第2話
俺たちの学校について、少しだけ述べておく。
緑洋館学園。
中高一貫の私立学園であり、市街地からはかなり離れた郊外にある。敷地はやたらと広く、駅からはバスで四十五分ほど。そこそこの進学校として知られているが、全寮制の学校という響きに比べて、実態はそれほど厳しく管理されているわけではない、と思う。
夜間の外出は基本的に禁止とはいえ、門限を破るやつも滅多にいない。学校の周囲は山の一部みたいなものだし、駅まで行っても田舎なのでたいした施設がないからだ。
俺は中学卒業と同時に、この学園にほとんど強制的に転入させられた。
俺の性格を矯正するには、そういう強硬手段が必要だと周囲に考えられたからだ。その頃の俺は例の性格のせいで孤立しており、完全に不良だと思われていたらしい。外から見れば、大差はなかったのだろう。気持ちはわかる。
この学園への入学が、期待通りに俺の性格改善に作用したかといえば、俺自身にはよくわからない。――いや、見栄を張るのはやめにして、客観的に考えた俺なりの意見を述べておくべきかもしれない。
いまのところ失敗しているのではないか、と、俺は思う。
放課後になると、尾形さんはスオウの体を洗う。
日課のようなものだ。水をかけ、洗剤を泡立て、全身をブラシで擦る。タオルで拭う。その間、スオウは赤い眼を少しだけ細め、地面に伏せて、じっと待っている。おおよそ十五分ほどの間、尾形さんとスオウはその作業に没頭する。
俺と芹沢は、物置小屋の周囲に転がる木箱に腰掛けて、その作業を見守る。これも完全に日課と化していた。そうして、取り留めもないことを喋る。
「冬の間も思ってたんだけど」
俺は貧乏ゆすりをしながら、水しぶきをあげるスオウの鱗を眺める。
「寒くないのかな、あいつ。いちおう爬虫類なんだろ?」
「しっ」
芹沢は赤い右目を閉じ、唇に人差し指を添えた。密かに練習でもしているんじゃないかと思うほどサマになる仕草だった。
「スオウくんに聞こえてしまうよ。彼はただの爬虫類じゃない。ドラゴンなのさ」
「体温調節はどうやってるんだ?」
「ドラゴンにはドラゴンの法則がある。ちょうど、人間が物理法則に縛られているようにね」
薄く笑って、芹沢はスオウを横目で見る。尾形さんがホースから水を噴き出し、スオウの翼の裏を洗っている。スオウはゆっくりと翼を伸ばし、弾ける水が虹を作っていた。
「彼を普通の生き物と同じように、私たちの常識に当てはめない方がいい。彼らが属している世界は、独自の法則が流れているのさ」
「もしかして」
俺は急にひとつの疑念を抱いた。
「芹沢もよくわからないから、適当なこと言ってる?」
「そ」
芹沢は一瞬だけ口ごもった。
「そんなはずはないさ! 何を根拠に!」
「いや別に、勘だけど」
「勘に基づいた誹謗中傷をしないでほしいものだね! きみにはデリカシーという言葉が欠けていると思うよ!」
「そうかもな」
俺は肯定するしかない。
そういえば芹沢は、俺がスオウに気づく前から、やつのことを知っているようだった。俺がスオウをはじめて目撃したのは、ちょうど一年前の、放課後の夕暮れだった。校門前を堂々と歩いていた。俺はあまりにも驚いて、校舎裏まで追いかけてきて、そして芹沢に声をかけられた。
「芹沢さあ」
俺はかねてよりの疑問を、もうひとつ口にする。
何度か尋ねているが、その都度はぐらかされている疑問だった。明らかに芹沢は、このドラゴンについて俺以上の、なんらかの知識を持っている。
「なんでスオウがここで飼われてるのか知ってるよな?」
「もちろん。彼がこの学園を気に入っているからだろう? 尾形さんもいるしね」
「そういうことじゃない。スオウはドラゴンだよな。ああいうやつ、ほかにもいるのか?」
「まあね」
芹沢は、赤い右目をまた閉じた。ウィンクのつもりなのかもしれない。これはあまり上手ではない。
