第17話 一ノ瀬優貴と、富樫弁護士の会話

一ノ瀬優貴と、富樫弁護士の会話

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「どうして富樫弁護士は、僕らのことを、その、助けてくれるのですか」

 富樫が仕掛けた罠、計画を話し終えたあと、一之瀬は富樫に尋ねた。富樫は、前方のある一点をただひたすら見つめていた。

 その視線の先には何もない。私立S学園理事長室の壁が見える、ということができるかもしれなが、ただ、それだけのことだ。意味のあるものは、何もない。富樫は別に見てはいない。見つめてはいるが、見てはいない。

「どうしたのですが、一ノ瀬様。そんな質問をなされて」

 笑顔で富樫はそう答えた。笑顔ではあるが、前方のある一点をひたすら見つめ続けていることには変わりなかった。

「その……、なんていうか、気になって……」

「えっと、何が、でしょうか?」富樫はぎこちない笑みを浮かべながらそう言った。言葉には独特のメリハリがあった。

「なんて言えばわからないんですが……なんで富樫弁護士が僕たちを助けてくれるんでしょうか……?」

 一ノ瀬がそう言うと、富樫はくっくと笑った。

「なるほどなるほど、そういうことですか。なぜこんな、見るからに怪しいハゲた弁護士が人助けみたいなことをするのか、それをお尋ねになってるわけですね」

「い、いえ、えっと、違くはないんですが、そこまでとは……」

「まままま、いいんですいいんです、なんとなくわかっておりますから、そういうことは。なんというか、私も一歩間違えれば、澤村と同じような人になっていたかもしれませんからね。もう少し具体的に言えば、人助けをするような人種では決してない、ってなもんです。私の性格的にも環境的にも、いやはや、人生というのはまっこと、何が起こるのかわからないもんです」

 笑いながら富樫は言った。

「私としてもね、あまり自分のことについて話すことは得意ではないのですが、今日はこういう特異な機会を得たわけですから、そうですね。ほんの少し頑張って、不得意なことをやってみましょうか」

 と言うと、富樫はオホンと一回わざらしいほど立派な咳払いをして、姿勢を正した。

「私は、東京の青山というところで法律事務所をやらせていただいております。従業員数もね、それなりにおりますが、実際に何人ぐらいいるのかはもう把握しておりません。便宜上の、書類上のトップは私ということになっておりますが、現実的にはもう一人、私とは別に事務関係をすべて取り仕切っている者がおります。その方に普段はほとんど面倒くさいことは任せているのです。一方、書類上のトップの私は、と言いますと、事務所設立当初は真面目に弁護士稼業を続けていたのですが、ちょっとある事情がありまして、弁護士の活動を止めてしまいました。と言ってもまぁ、特になーんにもしていない、ってなことはなく、何て言えばいいんですかね、探偵のようなことをやらせてもらっております。もうお金には別に困ってはいないんですが、やはり何かしらをしたくなりましてね。今もたびたび〝何か〟をしております。その何かに対してお金を払ってくれている人もいますので、まぁ、それを生業に今もこうして生きているというわけです。まぁ、たまに事務所の経営において、弁護士として事務所で働いている他の人から何か相談などをされたりしましたら、それにも対応したりはしますがね。最近ではまったくそのような対応もしておりません。早い話が、今はほとんどお気楽な道楽をしているオヤジ、と考えてくださればOKです。おそらくそれが一番私にピッタリな言葉でしょうからね。今やっている仕事、のようなものも、私が好きだからやっていることであります。だから何が言いたいのかと申しますと、私がもし競馬を、もしくはパチンコをすることが生きがいになっているとしたら、私は何のためらいもなくひたすら競馬、パチンコにのめり込んでいたと思うのです。でも私は幸運ながら、いや、ここで幸運という言葉を使うのが適切かどうかはわかりませんが、そちらの方面のものにはまったく興味を持ちませんでした。なんでですかね。まぁそんなこと考えるだけ時間の無駄なのかもしれませんが。あ、あと、オマケに私、ゴルフもやらないんですよね、まったく。んでまぁ、そんな経緯がありますから、別に私は働きモノの偉い人、というわけではないのですよ。たまたま、趣味、やりたいことが世間一般的に言う〝仕事〟みたいな扱われ方をされているのでなんとか、世間から冷たい視線を受けないで済んではおりますが、一歩間違えれば私はそこら辺のナマケものと大差ない人間ってなわけです。というか、私はどちらかと言えば、ぐーたらでナマケものな人間ですのでね。だからまぁ、何が言いたいかといいますと、私をそんなに聖人扱いしてもらわなくて結構だ、ということです。私はただただ、単純にやりたいことを行っているしがない自己中な人間だってことです。それ以上でも、以下でもありません。もうちょっと、はっきり言いましょうかね。私は別に、あなたを助けたいと思っているわけではありません。私はやりたいこと、やっていて面白いと思うことをやって、結果としてあなたは助かっているのです。『結果として』です」

