08

 すっかり臍を曲げてしまったヒイに許してもらうため、多大な労力を使ったマジメは疲れきってヒイの後ろをゆっくりと追いかけていた。


 一応は許してもらえたものの、機嫌の悪さは直っていないようで、頬を膨らませたままのヒイはすたすたとマジメを置いて先に行ってしまった。


 ずいぶんと怒らせちゃったな、と反省したマジメだったが、笑ったおかげか不思議と心拍数は元通りになっていた。


 よくわからない鼓動の早さだった。だが、悪くはなかった。


「おわっ……と」


 ぼんやりとしていたマジメは不注意でひび割れたアスファルトに足を取られて躓いた。


「ん? あっ、大丈夫?」


 膨れていた顔は躓いたマジメを見た途端に心配そうな表情に変わった。もはや泣きそうと言っても過言ではないほど情けない面持ちで、慌てて駆け寄ってきたヒイに問題ないと告げてから立ち上がるとマジメは手についた砂を払った。


「大丈夫? 怪我してませんか?」

「大丈夫ですよ、これくらい。心配しないでください」


 全く、優しい人だ。彼は静かに笑った。

 マジメはここまで優しい人間を見たことがない。


 大抵の人間は不機嫌でいるときに人助けをすることはしないだろう。むしゃくしゃして見てみぬ振りくらいする。ましてや、それが不機嫌になった原因だったら尚更だ。


 それなのに彼女は今もマジメに怪我がないかあちこち触れている。


 その気遣いがくすぐったくて、マジメは笑った。


「もう。大丈夫だよ」

「本当に? ならいいんだけど……」


 ほっと安堵の息を吐いたヒイを見ていると、見ているこっちも優しくなれそうな気がする。


「じゃあ行きましょ?」


 手を差し伸べるヒイに頷いて右手を伸ばそうとしたそのとき、マジメの視界の端で何かが飛来してくるのが見えた。岩盤から無造作にえぐり取ったような形をした岩に似たものだった。


 その勢いは弾丸のごとき速度で、一秒でも目撃するのが遅かったら直撃していたはずだった。


 ヒイの手を掴んで引っ張り抱き留めるとマジメはそのまま後ろに倒れ込んだ。わずかに遅れて何かが二人の頭上を通り過ぎ、アスファルトの地面に落下して大穴を開けた。


 周囲に撒き散らされた轟音と石片から守るようにヒイを抱きしめていたマジメは素早く立ち上がると改めてヒイの手を取った。


「い、今の何? 隕石!?」

「詮索は後! 今は逃げるぞ!」


 ヒイを引っ張って立たせると周囲に目を配りながら二人は走った。


 真っ直ぐ逃げようとして脇道に差し掛かると、マジメはいきなりヒイを後ろに突き飛ばすと自身も前方に飛び込んだ。直後、またしても岩のような物体が飛来してきて二人の間に落下し、地面を深くえぐった。クレーターとまではいかないものの、人間が直撃してしまえば肉片になってしまうであろう威力だ。仮に、故意に二人を狙っているのだとしたら、犯人は一人だけだ。


 どこかに黒丸がいると確信したマジメは、立ち上がりかけていたヒイの腕を掴んで再び走り出した。それと同時に前方五十メートルほどの距離にある自動車らしき影に岩石のようなものが落ち、自動車を叩き潰した。


 マジメに腕を引かれたヒイが小さな悲鳴を上げた。

 粉砕された自動車の部品がマジメたちの足元にまで転がってきて、マジメは唇を噛んだ。


 一体何が起きているのかわからない。まるで大気圏で燃え尽きなかった流星群が降り注いでいるかのような現象だ。もしこれを引き起こしているのが冗談のような流星群でなければ、黒丸だけだ。


 断続的に降ってくる石は適当に放り投げられたもののようで、不規則に落下しているところを見るとマジメたちを標的しているわけではないらしい。だが脅威には変わらないし、当たらないとも限らない。


 現に二度も危うくミンチになるところだったのだ。一刻も早く落石圏外へと逃げなければ命の保証は出来ない。


「な、何? 何が起きて……」


 突発的な事態には弱いのか、マジメが見る限り初めてヒイがおろおろと恐慌していた。


「落ち着いて! とりあえず逃げないと」


 だが、自動車を簡単に粉砕してしまうほどの岩が降ってくる。雨宿りするにしてもそもそも建物はないし、身を守れるほど頑丈な屋根もない。


 地理に疎ければこの世界にも疎い。だからといって棒立ちのままで何もしない、という選択肢はなかった。


 まずここから離れることが最優先だ。

 幸い、岩石の落下方向がマジメたちのいる場所から徐々に離れていっているので、不測の事態がなければ余裕をもって移動することが出来るはずだ。だが、警戒することに越したことはないし、何が起きるかもわからない。


 この世界の脅威は落石ではなく、黒丸なのだ、いつどこで遭遇するかわからない以上、常に気を引き締めていかなければならない。


 方角はどこでもかまわない。出来ることなら東総合病院に向かいたいところだが、命のほうが大切だ。


 朝になったら挽き肉になっている、なんてことは嫌だった。


 とにかく離れようとヒイの腕を引いた。つられて、未だ恐慌状態で唇をわななかせている彼女はマジメを見上げた。


 その瞳にすがるような色が浮かんでいるのを見つけてマジメは自分でもわからないほどかすかに表情を歪めた。


 出来ることなら、彼女には希望に満ちた瞳でいてもらいたい。こんなにも怯えた瞳は見たくなかった。


 あの、爛漫で眩しいくらいの瞳が見たい。

 そのためにはやはり、ここから逃げるしかないだろう。


 パニックに陥っている彼女を助けることが出来るのは自分しかいないのだと言い聞かせて、マジメは深く息を吸った。


「ここから移動しよう。とにかく落石範囲から離れるんだ」

「で、でも……」


 せわしなく視線をさ迷わせるヒイは震えていて、動くことが出来ないでいた。


 それを見たマジメはいっそ抱えた方が楽か、と腰を落としたがその瞬間、大きな影が頭上に降ってきた。


 間一髪、ヒイを突き飛ばすことには成功したが、マジメ自身は逃げ遅れてしまった。


 飛沫のようにアスファルトが割れ、巻き上がった土煙の中に消えたマジメにヒイの呼吸が止まった。

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