20

 マジメの願いはあっさりと叶えられた。


 目的地も近いということで、今まで以上に警戒を深めていた二人だったが、それが徒労になるほど何も起きることはなかった。


 三階に辿り着いたマジメは、背中に回りパーカーの裾をちょこんと掴むヒイに案内されながら、療養病棟を歩いた。


 つい先ほど通った、診察室のあるフロアとはまた違った静けさだった。


 人気がないのは同じだったが、ひんやりとした静けさ、例えるならば、騒がしかったことのない静けさがフロアを包んでいた。


 誰もいないナースステーションを通り過ぎて、収納された車椅子らしき白い物体を見つけた。


 これは、あまり馴染みのない感覚だ。病院にくることがあまりないマジメはどことなく落ち着かない。ちらりと見たヒイにそんな様子はなく、むしろ慣れてさえいるようにマジメの後ろを歩いていた。


 読書をするにはうってつけだな、と場違いな思考をしながらマジメは足を止めた。ヒイに裾を軽く引っ張られたのだ。


「ここです。ここに置いてきたんです」

「隠しておくには確かに良さそうだ」


 ヒイが止まったのは、一つの病室だった。


 シミ一つない真っ白な扉にはネームプレートらしきものは何もかかっていないようだ。いや、どちらかというと白く塗りつぶされていて見えなくなっているのだろう。


 ヒイはどこか緊張した様子で一度マジメに視線をよこすと、意を決して病室の引き戸を開けた。


 からからと音を立てて開いた引き戸の先には、なんの変哲もない病室があった。個人病室のようでベッドは一つ。スペースはかなりあって、車椅子をその辺りに置いていても邪魔にならない。


 病室内には洗面台もトイレもあって、流石に使用料金が高いだけはあると納得した。


 真っ白で真新しく見えるベッドシーツだが、その実きちんと洗濯されているのかわからない。なにせ、非常口電灯まで真っ白く染まっていたのだ。その建物の中で色と呼べるものは白一色だけである。


 病室の前を警戒しながら、置いてきた物を取りに向かったヒイは、何故か懐かしむようにベッドを撫でてから、しゃがみ込んだ。


 ベッドの下に収納スペースでもあるのか、手を突っ込んで探り始めたヒイがしばらくして立ち上がった。


「これ。これです。わたしが置いてきたもの」


 胸に何かを抱えたヒイが戻ってくると、マジメにそれを手渡した。


 ヒイの細い腕が持つそれに、マジメは少なからず衝撃を受けた。


 色がある。白以外の色が、ヒイの持つスケッチブックには存在していた。


 黒と黄の縦線の表紙のスケッチブックは、この世界で見たどんな物よりも温かみがあって、手に取ることを躊躇うほど神聖なものに見えた。


「これ、どうすれば」

「読んでみてください。その、わたし、小田原くんに言わなきゃいけないことがあるから。だから、読んでください」


 信じてもらえないかもしれないけど。そう続けたヒイを訝しげに見て、恐る恐るスケッチブックを受け取った。


 ヒイが言いたいことはわからなかったが、スケッチブックを開けばわかる気がする。きっと彼女もそう判断したのだろう。


 無意識のうちに深呼吸をして、マジメはスケッチブックを開いた。


「これは……」


 一ページ目に描かれていたのは、いや、描かれていたとは口が裂けても言えない、まるで幼稚園児が描いたかのような落書きだった。


 いや、落書きというにはあまりにも拙い。ただ紙をクレヨンで塗りつぶした、絵とはいえないものであった。


 なんとなく怖気を感じて、マジメは一度ヒイを見た。しかし彼女は照れたように微笑み、手の平をスケッチブックに向けて先を促した。


 黒く塗りつぶされたページを捲って、二枚目。これは東総合病院だろうか。


 特徴的な外観の建物が描かれていて、その精巧さに息を呑んだ。美術展に並んでいるような風景画にも劣らないほどの絵であった。


「これ、郡山さんが描いたの?」

「はい、恥ずかしながら」

「凄いよ。ホント、凄い」


 細部まで書き込まれた絵は写真にも劣らず、恐ろしく繊細だった。


 素人のマジメから見ても、引き込まれてしまいそうな美麗な絵であった。


 一ページ目とはまるで違う。同一人物が描いたとは、とてもじゃないが思えない。ギャップなんてもので片付けられるほど、その差は小さくなかった。


 二ページ目の風景画を捲って、次の絵を見た。


 最初は幼稚園児が描いたような塗りつぶしただけの落書きで、次は美術の教師がひっくり返るであろう精巧な風景画だった。それらの次にくる絵は一体どんなものなのだろうか。想像もつかない。


