第16話 富樫弁護士が行ったこと
富樫弁護士が行ったこと
□□□□□□□□□□□□□□□■□□□□□
「ごめんください、ごめんください」
人があと三人でも来ようものなら一杯になってしまうであろうフロント・カウンターに、富樫はいた。誰もいない受付から、居るはずであろう、人物を呼んでいる。
「なんだい! 騒がしいね」
富樫からみて向こう側の扉から老婆が現れた。背は小さく、皺がもはや別の生き物のようになっている、相当歳を召した方であると一目でわかる人物であった。
「お忙しい中、大変申し訳ございません。わたくし、こういう者でして」
すかさず名刺を出す。老婆は明らかに外敵を見る目で富樫を威嚇しながら、名刺を掠め取った。
「ふん。で? こんなところになんの用だい?」
明らかに機嫌が悪いようだ。もしかしたら老婆が楽しみにしていたワイドショーの途中に富樫が訪ねてしまったのかもしれない。
「実は2カ月前にわたくしどもの会社の者がこちらの宿でお世話になったと思うのですが…………」
「あぁ…………。なんだ、お客さんかい。そら失礼したね。で?」
「えぇ、それで、こちらでお世話になった際にうちの社員がちょっとした貴重品の忘れ物をしてしまったらしいのですよ。もしよろしければ、何か忘れ物があったかどうか確認をしてほしいのですが」
「なんだい。それぐらいのことだったら、事前に電話ぐらいしてくれればいいのに」
「いえいえ、こういうお願いごとは直接目を見てしたいものでして……」
「まぁいいよ。ちょっと時間をいただくけど、いいね?」
「えぇ、もちろん構いません。いくらでも待たせていただきます」
と言うと、老婆はこの空間にかなり不釣り合いのパソコンのモニターを覗き込んだ。年期が入っているもののように見えるが、富樫の位置からはそのパソコンの内部の価値まではわからない。老婆がパソコンをいじるさまは、決して慣れているようには見えない。
「2か月前の……何日に泊まったかわかるかい?」
と老婆が尋ねた。
「えっとですね……、あ、すみません、メモを忘れてしまいました……。申し訳ありません。2ヶ月前だったことはわかるんですがね。2か月前の上旬あたりです」
富樫は愛想笑いを浮かべてそう言った。
「うん…………? おかしいね、2か月前の上旬は別の会社の予約が入ってるねぇ」
「あぁ、いえ、たしかに他の会社の予約が入ってるとは私どもの会社が予約しようとしたときに聞かされた記憶がございます。わたくしが予約の対応をしましたので。しかし、その会社が予約をキャンセルをされたらしいので、私どもがそこの日にちで再度、予約をさせていただきました。ですから、そこの日程はわたくしたちが泊まったのです」
「……ふん、そうかい。まぁ、どっちでも構わないけど、2ヵ月前に泊まった客のなかで、貴重品の忘れ物はなかったよ。……ポケットティッシュと、ガイドブックの忘れ物はあるけど、こういったもんじゃないんだろ?」
「……えぇ、そうです。財布と印鑑をね。どこかで落した閉まったらしいのですよ。まぁ、ここの可能性はいたって低かったのですが、あくまでダメ元でしたので……」
「おやおや、そんなものを忘れるなんて、なかなか豪気なもんじゃないか」
「いやー、はっはっは。まったく、困ったもんですよ。ところで」
富樫は話の流れを変えるように、一瞬だけ間をとった。
「この宿は本当に素晴らしいようですね。わたくしは泊まることはできなかったのですが、泊まった人は皆そう言っておられましたよ」
「おや、そうかい」
老婆の対応はかなり塩っ辛いものだった。
「もし、今日の宿が空いていたら泊めていただきたいのですが、空きはありますか」
老婆は首を少し傾げて、
「うん? ちょっと待ってな」
と言って、パソコンをいじり始めた。富樫の側からは何をしているのか具体的なことはわからなかったが、おそらくは今日の予約状況でも見ているのだろう、と思った。
「あぁ、全室空いてるよ。どこか希望の部屋などはあるかい」
「あぁ、そうですね、どこでも構いません。自由に決めてしまってください」
とだけ言った。
全室空いているのにパソコンを見なければ今日の宿泊状況すらわからない、2ヶ月前、まったく別の会社の連中が泊まったのにも関わらず、自分の記憶に自信が持てず、こちらの言う通りに動いてしまう老婆。事前にリサーチャーが調べていた通りだ。この宿泊宿であれば、騙し通せる。心の中で富樫はニヤリと笑った。
それにしても。と、富樫は思う。
一之瀬と神宮由岐。あの二人が泊まった宿がこういう宿で良かったと思う。
脅迫、圧力、暴力、買収。これらのいずれにも属さない、情報操作という比較的平和な手段で一之瀬と神宮の宿泊という記録を書き換えることに成功しそうだからだ。やろうと思えば〝どんな手段でもたやすく行える〟伝手をもつ富樫であっても、できることがであれば平和的な手段を選びたいのだ。
もちろん、警察の徹底的な捜査は行われないだろうと富樫は踏んでいた。
それは当然だ。なぜなら、〝犯人は既にいるのだから〟。今の日本の捜査能力は世界でも指折りではあるが、無駄な捜査に人員を避けるほど暇ではない。暇ではないし、働く意味もないのに働きたくはないだろう。それも、越県捜査までして。
