19
前回眠った場所と寸分違わぬ病院前のロータリーは相変わらず荒れ果てていた。
白いワンピースの裾を払って立ち上がったヒイに、未だ頬の赤いマジメは気遣わしげな目を向けた。
「足、大丈夫なのか? ここ外だけど……」
アスファルトの上で眠っていたマジメに膝枕をしていた。となると、彼女は直接地面に座っていたということになる。触れてみてもわかるが、アスファルトというものはごつごつとしていて肌に食い込めば痛いものだ。
だが、ヒイは大丈夫、と微笑んだ。
「このワンピース、結構厚いんですよ? 丈も長いので全然大丈夫です」
ひらりと揺れる白いワンピースを見れば確かに、曲げた足ならすっぽりと覆い隠せるくらいの丈はある。と、そこでマジメはふと気づいて、自分の服を撫で回し始めた。
いつもと同じ、黒いパーカーに赤いジャージをくまなく調べると、地面に直接寝転がっていたにもかかわらず、まったく汚れていなかった。汚れが目立つであろうヒイの白いワンピースも、洗濯したてのように真っ白で、つい先ほどまで地面に座っていたとは思えない。
「どうなってんだこれ……」
「わたしも最初はびっくりしたんですけど、慣れちゃうと便利ですよ? 何しても汚れませんから」
まぁ、汚れないならそれでいいか、とマジメはあっさり受け入れた。
この世界に来て初日に散々黒丸に追い回され、地面を転がり、引きずられたが確かに服は破れていなかった。
怪我はフィードバックするのに妙なところで親切だ、と人知の及ばない現象の数々に呆れた。
「それじゃあ、行こうか。案内は任せる」
「はい、任せてください!」
変わらない景色の中、二人はようやく東総合病院へと足を踏み入れたのである。
しかし二人の足はすぐさま止まってしまった。
何者かがこじ開けたとした思えない自動ドアが目の前にあった。外側から正拳突きをかましたかのような、内側に向かってひしゃげた自動ドアは、これからの道中に暗い影が落ちてくることを暗示させているかのようであった。
重機でもぶつけたかのような、とんでもない圧力に歪んだ自動ドアの隙間を潜って進むと、広いロビーに出た。
整然と並ぶ長椅子の対面はカウンターで、そこは総合窓口らしい。あまり病院という建物に縁のないマジメが見てもわかるのだが、うっすらと記憶にあるロビーとはまるで別物であった。
例えるならば、夜の病院だ。お化け屋敷的なアトラクションと考えてもいい。
とにかく、静かすぎるのだ。
いつの間にかマジメの背後に回っているヒイも、そう感じているのだろう、怯えているように見える。
確かにここは怖い。
酷く静かで、まったく人気がない。それでいて、怪物が飛び出してきそうな空気だ。
平時ならば耳障りなほど騒がしいロビーは嫌なものであるが、今はその騒がしさがほしいところだ。とにかく不安なのだ。長椅子の下、カウンターの裏、柱の影等、何かが飛び出してくるには十分すぎるほど、目の届かない箇所がある。
これ以上ここにいては、精神衛生上良くないということで、ヒイに背中を押されて先に進んだ。
◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎
生憎と、エレベーターは稼働していなかった。
ヒイに急かされながらも、近道は出来ないかとエレベーターのボタンをポチポチと押したが動く気配はなく、恐らく電気供給すらされていないだろうという結論が出た。
白黒の世界とはいっても、暗いわけではない。特定の建物と、マジメたち人間、そして彼らが着用している服以外は真っ黒ではあるが、色が違うだけで他のものはしっかりと存在している。そのため、見分けがつかないものの、電灯がついているのかもしれない、と考えていたのだが、ここへきてそれが覆されてしまった。
とはいえ使えないものは仕方ない。光源があろうとなかろうと、視界が明るければそれでいい。涙目になりつつあるヒイに腕を引かれて、階段に向かった。
ヒイの持ち物があるのは、ここから東へ向かったところにある療養病棟らしい。一般病棟とはまた違うようで、違いがわからないマジメは首を傾げたが、ヒイはどこか言葉を濁すように先を急いだ。
今のところ、何かが飛び出してくることはなかった。こうも静かだと、自らの足音すら響いて驚くのだが、白い建物であるおかげか、化け物の代名詞たる黒丸が出てくる様子はない。
怖がってマジメの背中から出てこないヒイに苦笑を浮かべながらも、なんとなく嫌な空気が漂っているのではと感じた。
エレベーターが動かないということで階段を目指そうとしていたマジメだったが、この病院に詳しいヒイによれば目的の病棟に移ると同時に上の階に行ける階段が遠くにあるということで、そちらへ向かうことになった。
足音が反響する長い廊下を歩き、無数に存在する扉から何かが飛び出してこないかと身構えながら、マジメたちは進んだ。
「おわっ……。これって」
「え? 何? あ、この窪み、外にもありましたよ」
しばらく廊下を歩いていた二人は、先ほどから足元に窪みが存在していることに気づいて足を止めた。
窪み、というよりはへこみに近いそれは、確か病院前のロータリーに存在していたはずだ。四つ一組のひび割れは外のそれに似ていて、二人は困惑した。とはいえ、ここで足を止めてしまっても仕方ない。
外から何かが入ってきた、と頭の片隅に留めておくことにした。
「外から何か……? 黒丸は建物には入れない。じゃあ、これはなんだ」
「あ……そう、ですね。わたしが知らない何かがいたり、して……」
もし、黒丸以外の何かが存在しているとしたら、それはきっと、あの馬の嘶きの持ち主だろう。
そうだ、この足跡は馬に類似する何かの、蹄の跡かもしれないと二人は気づいた。
「慎重に行こう」
「……はい」
先ほどまでとはまた違う緊張感がどこからともなく溢れ出してきて、マジメは息を呑んだ。
ヒイの言う階段へと辿り着いた二人は、周囲に目を光らせながら一段目に足を乗せた。
幸い、閉じた空間は音が響き易く、遠くの音も拾えるので警戒するのは多少楽ではあった。その代わりに、あまりヒイと喋ることが出来なくなってしまったが、マジメにとって大した苦痛ではなかった。
ヒイによれば、東地高校のように、校舎を移動するための渡り廊下などは存在せず、この階段前についた時点で療養病棟に移動しているらしい。後は六階まで上がって、ヒイの持ち物を取ってくればここに用はない。
願わくばこのまま何事も起きて欲しくはないものだ。
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