第4話

 茂みの中に突っ込んだのは幸いだった。

 樹木にぶつかっていれば、痛いだけでは済まなかっただろう。おかげで骨折は避けられた。が、もちろんダメージはあるし、かなりの距離を吹き飛ばされた。

「畜生」

 毒づいて、俺は白い角の少女を抱えたまま、意識を冷静に保とうと努力する。気合を入れなくては。痛がっている場合ではない。

 いま俺の健康を守るための、重要な課題だ――一秒以内で状況をまとめろ。

 第一に、俺はあのメガネの女に攻撃されたのは間違いない。

 それも俺には理解できない方法で。本当にわけがわからない。しかし泣き言はあとだ。何をされたか? あのオイルライターが一種の武器なのかもしれない。少なくとも、フリントホイールを擦る動作と同時に、こっちは勢いよく吹っ飛ばされた。

 理不尽すぎるが、なんとかできるか? 対抗できる手段は? そうして、俺は自分がいまだスオウの散歩用のタオルを持っていることに気がついた。

「――牧原くん!」

 かなり遠くから芹沢の声。答えている暇はなかった。俺は白い少女を茂みの奥に押し込み、タオルを広げた。手近な石をいくつか拾う。

 白い少女が、不安がるように身動ぎをした。こちらに手を伸ばしてくる。それどころじゃない。俺は犬歯を剥き出すようにして威嚇した。少女はぴくりと片手を痙攣させて、止まった。

「あの灰色メガネ」

 適当に石を詰め込んだタオルを軽く振り回す。

「後悔させてやる」

 喧嘩のときは、このまま石を詰めたタオルで殴りつける。ただの思いつきだった。うまく使えば石を飛ばせるかもしれない、という、ただそれだけの。

「何をしている?」

 メガネの女の声がする。近づいてくる。風が強い。俺は思い切りタオルを振り回し、そちらへ向けて石を投げつけようとした。

「もう少し抑えろ、ユリウス。殺したら意味がない」

 きっ、という小さな金属音と、空気が開放されるような音が響いた。今度の一撃は、さきほどよりも弱かった――それでも胸全体を殴りつけられるような衝撃があった。肺から空気が絞り出されたような気がする。俺は吹き飛ぶのではなく、後ろのめりに倒れ込んだ。タオルを手放してしまう。

 ぜんぜんダメだ。まず、何をされているか理解できない。

「それを投石器の代わりに使うつもりだったのか? とんでもないやつだな」

 メガネの女が伸び放題の下草をかき分け、接近してくるのが見える。

「だが、余計なことはするな。もう一度言うが、離れていろ。こちらはお前に危害を加えるつもりはない。ターゲットは、その生き物だけだ」

 偉そうな言い方をしやがる。俺はできるだけ呼吸を整えようとしながら、起き上がった。息が苦しい。メガネの女は、こちらに片手を差し出している。その手中には、やはりオイルライター。

「それとも、その生き物が人間に見えるから庇っているのか?」

「知るか」

「だとすれば勘違いだ。人間のように見えるが、それは実のところ――」

「黙れ」

「お前、私の話を聞くつもりがないな?」

「クソが」

 こいつの命令に従ってやるのは、すごく腹立たしい。まるで俺がビビってるみたいじゃないか。俺は何も間違ったことをしていないと思う。だから俺は、ほとんど嫌がらせのために白い角の少女の前に立つ。そうすれば少しでも相手を困らせることができると思ったからだ。

 俺の健康のために、こんなことはやるべきじゃないとは分かっているが、それでも俺には止められない。

 ちゃんとした人間なら、こういうとき、もっといい方法を考えつくのだろう。一目散に逃げるとか、説得するとか。その選択肢も後になって気づいただけで、このときの俺はただこのメガネ女を叩きのめし、二度と俺に命令とか暴力とかを振るわせないようにしよう、とだけ考えていた。

「ぶっ殺すぞ、タコ」

 メガネの女が軽く息を吐くのがわかった。たぶんため息の類だ。そしてオイルライターを握り直す。

「理解に苦しむが、仕方ない。ユリウス。旋回しろ」

 フリントホイールの擦れる音。まったく理解できないが、何かが来る、と思った。風が渦を巻いた。さきほどより強く、大気がうねり、木々の枝が大きくしなる予兆があった。俺は衝撃に備えた。そのくらいしかできなかった。

 その瞬間に、大きな影が俺の視界を遮った。

 翼を広げた、大型の馬ほどの生き物。深緑色の鱗が、かろうじて残った夕陽を受け、鮮やかに波打っていた。風が途切れ、一瞬だけ静寂を感じた。衝撃はいつまでたってもやってこなかった。

 スオウが俺の前に立ちはだかり、咆哮をあげるのがわかった。

 ぐぐぐぐぐっ、と、地面が震え、骨まで痺れるような、強い咆哮だった。それは森の木々を揺らし、どこかで鳥が一斉に飛び立つ気配があった。

「なんだ?」

 メガネの女はひどく混乱したようだった。よろめくように後退する。

「幻獣使いなのか? こんなところで――しかも、これは」

 スオウはもう一度、今度は鋭い咆哮を放った。それと同時に翼を畳み、俊敏に飛び出す。メガネの女の方へ向けて跳躍する。スオウがひどく興奮しているのがわかった。というより、もっとはっきりと言えば、激怒していた。俺にはそれを感じることができた。

 鉤爪が地面をえぐり、茂みを蹴散らし、牙を剥き出す。二歩。それだけでメガネの女に届く。女が何か怒鳴りながら、片手でオイルライターを突き出し、フリントホイールを擦る。風が唸りをあげる。

「ユリウス。回避、阻害、旋回」

 オイルライターの内側から、荒れ狂う風が噴き出してくるのが見えた。

 そのとき俺は、スオウの目と耳で、すべてを知覚していることに気づいた。どういう理屈かは知らないが、俺は加速する感覚、獰猛な興奮、原始的な怒りを感じていた。

 さきほどまでとは、比べ物にならないほどの強烈な暴風があった。それでも、突撃するスオウを吹き飛ばすことはできない。鉤爪を振り上げ、飛びかかるのを、ほんの少し遅らせただけだ。

「ち」

 小さな舌打ち。

 メガネの女は、信じられない跳躍力で背後へ跳んでいた。スオウの爪は風を貫き、彼女の灰色の外套を引き裂く。少しだけ肉も抉ったかもしれない。俺は獰猛な興奮が高まるのを感じている。目眩すら覚える。

「いま、幻獣使いを相手にするつもりはない」

 メガネの女は、さらに後退しながら呟く。片手にはオイルライターを握り締め、それが唯一の武器であるかのように掲げている。スオウの目と耳、感覚を通して、俺はそのライターの中に何かが潜んでいることを理解した。だが、自分の敵ではない。矮小で脆い生き物。ただの獲物だ。

 どちらも逃がすものか。

 俺は――違う、スオウはまた咆哮をあげて、地面を引っ掻いた。牙を剥き出して、獲物を破壊することへの期待を湧き上がらせる。興奮のままに振り回した尻尾が樹木の一本を撃ち、根元からなぎ倒した。

 なるほど、こいつは爽快だ。

 そう感じたとき、たぶん、俺はよろめいたと思う。誰かが支えるのを感じた。

「牧原くん?」

 語尾をあげる独特の呼び方。芹沢だ。声が震えているのがわかった。

「ど、どうしよう。スオウくんが野生だよ! 野生! なんとか宥めないと!」

 自分でも何を言っているのかわからなかっただろう。芹沢は早口にまくしたてる。

「すごく良くないんだ。スオウくんがこういうの、ほんと、何が起きるかわかんないし!」

「うるせっ」

 すごく良くない。それは何となくわかる。いまスオウと共有した感覚は、ぞっとするほど破壊的で、原始的で、激しい怒りを秘めていた。無尽蔵の攻撃衝動だった。こんなのが暴れ始めたら、絶対にろくでもないことになるという確信があった。

 だから俺は頭を振って怒鳴る。

「スオウ!」

 なぜか出来そうな気がした――幸運にも、スオウは反応した。赤い瞳を見開き、こちらを振り返る。メガネの女は、その瞬間に動いた。

「回避」

 短い命令とともに、フリントホイールを擦る。風が渦を巻き、灰色の外套が翻ると、その姿は木立の奥へ消えた。

 スオウは唸り声をあげて、それを追おうとした。

「スオウ、やめろ!」

 俺はもう一度言って、しまったと思った。命令するような口調になった。再び振り返った、スオウの真紅の瞳は怒りに燃えていた。それは俺に対する怒りだった。その気持ちは、俺には死ぬほどよくわかる。芹沢は裏返った悲鳴をあげ、俺の腕にしがみついた。

 俺はため息をついて、頭を下げた。

「悪かった」

 スオウは牙を剥き出し、唸りをあげ、俺に対して怒りを表明していた。

 それはすなわち、『俺に命令するな』だ。

「ごめん。そんなつもりじゃなかった。頼む。もうしない」

 スオウは少し沈黙した。ほんの二、三秒ほどだったかもしれないが、俺にはとても長く感じられた。やがてスオウはまた小さく喉の奥で唸り、真紅の目を細めると、こちらに鼻先を突き出した。

「ああ」

 俺はタオルを差し出した。スオウの鼻先は泥だらけだ。このまま帰ると尾形さんが困る。

「悪かったよ、本当に」

 俺はスオウの鼻先を拭った。スオウが鼻から熱い息を吹き出す。そして、俺はそのまま尻餅をついた。足に力が入らない。とても疲れている、と思った。

「ひとまず――危機は去ったわけだね」

 芹沢の声はまだ震えていたし、その額にびっしりと汗を浮かべていた。顔色が青白い。その赤い右目が、傍らの茂みを見つめている。

「それで」

 首をかしげる。何度か練習したのかと思いたくなるほど、サマになる仕草だった。

「その子は誰だい? まったく、ユニコーンの子供と出会うなんて――牧原くん、きみの運命はつくづく数奇な星のもとにあるようだ」

 知らねえよ、と俺は思った。スオウも同感のようで、興味なさそうに顔をそらした。

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