第18話 では、我々はなんのために、生きているのだろう?
では、我々はなんのために、生きているのだろう?
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「なぜ、お前はあの子を助けようとしてるんだ、富樫。愛には、否定的だったんじゃないのかい?」
茂上は重い口調で富樫にそう尋ねた。富樫は、表情の読みにくいいつものニヤニヤ笑顔を浮かべながら、お冷を一口飲んだ。
「愛には否定的、ん~、なんとも詩的ですね。エリートコース驀進中の茂上警視は、いつから詩人になられたのですか?」
「おい、ふざけるな富樫。真面目に聞いてるんだ」
少し尖った口調で答えた。
「別に私はふざけてなんかいませんよ。人生すべて、何事においても、全力投球です。私はあなたの言葉が、いくぶん詩的に聞こえたので、もしかしたら、万が一、あなたが詩人になろうとしているのではと頭をかしげてしまっただけですよ」
と、いつものニヤニヤをさらに倍増させて言うもんだから茂上としてはたまったものではない。熱燗を思いっきり飲みあげ、さらに言葉を続けた。
「なんだ、まーた桜井のグループに恩でも売ろうとしてるのか? だがお前、もう桜井の顧問は辞めたんじゃなかったのか?」
「別に、桜井のグループ自体に恩とか、義理とか、そういうしょっぱいものはありませんよ。むしろ裏切られた、というのが大きいです。ですがそれとはまったく別に、雪下さんには恩はありますし、恩を感じてはいますがね」
「で、その雪下さんの支配下にいるあの2人を助けようとしているのか?」
あてつけにそう言った。
「やだなぁ、なんですか支配下って。ま、それは置いておいて、私はその事件について、あまりよく知らないんですってば。私立S学園の事務上の手続きについて、お前の力が借りたいと言われたのでちょっと顔を出しに行っただけですよ。資産運用が云々っていうこともありましたしね。私も雪下さんの頼みだと、無碍にはできんのですよ。なんだかんだ言いながら、人間は義理とか恩とか、そういうしょっぱいものを感じちゃう宿命なんですかね。あ、なんだか鶴の恩返し読みたくなってきた」
「たがか事務上の問題だけで、お前が呼ばれるとは考えにくいんだがなぁ……。そんなの、お前の事務所の若いの何人かを適当に派遣しちまえばいいだろう? お前はもっと、昔にみたいに金になる案件を黙って淡々とこなせばいいだろう?」
「さすがに、天下の警察様が個人の弁護士に、金になる案件をやった方がいい、ってのはまずいでしょう? ヤクザと手を組んで土地でも転がしますか?」
「バッカ。冗談だよ。俺は警察かもしれんが、お前の友達でもあるつもりだよ」
と言うと、茂上は右の手のひらで顔全体を覆った。
「なぁ、富樫。本当のところを聞かせてくれよ。お前は何をやってるんだ?」
「…………別に何も、特別なことはしちゃいませんよ。私がやってることと言えば、私は私の誠意を見せている、それだけのことです。私の考えは昔とあまり変わりありません。それだけは言っておきましょう」
「……お前の昔の考えなんて、もう忘れちまったよ。よく覚えてない……」
「まぁ、大学で言いたいことは全部言ったと記憶していますよ。あのときの私は、意見言いたがりの坊やだったと記憶していますからね」
遠い過去のことを思い出す富樫。その眼はどこか遠くを見つめていた。
「あぁ……、そうだそうだ。少し思い出したかもしれんな……。お前は……そうだ、喋りたがりのやつだったかもしれないなぁ……」
茂上もまた遠い過去を見つめていた。長らく思い出すこと機会がなかった、遠い過去を。
■