もし捜査が行われるとしたら、人員がかなり限られた個人レベルでの捜査になるだろうというのは想像に難くない。そしてその人員がかなり限られた中、ほとんど事件とは無関係な山梨に人を向けるとは到底思えない。だから別に、富樫がこのように出張る必要はまったくなかった。しかし実際に富樫がこうして山梨くんだりまで来たのにはもちろん、理由があった。
事件の捜査に茂上が関わっているという事実を知ったからだ。
そもそも、桜井が富樫を呼んだのも、元はと言えば茂上の存在を危惧したからだ。
そして富樫は、その危惧は間違いないものだと思っていた。
具体的にどうこう説明することはできない。しかし、富樫も茂上の勘の鋭さには一目置いていた。論理的に動いているのか、それとも論理を超越した何かで動いているのか、それは富樫にはわからない。しかし、富樫もある程度は論理的に動ける人間であると自負している。そのある程度論理的に動ける自分があの男の行動を予期できないのだから、おそらく茂上という男は論理を超越した何か、それ即ち、勘というもので動いているのだろうと思った。
それはさておき、茂上がよりにもよって一之瀬と神宮を疑って動いているとわかるや否や、富樫もそれ相応の考えで動かねばならない。いや、そもそも、茂上が動いていると知らなくても、もしかしたら富樫は同じことはしていたかもしれない。
しなくてもいけないこと、それは。
一之瀬と神宮の行動先を誰にも予測できないようにすること、だ。
一之瀬と神宮は最後の旅行先として山梨を選んでいたらしい。
結果的には何の意味もないただの仲良しこよしの旅行だったわけだが、当時の二人にとっては最後の晩餐ならぬ、最後の旅行だったわけだ。旅行そのものは別に犯罪でもなんでもないわけだから、下手に隠し立てする必要はないかもしれないが、ただの高校生が学校があるド平日に埼玉から山梨に旅行することは〝考えにくい〟。まったく考えられないことではないかもしれないが、一般人の感覚からすればありえないこと、と言えることができるだろう。
ではなぜ、そんな一般人の感覚からすればありえないことを、一之瀬と神宮は行ったのだろう? それは、山梨への旅行以前に〝一般人の感覚からすればありえないこと〟が起きたからではないだろうか、という考え方をすることが可能になってしまう。
もし茂上が、または一之瀬と神宮に目をつけた第三者が山梨への旅行を嗅ぎ付けてしまったらこの事実を根拠に二人に嫌疑をかける可能性が浮上する。
行ったかもしれない、ならまだいい。そんなくだらない想像で人は動かない。
しかし、山梨に泊まった、それも一週間も、という記録を証拠として押さえられたら話は少しばかり変わってくる。ここが大事なのだ。記録さえうまい方法で消えてしまえば、なんとでも言いくるめることができる。一之瀬と神宮に話を聞いたところ、二人はきちんと防犯カメラ対策をしていたらしいので、防犯カメラに二人だとわかる映像は残っていないだろう。富樫の信頼のおけるリサーチャーにも協力を仰いでJRの防犯カメラの映像を解析してもらっているが〝これはマズイ〟という情報は入っていない。二人は最後に残された(と思っていた)1週間をしっかりと守るために防犯カメラ対策をしていたようだが、これがまさか、こんな形で役に立つとは……。一之瀬の先見の明と運に富樫は感心してしまった。甲府市の市民の目撃情報によって一之瀬の神宮の情報がある程度割れてしまう可能性があるかもしれないが、宿泊記録のようなたしかなものがなければ証拠としては弱いだろう。公式の容疑もかかっていないのに未成年の人間の顔写真をもって捜査することにも限界がある。あまり露骨に容疑者でもない未成年の青年の顔写真をもって捜査し始めたら〝人権派弁護士富樫賢哉さん〟が活躍することになる。
宿泊施設の人間に二人の顔写真を見せて「こんな若いカップルが宿泊しにきませんでしたか」と聞くことはあるだろう。しかし、それは宿泊施設の人間を潰してしまえばおしまいだ。今、富樫がしたように。今日の夜、リサーチャーがこのボロい宿泊施設なんだか廃屋だがなんだかわからないようなところにリサーチャーが忍び込み、宿泊施設のパソコンのデータを書き換える。そして、後日、もし勘の良い捜査官か、茂上かが乗り込んできても、老婆はこう言うだろう。パソコンのデータを見ながら。「そんな人物は泊まっていない」と。
あぁ、そうだ。とさらに富樫は思考を進める。
茂上を〝敢えて〟山梨へと目を向けさせるのも手かもしれない。
何もヒントを与えなければ、何をするのか、何が起きるかがわからない。
まったくの未知の領域を作るというのは避けたいものだ。
ある程度情報を与えて、厄介な人間の行動を操作するのも手段の一つだろう。
他の人間の行動を、心理状態を完全に把握することなんて、まず不可能だ。
しかし、他の人間に対してある程度の情報を提供し、行動、心理状態をある程度操作することは可能だ。完全ではなく、あくまである程度だが。
山梨で警察が得られる有力な情報はまず、ない。それには自信があった。
リサーチャーにはこの宿の周辺に見張りを付けておけばいいだろう。
今日もいい仕事はできそうだ。そう、思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます