第3話

 あれは去年、学校が夏休みに入る前ぐらいから、俺はスオウの散歩を許されるようになった。

 それまでは、尾形さんがスオウを連れて、学校の敷地内の人気のないあたりをぐるぐる歩き回っているのを知っていた。俺はダメで元々のつもりで頼んだのだが、拍子抜けするほど尾形さんはあっさりとうなずき、俺に散歩を任せてくれた。

 あのとき芹沢なんかは、

「えっ、マジで?」

 と、己のキャラクター性を忘れた発言をしてしまったほどだ。

 だが、許可してくれた理由はなんとなくわかる。

 尾形さんは、どうやら左足に古傷があるようだった。歩くときに、そちらの足を引きずるようにして歩く。スオウはできるだけ尾形さんにあわせる努力をしているように思えたが、さすがに多少の無理はあった。

 だからいまは、俺にスオウの散歩係を任せてくれているのだろう。スオウもあまり嫌がる素振りは見せていない――たぶん。

 とはいえ、たいしたことはしていない。

 スオウに首輪はついているが、リードをつけて歩き回るわけでもない。ただ単に、スオウから離れないように、できるだけ人気のない校舎内の敷地を散歩するだけだ。散歩をする際のスオウはまったく大人しいもので、興奮して暴れたりすることはない。

 とはいえ、たまに地面の水たまりや茂みの中に鼻先を突っ込むので、大きめのタオルは必携だ。せっかく洗ったのに汚れて帰ったら、尾形さんが困った顔をすることになる。

 散歩中は、たとえ誰か他の生徒や教師とすれ違っても、誰もこちらに注意を払わない。スオウが見えていないからだ。ただ歩く俺と、二歩分くらい離れてついてくる芹沢の姿を見るだけである。いまだに、スオウの姿を見えるやつとは出会ったことがない。

 スオウにはお気に入りの散歩コースがある。

 ひたすらにだだっ広い、うちの学校の敷地の外れ、生徒向けに開放された公園のさらに奥。木々の隙間を縫うように、整備された歩道が曲がりくねって続いている、ほとんど森のような区画だった。この周辺を、スオウを連れて――というより、スオウに付き従うようにして散歩をする。

 俺はこの時間が好きだ。

 その日は、少し風が強かった。

 夕陽に照らされた森の木々の隙間を、冷たい空気が通り抜け、騒がしい音を立てている。今夜はさらに風が強くなるだろう、と、俺は思った。スオウも天気の悪化を予感しているように、いつもより少し足早に歩いていた。

「――きみが進級できたのは、まあ喜ばしいことかもしれないけどね」

 と、散歩しながら、芹沢は俺に喋りかけてくる。これもまたいつものことだ。

 芹沢はスオウにあまり近づきたがらない。スオウもあまり芹沢に近づかれることを好まないようだ。前に一度、大きく牙をむいて威嚇したこともある。それ以来、芹沢は完全にビビってしまったらしく、眠っているスオウにすら近づこうとしない。

「でも、いい加減にしないと、退学になるかもしれないよ。牧原くん?」

 どうやら芹沢は、さっきの俺のバカみたいな話を蒸し返すつもりらしかった。

「私たちもそろそろ進路のこととか、考えないといけない時期になっていくだろう? もう少し周りの世界に馴染む努力ってやつも、した方がいいんじゃないかな?」

「わかってる、反省してる」

 俺はとにかくその追求を終わらせてほしかった。進路のことはあまり考えたくない。少なくとも、今のこの時間だけは。

「もう喧嘩はしない。心配するな」

「し、心配はしていないよ。なぜ私が牧原くんの将来を心配するのさ。突拍子もないことを言い出されると、いくら私でも困惑するね」

「そうか」

 生返事で答えて、俺はぼんやりとスオウの歩く姿を見る。

 俺たちのことなど興味がない、と言わんばかりの歩き方だった。勝手についてこい、と言っているようにも思える。

 太い四肢が見た目以上に機敏に動く。トカゲやワニよりも、四肢の構造は馬に似ているかもしれない。四肢の先端の鉤爪が、歩くたびに小さな傷を地面につける。ときおり風の匂いを嗅ぐように、鼻先を空へ向けて蠢かせる。

 そういうときは、俺も止まってスオウを注目する。いきなり茂みに首を突っ込んだりするのは、この手のタイミングだからだ。そうなったらすぐに止めて、タオルで拭いてやらねばならない。その間にも、芹沢の弁解のような台詞は続いていた。

「牧原くんがどうなろうと、まったくもって私の関知するところではないからね。参考までに、私はそれなりに教育水準の高いらしい大学への進学を考えているよ。世界に出るのも面白そうではあるんだが、そこはやはり、色々考えた結果として国内をね。まあ、牧原くんの学力なら、ぎりぎり狙えそうなレベルの――」

 このように、スオウの散歩をしていると、ほぼ全自動で芹沢の情報がインプットされてくる。芹沢の話は、ジョギング中のラジオ放送並みに取り留めがない。よくここまで次から次へと言葉がでてくるものだと思うし、これはもう一種の才能だろう。

 将来の話をしているが、芹沢は落語家とか、ヒップホップのラッパーとかが向いているのではないだろうか?

「――聞いているかい、牧原くん? まるで魂でも抜けたような顔をしているけれど」

「将来について考えてた」

 俺は芹沢を振り返った。

「芹沢、落語家とか向いてるんじゃないか?」

「らっ」

 芹沢は口を半開きにした。

「落語家? うわっ、本当に話を聞いてない!」

「何の話だった?」

「別に」

 どうやら機嫌を損ねたらしい。芹沢は顔を引きつらせた。

「きみが様々なコミュニティから孤立する理由の一因が、かなり定期的にあきらかになっていくからね。さすがの私も驚いているのさ」

「悪かった」

 俺は謝ろうとした。気分を害したのは俺が悪い。ひとの話を聞いているときに、上の空になってはいけない。ちゃんと聞くからもう一度頼む、と言うつもりだった。

 不意に突風が吹き抜けた。

 染み透るように冷たく、乾いた風だった。芹沢はかすかな悲鳴をあげて、顔を覆った。俺も目を閉じかける――その瞬間に白い影を見た。木立の隙間を駆け抜ける、小柄な人影だった。子供だ。直感的にそう思った。強い風に白い服が翻り、そして、転ぶのが見えた。その姿は小石のように跳ねると、茂みの向こうに消える。

 うねるように強くなる、風の音が聞こえていた。

「なんだ、あいつ」

「え?」

 芹沢は赤い瞳を瞬かせた。目の端に涙が浮かんでいるのを見ると、ゴミでも入ったのかもしれない。

「どうしたんだい、牧原くん? 何が――」

「子供がいた」

 これは奇妙なことだった。先ほどの子供は、あきらかに俺の半分ほどの背丈しかなかった。うちの学校にいるのは中学生以上だけだ。考えられる可能性。極端に身長の低い新入生が、こんなところで迷い込んだのか? なぜ走っていたのか?

 いずれにせよ、助けが必要だ。

「芹沢」

 俺は自分が走り出していることに気づいた。

「スオウをよろしく」

「えっ」

 たぶんこれが俺のよくないところで、思い出してみると、こういうことはするべきじゃない。スオウが低く唸る、咎めるような声が背後に聞こえた。単なる目の錯覚だと思えばよかった。あんなところを子供が走っているはずがない。ちゃんとした人間なら、こういうときは理性的に判断して、何も見なかったことにできるのではないだろうか。

 俺は常識を完全に忘れてしまうことがある。そのうち本当に痛い目を見るぞ、と、怒られる時はそんな調子だ。俺もそう思う。

「牧原くん、ちょっと」

 芹沢の声もすでに遠い。

 木々の隙間に飛び込んで、茂みをかき分ける。首筋と頬に軽い痛み。葉っぱと枝が擦れた。さきほど転んだように見えたあたりに直進する。

 そいつはすぐに見つかった。

 目の錯覚ではなかった。少し安心するとともに、俺は何をやっているんだ、という思いが脳裏をよぎった。そしてすぐに吹き飛んだ。

 病院で着るような、薄手の白衣だけを身にまとった少女だった。かなり泥と擦り傷で汚れてはいたものの、服も白ければ、肌もやたら白い。髪の毛すら、ほとんど白に近い銀色だった。日本人とは思えない顔立ち。だが、俺を驚かせたのは、そういう部分ではない。