 手の平に滲んだ汗を拭ってから、また捲った。


 そこから三枚ほど、風景画が続いた。どうやら病院の外を描いたものらしく、病院が紙の端っこに描かれているのみで、ロータリーや花壇など、色鮮やかな景色が描かれていた。


 ロータリーから徐々に離れ、色鮮やかではあるが、見覚えのある景色が二枚続いて、病院が完全に絵の中から消えた。


 更に捲ると、マジメは息を呑んだ。

 空洞の眼窩、首のない頭、丸い体。黒丸がそっくりそのまま描かれていた。


 どうやって描いたのか、黒丸を構成しているらしい黒いもやも描かれていて、記憶にある姿と遜色ない。


 いまにも動き出しそうなほどリアルな黒丸の存在感は他の絵とは比べものにならないほど大きい。いや、インパクトの大きさで言えば一番最初の、黒一色に塗りつぶされた落書きか。


 どこか急かされるようにまたページを捲ったマジメだったが、次の絵はまたしても病院の風景画であった。


 困惑したマジメは、そのまま続けてページを捲っていったが、そこから先は何も描かれていない空白のページだけだった。


「……どういうことだ? これで終わり?」

「ううん。もうちょっと先に、最後の絵があるんです」

「最後?」

「はい、最後の」


 そう言ったきり、黙り込んてしまったヒイに何を言おうと、彼女は曖昧な笑顔を浮かべるのみであった。


 これ以上語るつもりはないのだろう。そう判断して、マジメは言われた通りにページを捲った。


 無音の病室に、ぺらぺらと紙を捲る音がしばらく続き、その回数が二十を超えた頃、マジメの手が止まった。


 いや、止まったのはマジメの呼吸もだ。大きく目を見開いて、驚愕に彩られた表情をわななかせていた。


 耳が痛いほどの静寂に満ちる病室とは真逆に、マジメの脳内はめまぐるしく回転していた。スケッチブックの絵が浮かんでは弾け、意味不明だったすべての絵が線となって繋がった。


 自らの推測にマジメは頭を抱えた。突拍子がないのだ。現実的ではないし、にわかには信じられない与太話とだとかしか思えなかった。


 しかし現に、マジメの思考は正しい答えを導き出している。


「これ、この絵。この絵は、今描いたものじゃないよね?」


 馬鹿な質問だと思う。スケッチブックをベッドの下から取り出し、マジメに手渡すほんの僅かな間にそんな芸当が出来るわけないのに。しかし、マジメはそう問わすにはいられなかった。


「……はい。小田原くんと出会う前に、描いたものです」


 わずかに沈んだ表情で頷いたヒイに、マジメは呻いた。


 恐る恐る、もう一度手元のスケッチブックを見やる。


 風景画と同じように美しい絵だ。細部まで書き込まれているのはもちろん、複雑な影、躍動感、ため息が漏れるほど引き込まれる絵だ。


 しかし、この絵が評価されることはないだろう。普通の人が見てもなんら価値のない絵であり、意味のないものだからだ。だが、マジメにとっては違った。なにせこの絵は、マジメが初めて黒丸に襲われた光景を描いたものだからだ。


 マジメがヒイに出会ったのは、絵に描かれている通りの出来事の最中だった。にもかかわらず、こうして絵として残されているのは何故か。


 まったくもってあり得ない。今まで、それこそ初めて出会ったときから、一時も欠かさず傍にいたのだ。言い換えれば、お互いに監視しあっていたといっても良い。しかし、ヒイがスケッチブックを取り出すことはなかったし、絵を描くこともなかったはずだ。


 つまり、

「予知能力、ってやつなのか?」

「はい。わたし、小さい頃からスケッチブックを開くと未来の出来事が見えるんです。それで、いつの間にか絵に残していて、この絵も、小田原くんが襲われているところも、見たんです」


 そんな馬鹿な、と否定することは出来ない。彼女の言葉を真実だと告げる証拠が手元にあるのだ。


 つまり、郡山秀という少女はただの少女ではなく、超能力者なのだ。


 予想だにしない事実に愕然としながらも、マジメは信じるほかなかった。


「そっか。だから郡山さんは俺を助けてくれたのか」


 だとしたら、ヒイはマジメを助けるためにわざわざ危険な場所に赴いたということになる。恩人だとは思っていたが、マジメが思う以上に、彼女は恩人だったのだ。


 しかし、ヒイは何故か沈痛な面持ちでマジメを見上げると、躊躇いがちに、しかし確かに首を振った。


「違うんです。わたしね、小田原くんを助けるつもりはなかったんです。むしろ、小田原くんを利用して、死のうとしてました」


 そんな言葉を口にした。

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