第8話
校舎裏にたどり着くと、すでに芹沢がいた。
小屋の前のコンテナ箱に腰掛けて、優雅に缶コーヒーを飲んでいる。こいつ、もしかしたら暇なんじゃないか、とも思う。
「やあ、牧原くん?」
スカートの裾を払って立ち上がる。
「遅かったじゃないか。おかげで、私はすっかり思索に時間を費やしてしまったよ。こういうのも悪くはないけどね」
赤い右目だけを閉じて、少し笑う。ずいぶん余裕がある態度だ。その理由はわかる。
「今日は粘土か」
俺は物置小屋の壁際に目を向けた。サヤが芹沢からかなり離れた位置で、粘土をこねくり回しているからだ。昨日は紙とペンだった。サヤをこの手の遊びに没頭させることで、芹沢を威嚇したり、不意に牙を剥いたりしなくなる。単純だが、効果的な発見だ。
「まあね。情操教育にもちょうどいいと思ったのさ。サヤくんの知能は、ほんの子供程度のようだったからね」
「そうかな」
どちらかというと、子供というよりも獣に近いのではないか、と思う。
そのあたりでサヤは俺の接近に気づいたらしい。
「――ウ」
額の角をわずかにヒクつかせ、顔をあげた。粘土を片手に握ったまま、軽快に駆け寄ってくる。飛びつかれる寸前で、俺は小脇に抱えあげて衝突を回避した。
こいつは加減を知らないので、初日は俺にぶつかって自分の方が跳ね飛ばされ、痛そうな悲鳴をあげていた。
「よし。おとなしくしてたな。スオウは?」
「ウ!」
サヤは角を俺の頬に押し当て、擦りつけようとしてくる。痛い。それを適当にあしらいながら、周囲を見回す。芹沢はなんだか難しい顔をして、眉間にしわを寄せていたが、物置小屋の裏を指さした。
「――ん。スオウくんなら、そこだよ」
まだ俺には尾形さんように、スオウを呼び出す口笛は吹けない。なので、サヤを地面に軟着陸させながら、物置小屋の裏を覗き込んだ。
「あー。寝てるな」
スオウは草がよく茂った地面に寝そべり、ゆっくりと呼吸をしていた。その呼吸にあわせて、鱗が夕日を浴びると、金属質な緑色に輝く。俺が近づくと、スオウはわずかに目を開いた。反応らしい反応は、その程度だ。
「スオウ、体洗うぞ」
俺はすこし大声をあげた。
「そろそろ起きろよ、寝すぎだ」
スオウは面倒くさそうに、あるいはむず痒そうに口元を動かした。こういうときは、遠慮なく近づくことができる。
「ウゥ」
と、サヤはかすかに唸り、俺の背後に隠れた。どこか遠慮しているような唸り声であり、芹沢に対する威嚇的なそれとは違う。サヤはスオウを単純に恐れている、というわけではないようだ。リスペクトしている、というべきかもしれない。
一方で、スオウはサヤの存在自体をほとんど意に介していないように思う。縄張りの中で、害のない小動物がウロウロしているようなものだろう。サヤもスオウに必要以上は接近しようとしないし、スオウも接近させないように、それとなく距離を置かせている。
「芹沢、サヤを見ててくれ。スオウを洗うから」
「ええー……」
芹沢は嫌そうな顔をしたが、俺は構わず物置小屋の中に入った。
まだ荒らされたままの室内。俺は部屋の隅の掃除用具を手に取る。業務用の洗剤が、かなり残っていた。もうしばらくは使えそうだが、いずれ買い替えなくてはいけない。
「スオウのこと、なんとかしないとな」
「うん」
芹沢は、赤い右目でスオウを見ていた。
「このままじゃ良くないね」
スオウは重々しげに体を起こし、ゆっくりと小屋の前に歩いてこようとしている。その足取りは明らかに、三日前までよりも重たい。昨日はもっと、もう少しだけ悠然としていたように思う。尾形さんがいなくなってから、眠る時間も増えていた。
体を洗うと、スオウは少しだけ元気になる。
いつもの習慣が体に染み付いているのか、散歩にも行きたがる素振りをみせる。ただし、その距離は以前よりも短いものだ。
だが今日は、スオウを散歩には連れていけない。物置小屋の中を調べる必要があった。スオウは不満げに喉を鳴らして、イライラと地面を引っ掻いた。が、俺の差し出した二枚のバターサンドクッキーには妥協の姿勢を示し、結局は大きくあくびをして再び眠りについた。サヤには粘土を与えて、俺たちは日のあるうちに調査を開始することができた。
「ノートくらい残しておいてくれれば助かったのにな」
思わず、文句を言うような口調になった。
本棚に置かれていたのは工具や大小のブラシ、それからスオウの爪切り用と思われる異様な形の器具といったもので、あとは外国語で書かれた百科事典のような読めない書物ばかりだった。参考になりそうな文献は見当たらない。
俺はかすかな希望をこめて、外国語の百科事典を芹沢に差し出してみた。
「芹沢、これ読めるか?」
「ああ。これはおそらく、ラテン語だね。少なくとも、それに似ている」
芹沢は薄く微笑み、分厚い本を手にとった。そして開くことなく傍らのデスクに置いた。
「残念だけど私には読めないかな」
「だよな」
「あ、いまのその、『やっぱり役に立たない』みたいな言い方はやめてくれるかな? きみが思っている以上にダメージがあるから」
