第5話 失踪と、疾走
失踪と、疾走
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夜。
目覚めはとてもスムーズだった。手探りでアイフォンを探し出し、今の時間を確認する。午前3時。とてつもなく早起きだった。外からの光もまったく入ってきていない。当然だ。午前3時というのはそういう時間だ。電波はやや悪い。繋がることは繋がるが、おそらく場所を変えると運が悪ければ繋がらないこともあるだろうという状態だ。
今の状況を思い出す。そして、思い出したくもないことを思い出し、気分が愉快な感じに落ち込む。今の自分は犯罪者であり、絶賛逃亡中という現実がなにより重い。重過ぎた。日付けは少しずつ変わり、Xデーへと近付いている。まるで処刑台の階段を上っている気分だった。いや、今自分は処刑台の階段を上っているのかもしれない。現在進行形で、錯覚などでは決してなく。
隣の布団を見遣る。
なんとなく、太古の昔から決まっていたかのような暗黙の了解により、一ノ瀬と神宮の布団は約3mほど離れていた。もし何もなければ、心臓の早さも少しは変わるかもしれないが、生憎と現在そんな気分ではないし、そんな気分には到底なれない。なれそうにもない。ウブな恋愛気分になるには、〝自分が犯罪者である〟という現実があまりにも邪魔だった。どうせ牢屋に入るのであれば、今弾けてしまえという考え方も、どうしてもできなかった。おそらく自分にはそういうストッパーを外せない制限でもかかっているのだろう。いつだってそうだ。いつだって自分は、一線を越えられない。越えられそうもない。今はその自分に、心の底から感謝している。
「…………?」
異変に気づいた。暗闇でほんのちょっぴりではあるが距離があるため、その〝異変〟に気づくのに時間がかかってしまった。かけ布団の形が、明らかにおかしい。
素早く一ノ瀬は起き上がり、神宮が寝ているはずの布団に近付いた。
「いない…………」
そこにいるはずの、神宮由岐は、消えていた。
ふらふらと歩いてから一体何分、いや、何時間経っただろうか。
神宮由岐はあてもなく、人気のない道路をポツポツと歩いていた。
最初は坂を上っていた。山梨特有の、誰のために造られたのかもさっぱりわからないような、大きい坂だ。しばらく坂を上っていたらコンビニがあった。そのコンビニを左に曲がった。これにも特に理由はない。強いて言えばなんとなくかもしれない。これ以上坂を上りたくないと思ったからかもしれない。人とまったくスレ違わない。灯りもあることはるが、間隔はこれでもかというほどに広い。結果として、道路にはほとんど灯りがない状態となる。もう少し早い時間であれば、家から光が漏れ出るものなのかもしれないがそれもない。終わってしまった世界のような、そんな場所だった。いや、もしかしたら今この瞬間、この山梨という場所は〝終わってしまっている〟世界なのかもしれない。…………あぁ……違うな……。おそらく終わっているのは、〝私〟なのだ。と、神宮は考えを変える。〝私〟が終わってしまっているのだ。人を殺してしまったことにより、人としての何かが終わりかけている、いや、腐りかけているのだ。だから、私が見えている半径云々メートル以内のものは腐っている。〝私〟がいるから、腐っている……。今ならなんで、〝人が人を殺してはいけないのか〟、その理由は分かる気がする。人が他の人を、どんな形であれ殺してしまったなら、自分が腐ってしまうのだ。だから人間は本能として、他の人を殺そうとしない。人を殺そうとするなら、多大なる犠牲を払わなければならないのだ……。
人を殺してしまった自分は、もう腐り始めている。それはそう、腐ったミカンのように。自分が存在するだけで、周りのものを腐らせてしまう。
では、どうすればこの状況を解決できるのか?