あれは、日本国憲法の講義のときだった。富樫が通っていた大学では、1年生のときに、「日本国憲法」の単位を取ることが必須となっており、何百人という学生が1つの教室に詰め込まれていた。授業は半期ごとに区切られ、半期毎に15回ある。1回につき90分、もう少しくだけた言い方をするならば1コマ90分だ。その15回の内の授業の5、6回目のときだった。その授業では、具体的にどんなことを教授が話したのか忘れてしまったが、たしか、法律とは? 国体とは? とか、そういった概念を教授が長々と説明する講義であったと茂上は記憶している。
ある、一人の貧乏人A(女性)が難病Kにかかってしまう。
その不治の病を治すためには、ウイルスバスターXが必要である。そしてそのウイルスバスターXを貧乏人Aの恋人で、これまた同じく貧乏人Bは心の底から欲しているわけだ。貧乏人Bに貯金などはない。もちろん後ろ盾もない。どうして後ろ盾はないか、それはここでは不幸があって、ということにしておく。思考実験の話であるからこの部分に多少現実とは相いれないものがあるがそれはさておく。貯金も親も、それらをすべて包み込む環境も、すべて最悪なものだったのだ。貧乏人Bの努力ではどうしようもない状況であったとだけここでは記しておく。
さて、お金はないわけであるが、貧乏人Bとしては心の底からウイルスバスターXが欲しいわけだ。しかし、ウイルスバスターは一粒100万円する。ウイルスバスターXを開発した発明者Yがそう定めたからだ。発明者Yは悪人ではない。発明者Yは発明した者に保護される権利を主張しているわけであり、発明者Yが悪人であるわけでは決してない。発明者は発明者の権利を、当たり前の権利を主張しているだけだ。それが悪いと言われたらその発明者が暮らす国のモノ作り文化は廃れてしまうだろう。しかし、そのモノ作り文化の陰に貧乏人Aは死にかけている。そして、貧乏人AはついにウイルスバスターXを何らかの手段を講じて奪取してしまう。
さて、この貧乏人Aのとった行動は正しいかどうか。
こんな質問が突然なされた。教室内はガヤガヤ騒ぎになった。騒ぎと言っても、ただ単に隣に座る友人と共に話を始めただけだろう。しかし、教室にいる人数が多かったためにそれがちょっとした騒ぎのように聞こえただけだ。そんな中で茂上はひとり黙って考えていた。と言っても、答えはすでに頭の中に浮かび上がっていた。残念ながら貧乏人Aの行動は正しくない。いかに自分に理不尽なことが振りかかろうとも、盗むという行動は犯罪だ。
しばらくして、話し合いが一段落したのか、教室が静かになった。
教授が発問をする。
「貧乏人Aのとった行動は正しいかどうか。発表してくれる子はいますか」
大体こういった発問に対して手が挙がることはない。シーンとした静寂さが教室内を支配する。こういう状況になると200分の1の貧乏くじ大会のはじまりだ。教授と顔を合わせないよう下を向いたり明後日の方向を向く学生があちらこちらで出てくる。挙手をして馬鹿正直に答えたところで点数が上がるわけでもない。積極的に挙手をする学生はほとんどいない。
が、この日はその〝ほとんど〟の例外であったらしく、一人の学生が手を挙げた。それが富樫であった。教授は時間が止まらずに済んだことに内心喜びながら富樫を指した。
「私は、この貧乏人Aがとった行動は正しいと思います」
教室内の空気が死んだ。
教授も「は?」と今にも言いそうな顔をして富樫を見つめた。
富樫はそれらの空気を楽しむかのように邪悪な笑顔を浮かべた。
そして、なぜ「貧乏人Aの行動が正しいか」を淡々と語っていった。
富樫のスピーチは3分にも及んだ。
結局、その日の講義は教授が思ったように進んだとは到底思えなかった。
教授の予想では「正しくない」、茂上が想像した考えが想定されていたのだろう。
しかし富樫はそれをぶち壊し、その意見がなぜ正しいか3分間じっくりと話したのだ。
富樫の弁の周りはこのときから卓越しており、その内容が果たして法律で正しいかどうかはともかく、(当然ではあるが、法律的には正しくない)教室にいる人間の、少なくとも半分の心を掴んでいた。「もしかしたら、そういう考えも正しいのではないか、と」
こうなってしまうと、授業の流れがおかしくなる。そして、おかしいまま終わってしまったのだ。
終わった後になって茂上は思ったのだ。もしかしたら富樫は、授業をメチャクチャにするのが狙いだったのではないか、と。
■
「お前……国を敵にまわすことになるぞ。そろそろ……死んじまうかもしれん。心臓発作、とかでな」
口元は笑っていたが目はまったくと言っていいほど笑っていなかった。目だけは雄弁に本心を表していた。
「そういった脅しは、これまでの人生で何度も言われてきました。今さらどうした、っていうのが私の公式回答になりますな」
さらりと富樫は返事をする。表情は軽い笑みだった。戸惑いもなければ、驚嘆の色合いもない。
「いいか、これは脅しじゃあないんだ。今回はまだいいかもしれない。だが、これから先、色んな事がある。そのたびにお前はイチイチ警察を敵に回すような行動をとるのか? 残念ながら、この国だって、他の国に比べれば穏便だ。多少の反政府活動とかだったら目をつぶってくれる。だが、お前のやろうとしていること、これからするであろう行動は、目をつぶってくれる範囲を明らかに逸脱する……」
「だから、あなたは何を言っているんですか? 私は別に、何もしやしませんよ」
飄々と富樫は口撃を交わす。こういった舌戦は富樫には得意だった。
「なぁ、富樫。もう少し踏み込んで話そう。お前が用心深いのは知っている。だから、こうしよう。犬と猫の話にしよう。お前は飼い主だ。犬と猫を助けたい気持ちはわかる。今、それはもうどうでもいい。そこから別の話をしようってことだ」
富樫の眉がピクリを動いた。目線は別の地点を彷徨っているが、今までとは違う会話の流れになろうとしていることを、身体のどこかで静かに理解していた。
「まぁ、それなら……いいでしょう。犬と猫の話は置いておくというのは、私にとっては斬新なことです。で? 何が話したいのですか?」
「お前の思想についてだ。お前は一体、何を考えている?」
「世界平和を」
特上の笑みを添えてそんなことを言うもんだからどういう表情をすればいいのかわからない。とりあえず、絶対に言えることは、富樫は絶対に『世界平和』なんてものを望んでいないことは自信をもって言えた。こいつが世界平和を本当に望んでいるか、それとも日本の借金があと10年ですべて無くなるか、どっちかに賭けろと言われれば迷いなく日本の借金があと10年ですべて無くなる方に賭ける。
「なぁ、富樫。俺たち、友達だろう?」
突然ヒューマニズム溢れる一言を持ち出してきた。
「私はね、あなたのそういうところが、本当に嫌いなんです」
突然のカミングアウトだった。しかし、茂上も顔色は変えない。
「俺はお前の友達だったつもりだったんだがな。お前はそう思ってなかったらしい」
静かにそう言った。
「いやぁ、私もね、あなたの友達のつもりですよ。だからこそ、嫌いなところは嫌いであると、はっきり言っているわけでして」
「じゃあもう少し聞いてやろう。俺のどういうところが嫌いなんだ?」
「建前と本音をごちゃ混ぜにしている点が、ですよ」
「…………は?」
意味がわからず、茂上は素っ頓狂な声をあげてしまう。
「別にね、私はあなたと友達であるつもりです。これは先ほどから言っているとおりです。しかし、今、この場で、この会話の流れでそれを問うのは建前だ。本音と見せかけた建前だ。違いますか? ねえ、〝刑事の〟茂上啓三さん? ここで私があなたの建前に騙されて本音のトークをしたとしましょう。あなたは私の告白を聞いて、〝刑事として〟何もしませんか? おそらく私の告白を、――まかり間違ってもここでは何かの告白はしませんが、してあなたが〝刑事として〟何かをされようものなら私はあなたを許さない。もう小学生ではないのですからね、許す、許さない、とか、絶交とかそういった類の制裁で済むと思ったら大間違いです。あぁ、そうそう、この〝友情の席〟のはずなのに胸元に忍ばせているICレコーダー、そこに録音された今の私の話だけで私を追い詰めたければどうぞ、好きにしてください。今の話だけで私をどこまで追い詰めることができるか、それは見てみたい。ねぇ? 〝友人の〟茂上くん?」