「気にするな」
俺は芹沢を慰めてやろうと思った。
「たまには役に立つと思ってる」
「その言い方も傷つくので、あまり正直に言わないでくれるかい」
「わかった。で、芹沢の、その――親父さんのことなんだけど」
まずいことを言ったあとは、すぐに話題を変えるべきだ。俺は芹沢から学んだ。ひとまず調査を中断することにして、尾形さんが使っていたと思われるベッドに腰掛けた。
「スオウとかサヤとかの、幻獣っていったか。それに詳しい人だったのか? どういう理由で?」
「ドクターだったのさ」
芹沢は軽くため息をつき、椅子ではなくデスクに腰掛ける。いかにも退屈なことを喋っている、という風に、ぶらぶらと足を揺らしてみせた。
「それも、幻獣専門のね。だから少しは関連した書物も、父の記したノートも残った」
「他に詳しい人に心当りとかないか? 親父さんの知り合いとか」
「父の交友関係は、よくわからないんだ。親戚関係もね。なにしろ、義理の父だったから」
「ああ」
俺はなんと反応するべきか迷った。出てきたのは、結局はつまらない生返事だった。
「そうか?」
芹沢はたいしたことでもなさそうに首を振る。態度だけでも、こういう素振りをできるあたり、芹沢には尊敬できるところがある。俺なら露骨に不機嫌になっているところだ。
「私はこの右目のことで、ちょっとね。色々あって、物心つく頃には義理の父に養育されていたんだ。あんまり幻獣関連のことは、父は私に話してくれなかったよ。興味を持ってほしくなかったのかもね」
「なるほど」
自分で言いながら、なにがなるほどだ、と俺は思った。うまい言い方が思いつかない。それでも、これ以上は聞かない方がいい、という程度のことはわかった。だから話は終わりだ、というように大きく背伸びをして、壁にもたれかかる。
「スオウのこと、なんでもいいから手がかりが必要だな」
俺はスオウをなんとかしてやりたい。
たぶん、バカみたいな苦労を勝手に背負い込んでいるように見えるだろう。まともな人間ならこんな事に首を突っ込むだろうか。結局のところ、現実逃避にすぎないかもしれない。周囲とうまくやれていない俺だが、スオウを助けるということに頭を使っている間は、少しはマシな人間になれるような気がする。
それ以上に、俺はスオウの弱った姿を見たくなかった。スオウにはもっとあるべき姿というものがある。理由はちゃんと説明できないが、とにかく放ってはおけないと思う。
そのためには、なんでもいい、ヒントが必要だった。幻獣という、この謎だらけの存在に関するヒントだ。俺は視点を変えてみることにした。スオウじゃない。もう一つの謎の生き物について。
「――そういえば、サヤはかなり元気だよな」
部屋の隅の方で粘土いじりをしていた、ユニコーンの少女に目を向ける。
サヤは白い角を持ち上げ、意図の読めない表情で俺を見つめ返した。少しだけそのまま固まっていたが、やがて片手に握っていた粘土を差し出してくる。粘土はねじまがった角のような、よくわからない形状になっていた。
「ウ?」
尋ねるような唸り声。俺もこれで遊びたいのか、と思ったのかもしれない。俺は思わず笑ってしまい、それから首を振った。
「いや、いいよ。もうちょっと遊んでな」
「ウ」
「いいのが出来たら見せてくれよ」
「ウ!」
サヤは粘土を引っ込め、今度は強く床に叩きつけ始めた。また別の形を作るつもりらしい。俺は芹沢に向き直る。
「元気だよな、こいつ。寝てる時間もスオウほどじゃない。どのくらいだっけ?」
「だいたい十時間くらいかな。半分以上は寝ているよ。ご飯は食べないけどね」
「食べるのはバターサンドクッキーだな」
「それも私の手からは食べないし」
芹沢はひどく不満そうだった。
「私の内に眠っているナニカに恐れを感じているのかもしれないけど、それを差し置いても牧原くんに懐きすぎだと思うよ」
「ううむ」
俺は前半の芹沢の台詞は放っておくことにした。以前からそういうことをよく言う。
「やっぱり、これしかないか」
俺は部屋の奥に積み上げられた、洗剤をはじめとした消耗品の類に目をやった。
「芹沢、今週の土曜だけど、空いてる?」
「ん――え?」
「街に出かけよう。駅に集合で。いけるか? 無理ならいいんだけど」
俺は尾形さんのデスクから、かろうじて読める書類――領収書の束を発見していた。
「長瀬工務店」
と、どの領収書にも、そういう店の名前があった。どうやら尾形さんは、この店から必要な消耗品を仕入れていたらしい。スオウの鱗用の洗剤、爪磨きのヤスリ、歯磨きブラシとセットになった口内洗浄剤――あとはお菓子の類もだ。
住所もわかる。駅からほど近い街中だった。
「芹沢?」
まったく返答がなかったので、俺は芹沢にもう一度声をかけた。交友関係も忙しいやつだ。無理かもしれないとは思っていた。
「あ、うん」
芹沢はすごい勢いでうなずいた。
「絶対行く」
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