第6話 では、何が起きたのだろうかと、振り返る
では、何が起きたのだろうかと、振り返る
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一ノ瀬優貴は、自分がよくわからない生き物なんだなぁ、と自覚したのが一体いつのことだったのか、あまり覚えていない。よくわからない生き物、もう少し短い言葉で表現するならば、変、と言うべきか。何を以て変と言うべきかわからないが、多分、他の人がしないことを平然と行う人のことを変な人と言うのだろうと、いつの日か、そう定義付けていた。一ノ瀬優貴は、見事なまでに他の人がしないことを〝する〟人間だった。自覚はあるが、止められないのだ。どうしてか、なぜか、というのは簡単には答えることができない。ただただ、自分がやってみたいからだ、という理由に他ならなかった。具体的にどういうことが他の人がやらないことで、どういう考えを持っているのか。常識、または、一般的な行動の模範を身体の中に置いておかなかった。早い話が、彼の行動の多くは、他の人間にとって、非常に奇妙に見えるものだった。これは例えであるが、もし、目の前に「絶対に押してはいけないスイッチ」があるとしたら、なんの躊躇もなく押す。そういう人間だった。別に笑いをとろうとか、目立ってやろうとか、そういう意図で行うわけではない。もし理由があるとしたら、「なぜその紙に書いてあることを実行しなければならないのか」という考えをもってボタンを押す。ボタンがそこにあれば、押したくなるのが人間ではないか。その人間の本能にしたがって行動をする。それが、一之瀬優貴という人間だった。
そんな一之瀬優貴でなければ、算六夜に話しかけるという行動をとらなかっただろう。そして実際、算六夜に話しかけるものはいなかった。事務的な連絡、伝達などを除けば、ではあるが。授業中もほとんど発言をしなかった。1クラスに必ずいる「授業中にまったく発言をしない人クラスタ」。そのクラスタに算六夜は属していた。一緒に会話をする人もいない。話す量の程度を限らなくても、いないのだ。一話す人間も、十話す人間も。算六夜とは、そういった立場上にある人間だった。
算六夜がまったく喋らず、根暗を絵に描いたような人間だ、ということを否定するのは難しい。ガリガリで、骸骨に皮を被せて、それに気付いた人形職人が申し訳程度に肉を付けたような肉つきだった。目は非常に細く、常に開いているのか、それとも目を閉じて寝ているのか第三者が判断するのは至難の業だった。まるでカッターで一本の線をひいたような瞳だった。残念ながら、モテそうな人間とは言えなかった。どちらかと言えば、30代後半まで売れ残っていそうな人間だった。休み時間はひとりで細々と何かしらの本を読んでいた。本には常に何かしらのカバーがかかっていて、何を読んでいるのか誰もわからなかった。カバーは、本屋が付けてくれる簡素なカバーの時もあれば、青色のちょっと高そうな皮のカバーであるときもあった。そんな彼に好き好んで話しかける奇特な人間はいなかった。そう、一之瀬優貴を除いては。
それは、6月のことだった。
「いつもいつも本を読んでるけど、どんな本を読んでいるんだい?」
算は本を読んでいた。お昼休みの時間だ。弁当を食べ終え、残り20分間、一番読書に没頭できる至福の時だった。そんな彼は、一之瀬優貴の一言に気付かなかった。いや、そんな声が響いていたのは知っている。それは耳に入っていた。しかし、それが自分に向けられた一言であることにしばらく気付かなかったのだ。
「なぁ、君だよ、君。おーい。君に声をかけてるんだけど、ちょっといいかい」
先ほどより大きめの音量で声が飛んできた。そこで、算は顔を上げた。自分が座っている机の反対側から自分を見つめている男がいた。
切れ長の細い目をその男に向けて、算は言った。
「君はもしかして、僕に声をかけたのか?」
「あぁ、そうだ。やっと気づいてくれたか。もしかして、新種のイヤホンでもしてたのかと思ったよ」
算は顔を歪めた。
「言っている意味がよくわからないんだが……」
「そんな凝ったことを言ったつもりはないんだ。悪い悪い」笑いながら相手の男は言った。
「つまり、アレだ。君はこんなに近くにいる僕の声にまったく気付かないから、僕が知らないような無線のイヤホンのようなものを耳につけているのかなっと、そう思っただけさ」
「何を言っているんだかよくわからないんだが……」
首を傾げながら算は言った。
「いやいや、だから、そう考えるようなことじゃないよ。悪かった。よく他の人から言われるんだ。お前の冗談はわかりにくいって」
「結局、何が言いたいんですか?」
若干イライラしながら算は男に訊いた。
「まぁまぁ、結局は、僕の話を聞いてくれってことだよ。どう? 僕の話、聞いてみない?」
顔に出さないように努めたが、その努力が結果に結びついたかどうかはわからなかった。なんでコイツはこんなに馴れなれしく話しかけてくるんだろう、と思わずにはいられなかった。遠慮とかそういったものがないのだろうか。
「とりあえず、話を聞かせてもらいましょうか。せっかく話しかけてきてくれたんだから」
と算が言った。若干声にイライラが含まれていた。
「そうでなくっちゃ。えっと、自己紹介しなくちゃだな。こんにちは、イチノセユキと言います」
「イチノセ ユキ」算が復唱する。
「そうそう。まぁさ、いちいち言わなくてもある程度想像できると思うけど、こういう字を書きます」
と言うとイチノセは机にシャーペンで『一ノ瀬 優貴』と書いた。いちのせゆき。
「それはどうも。僕の名前はこれです」
と言うと、算は机の上の『一ノ瀬優貴』と書かれた文字のすぐ横に『算 六夜』と書いた。
「すごいな。これで『かぞえ ろくや』って読むんだろう?」
その文字を見て一ノ瀬がそう言った。
「なんだ、僕の名前、知っていたのか」
「そりゃあ、ね。だっていつも出席取るだろ? そのとき、君の名前も呼ばれるわけじゃないか。毎日毎日、毎朝さ」
まぁ、たしかにそれは一ノ瀬の言う通りだった。しかし、腑に落ちない点もあった。
「言われてみればそうかもしれんが、だからと言って普通、男の名前を憶えているものか?」
顔をしかめながら富樫は一ノ瀬に問うた。
「さあて、なんでかねえ。ま、そんなことはどうでもいいじゃないか」
それはどうでもいいことなのだろうか、と不思議に思ったがいちいちそれを考えるために脳の一部を割くことはやめた。割いた分だけ無駄になることはわかりきっていたからだ。
「わかった。で? 用というのは?」
「なぁ、僕が作ったクラブに入る気はないか?」
「は? なんだって?」眉をひそめて聞き返した。
「クラブだ、クラブ。部活だよ。部活ってどういうもんか知らない?」
いや、そこまで知らないなんてことはない。さすがにナメるなと言いたい。聞き返したのは早い話、初対面の相手にいきなりクラブの勧誘をするなんてとてもじゃないが信じられないと思ったからだ。おそらく聞き間違いだろう、と思って聞き返してはみたが結果はまったく変わらなかった。まったく遺憾なことに。
「さすがにクラブぐらいは知っているさ」不機嫌さをあまり隠さずに算は言った。
「そいつは良かった」その不機嫌さを察していないのか、本当にホッとしたかのように一ノ瀬は返事をした。「で、どうだろう?」
「だから、何がだ」
「いや、だから、クラブに入るか入らないかについてだよ」
「あぁ、そうか。でもまず教えてほしいのは、どういうクラブかどうかってことだ。残念ながら僕は茶道について心得がまるでないから、もし君が言うクラブが茶道クラブだったら、僕は丁重に断りたい」
「それを心配しているのか。つまり、入るか入らないかについては前向きに検討してもらえるってことだよね?」
磊落そうな笑みを見せ、そう言う一ノ瀬。その一ノ瀬の顔を見て、算は今自分が行ったやり取りについて高速で反芻した。まずいことは言っていないはずだ。
「言い方によってはそうなるかもしれない。だが、どういうクラブなのかというのは大事なはずだ。そうだろう?」
一抹の不安を抱えながら算は一ノ瀬にそう訊いた。
「たしかに。君の言っていることは、全面的に正しい。だがしかし……、今、僕が君に誘っているクラブっていうのは、僕が新しく創ろうとしているクラブだ。既存のクラブじゃない」
言っている意味がやはりよくわからなかったので、算はもう一度今の一ノ瀬の言葉を頭の中で噛みしめた。
「普通の勧誘活動ではないようだな。でも、なぜ僕を誘う?」
「理由は至って簡単。もう他の奴らにはあらかた聞いてしまったから」
たしかに、至って簡単な理由だった。まさに、単純明快というやつだ。
「で?」
「断られた。そりゃまぁ、そうだろうね。新しく創るクラブで、何をやるかもちゃんと決まっていないからさ、誰も気味悪がって近付こうともしない」
「だったら、僕を誘う前に、クラブの活動の方向性ぐらい決めたっていいんじゃないかな。失敗するのは構わないが、失敗から何かを学んだほうがいいと思うぞ。非生産的だ」
「決めてないんだよ」
笑顔でこんなことを言うもんだから算は驚いた。こいつ、もしかしたら頭が少々おかしいのではないか、と、本気でそう思ってしまった。
「そうか、君は僕をからかっているんだね。そういうことだな」
もう算は一ノ瀬の顔を見ていなかった。見る価値すらないと思ったのだ。
「いやいや、ちょ、ちょっと待ってくれ。悪い、悪い。もしかしたら言い方が悪かったかもしれない。別に、決して、君をからかっているわけではない。ちゃんと、なんて言えばいいんだろう、そうだな。君が好きそうな言葉を選んで言うならば、〝生産的な〟理由ってもんも、たしかにある」
これをまたドヤ顔で言うもんだから腹立たしい。
「はぁ。まぁ、聞くだけ聞いてやるよ。その、〝生産的な〟理由とやらは何?」
「部屋が欲しいんだ」
「部屋…………?」
「そう、部屋だ。なんでもいい、部活動を立ちあげれば、最低一部屋、学校からもらうことができるんだよ。鍵付きの部屋が、だ。まぁ、部活設立に必要な最低人数3人だけだったら、あまり部屋の広さを期待しない方がいいかもしれないけど、それでも、それなりの広さの部屋はもらえるはずだ。野球とかできる広さではないにしろ、ね」
と言って、一ノ瀬はそこで一度言葉を切った。こちらの返答を待つつもりらしかった。
「で、僕はその部活動の設立者として名前だけを貸せばいいのかい?」
淡々と訊いてみた。
「まぁ、ありていに言えばね。もちろん、名前だけ貸してもらうってのもいいけど、どうせなら部活動にも参加してほしい。部屋に君のスペースももちろん確保する。どうせなら、ってことだよ。参加しなくてもいいしね。そんな堅っ苦しく考えないでもらいたい。面倒くさい書類の作成とか、先生からの口頭尋問とかはもちろん、僕が対応するからさ」
そこでまた一ノ瀬は言葉を切った。
算はそこで、初めて物事を真剣に考える仕草をとった。左の親指で顎をいじる。これが算の〝物事を考える仕草〟だった。ここにきて初めてその仕草をとったのももちろん理由がある。それはもちろん、この話が算にとって、決して悪くない話であったからだった。タダで完全な、とは言えないまでも、それなりのプライベートルームが手に入るのは悪くないことだった。教室よりは独立した空間。それはほんの少し魅力的だった。
「ま、いいだろ。いいよ、名前、貸してやるよ。ただ、最後にひとつだけ質問させてくれ。その同好会だか部活だか知らないが、そのよくわからない集団に僕と、君、ええと、一ノ瀬君と、もう一人いるんだろ? それ、誰?」
「ん? あぁ、そうか。それも大切なことだな。もう一人は神宮だ。知ってる? 神宮由岐」
「神宮……由岐……? あぁ」
神宮由岐。もちろん、算はその名前をよく知っていた。もっと言うと、〝一ノ瀬優貴と、神宮由岐の関係〟もよく知っていた。噂に疎く、クラスメイトのゴシップにはまったく興味のない算であっても、この二人の関係は自然と耳に届いてしまうほどのものであった。
「やっぱり、僕は名前を貸してやるだけの方がいいんじゃないのか?」
「まさか。言いたいことはわかるけど、別にそういうことで部屋を借りたいわけじゃないんだ。だから、君も部活に参加してほしい。もちろん嫌なら、無理強いするつもりはないけどね」
そこには、上辺だけを取り繕って、とかそういったものではない、核に迫る何かがあった。少なくとも算はそう感じた。しかし、それでも算には疑問が残る。どうせここまできてしまったのだ。その疑問について、直接問いただしてみよう。
「しかし……いいのか? いや、僕としてはまぁ、ありがたくないことはないが、僕なんかを誘って」
「え? 何? どういうこと?」
まだ数の概念を全く知らないチンパンジーのような顔をして一之瀬は算に問い返した。その顔と回答に算は面食らってしまい、
「あ、いや、その、僕の……噂についてだよ。僕なんかと付き合ってると、君も変な目で見られるかもしれない」
と、誠意をこめて算は一之瀬に言った。しかし、一之瀬にとってはどこ吹く風らしく、
「なんだ、君、変な噂でもされてるのか。いや、悪いけど、僕はそういうのちょっと疎いんだ。だから別にいいさ、まったく構わない、ノー・プロブレムだ。なんにせよ、よろしくね、文化人類研究部員、第3号」
それが、算六夜と、一之瀬優貴の出会いだった。
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