第5話
呼吸を整える。
異様なほど疲労していた。額の脂汗を拭おうとしたが、腕がまるで上がらない。時間が必要だった。まともに思考できるだけの時間が。こういうときはスオウが羨ましい。あいつは既に興味なさそうに、すでに星の出ている空を見上げていた。
「ユニコーン」
俺はかろうじてその単語を呟いた。さっき芹沢が口にした言葉だ。
「って、それ、馬じゃないのかよ。白い馬で、額に角が生えてるやつ――」
「まあね、馬に擬態する場合もあるよ」
とりあえずの危機が去り、芹沢はいつもの落ち着きを取り戻したようだった。茂みの間でうずくまっている少女を、赤い瞳で見つめている。
「彼女の場合は、人間に擬態しているね。ユニコーンの本体は、あくまでも角なんだ。周囲の生物とうまくやっていくために、そういう形状をとるんだよ。周りに馬が多ければ、馬の姿をとる。私はパパ――じゃない! そう。父の本で読んだことがある」
「芹沢の父親? なんだそりゃ?」
「ねえ、きみ」
芹沢は俺の質問をまったく無視した。腰をかがめ、白い角の少女を正面から見つめる。ついでに、友好的に微笑む。
「きみ、ユニコーンだろう? どこから来たんだい?」
「――ギ」
と、白い角の少女は、不明瞭な唸り声を発した。かなり険悪な響きがある。彼女が芹沢を警戒しているのは一目瞭然だった。歯を剥き出し、芹沢を睨む。ずいぶん尖った犬歯を持っているな、と俺は思った。
芹沢はそんな少女の反応を見て、むしろ楽しそうに笑った。
「そうか、言葉はしゃべれないんだね。大丈夫、そんなに怖がらなくてもいいさ。私はきみに危害をくわえないよ。ほら、こっちに――うわっ! うぉわっ!」
「ギ」
芹沢が素っ頓狂な悲鳴をあげた。差し出した手に、白い角の少女が噛み付こうとしたからだ。がちん、と犬歯が閉じる音。芹沢がビビって転んだ隙に、少女はすばやく茂みから飛び出し、その傍らをすり抜けた。
猫のように俊敏な動きだった――気づいたら俺の背後に回り込み、腰のあたりにしがみついている。そうしてまた犬歯を剥き出し、芹沢を威嚇するように唸り声をあげた。
「ギッ」
「はは」
芹沢はぎこちなく笑った。顔がひきつっている。
「ず――ずいぶん懐かれてしまったね、牧原くん」
「お前、なんか警戒されてるよな」
「いや、うん。まあ。そうだね。彼女は恥ずかしがり屋か、人見知りなのかもね」
「そんな雰囲気のリアクションじゃなかったけど」
俺は腰のあたりにしがみつく、白い少女の肩を叩いた。
「あれは芹沢だ。敵じゃないし、獲物じゃない。俺は牧原。牧原幸成。名前だ――わかるか?」
尋ねると、白い少女は確かに反応を見せた。
「ウ」
と、かすかに短く喉の奥を鳴らして、俺を見上げて、右手を差し出す。その手首のあたりに、銀色の腕輪がある。そこに刻まれている文字を注視するために、俺は腰をかがめなければならなかった。
いくつかのアルファベットと、漢数字の羅列。かなり摩耗している。かろうじて読めるのは、『CRY』、『一○九○○七』、それから『サヤ』。わかるのはその部分だけだった。
「サヤ?」
呟くと、「ウ」と再び白い少女は喉を鳴らした。少し肯定的な響きがあったかもしれないが、よくわからない。
俺は特に理由もなく、スオウを振り返った。やつならば、もしかしたら、この少女とコミュニケーションがとれるかもしれないと思ったからだ。
だが、やっぱりスオウは俺の視線を受け、『そんなもん知るか』とでもいうように鼻を鳴らしただけだ。また興味なさそうに空を見る。風が強くなりつつある。
仕方がないので、俺は相槌を求めて芹沢を振り返った。
「おい、サヤだって。名前だ、書いてある」
「え?」
芹沢は少し驚いたようだった。慌てたように近づいてくる。
「それ、本当かい? 名前が書いてある? 野生じゃないんだ――ひっ!」
「ギッ!」
芹沢は少女――たぶん『サヤ』の腕輪を手に取ろうとして、いきなり噛み付かれた。またしても寸前で手を引っ込めたので、負傷はない。だが、サヤはさらなる警戒心をむき出しにして、腕輪を隠し、ますます俺の背後に引っ込む。
「芹沢、あんまり脅かすなよ。怖がってる気がする」
「な、なんで私にだけ凶暴なのさ」
「いきなり襲いかかったみたいに見えた。で、『野生じゃない』ってどういう意味だ?」
どさくさに紛れるように芹沢が呟いた言葉を、俺はちゃんと聞いていた。芹沢は何かを知っている。この奇妙な少女について、俺以上の知識を。
「野生じゃないと変なのか?」
「う、うん――少し。問題になるかも。野生のユニコーンはたまにいるし、密猟者に狙われるケースもある。私はてっきり、さっきの襲撃者がその類の悪党だと思っていたけど――」
「ああ、さっきの。メガネの」
俺はあのライターを握った女のことを思い出す。わけのわからない相手だった。スオウに助けられた形になる。これは明日にでもバターサンドクッキーを贈呈する必要があるだろう。
「あいつはなんなんだ? 芹沢、知ってるのか」
「いや。密猟者じゃないとすれば、よくわからない。名前があって、腕輪とかしてるってことは、誰かに飼われてたとしか思えないし――そうだよ。服も着てる。そもそも人間に擬態してるんだ、単なる野生はあり得ない」
途端に、芹沢はやたら真剣な顔になった。
「でも、彼女――サヤくんは逃げてきたみたいだった。追われてたんだ、そうだよ、牧原くん。私たちは、すごく大変なことに関わってしまったのかもしれない」
「逃げてきたって、どこから?」
「知らないよ! 私だって、そういうのは全然詳しくないんだ。パパが遺した文献を少し読みかじったぐらいで!」
「そうか」
俺は生返事を返すしかない。今度は、『パパ』という呼び方を訂正しなかった。芹沢がちょっとずつ切羽詰ってきている証拠だ。
「じゃあ、そういうのは誰が詳しいんだ?」
「それは、うん、まあ――」
芹沢は言葉を濁す。
「尾形さん、かな? やっぱり。ちょっと相談してみよう」
「尾形さんか」
謎の多い人だとは思っていた。スオウの飼い主。というより、世話係というべきか。確かに俺たちは妙なことに巻き込まれつつある気がする。そもそも、この白い角の少女をどうすればいいのか。何か手がかりが必要だ。
俺はスオウにならって空を見上げた。
すでに頭上は暗く、急激に夜が押し寄せつつある。風は先程よりも弱まっていたが、冷たく、乾いていた。スオウは空を見上げるのをやめて、かすかに鼻息を吹き出した。ゆっくりと歩き出す。結論の出ない俺たちのお喋りに付き合うのは我慢の限界だ、というところだろう。
それはそうだ。
わからないことは、知っていそうな人に聞くべきだ。俺はスオウの後に続いて歩き出す。
「戻ろうぜ。寒くなってきた」
白い角の少女は、俺の腰にしがみついて離れようとしなかった。仕方がないので肩を軽く叩いてやると、学生服の上着の裾を掴んだままついてくる。放っておくわけにもいかないだろう。
「うん」
芹沢は赤い瞳を細め、夜の闇を見ていた。
「早く行こうか。なんだかよくない感じがするよ」
芹沢の台詞にキレがないな、と俺は思った。
いつもの芹沢なら、『運命』とかいう単語を持ち出しているところだ。しかし、俺は余計な口を挟むのはやめておいた。俺もまた、『よくない感じ』を強く予感していたからだ。
スオウは先ほどの戦いの興奮を鎮めるかのように、大きく口を開けてしゅるしゅると鋭い呼吸音を響かせていた。
そして、『よくない感じ』はすぐに現実になった。
きっかけは、尾形さんの作業場所でもある、物置小屋が見えたときだった。
