにかしてほしい。

 一限は普通に終わった。あの英語教師め、授業っつーよりテストじゃねーか。一時間ずっと小テストしっぱなしだったぞこの野郎。

 その雰囲気と打って変わって、二限は静かな授業が展開されていた。さながら小鳥のさえずりのように、右から左へ受け流される数字の列を追いかけることなく、時の流れに身を任せていたところ、そのまま授業が終了してしまった。記憶にございません。

 続いて三限は移動教室だった。延々と同じ小節を繰り返しリコーダーで吹くだけの単調な授業なので、正直言ってつまらない。後ろから二番目の席の俺は、とりあえずその時間はゲームばっかりしているので、成績も見られたもんじゃない。

 と、こんな感じで怠惰な学校生活を送っている俺に対して、理衣花はといえば、とにかく成績はどれにつけても追い付けない。特に数学の成績がずば抜けている。この前のテストなんて6点だった。最低でも一問には5点の配点があったはずの数学が6点だったのだ。1点なんだったんだよ。どこ合ってたの逆に。

 俺でさえ30点は毎回とれるっていうのに、さすがに6点は到底追いつけそうにない。

 そして、先ほど朝だらけている俺を注意してきていたが、むしろお前のほうが注意されるべきだ。というのも、彼女は中学生のころから授業中に起きていることを見るほうが珍しい。頭を机にくっつけて爆睡してるのはどこの誰だ。

 そうやってお互いにだらだらしながら、特に夢とかもなく、降りかかってくる一分一秒を消化していくだけの毎日を過ごしている。

 いまだに高校入試の数学解けた気がしないし。なんで受かったんだろ。世の中わからないことだらけ。


 ちなみに午後に眠くなるのは別に昼食をとったからとかそういうのではなく、単に起床してから時間がたって体温が下がるかららしい。諸説あります。

 だから、食後が眠いとかそういうことはなく、現に今眠いのも起きたのが朝早かったせいだということにする。

 授業なんて聞く気もなかったので、ただひたすら寝ようとした。寝よう寝ようと思ってると逆に寝られないパターンのやつ。あれあれ、忘れろと言われると忘れられないのと一緒。

 だらだらと、意味のない時間を過ごして、6限の終わりを迎えた。

 放課後、俺は部活ではなくバイトに出かける。少しでも早く社会での経験を積むことが、将来にも役立つと思い、始めた……というのは見栄ですね、はい。

 本当のことを言えば、俺は無類の鮪好きなのだ。どうしても鮪にかかわれる仕事を探したところ、回転寿司屋のバイトの広告が入っていたので、すぐに応募、内定をもらったのが半年前。

 以来、平日の三日と日曜日の計四日、この店で働いている。

 いくら鮪にかかわりたいということで会社に入っているといえ、免許とか持ってないので厨房には立てない。それでも、レジ打ちなどをこなしている間に漂う酢飯の香りが気持ちいい。変態とか言わないで。

 今日は水曜日。俺は17時からのシフトに入っているため、制服のままバイトに向かう。

 バイト先は歩いて15分くらいのところにある駅の近くの回転寿司屋。

「ちょ、待ってよ、早い」

「ん? あ、悪い」

「あれ? 明日って数学の宿題あったっけ」

「もちろん」

「あー、じゃあ教科書取ってこなきゃ……ちょっとまってて」

「可及的速やかにな」

 先ほど、朝に俺に対してさんざんわめいていた理衣花も、実は同じ店で働いている。

 同じく半年前、俺が内定をもらった話をしたところ、「私も行くっ!」みたいなノリで面接を受け、普通に合格をもぎ取ってきたのだ。その辺は普通にすごいと思う。

 それ以来、二人でこうしてバイトに通っている。

「今日、ずっと寝てたでしょ」

「寝てねぇよ」

「嘘だ、だらだらしてるだけだったじゃない」

「あれはあれで目は開いてたんだよ」

「人が見て寝てるように見えたらそれは寝てることになるの。机の上であんなにわかりやすく寝ていたのによく先生にばれなかったわね」

「鍛えてるからね」

「いらない才能ね」

「うるせぇ」

 こういう他愛もない会話をしているのも、昔っからの俺らと変わらない。小学校来の付き合いであるが、当時からずっと仲は良かった。

 こうして二人で喋っているのも、違和感はない。むしろ楽しいくらいだ。

「もう春だね」

 理衣花は後ろを振り返らずにそういって、上を見上げる。

 つい最近まで寒い寒いと文句ばっかり言っていたのが嘘のように、ぽかぽか陽気となった。とても過ごしやすくなってきている。

 しかし人間ってのは概してわがままというか自分勝手というか、どの季節であっても文句を言っている気がする。冬になれば寒い、夏になれば暑い、春になれば花粉、秋になれば……なんだ? 秋特にないな。じゃあみんな秋が好きなのかな? 秋楽しみにしよう。

「そうだな」

 夕刻の桜咲く通学路を、幼なじみとともに歩く。小学校から、登下校は共にしてきた。そんな見慣れた光景。

 

 さて、学校から何百メートルか歩いたところに、目的の――勤務先の――回転寿司屋がある。どこにでもある、普通の回転寿司屋。駅から歩いて2分くらいでつくけど、そんなことは関係ない。安定のお客さんの入り方である。チェーン展開された国内最大級の回転寿司のはずなのに、びっくりするくらい客の入りが

 今日も全席が埋まることはないのだろうか。「回転寿司=混んでて入れない」は幻想である。どうしたものか、俺が店に入ってから一向に客が入らない。日曜もシフトに入っているはずなのに、どうにも満席というものを見ていない。一回も。笑っちゃうことに。

 そもそも駅から近いとはいえ、その駅は乗降客数が少ないことで有名だった。なんせ人が降りてこないものだから、そりゃ売り上げも低迷するでしょうよ。

 「なんで」とか「どうして」とか言うのはもうやめた。そのたびに店長が暗い顔するし、そのことが浮き彫りになって閉店なんてなろうものなら、俺の雇用がなくなってしまうし、何より鮪にかかわれなくなってしまう。それは絶対に避けたい。鮪大好き。