富樫は終始笑顔で、なおかつ柔らかな口調で話をしていたが、茂上はその口調から何か〝マズイこと〟を感じた。この男は本気だ。〝友人だからこそ〟わかる。
「つまり、俺が刑事だからこそ、俺には何も話さないってのか」
茂上は食いついた。
「あなたが刑事であることを一時でもいいから捨てられればいいのですがね、ま、無理でしょう。この世界で刑事ほど信用できないものはありませんから。
本音と建前であるこの世界で、卑しくも社会人として生きているのであれば、それこそ社会人の核ともいえる刑事なんてものをやっているのであれば、建前と本音をごちゃ混ぜにするなんていうくだらない真似をするのではなく、建前か本音、どちらか一方だけで攻めるべきだ。ま、相手が私だから、そういう手段に出たのだと思うのですがね。おそらく、そのくだらないヒューマニズムを振りかざして幾人かは騙されてきたんでしょうね、可哀想に。ですが、同じ手段が私に通じると思ったら大間違いです」
茂上は黙った。つまり、富樫が言いたいことは、正当な刑事ができる手段を用いて一之瀬と神宮を追い詰めてみせろということだ。しかし、それはもうできない。だからこそ茂上は〝友情〟という概念で富樫に喋らせようとしたのだ。「俺たち友達なんだから、話してくれ」と。しかし、卑怯と言われようが富樫を追い詰めたい茂上の刑事としての矜持があることもたしかだった。
「いいだろう、今日のところは諦めてやる。だがな、富樫、これだけは覚えておけ」
と言うと茂上は立ち上がり、
「あの2人にも事情があったんだとは思う。それは俺だってわかる。元々はあの2人が悪いんじゃないってな。しかし、どういう理由があれ、人を殺した者は罰せられなければならないし、罪を償わなければならない。いいか、ここで俺がなんとかして捕まえなけりゃ、あの子らは永遠にこれから先、後悔することになる。絶対に、間違いなく、その罪に苛まれながら生きていくことになるんだ。まともな人生を送れるわけがない。だからあの2人はきちんと、ここで捕まっておくべきなんだ。誰かに守られようとも、そんなことはどうこうの問題じゃないんだ。それをあの2人に伝えておけ。君たちが行ったことは、重罪なんだってな。警察は、俺は、あの2人の自首を待っている。今自首すれば2人の罪は軽くなるって伝えておいてくれ」
またこの男は、こういう嘘をつく。
自首で罪が軽くなるのは事件発覚前の話だ。
「誰のことを言っているのかよくわかりませんが、2人が自首することはないでしょう」
富樫はさらりと言った。
「そしてまぁ、そうですね。またどこかでお会いしましょう、とだけ言っておきますよ」
とだけ言った。
茂上は怒りに背中を震わせながら店を出て行った。
その背中を見て富樫は思った。
物語を読み過ぎの、ヒューマニズム溢れる有難いご意見だった、と。
そんなくだらない能書きを垂れる前に警察の冤罪を減らしてほしいものだ。
しかし。
そんなヒューマニズム溢れるこの世に蔓延る〝美しい〟お涙頂戴の物語が〝王道〟としてあることもまた事実なのだ。おそらく、茂上の意見に賛成する人間が多数派、いや、7割は占めるのだろうな、とも思った。
そんなわけで少数派側の富樫は少しばかり身体を伸ばす。
何はともあれ、こうしてこの事件も終わりを迎えたのだ。
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