小屋の電気が点いていなかった。
いつもは窓ガラスから、室内の明かりが漏れていた。尾形さんは用務員として、この小屋に常駐しているようだったので、俺たちが散歩から帰るときはその明かりを目印にすることができた。この半年間、例外はなかった。
今日は、その電気の明かりが見当たらなかった。
「なにかな?」
真っ先に芹沢が気づき、足を止めた。赤い瞳を見開いて、闇の奥の小屋を凝視しているようだった。顔色がさっきよりも青白い。寒さのせいではないだろう。
「窓ガラスが割れてる。それに、あれ――」
この暗さでよく見えるものだ。俺も目を凝らしてみる。どうやら芹沢の言うとおり、窓が割れているのはわかった。しかし芹沢はさらに細かいところまで見えているようだ。
「荒らされてる。部屋の中、いったい何が?」
「ああ?」
俺はもう少し近づこうと思った。
だが、スオウの方が速い。軽く翼を広げて地面を蹴ったと思うと、軽やかに物置小屋の前まで到達している。そして窓から室内を覗き込み、匂いを嗅いだようだった。その仕草は、次第に小屋の周囲を嗅ぎ回る行為に変わっていく。
太い四肢がしなやかに動き、小屋の周囲を歩き始める。
「――尾形さんはどこだ?」
俺は当然の疑問を口にした。何かが起きている。
サヤはまだ俺の上着の裾を掴んでいた。彼女は落ち着かない様子で周囲を見回していた。よく観察すると、その白い角が何かを探ろうとする生き物の鼻ように、小刻みに震えているのがわかる。なんらかの感覚器官でもあるのかもしれない。
だから俺はサヤを引き剥がし、芹沢の方へ突きつけた。
「芹沢、ちょっと見ててくれ。喧嘩するなよ」
「うそ? 牧原くん、ちょっと待って、考えて。私はなんか、その子に好かれていない気がするんだけれど」
「ギ」
芹沢は困惑し、サヤは不服そうに唸った。
俺はそれを無視して、足早に物置小屋に接近する。何か脅威があるとは思えなかった。もしもあるなら、スオウが反応しているはずだ。
壊れた窓から覗き込んだ室内は、ひどく大雑把に荒らされていた。誰かが争ったような印象を受ける。金目のモノを探した、という感じではない。本棚はひっくり返り、椅子は放り投げられ、食器の類が散乱している。それに、尾形さんが使っていた寝台には――
軽く目眩を覚えた。
あれは血だ。ベッドの毛布から、床にかけて、血がこぼれた赤黒い痕がある。それもまだ新しい。
「スオウ」
俺はドラゴンを振り返る。
スオウはすでに周囲を嗅ぎ回るのをやめていた。代わりに、空を見上げて大きく口を開けていた。その喉から、おおおおう、と、乾いた風のような鳴き声が迸った。
怒りとも嘆きとも違う、不思議な鳴き声だった。
それからスオウはわずかに頭の位置を低くして、俺を正面から見た。
何を言いたいのか、俺はその赤い瞳から読み取ろうとした――尾形さんが見つからず、単に困惑しているのか。悲しんでいるのか。しかし、無理だった。スオウの気持ちはわからない。俺は尾形さんではない。そのまま五秒間ほど俺とにらみ合い、スオウは何かを諦めたように顔を逸らす。再び、乾いた風のような鳴き声が響いた。
俺はとても混乱していた。
この夜、尾形さんは失踪した。
ドラゴンとユニコーンと、ついでに二人の高校生が、夜の校舎に取り残されていた。
これは俺の個人的な飼育日誌であり、活動の記録でもある。
できるだけ起きた出来事をはっきりと思い出して、できるかぎり鮮明に記述しておきたい。備忘録でもあり、試行錯誤の履歴でもある。たとえば俺が失敗したとしても、次の誰かがうまくやるだろう。
そう思いたい。
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