16
午後の授業も残り一時限となって、マジメは大きく体を伸ばしながらあくびを漏らした。
思わず目を瞑って大きく開けた口に、何かが混入した感触を覚えたマジメは、吐き出しながら慌てて瞼を開けると、にやにやと笑うアヤが目の前の椅子に座っていることに気づいた。
「目の前であくびをしている人を見ると、指を突っ込みたくなるんだよね」
「お前ね、びっくりするだろうが……」
子供かよ、と呆れ返ったマジメはポケットからハンカチを取り出して、自分の唾液にまみれたアヤの人差し指を拭おうとした。しかし彼女は何故かそれをひょいとかわすと、マジメの唾液塗れになった自分の指をしげしげと眺め、おもむろに立ち上がった。
確かに、布で拭うだけじゃ嫌か、と納得したマジメは手洗いに向かうであろう彼女の背中を見送った。のだが、アヤが向かったのは、先ほどまで無視していた自らの友人たちのところだった。
授業間の僅か休憩の間に、わざわざ集まって談笑する彼女たちは近づくアヤに気づいて、一様に表情を明るくした。
昼休みのときはあれほど拒絶していたのに、今は打って変わって笑顔だ。友人たちも許してくれたのかと感じるだろう。
しかし何をする気だ。訝しげな目でマジメが見ている前で、アヤは唾液塗れになった指をまるで聖剣か何かのように掲げて、一言。
「ハジメくんの唾液だ!」
取り出したままのハンカチを放り投げて、マジメはアヤを羽交い絞めにして強引に教室から連れ出した。
アヤの友人たちの表情といったら、唾液の持ち主の心が傷つくのではないかと思えるほど残酷なものであった。簡単にいってしまえば、ばっちいものを見たかのような冷たい表情である。
「お、おおお前はっ! 本当に何がしたいんだよ!」
流石に今回の奇行には、マジメも怒鳴ることを止められない。周囲の目を気にして声を張り上げることは出来なかったが、代わりにアヤの耳元で叫んだ。
問い詰めるマジメを鬱陶しそうにかわすと、アヤはまたしても唾液塗れの指を見つめた。
「いい加減洗ってこいって。ハンカチなら貸すから……おおいっ!? 何してんだバカ野郎!」
じっと指を見つめたままのアヤの背中を押して手洗いに促すと、彼女はおもむろに口を開けた。そしてなんと唾液にまみれた指をぱくりとくわえようとしたのである。
口に入る寸前でなんとか手首を掴んで防止したマジメは、今度こそ人目を気にせず叫んだ。
「何がしたいんだお前! いつにもまして意味不明だぞ!?」
「なに、別に大したことじゃないよ。ただの好奇心さ。他人の唾液ってどんな味がするんだろうね」
「それなら同性の友達に頼めっての! ほら、さっさと洗うっ!」
目を離した隙に何をするかわからない。無理やりに背中を押して手洗い場に押し込むと、掴んだ手首ごと水で流して、マジメはようやく一安心した。
「あ、そうだハジメくん。私は野郎ではないよ。仮に罵るならアマと罵った方が的確だよ」
「いや、そこはどうでもいいだろ……」
「そうか?」
少なくとも、女子が男子の唾液を興味半分で口に含むよりはずっと。
言いようのない精神的疲労に足取り重く、マジメはアヤを連れて教室に戻るのだった。
疲労困憊になりながらもなんとか最後の授業を終えたマジメは、今日はこれ以上アヤにかかわりたくないとすぐさま準備を終え、足早に教室を出ようとした。
誰よりも早く帰宅の準備を済ませ、引き戸に手を掛けたところで何者かに肩を掴まれた。
「まだ帰っちゃダメだよハジメくん。これから南さんと話し合いがあるんだから」
「俺抜きでやってくれ……」
「ハジメくんだって掃除に参加するんだから聞かないとね」
マジメの試みは、こうして虚しくも終わったのであった。
校門前で合流するには生徒が多すぎる、ということで、謎部部室に集まることになったことをアヤから告げられて、マジメは渋々彼女の後を追った。
今、アヤがマジメの腕を確保していなかったらきっと彼はすたこらと逃げ出していただろう。もっとも、その気配を敏感に感じ取ったアヤがこうしてマジメの腕を捕まえているため、逃げられそうにはないのだが。
がやがやと騒々しい廊下をしばらく歩いていくと、もう既に見慣れてしまった感覚のある資料室に到着した。アヤが扉を叩くと、中からくぐもった返事が聞こえて、すぐに扉が開いた。
「二人とも来てくれたんだね。じゃあ、行こっか。ほら、梓。今回は私も半分出すから行くよ」
なんとも意味深な会話だ。今回は、というといつもはササキに払わせてしるのだろう。彼の財布の重さは大丈夫なのだろうか。
のろのろと白衣を来たまま出てきたササキは肩を落とし、恨めしそうにユギをねめつけていたが、ユギが笑顔を向けると慌てて愛想笑いを浮かべた。主従がはっきりしていてわかりやすい。
先導するユギとササキの後を追っていると、ふとササキの背負うリュックが目に入った。
例えるならばそれは、般若面をそっくりそのままリュックに加工したデザインだ。まるで巨大な般若面を背負っているように見えるササキに驚いて視線を横にずらすと、ユギの背中には巨大なおかめ面が張り付いていた。いや、ユギがおかめ面を背負っていた。
「……夫婦?」
どうみてもお揃いにしているとしか思えないリュックに、思わずマジメが呟いたところ、隣を歩くアヤもそう感じたらしくしきりに頷いていた。
言ってしまってから、マジメは慌てて口を閉ざした。前の二人を見ると、幸いにも聞かれていないようだ。
ほっと息を吐いて安堵したが、アヤが言う。
「南さんには聞こえていたみたいだよ」
嘘だろ、とユギを注視すると、形の良い耳がほのかに赤く染まっているではないか。
怒声を浴びせられるかと思い、身を固くしたマジメだったが、ユギは耳まで赤くなったまま、うつむきがちにササキの話を聞いているばかりであった。
あれ? と疑問を覚えた矢先、隣のアヤが呆れたような口調でマジメにたちに呟いた。
「どうして男って生き物はこんなに鈍いのかなぁ……」
わざとらしくため息を漏らしてみせるものの、マジメは首を傾げるばかりだった。
◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎
四人は校門を出て、一路駅前広場に向かっていた。
ユギが言うには、オススメのカフェテリアがそこに存在しているらしいのだが、そういった知識に疎いマジメにはいまいちピンとこなかった。それはササキも同じようで、どことなく落ち着かない雰囲気である。
仲良く談笑する女子二人に対し、男子二人はというと、こちらは完全に戸惑っていた。そもそも、マジメとササキは二人とも、友人作りが苦手な人間だ。ゆえに、こんなときどうしていいかわからず、会話の糸口も掴めないまま、気まずいだけの時間をユギたちの後ろで過ごす羽目になった。
ついさっきまでアヤはマジメの隣にいたはずなのに、今ではササキと位置が入れ変わっている。そういえば、女子たちが歩きながら会話しているときは大抵、立ち位置がころころ変わるものだと思い出したが意味はなかった。
沈黙を抱えたまま、マジメは歩くのだが、不意に振り返ってくるアヤの視線が徐々に厳しいものに変化していることに気づかないわけもなく、その視線の意味を嫌々ながらに理解していた。
アヤがわざわざ、マジメとササキが並ぶように動いたのは、仲良くなれという意志だ。時折振り返る視線にもそれが感じられるし、十中八九間違いはないだろう。しかし、いくらアヤといえど強制されて誰か仲良くなるなんてことは出来ない。いや、どちらかというとマジメがそれをしたくないのである。
それからも何度となく視線をよこしてくるものだから、自然とマジメの顔が仏頂面に変わっていった。意地でも沈黙を保ち、かつ加速度的に機嫌が悪くなっていくマジメに、流石に匙を投げたアヤは視線を向けることを止めた。
呆れるほどではなかったが、マジメに友人が出来ない理由の一端を知った気になったアヤだったが、そもそも他人に言われて誰かと仲良くする、なんてことは言語道断であっただけの話である。それに気づかないアヤは、人の心の機敏に鋭いようでどこか疎い。むしろ、マジメの性格をそこまで把握していないといったところか。
ともかく、鬱陶しい視線がなくなったおかげで、マジメの機嫌は少しずつ良くなっていく。時折振り返って話に巻き込んでくるユギに当たり障りのない返事を返して密かにため息を漏らした。
それは奇しくも、なかなか会話に加われないササキと同時であった。
ふと気がつけば、マジメは周囲の景色を注意深く見つめている自分に気づいて、苦笑した。
ここは夢の世界でもないのに、何を気にしているんだ。そう思ったが、よくよく考えてみれば、景色は眺めるものであって、注視するようなものではない。
つまり、マジメは無意識のうちに、景色を覚えようとしていたのだ。
こんな些細な行動が、いつの間にか白黒の世界を生き残るための行動になっているのだから、マジメもずいぶん毒されてしまったものだ。
とはいえ、もしかしたらこの辺りを通ることがあるかもしれない。そのときはもちろん、面影がないほどに一変してしまっているのだろうが、わずかでも覚えていることがあれば現在地を思い出すきっかけになるかもしれない。ならば損はないだろう。
真剣な眼差しで、半ば睨みつけるかのごとく視線を飛ばすマジメに、隣のササキはどことなく怯えながら首を傾げた。
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