「でも……、それでも、感謝はしたいと思っています。それはつまり、あなたは僕のことを救いたいと思っているということであるし、それで僕はいくぶん助かっていますから」

「いや、それは少し違うと言わざるを得ませんね。あなたはあまり助かってはいないでしょう。助かったと本気で思ってはいないはずだ。心の表面でもしかしたら、少しは助かったと思っているかもしれませんが、それは違う。あなたは助かってはいない。救われてはいません。まぁ、あなたが救われているか救われたか、それを厳密に判断するのは私の役目なんかじゃあないんですがね、しかし、私は幸運にも、あなたより少し年を食っていますから、あなたより少しだけ、多くのものを見ることができる。見ることができたし、まぁ、これはもしかして、あくまでも、〝もしかして〟な類の話ですが、多くのものに、触れていた。それが良いことか悪いことかなんてのはわかりませんよ? それを判断することすら、私の仕事ではないからです。私の仕事はあくまで法律について他の多くの人より精通し続けて、その知識を必要としているであろう第三者にわかりやすく伝える、ただそれだけのことですからね。私とあなたの差はたったそれだけなんです。もちろん、最終的に私のことをどう思うかはあなたの勝手、いや、自由ですよ? あなたの最終判断にまで私は口を出すつもりは毛頭ありません。ですがね、あなたよりほんのちょっぴり多めに生きている私が、そうですね、何らかの資料の隅っこに載っている参考文献程度の意見を言わせていただくならば、私のことをあまり〝良い人間〟だと思わない方がいいでしょう。その理由は、まず、私自身が一番、私は良い人間ではないことを知っているからです。もしかしたら今は、私とあなたの立場上、私はあなたにとって良い人間に見えるかもしれません。しかし、それだけで、私を良い人間と見なすのは非常に危険です。あなたはこれから、たくさんの物事、または人間を目にするでしょう。良い人間に、良い物事、悪い人間に、悪い物事があるでしょう。そしてね、それらすべての物事を一通り目にした末に、あなたは知ることになるでしょう。この世界には、『悪い人間』と、『邪悪な人間』がいるという事実にね。具体的にどこにその2つの間に壁があるのか、今はそれを説明しませんよ。もしかしたら二度とあなたには説明する機会なんてもうないかもしれません。それでもまぁ構わんでしょ。私があなたに出す、ささやかな宿題とでも思ってくださいな。誰が『悪い人間』であり、誰が『邪悪な人間』なのか。幸いなことに、立場の関係上、今の私はあなたにとって良い人であります。これはビジネスの関係でありますから、そう簡単には変わらないでしょう。実際にこの私の言葉を信用するかどうかはあなた次第ですがね。しかし、根っこの部分において私は〝邪悪な人間〟であることをなれなきように。ま、要らん忠告かもしれませんがね。後から〝あのとききちんとやっておけばよかった〟なんて後悔は人生であまりしたくないものですからね。しかしまぁ、〝邪悪な人間〟というのはつまるところ、ひとつに〝究極的に利己的〟であるというものがあります。世の中は広いですから色々な種類の〝邪悪な人間〟がいます。ある程度カテゴライズしますと、その中に〝究極的に利己的な邪悪な人間〟というものが生まれるわけです。どちらかというと私はその〝究極的に利己的な邪悪な人間〟になります。つまりはまぁ、結論をさっさと言ってしまうならば、先ほども言ったように今、私とあなたはいわばビジネスの関係にあるわけですからしばらくの間は、私はあなたの味方なわけです。私の腕でどこまであなた方を守ることができるかわかりませんが、力の及ぶ限り、私はあなた方を守り続けます。しかしそれは、私が良い人間で正義の味方ばりにあなた方の傍にいたいと思っているわけではもちろんなく、あくまでビジネスの関係上、私はたまたま、あなたの味方になっていると、そういうわけなのです。この〝立場〟というものが厄介でしてね。ま、そこまで詳しく今回説明しなくてもいいとは思いますが、人と人との関係を正しく、正確に見抜くためにはこの〝立場〟というものを現在の関係から綺麗に除外しなくてはならんわけです。ま、言葉では簡単に言えますがこれが案外難しいわけです。しょうがないっちゃしょうがないんですがね。もちろん、あなたが私に感謝するのは自由です。人が人に感謝してはいけないなんて法律、ありませんからね。人間の道徳的な感情と照らし合わせてもそれは決して不自然なことでもないし、褒められないものでもない。人が人に感謝する。なんて素晴らしい、美しいことなのでしょうね。しかし、正しさというものはいつだって人を惑わせます。悪魔というものは人間を誘惑するときにはいつだって一見して正しい、いや、包括的に正しいことを武器にします。エデンの園にいた蛇も『林檎を食べることによって知識を手に入れられる。知識を手に入れることはおかしいことでもなんでもない』という正論を述べてイヴを誘惑し、結果的に人間をエデンの園から追放させることに成功するわけです。いいですか、世の中、正しいように見えることが、すべて正解であるとは限りません。それは旧約聖書にだって書かれていることなのです。あなたは私に感謝していると言った。その感謝の心自体を否定するつもりはありません。しかし、その感謝の心と私という人間に対する評価そのものは別にして考えていただきたいのです。あなたはこれから長い人生を歩むことになるでしょう。算氏の意思を引き継いで今まで以上に頑張ることになるでしょう。ま、そんな大変な人生を歩むにおいての、ひとつの知恵ってやつですな。ちょっと長くなってしまいましたが、私が言いたいことはそれだけです」

 長いようで、短い富樫の言葉が終わりを告げた。今の富樫の言葉を一ノ瀬は頭の中で整理し、静かに理解した。人の長い話を聴くとき、意識しなくとも一ノ瀬の頭はその言葉を自動的に〝反芻〟させていた。それはもう、大昔からの動物の習性のように、一ノ瀬の中に染みついていた自然な流れのひとつであった。そして、返事をした。とても短い返事だった。

「それでも、僕はあなたに感謝をします。僕から見れば、あなたが恩人であることに、変わりはないから…………」

 それを聞いて富樫は苦虫を間違えて噛み砕いてしまった漁師のような顔をした。

「ま、いいでしょう。何を選択するか、まではあなたの自由ですからね。最終的な選択権にまで口を出したらそれはもう、ただの過干渉ってやつになりますからな。……それにしても」

 と言うと富樫はニッコリと笑い、

「難儀な人生ですなぁ」とだけ、言ったのだった。


 こうして、一之瀬と神宮は、澤村元也殺人事件の容疑者として起訴されず、事件は終結したのだった。

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