 額の中心に角が生えていた。

 白くてまっすぐな、細い角だった。三十センチほどの長さを持つそれは、滑らかな光沢すら湛えていた。

「おい」

 これもまた発作的に、俺は少女に声をかけている。ついでに肩を揺する。

 少し迷った。

 せめてなにか常識的な言葉をかけなければ、と思った。まともな人間なら言いそうなことを。まともな人間。俺は頭の中に、学校の先生とか、警察官とかを思い浮かべ、言うべき言葉を決めた。

「――ここは学校関係者以外、立ち入り禁止だ」

 俺の冷静な言葉に反応したのか、少女は喉の奥で不明瞭な呻き声を発し、目を見開いた。青い瞳だった。その目が俺の肩ごしに、背後の木立を見ていた。華奢すぎる肩が震えるのがわかった。風の音が聞こえる。俺は今度こそ理性的に考えようとする。

 この少女は走っていた。そして転んだ。こんな場所をなぜ走っていたか。人間が走る理由は、常識的に考えれば二つ。目的地へ急いでいるか、その逆、何かから遠ざかろうとしているか。

 俺はすぐに振り返った。

「この学校の生徒か」

 細長い人影がそこにあった。そいつは不機嫌そうに声を発した。

「しくじったな。私の友人はどうも大雑把で困る――ひとまず警告しておく」

 メガネをかけた女だ。まだ若い。

 束ねた黒髪からすると、おそらく日本人。マントとコートの中間のような、灰色の外套を羽織っている。ヨーロッパの探偵みたいだ、と思った。後になって俺は、その外套がインバネスコートと呼ばれる種類のものであることを知った。

「いますぐ立ち去って、すべて忘れろ」

 メガネの奥の瞳は細められ、露骨な怒りを表明していた。

「いいか。用があるのは、その生き物で――」

「ここは学校関係者以外、立ち入り禁止だ」

 かろうじて、俺は先ほどの理性的な言葉を繰り返した。他人から命令されるのも、一方的に怒られるのも、心の底から嫌いだ。返事は極めて反抗的なものになる。

「ルールを破ってるのはそっちだからな。なんで俺が命令されなきゃいけないんだ」

「状況がわかっていないな。いや、当然か。面倒なことになった」

 メガネの女は、ぶつぶつと苦情を言うように呟く。その不貞腐れたような表情から、俺はその女が若い、というより、俺や芹沢と同じくらいの年齢なのではないかと思った。

「いいから、その生き物から離れろ」

 と、また命令された。メガネの女は片手をこちらに差し出していた。その手中には、小さな銀色の金属片がある。オイルライターだろうか。表面に複雑で、幾何学的な図柄。

「警告を受け入れない場合、かなり手荒なことをする。私の友人は優しくもなければ、あまり器用でもない」

 奇妙な物言いだったが、どうやらこっちが脅迫されているらしい。

 俺は自分が抱えたままの、不法侵入者の白い少女を横目に見る。さっきから震えっぱなしだ。全身が硬直している。そうして、俺にしがみつくようにしていた――不意に、俺は強い怒りを感じた。俺とこいつは舐められている。脅迫すれば命令を聞くと思われている、ということが、非常に激しく俺の癇に障った。

 だから俺はメガネの女に向き直る。

「なんでお前が俺に命令してんだよ」

 またやってしまった、と俺は思った。

 俺はほとんど発作的に、まったく理性的ではないし、極めて反社会的な返答をした。一方的に脅迫されたのだから当然だろう、という捨鉢な考えもあった。

「ぶっ殺すぞ」

 そう答えた瞬間に、メガネの女が顔をさらにしかめた。

「馬鹿め」

 その指が、オイルライターのフリントホイールを弾くように擦った。

 火は灯らなかった。代わりに、風が唸りをあげた。何かが来ると感じた。俺は特に何も考えなかった。角のある白い少女を強く抱え込み、とりあえず距離をとろうとした。

 その直後に俺と、俺の抱える少女は、一緒になって宙に浮いたように思う。

 それから、衝撃。染み透るように冷たい風。激痛。平衡感覚の消失。混乱。

 やっぱり痛い目を見た。つくづく嫌になる。

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