「…………今日もガラガラね」

 店の近くに来るなり理衣花が言う。店先には誰も人が並んでおらず、透明な窓ガラスのを通じて中を見てみても、人がいる気配はない。数人、年配の方がいるだけだ。

「それを言うなよ」

「いやだって……これはまずいでしょいくら何でも。儲かってんのここ? 私の周りの人たちはみんな『なんであそこ潰れないの?』って言ってるよ?」

「それも言うなよ」

 モチベーション下がるだろ。

「いやっ、でも……そろそろさすがにヤバいでしょ……」

 いままではこんなに店の文句を言うことはなかった理衣花だが、この状況についにこらえきれなくなったらしい。

「まぁ、確かに。そろそろなんかしら対策打たないといけないはずだろうとは思ってる。……けど、それを言わずに信じるのも手段だと思うぜ」

「あんたはのんきでいいわね」

「お前がおせっかいなんだよ」

「でも、だって……」

「俺らは高校生だし、雇われている身なんだから、ここであーだこーだ言うのもどうかと思うぜ」

「……わかったわよ」

 いまいち納得のいかない……いや、不安そうな表情を浮かべている理衣花の半歩前を歩きながら、裏手の係員通用口から店に入る。

 店につくと、まずは裏の部屋で学校の制服から仕事着に着替える。いかにも寿司屋って感じの割烹着。

 理衣花は理衣花で女性用の制服を着こなしている。

 普段は茶髪を両サイドに結ったツインテールなのだが、仕事のときは後ろでポニーテールにしている。この方が仕事に集中できるらしい。その辺の事情はよくわからないけど。

 通学カバンから財布と携帯だけとってポケットにつっこんで外に出る。

「おぅ、大間くん、お疲れ」

「あ、店長。お疲れさまです」

 と、軽く挨拶をしてきたのがこの店の店長、田中鯵夫(40)である。小太りの体型と口元のちょびひげがチャーミングな、愛され系キャラ。以上全部お世辞。

 まあつまるところノーマルなおっさんなわけで、特筆すべきところも特になく、ただ少し親しみやすいというだけのおっさんなのだ。

「なんかものすごいバカにされた気がするけど?」

「気のせいです」

「そうかな」

 この半年間で磨きに磨いた業務用スーパー笑顔で返す。社会経験を学ぶって例えばこんなこと。業務用なので安く大量にばらまけるまである。

「先に行かないでよ」

「お、悪い。時間がなかったから」

「女の子は着替えるのに時間かかるの」

「ずっと携帯いじってたのはどこの誰ですかね」

「あ、あれは…………社交辞令、社交辞令よ」

 社交辞令の社会での存在感な。

「だいたい、あ、あいつらが悪いのよ! 人がこれから仕事だって言うのに、延々と駄弁りだすから……」

 と言いつつまんざらでもなさそうな顔をする理衣花。話しかけられてちょっと嬉しかったんだろ。

「蒼ちゃん、お疲れ」

「お疲れさまです」

 同じく店長と軽く挨拶をして、今日の仕事に入ろうとシフト表を確認しようとして。

「二人はいつも一緒に来るけど……付き合ってるの?」

「へっ?」

 店長による直接精神攻撃がきた。

「だっていつもくっついてるじゃん。シフトが同じ日は必ず一緒に来るし、それでいて仕事中も息ぴったりだし」

「そ、それはっ……おっ、幼なじみなんです」

 理衣花は店長の攻撃を食らったものの、倒れる寸前で持ちこたえ、探し当てた最善の返答でカウンター。

「へぇ―……」

 店長はなにかを察したように頷く。やめてちょっと怖い。何が店長に悟られたの?

「でも、それにしては仲よすぎない? 思春期にしてはお互いにはばかりなく接してるように見えるけど」

「えっ、いやっ、そのっ」

 店長の攻撃は続く。

 顔を赤くして返答に困る理衣花を見るのがもどかしくなったので、俺が代わりに答えることにする。

「小学校からの腐れ縁なんですよ。何だかんだで高校も一緒で、もはや男友達よりしっくりくる友達なんです。だから、付き合ってるとかそういうことはないんで。な?」

「えっ、ああ……うん」

 さっきまでの俺への当たりかたとは打って変わって、妙にしおらしくなってしまった幼なじみ。黙ってればかわいい方なのにな。

「じゃあ仕事入りますんで」

 17時からのシフトにあわせてタイムカードを押す。このシステムの嫌なところは17時を少しでも過ぎると遅刻扱いになることである。先生の尺度で遅刻か否かが決まる学校と違い、その辺は社会というものを端的に表している。

「今日何曜だっけ」

「火曜」

「火曜か…………レジ打ちからか」

 この店には曜日ごとに決められたシフト表があり、そこに書かれた仕事をこなしていくシステムだ。たまに配置が入れ替わって、マンネリ化を防いでいる。

 時刻は17時5分前。裏手に設けられた休憩室で暇を潰す。

 常設されたポットから熱湯を汲み、隣にある袋から緑茶パックを引き抜いて湯飲みにつっこむ。一日一杯だけ許される緑茶タイム。落ち着く。

 理衣花は緑茶とかにはあまり興味がないらしく、基本携帯と向かい合って何やらいじっている。たまに目を擦る辺り、ブルーライトの攻撃を受けているらしい。

 お互いに至福のひとときを過ごしている。時の流れを感じない……感じたくない瞬間である。

 落ち着く……もういっそこのまま椅子と同化したい。眠い。寝たい。

 が、5分という時間は図らずも短いもので、気がついたらもう17時になろうとしている。

「ん、いくぞ理衣花」

「んー、ちょっと待ってー」

「待てないから。怒られるから」

「んー……」

 ガタガタガタッ、と乱雑な音を立てておもむろに立ち上がる理衣花。もっとおしとやかに行こうぜ。

「あ、お二人さん、いいところに」

「今度は何ですか」

 ここに再びの店長である。邪魔だよお前が働けって言うから働いてんじゃねぇのか。

「あの…………折り入って相談が」

「…………相談ですか?」

 事態を察したらしい理衣花がちょこちょこ背後にくっつく。さっきまでのだらだらした感じとは変わってお仕事モードに入っている。すげえなお前。ちなみにその辺の立ち回りの良さが彼女の進級を支えていたりする。内申点すっごい高いんだからこの人。

「ちょっとこっち来て」

 一言それだけ言うと、事務室に入っていく店長。いつもの柔和な感じとは違う、本気でヤバそうな表情だった。ローンとかの相談なら断ろう。

 普段人があまり通らないので、最低限の照明しかつけられていない廊下を通って事務室に入る。

 両サイドに積み上がった段ボールの山を崩さないように歩くと、事務室のドアが見えた。

「入っちゃって」

 普段は特に用もないこの部屋に通されるときは、基本いいことがない。この前レジの打ち方を間違えて誤差が10万円分出た時もここに入った。怒鳴られることはなかったが、ところところチクチクと痛いところをついてくる店長のやり口は苦手だ。レジって「00」のボタンがあるんですねー。

 後ろからついてくる理衣花の顔も少々強ばっている。こいつは前に高校生くらいの若い人にビールを売ってしまったという前科がある。その時も理衣花は事務室に通されたらしい。

 理衣花いわく見た目がとても高校生には見えなかったと。ていうかあとから聞いた話、じつはそいつらは別に未成年じゃなかったらしい。だーれも悪くなかった。お酒は20歳になってから。

「まあ……座って」

「あ、はい……」

 さっきまでの明るさはどこへやら、店長はすっかり落ち込んでしまっている。この顔は……

 待て、この顔どっかで見たことあるぞ…………確か、あれだ、パートさんが一人クビになったときだ! ヤバい、これはクビ宣告の可能性が微粒子レベルにあるぞ…………ん? あんま無いのかこれ。

 とにかく、いい話は聞けそうにない。暗い店長に事務室……ろくなことなし。

「安心してください、クビじゃないですよ」

 このテンションからその言葉が言えるのがさすがの店長。腐っても店長。

「えっと、あの、その…………」

「あの、なんでもいいですから。俺らどんなことでも対応しますから。なっ? 理衣花」

「うえっ!!? あ、あぁ、うん、うん! だ、大丈夫……です」

「高校生なのに助かるわー」

 いい大人が子供に妥協されてる時点でお前どうよ。

「……実はね」

「……はい」

 突然に重苦しい空気を作り出した店長。さすが、伊達に店長やってるわけではないな。

「この前、パチ屋に行ったんだよ」

「ぱちや?」

 知らない単語だな。業界用語だろうか。まだまだわからないことだらけだ。

「したらさ……」

「したら……?」

「確変が起きたんだよ!」

「パチンコ屋ですねそれ‼」

 どういうテンションならそんなことがここにきて言えるのだろうか。はなはだ疑問である。

「あの……店長、さすがにシフトに穴開けちゃってるんで、そろそろ本題を……」

「おっと、そうだね、忘れていたよ」

 忘れてたのかよ。

「じゃあ、本題行きます」

 ゴホン、と、一つ咳払い。両頬を平手で軽くパンパンとたたくと、真顔に戻った。


「赤貝を売ってほしい」


 全俺がざわざわした。

「赤貝……ですか?」

「そう、赤貝。エーケーエージーエー」

「いやローマ字に分解しないでください」

 なめてんのかこの野郎。

「あの、どうして赤貝なんですか?」

 どんな空気でも、どんなボケが来てもツッコまず、冷静に対応していく理衣花。そのメンタル欲しい。

「ほら、発注ってあるじゃん」

「ありますね」

 俺もやったことある。どのネタをいくつとか、基本店長とか、そういう偉い人から伝えられた量しか打ち込まないのだが、それでも、自分の一文字が会社の利益を左右すると思うと緊張するし、たまに「適当でいいよ~」とか言われると緊張が増す。そんなこと言ってるから売れねぇんだよ。

「あれでさ、ちょっと、ちょっと間違えちゃったのよ」

「赤貝の量をですか?」

「物分かりがよくて助かる」

 店長は額に浮かんだ汗をワイシャツの袖で拭う。ちなみに今日は暑くない。そんなにピンチなのだろうか。恐怖。

 先ほどから冷静かつ的確な質問を繰り返す理衣花も、よく見ると後ろに結った髪をしきりにいじっている。彼女もまた緊張しているようだ。

 まあ、この状況では仕方ないか。

 静寂が室内を駆け巡る。なんだろう、この感じ。

「普段、赤貝っていくつくらい注文してるか知ってる?」

「いや興味ないですよ」

「あ、そうか、君はマグロが好きだったんだっけ」

「ええ、そうです」

 赤貝なんぞには興味がない。なんであれが回転寿司にあるのかわからない。照り焼きハンバーグのほうがまだ売れてると思う。

「赤貝はね、普段、1日100皿分注文してるの」

「そうなんですか」

 まあ、多いほうではない。鮪とかサーモンとかいった主要な寿司ネタと比べるとやはり人気が劣るので、必然的に発注する量も減ってくる。

「で、本題なんだけど」

「今までの前置きだったんですか⁉」

 とてつもなく長い前置きだな。時間返せ。

「で、さっき発注するときにね、2週間分まとめてやったの。いまは夏休みとかでもないし、まとめて発注するシステムが導入されてからはたまに使ってたんだけど」

「…………」

 理衣花は黙って聞いている。どうしたのか、この子も汗だくになってしまっている。制服のブラウスが肌と密着して若干エロい。

「一ケタ間違えちゃったのよ。位」

「……ん? それはつまり?」

「つまり…………ざっと1000皿分?」

「何やってんだお前」

「ちょっとあんた」

「あっ」

 あまりの衝撃事実にため口をきいてしまった。しかも結構厳しめの。

「すみません店長」

 両の手を膝について、そのまま腰を折る。ここ最近身に着けた、座った状態での謝罪様式。

「いやいや、僕が悪いんだよ。40にもなって、ここで打ち間違いをするなんてね」

「……」

「笑うところだよ?」

 無理があるだろ。

「赤貝を14000皿分、発注したってことですか?」

 平静を保ったまま、話を前に進める理衣花。そのメンタルたるや素晴らしいものがあるが、それでもやはり、足は貧乏ゆすりが止まらない。女の子にやってほしくないしぐさトップ3に入るわ。

「……まぁ、そうなるね」

 店長はそういって事実を受け入れると、再び現実を見てしまったようで、青ざめた表情に。

「どうしたものかね、発注するときのテンキーにまさか『00』のボタンがあったなんてね」

「ほんとそれですよね!」

「うおいびっくりしたぁ」

 突然俺が前のめりになったからだろう、店長はビビッてちょっと後ろに逃げる。店長、その通りです。ほんとあのボタンいらない。

「で、それを聞かされた私たちはどうすればいいんですか?」

「あぁ、君たちには日ごろよく頑張ってもらってるね。高校生というフレッシュな存在が、店を活気づけているのかもしれないな」

 突然俺らをほめだした店長。なんだこれ、死ぬの? それともやっぱりクビなの?

 あと店は別に活気づいてねぇわ。全然だわ。今日も客入ってねぇじゃねぇか。

「それで、君たちには酷かもしれないが、これから一日に1000皿分、売ってくんねぇかな」

「え⁉」

 赤貝を一日に1000皿? 無理無理、無理だよ。いまマグロさえそんなに売れてねぇぞ。そこに赤貝て。赤貝ってあんま売れねぇじゃんか。

「まぁ、せめて黒字に持って行ってくれればいいから。そうだね、二週間だと14000皿分になるから、二週間後に10000皿売れてればいいかな。せめてね。ほら、お寿司って鮮度が命だから、その日届いたネタはその日のうちに売るか捨てるかしないといけないの。だから、例えば500皿売って、残りの500皿は翌日に持ち越しとかそういうことはできないの。そこんとこよろしく」

「いや、よろしくって」

「僕はもう手詰まりだから、任せるよ。何してもいいからね、常識の範囲内で」

「いや、何してもいいって」

「じゃあ、任せるから」

 店長は椅子から立ち上がると、足早に出口に向かう。

「あ、待ってください、店長!」

 理衣花が叫ぶが、店長はもう振り向かない。

「失敗したら、僕か君たちか、どっちかクビだから、じゃね」

「え、ちょっ」

 バタン。

 扉は閉まる。

 コンクリートに囲まれた事務室内に、理衣花と二人で閉じ込められる。

 静寂。

 店長の足音はもう聞こえない。

 だから、叫ぶ。

 腹いっぱい、この鬱憤を、晴らす。


「逃げんなこのやろおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!」


 かくして、店長と俺らの、クビをかけたサバイバルゲームが始まった。




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