「彼ら幻獣は、どこにでもいるよ。人々は忘れてしまったけどね。だから普通は見えない。彼らのことを自然に見ることができる、牧原くんは貴重な才能を持っていると思うよ」
「お前はどうなんだよ」
「私は」
言いかけて、芹沢は急に顔をそらした。
「色々とあるからね」
「なんだよそれ」
「色々だよ――おっと、スオウくんの水浴びが終わったようだ。ほら、行くんだろう? 牧原くん」
またしても、強引に話を変えられた。
尾形さんが、翼の裏側を洗い終えたところだった。俺の方を見て、ちょっとだけ笑っている。尾形さんは喋らないが、その表情のだいたいの意味はわかるようになってきた。この笑い方は、『いまなら近づいても大丈夫』、だ。
「うん」
立ち上がって、俺は尾形さんに対して頭を下げた。
土産のために用意していたバタークリームサンドをポケットから引っ張り出して、スオウに近づいていく。スオウはその赤い両眼を見開き、俺を見た。牙の生え揃った口が開く。あくびをするような仕草。いまでも少し恐怖に似たものを感じる。
「――おい、スオウ!」
名前を呼んで、バタークリームサンドを放る。
獰猛なまでの速さ。スオウは一瞬で首を動かし、あくびを中断してバタークリームサンドを空中で捕捉した。一口で飲み込む。その素早さは、水面から飛び出すワニを連想させる。その瞬間だけ、スオウの赤い瞳が糸のように細められるのがわかった。
スオウはバタークリームサンドが好きだ――いや、甘いものが好きなのだろう、たぶん。こいつは意外となんでも食べる。チョコレートも、クッキーも、アイスクリームですら喜々として食べるのを見たことがある。
スオウが一瞬で飲み込む様子を見守りながら、俺は尾形さんを振り返る。
「停学食らってたから、しばらく顔を出せなかった。ごめん」
俺の謝罪に、尾形さんは苦笑いを浮かべてみせた。デッキブラシの先端を、俺に向ける。これは非難しているときの仕草だ。どうやら俺のしでかしたことを知っているらしい。それを尾形さんに言われたら、俺は恥じ入るしかない。
「いや、確かに俺は喧嘩したよ。相手に怪我をさせたからな。でもさ――」
俺がいくら言い訳を並べようとしても、尾形さんは何も喋らない。ただ、ヘラヘラ笑って俺を見ているだけだ。
「まいったな」
ついに俺はそこから続けるべき言い訳に迷って、そのまま黙ったまま数秒――俺はそれだけで十分に効果的だった。なんのお説教もない。興味本位の追求もない。それが一番、俺にとって堪える反応だった。
「――悪かったよ。反省してる」
尾形さんは何も答えない。だから俺が喋るしかない。
「でも、スオウの散歩は俺にやらせてくれよ。ひさしぶりだし。いいだろ?」
「尾形さん、私も同行します」
芹沢は、まるで俺の保護者のように頭を下げてみせる。
「懸念するような事態の起こらないように気をつけますから。牧原くんの暴力行為も、ちゃんと見張っておきます。よろしくお願いします、尾形さん」
俺に対してものすごく失礼な言い方をするやつだが、その真面目な態度は見習うべきものがあるかもしれない。俺はただ口の端を引きつらせただけで、なんと言葉を繋げればいいのかわからなかった。
そういう俺を見て、尾形さんはデッキブラシを引っ込めて笑う。また一度だけ、さっきの錆びた笛のような口笛を一度だけ吹くと、背中を丸め、物置小屋へと引っ込んでいく。これは『勝手にしろ』という意味の動作だ。俺と芹沢は顔を見合わせる。スオウは翼を大きく広げて、地面に前脚を突っ張るようにして背伸びをした。
いつもの散歩だ。
何もかも、俺が停学を食らう前と変わりのない出来事だった。
このときまでは。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます