09

「お、小田原くん……? 小田原くん!」


 しりもちをついた体勢で土煙に手を伸ばすがマジメの返事はなかった。


 マジメの声はなかった。だが、別人の声が煙の中から聞こえてきた。


「悪いな、巻き込んで。小田原くんは生きてるから心配するな」

「え!? だ、誰……」

「話は後だ。逃げるぞ」


 土埃の中から飛び出してきたのは、長身痩躯の男だった。


 彼は長い足を駆使してすぐさまヒイに近づき、彼女の腕を掴んで立ち上がらせた。


 ふらつきながら立ち上がったヒイは男の肩にマジメが担がれているのを見てほっと安堵したが、ぐったりとしたまま動かないマジメに激しく動揺した。


「お、小田原くん! しっかりして小田原くん!」

「落ち着けって。死んではいない。ただ気絶しているだけだ。ッチ、話してる余裕なんてなかったか」


 マジメに手を伸ばそうとするヒイを避けると、長身の男は振り返って薄れつつある土煙を強く睨んだ。


 その直後、ものすごい強風が吹き付けて跡形もなく土煙をかき消した。

 風に煽られて閉じた目を開くと、一匹の黒丸が悠然と佇んでいた。


 その丸い腕には無理やりえぐり取ったかのような岩石が握られており、砕けた欠片がいくつか落ちた。


「あの落岩、やっぱり黒丸だったんだ……」

「黒丸? ああ、あいつのことか。確かにわかりやすいなそれ。っとそうじゃない。逃げるぞ」


 対峙したまま一歩ずつじりじりと後退していく二人は黒丸が岩を持った腕を大きく振りかぶったのを見て同時に走り出した。


「くそっ、あんなもんに当たったら一発でハンバーグの材料だ! デッドボールだけは喰らうなよ!」


 叫んで、マジメを担いだ男は直角に曲がるとそのまま身を投げた。それをばっちり目撃したヒイは慌てて反対方向に身を投げると頭を抱えた。


 直後、ほとんど間を置かずに振るわれた豪腕から投擲された岩が、馬鹿げたスピードでヒイの頭上を通り過ぎていった。


 遅れて風が吹き荒び、強烈な風圧に目を開けることも出来ないままヒイは風に押されるままころんと一回転した。


「早く立て! ここから逃げるんだ!」


 そう叫んだ長身の男は、マジメを担ぎながらもどこからか入手したのか、一本の鉄パイプを握っていた。


「ちょ、ちょっと何を……」

「さっさと逃げろって」


 そう言い残すと、男はマジメを担いだまま足取り軽く黒丸に近づいていった。


 彼の服装は青のジャケットに白いシャツ、更に灰色のジーンズで黒色は一つとしてない。つまりごまかしは効かないということだ。にもかかわらず、彼は特に怯えた様子もなく気負いもない。


 止めようにもその姿からむしろ躊躇ってしまうほどだ。せめてマジメだけでも置いていけ、とも思わなくもないが、口に出来る空気ではなかった。


 近づいてくる男に反応した黒丸は男に体を向けて腕を振り上げた。その瞬間、マジメを担いだままの彼は一瞬でトップスピードに乗って黒丸の腕が振り下ろされるよりも早く懐に潜り込むと、手にした鉄パイプで黒丸の脛を叩いた。


 打撃音は聞こえなかったが、黒丸はバランスを失って片膝をついた。


 一体何がと瞠目したヒイの目には、打撃を受けた黒丸の脛辺りが消失しているように見えた。


 それは決して見間違えではなく、次の瞬きの後、脛から先が唐突に消え去ったため立ち上がろうとする黒丸は転倒した。


 目の前の光景が信じられないヒイは何度も瞼をこするが、目の前の光景はもやとなって消えることはなく、淡々と続いていた。


 音はなく、しかし徐々に黒丸の体が縮小していくことがにわかには信じられなかった。


 しかし幻覚でも何でもなく、現実として起こっていることだ。


 ついに一片の欠片も残らず黒丸を散らした長身の男はマジメを担ぎ直すと、鉄パイプをベルトに挟んで携帯した。


「ふぅ、これでよし。んお、おい、なんで逃げてないんだ」


 訝しげに見やる男にへたりこんだままのヒイはわずかに頬を赤くすると照れ笑いを浮かべた。


「えへへ、腰抜けちゃったんです」

「おいおい……」


 呆れた表情を浮かべたが男は仕方ないとも思っていた。なにせ黒丸に出会ってしまったのだ。むしろ腰の抜かす程度で済んだことに驚きだった。


 そんな風に長身の男は勘違いしていたのだが、当の本人は気づいていない。


 ほんの小さな声で、男は漏らした。


「これはダメだな」


 ヒイはマジメを担いだままの男が黒丸に近づいたにもかかわらず、傷一つなく、マジメも無傷であることに安堵して腰を抜かしたのだった。


 それにしても、本当に黒丸が消えてしまった。跡形もなく、欠片も残らず、大きく割れたアスファルトがそこに黒丸の存在を証明しているだけであった。


 男は鉄パイプで黒丸を倒してしまったのだ。


 まず最初に黒丸の太い片足に鉄パイプを叩き込んで脛から先を消失させると、後は一方的に殴るだけだった。


 時折黒丸が苦し紛れに腕を振るうが、そのことごとくを簡単にかわし、或いは打ち払って難なく対処すると、今度は倍以上に返してめった打ちにした。


 打撃が命中する度、黒丸の霧が集まったような体は文字通り霧散していき、その巨体を徐々に小さくしていった。


 地面が容易く割れるほどの質量があるのに何故か打撃音がしない。しかしそれでも確実に黒丸の体積は削れていった。そしてついに、最後に残った頭部に鉄パイプを振り下ろすと、黒丸の巨体は完全に消失したのだった。


 あんな怪物を前にして、一体誰が立ち向かおうと思うのだろうか。


 あの巨体と、圧倒的なまでの力を目撃すれば逃げの選択肢以外は普通、残らないはずなのだが、どこかおかしくなったのか、ここの長身の男は恐怖を見せずに立ち向かい、いとも容易く討ち取ってしまったのだ。


 その一部始終を見た人間は大抵怯えそうなものなのだが、ヒイもどこかおかしいのか、尊敬の眼差しで見つめていた。


「す、凄いです……」

「おいおい、止めてくれよ。大したことはしてねぇよ」

「そんなことありませんよ! だってあの黒丸ですよ!? あんな怖いものを倒してしまうなんて……」

「慣れればどうってことないぞ。なんなら試してみるか?」


 なんてことのないように言ってみせる男に、ヒイはすごい勢いで首を横に振った。


「で、出来ませんよ! 今までだって考えたことないのに……」

「それもそうか」


 納得して頷いた男は担いだマジメを下ろすと、彼の頬を軽く叩いた。


 小さく唸りながら目を覚ましたマジメに、ヒイは飛びついて肩を揺らすとようやくマジメは完全に覚醒した。


「あ、あれ? 俺、どうしたんだっけ……?」

「良かった。小田原くん、わたしを助けたせいで気絶しちゃってたんだよ?」

「あ、ああ。そうか、確かにそれは覚えてるよ。あれ? 黒丸もいたはずなんだけど」


 記憶違いか? と目覚めたばかりで曖昧な記憶を探っていると、今にも泣きそうになりながら怪我がないか聞いてくるヒイの傍らに、別の人間が立っていることに気がついた。


「あ……人間」

「よう少年。ナイスガッツだったぜ」

「へ?」

「いやいや、謙遜しなくていいんだ。俺はちゃんと見ていたからな。そっちの子助けようとしてたろ? 格好良かったぞ」

「は、はぁ」


 話がわからず戸惑うマジメの肩を叩きながら快活に笑った男は瀬川正せがわただしと名乗った。


 彼はひと月ほど前からこの世界にいるヒイよりも、もっと以前にこの世界に来たらしく、黒丸を倒すことくらいお手のものだと言った。そんなセガワにマジメは仰天して、本当に黒丸を倒したのか疑わしい目を向けたのだが、ここにはしっかりと証人がいる。


「すごかったんだよ小田原くん! こう、鉄パイプでバシバシ! って叩いたら黒丸が段々小さくなっちゃって、最後には消えちゃったんですよ!」


 憂惧の余韻からぐすんと鼻を鳴らしながらも、興奮気味に身振り手振りを交えて再現するヒイに苦笑を浮かべたマジメはひとまず彼女の言葉を信用することにした。とはいえ、セガワを信用することは出来ない。現場を己の目で見ない限り信じることは無理だ。


 一応は納得した様子を見せたマジメの目に、未だ疑いの色が残っていることを確認してセガワは密かに感心した。


 窮地を助けてもらったとはいえ、その人物が信用出来る人間か、というのはまた別問題だ。命の恩人だからといって無垢に信じ、尊敬の目を向けるヒイに比べて、マジメの対応は正しいものだ。二人の評価を下方と上方に修正すると、セガワはマジメに手を差し伸べた。


「立てるか? 見たところ怪我はないようだが、一応確認した方がいい」


 目に見えない場所の怪我ほど厄介なものはないからな。そう促したセガワに、マジメは素直に従った。


 この世界では恐らく医者というものは存在しないだろう。マジメたちのように来てしまった人間の中に医者がいないとも限らないが、医療器具がない以上出来ることは少ないはずだ。なので健康管理は欠かせない。


 自分の体をあちこち触ってみるマジメは、ヒイの予想、他に人間がいるという言葉が現実になったことを実感していた。いや、マジメがヒイに出会ったように、ヒイもマジメに出会っているのだから他の人間がいてもおかしくはないのだが、なんとも奇妙な感覚だ。


 静かすぎる町に他の人間がいるとは思えなかったが、それは誤りだった。二人だけの空間と、無意識のうちに思い込んでいたようである。


「黒丸って倒せるんですね」


 呟いた言葉は思いのほか大きく、ヒイがしみじみと頷いた。


「わたし、倒すなんてこと考えもしませんでした……」

「それはそうだろ。あんだけデカくてパワーもある化け物なんだ。抵抗しようとする方がおかしい」


 それを倒した本人が言うのか、と半眼になってセガワを睨んだヒイははっと思いついた顔をした。


「そうだ! セガワさん、わたしたちと一緒に来ませんか? わたしと小田原くんは他にこの世界で困っている人がいないか探すつもりなんです。もし良かったらセガワさんも一緒に行きませんか?」

「困っている人、ね……」


 予想通りに別の人間がいて、しかも助けてくてれた人に出会ったからか、ヒイはいつになく嬉しそうな笑顔でそう言った。だが、マジメはどこか浮かない表情だ。それもそのはず、まだ信用出来ない人間をお供にして安心することは不可能だ。しかし他ならぬヒイがそう言うのだったらマジメが異を唱えることはない。自分が注意しておけばいいとマジメは気を引き締めようとした。


 だが、その必要なかった。


「やめておくよ。人助けには興味ないから」

「え……」


 セガワの声色が酷く冷淡なものに一変して、ヒイは言葉に詰まった。マジメは彼を訝しげに睨んでいるし、セガワ自身も無機質な表情でヒイを見下ろしていた。


 セガワの急変した態度に戸惑い、怯えた様子で泣きそうになったヒイを無視して、セガワはマジメに向き合った。


「逆に小田原くんに聞くよ。俺と一緒に来ないか? キミならこの世界でも生きていけそうだからね。それに、これ以上この子と一緒にいたら、小田原くん。キミが死んでしまう」

「え……?」

「……一体、何の話ですか?」


 あまりに唐突で、失礼な話だ。


 顔をしかめ、不機嫌さをたっぷりと前に出したマジメは耐えきれず、ヒイの前に立った。それはちょうど、彼女を守るように立ち、セガワと対峙する形であった。


「それだよ、小田原くん。キミがその子を守ろうとして危うく死にそうになったのはほんの少し前のことだろう?」


 しっかりと見ていたからね、と続けたセガワが何を言いたいのかわからず、マジメは沈黙を保ったまま先を促した。


「簡単に言ってしまえば、その子はこの世界には向いていないんだ。生きていけないと言い換えてもいい。何故ならその子は、弱いからだ」

「弱い?」


 セガワの言葉の意味を図りかねて眉を顰めた。

 その言葉は、マジメが感じた印象とは真逆のものだった。


「そうだ。精神的にも、肉体的にもね。突発的な出来事には弱く、思考停止に陥りやすい。情に流されやすく、簡単に他人を信用する。いざというときに、動けない」


 その言葉の数々が何を指しているのか、マジメにはわからなかった。ちらりと背後のヒイを見てみると、彼女は青白い顔で唇を噛んでいた。


「わからないか? 全部、その子のことだよ。突然の落石に対処出来たのは小田原くん。ほんの一瞬でその子を守ろうと判断して動いたのも小田原くん。俺を疑っているのも、小田原くんだ」


 何が言いたい、と疑いの視線に敵意が混ざった。


「郡山さんが足手まといっていいたいのか?」


 いつになく剣呑な声で言ったマジメの声に、ヒイは目を見開いてうつむいた。乱れた前髪の隙間から動揺に揺れる瞳が覗き、彼女は諦めたように瞼を閉じた。


 そんな彼女の様子に気づくことなく、マジメはセガワを睨み据える。


「その通りだ。その子の弱さはいつかキミを殺す」

「アンタに何がわかるんだ」

「言っただろう? 見ていたんだよ」

「見ていたね。いつからだよ」

「キミたちが落石に戸惑ってる頃からかな」


 セガワが感情のない声でそういった瞬間、猛る感情を抑えつけていたマジメが吼えた。


「たったそれだけの時間で、アンタは郡山さんは足手まといって言うんだな……!」


 我慢の限界だ。


「時間は問題じゃない。いかに目の前の困難を乗り越えるかが大切なんだよ。事件はいつだって突発的だ。キミだってその目で見たばかりだろう?」


 そう吐き捨て、言外にヒイは対応出来なかったといった。しかしそうしてヒイをこき下ろすにもかかわらず、一度たりともヒイを見ないセガワの胸倉を掴み上げると、マジメは拳を握り締めた。


「ふざけんな! 何も知らないアンタがっ、何様のつもりで言ってんだ! アンタは知らないだろうがな、俺はこの人に命を救われたんだよ! 自分の命を危険に晒してまで、俺を助けたんだよ! それはアンタが言ったように突発的な事だった! アンタはそれを知ってたか!? 知らないだろっ。会ってたかだか数十分のアンタが、偉そうに人を貶してるんじゃねぇ!」


 殴りかからんばかりに詰め寄ったマジメは、その憎らしい男の頬を殴りつけることをかろうじて堪えていた。


 代わりにセガワの胸を押して突き飛ばすと明確な敵意を剥き出しにして、セガワを睨みつけた。


「消えろ! 二度と俺たちの前に出てくるな!」

「まったく……冷静な一匹狼かと思ったら穏やかな猟犬だったのか」


 大の大人でも逃げ出してしまいそうな敵意を向けられているにもかかわらず、セガワは楽しそうに口元を吊り上げると服装を整えながら立ち上がった。


「申し訳ないね、早合点だったようだ。小田原くんの言うとおり、たかだか数十分の付き合いで人を測れるわけがなかったかもしれないね」


 初めてヒイを見たセガワがそう言って頭を下げたが、マジメがヒイの前に立ちはだかってそれを遮った。

心ない行動は必要ない。そう言わんばかりのマジメに頭を下げたままのセガワは口元を歪めた。


「消えろ!」

「言われなくても消えるよ。流石にこんな雰囲気じゃ共闘の提案も無理だからな。それじゃあまた会おう」


 二度と会うか! とマジメが叫んで追い立てると、歩いていたセガワは逃げるように走り去っていった。


 彼の背中が見えなくなるまできっちりと睨んでいたマジメは視界から憎たらしい青色のジャケットが消えたのを確認して、深く息を吐いた。


 自分がこれほど激怒したのは初めてだったが、それ以上に、誰かのために怒るという行動に驚いていた。だが、今はくすぶっている怒りを落ち着けないと、ふとした拍子にヒイにも怒鳴ってしまうそうだった。


 遠くを見つめたまま、深呼吸を繰り返すマジメの背後で、またヒイも驚いていた。


 彼女の見つめる先には、マジメの背中がある。

 血の気が失せていた顔色はいつの間にか赤みが戻っていたが、しかし元通りとまではいかなかった。どこかマジメに対する罪悪感を押し隠したかのような表情で、彼の背中を見ていた。


 だが。


「……ありがとう、小田原くん」

 嬉しかった。


「いや、かっとなっちゃってさ。ほとんど考えてなかったよ」


 苦笑混じりに振り返ったマジメには、先ほどの苛烈さは微塵も見当たらなかった。


「わたし、もっと頑張ります。誰にも足手まといって言われなくなるくらい、頑張る」

「郡山さんは足手まといなんかじゃないですよ」


 慰めではなく、紛れもないマジメの本心だ。しかし彼女はそれだけでは足りないようで、首を横に振る。


「ううん、小田原くんにだけじゃなくって、他の人にも足手まといじゃないって言わせないと。わたしが納得出来ないんです」


 その気持ちは理解出来る。

 決意に満ちた瞳が真っ直ぐマジメを見上げ、彼女は頷いた。


「そっか」


 きっと出来るよ。マジメはそう信じた。

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