第9話
結局、寮に戻る頃にはすっかり日が暮れていた。
なんだか妙に疲れている気がする。夕飯を食べて、筋トレをやって、一刻も早く眠った方がいい。そう思う。だが、こういうときに限ってうまくはいかない。
「あ」
と、また面倒くさいが俺に声をかけてきた。
「牧原くん」
日野だ。古臭い寮の入口のホールで、どうやら待ち伏せをしていたらしい。テレビがついている。ホールに備え付けのソファから立ち上がり、控えめに近づいてきた。
「どこに行ってたの? 夕御飯、もうそろそろ終わっちゃうよ」
「わかってる」
俺は足早に日野の横をすり抜ける。
「メシ食って寝る。お前もさっさと寝ろ」
「うん」
かなり強めに言ったつもりだったが、日野は何かに抗うように俺から目を離さなかった。あまりにも物言いたげな視線だったので、イライラする。ここでもっと厳しく関わるなと言っておくべきかもしれない。
俺は足を止めて振り返った。
「なんだよ」
自分で思ったよりも、不愉快そうな言い方になった。
テレビの音がよく聞こえる。どうやらニュースをやっているらしい。
「何か言いたいことあったら言えよ」
「あ、いや、それはさっき――、いや。違う、あの」
日野はかなり調子に乗ったことを言う。
「牧原くん、どこに行ってたの? あの、牧原くんって、みんなから距離置いてるっていうか。でも毎日遅いから、なんかあるんじゃないかって」
日野の真面目な顔を見ていると、なんだか俺が責められている気がしてくる。
「あのさ、それって、もしかして、ぼくに関係ある?」
「なんで」
「あれから、ぼくをいじめてた連中、牧原くんに嫌がらせとか」
こいつの話を、一気に聞きたくなくなった。またその話かよ、と思った。
「お前には関係ないよ」
声を荒げるのはだめだ、と俺は自分に言い聞かせた。余計に悪者みたいじゃないか。ちゃんとした大人はそんなことはしないものだ。俺は足を速める。
「じゃあな」
「いや、待ってよ。それだけじゃないんだ。ぼくは牧原くんに、相談――」
「やめてくれ」
俺はもう日野の言葉を聞かなかった。
「頼むから、その話は。ほんと、マジで落ち込むから」
ただテレビのニュースの音だけがよく聞こえていた。
どうやら、この街の駅前で事件が起きたらしい。通り魔。連続。死亡。そんな単語が耳に入ってきた。俺は振り返ってテレビ画面を見たい衝動に駆られたが、それは日野と再び顔をあわせることになりそうだったので、まっすぐホールを後にした。
結局、俺はこの日、宣言通りに夕飯を食って、筋トレだけして寝た。
それが良かったのか悪かったのか、後になってもよくわからない。
幸いにも、土曜日はよく晴れた。
駅前はいつもより少しだけ人通りが少ないようだったが、それでも普段は学校の敷地から出られない俺にとっては、凄く新鮮に感じる。ここ最近は進級試験があったり、停学を食らっていたりで、久しぶりだから尚更だ。
休日の学生服での外出は禁止されているので、俺は数少ない私服を引っ張り出すしかなかった。くたびれた黒いブルゾンとシャツ。去年から着まわしているやつだ。
寝坊したので慌てて着替えて、それでも五分前には駅前に到着したはずだが、芹沢はさすがだ。既に改札前の大時計の下、優雅にベンチに腰掛けて待っていた。だが、どことなく不機嫌そうにも見えた。
「牧原くん?」
どうやら本を読んでいたらしい。かなり待たせてしまったのは間違いない。いかにも難しそうなタイトルの文庫本を閉じながら、芹沢は立ち上がる。
芹沢の方は、まぶしいくらい白いブラウスに、珍しくスカートを履いている。なんとなくイメージと違うな、と思う。特に理由はないが、私服の芹沢はジーンズでも履いていそうな気がした。
「ずいぶん待たせるじゃないか。危うく読み終わるところだったよ。この街の時間の流れは速すぎて、私は置き去りにされそうだ」
言っている内容はいまいち理解しかねるが、やはり言葉に棘がある。俺は素直に謝ることにした。待たせてしまったのは俺が良くない。相手はあのザ・パーフェクト芹沢なのだから、もっと早く到着するべきだったのだ。
「悪いな。俺が寝坊したのもあるし」
俺は背後に隠れていたサヤの肩をつかみ、ぐいっと前へ引き出した。サヤは少し抵抗するように何度か足踏みしたが、俺が強く押すと、結局は不満そうなまま前へ出た。こいつはいつもどおりのワンピースに、芹沢がどこからか調達した子供用のパーカーを羽織っている。
「ア」
と、サヤは短い声を発した。すぐに俺の背後に回り込む。一応、それは芹沢に対する挨拶のつもりだったのかもしれない。
「こいつをバスに乗せるのに一苦労だったよ。『椅子に座る』ってことを今ひとつわかってねえ」
「っていうか、サヤくんも一緒なら、先にそう言ってほしかったな」
芹沢は軽く肩をすくめた。
「色々と、そう、心の準備とかがあるからね。別に何がどうというわけではないけど、何事にも事前の構えというものは大事だよ。報告・連絡・相談。わかるかい?」
「そんなこと言ったって、こいつだけスオウのところに置いとくわけにもいかないだろ」
「ウ」
サヤは何かを主張するように、右手を挙げて呻いた。徐々にサヤはコミュニケーションということを理解しはじめている。簡単なジェスチャーで、自分の要望を表現することもある。
今回の場合は、たぶん『置いていくな』だろう。
「そういえば、バスの中でちょっと騒いだと思うんだけど、見事に誰も気にしてなかったな」
「幻獣だからね。姿が見えて、声を聞こえてはいても、脳がそれを認識しないんだよ。きみがぶつぶつ独り言を言っているだけに思われたんじゃないかな?」
「それ、最悪だな」
俺は暗澹とした気分になった。確かに言われてみればその通りだ――また周りから白い目で見られることになる。
「芹沢さあ、そういうの前もって警告してくれることはできないか?」
「私は気まぐれだからね。気づいたときに言うよ」
そうして、芹沢は顔の左半分だけで笑った。ちょっと変な笑い方だった。
「でも、今回は純粋な意地悪かもね? 女の子を十五分も待たせるなんて、あまり宜しくないんじゃないかい? 時間より早く到着すること、これ女子との待ち合わせに必須の掟だからね」
「そんなこと言ったって、俺だって女子と待ち合わせたこと自体、数えるほどしかないし」
「え」
失礼にも、芹沢は驚愕した。
「む――むしろ、数えるほどはあるの? 女子と待ち合わせたこと? 牧原くんが?」
「お前は俺をなんだと思ってるんだよ……」
「よ、予想外のことばかりだ。ふらふらする。ちょっと休ませてくれない? まさかサヤくんがついてくるとも思わなかったし。私はてっきり――」
「あ、それなんだけど」
俺はさっきから言おうとして、タイミングが掴めずにいたことを打ち明けることにした。芹沢がちょっと不機嫌そうだったので、うまい具合に切り出したかった。
しかし、これ以上は無理だとわかっていた――頭上を、大きな黒い影がよぎったからだ。
「えっ」
芹沢は己のキャラクターを忘れ、空を見上げて呟いた。
「あれ、マジで?」
「ああ」
隠しても仕方がないので、俺はあえて軽くうなずいた。大きな馬ほどの影が飛来し、駅ビルの屋上に降り立つのが見えた。緑色の鱗が、陽光を浴びて眩しいくらいに輝いている。
どこからどう見ても、スオウだった。
「スオウ、勝手についてきたんだよ」
「えええ」
芹沢は非難するように俺を見た。
「止めなよ! ヤバいよ、こんなの! どうするつもりなんだい?」
「止めるって、どうやって止めるんだよ」
俺もバスに乗ったあたりで、スオウがついてくるのに気づいた。やつには翼があり、バスの進行ルートを先回りするように追ってきた。俺はスオウに『やめろ』とか命令したくなかったし、しても無意味だと思っていた。
芹沢は不安げに周囲を見回す。幸いにも、スオウの飛来に気づいた者はいないようだ。いたら大騒ぎになるのではないだろうか。
「……本当に大丈夫なの?」
「知らねえ」
でも、スオウが空を飛ぶということは、尾形さんが消えて以来なかったことだ。なんとなくそれは『良い事』のような気がする。
そして何より、俺たちにはどうしようもない。
「ササッと用事済ませて帰ろうぜ。スオウもついてくるだろう、たぶん。あの学校がねぐらなんだし」
「うん『たぶん』ね……」
「ああ。たぶん」
「――ウ!」
俺たちの心配事をよそに、サヤはどことなく明るい声をあげ、白い角を俺の背中に擦りつけてきた。俺たちを励まそうとしたのか、それとも単に外に出たので気分がいいのか。俺にはさっぱりわからなかった。
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