そんなことは簡単だ。
と、いろいろなことを考えている内に自分はいつの間にか渓谷のような場所に来ていることに気づいた。川のせせらぎ、というには少し凶暴な、水の音が聞こえる。ドドドドド、というような。あぁ、気づけば私は、こんなところにまで歩いて来ていたのか。もう周りに民家なんてものはなかった。山。森。自然に囲まれた場所。山梨にこんなところがあるなんて、知らなかった。不思議と、ここは〝腐っている〟ようには感じなかった。山や森のような雄大なる自然は、人間の腐敗など受け付けないのだろう。なにしろ彼らは、人間なんかより歴史が長い個体種なのだから。そうか。ここにいれば私は誰にも迷惑をかけなくても済む。
いつの間にか神宮の身体はガードレールより向こう側にあった。もう、神宮はほんの数歩歩けば、めでたく6mの自由落下の末、川の激流に身を任せることができる。
「ロマンチックな散歩コースだね」
「!」
こんなところで、こんな時間に、まさか人の声を聞くとは思ってもみなかったので心臓が一拍ものすごく大きな揺れを見せた。その心臓の揺れのせいで思ってもいないタイミングで川の激流に身を任せそうになってしまった。
「優貴くん…………」
そこにいたのは、一ノ瀬優貴だった。
「別に、怒ってるとか、そういうんじゃないよ」
笑顔だった。声にも、怒気は孕まれていない。哀しみが含まれている声だった。
「ただ、さ。他の人に自首したら私は自殺するって言ったような人間が、もし先に自殺するような事態になったら、それは狡いんじゃいかな、とは思ったよ」
「…………」
「まぁまぁ。これは別に、由岐に言ったんじゃないよ。もし仮に、そういう話があるとすれば……、ちょっと酷い話じゃない? と思っただけだよ」
「…………」
神宮の顔はみるみる内に翳りを見せる。
「ま、山梨の夜は、埼玉と違って星が奇麗だったりするからね、散歩したい気持ちはよくわかるよ」
と言って一ノ瀬は空を見上げる。そこには埼玉では決して見ることのできない星たちが煌めいていた。一ノ瀬はそこで、小学生のときに星座の勉強をしたことを思い出した。なんのために勉強したのかほとんど覚えていない、今ではまったく名も思い出せないような星座の数々。そもそも埼玉では星なんてほとんど見ることができない。ふと気づいて見上げてみても見ることができるのは3つぐらいの光る点ぐらいだ。それが星と呼ばれているものだ。そもそも、3つだけでも星を見れることは幸運なほうだ。多くの日には星すら見れない。それが埼玉にとっての日常だ。星座を勉強したければ、夜に空を見上げるのではなく、大宮まで行ってプラネタリウムを見に行った方が断然効率的だ。
そんな埼玉の星空事情なだけに、この山梨の星空はちょっとしたものであった。この星空のことを知っていたわけではない。しかし、この星空のために旅行するのもアリではあると思った。そして、この星空は、この先の人生の荒野を旅するために必要な熱源、思い出になり得るのではないかとも、そう思った。
埼玉と山梨との相違点は何も、星空事情だけではない。県庁所在地の甲府市であっても、駅から徒歩30分圏内のこの場所であっても、灯りはほとんどないと言っても過言ではない。この現代社会において、光源は月の光であった。そのことを神宮は知ってか知らずか、自分のアイフォンをしっかりと持っていた。アイフォンの懐中電灯のアプリを時々用いて、ここまで歩いてきたのだ。その光がなければ、とてもじゃないが歩いて来れない。それが甲府の夜の姿だった。家がまったくないわけではないので、家から光が漏れ出ていればその光を頼りにすることができたかもしれないが、普通の人だったらもう寝ている時間だ。国立大学が近くにある関係で大学生が多く下宿しているアパートが密集している地点ももう過ぎてしまっていた。あるのは畑と木々と、人が住んでいるかもわからない寂れた一軒家のみだった。そして、壊れた街灯。
しかし、それらの事情があったにせよ、神宮がアイフォンを持って外に出たのは偶然だった。そのアイフォンがなければ、一之瀬はきっと、神宮のことを発見することはできなかっただろう。昨今のアイフォンには、アイフォンをなくしてしまったことときのために、自分のアイフォンを見つけ出すことができるようなアプリがあるのだ。そのアプリを用いて、一之瀬は神宮のことを見つけた。
「さ、帰ろう、由岐」
優しげな声を一ノ瀬はかけた。しかし、誠に残念なことに、それは神宮には上手い具合に届かなかったようだ。
「どこに…………帰るの……?」
神宮は涙を流しながら一ノ瀬にそう問いかけた。
「…………」
今度は一ノ瀬が黙る番であった。返事ができない。ここは即答しなければならない場面だった。そんなことは一ノ瀬自身、よくわかっている。よくわかっているはずなのに、言葉が出てこなかった。それほどまでに、神宮の短い率直な問いが、重かった。
この問いが、「宿泊宿に帰るんだよ」という答えを期待している問いでないことぐらい、鈍い一ノ瀬であっても察しがつく。ここで神宮を自殺から引き戻すためには、それなりの答えを用意しなければならない。容易には用意できないような、そんな答えが。
それを一ノ瀬が簡単に用意できないことぐらい、神宮にだって分かっているはずだ。だから、神宮は卑怯者だ、と罵ることだってできなくはない。しかし、そんなことをしてもなんの解決にもならない。論理ではなく、感情が優先される場面なんて、人生には、よくある話だ。今の問いがそれにあたる。ただ、それだけの話だ。
「俺にだって、わからないよ、それでも……」
「…………」
神宮は黙った。じっと、一ノ瀬の顔を見つめている。見つめて、次の言葉を待っている。それが一ノ瀬にはわかった。この次の言葉を間違えてはいけない、ということも。
「約束……したじゃないか……」
一ノ瀬は、声を振り絞った。声は若干、震えていた。
「
『良き時も、悪き時も、富める時も、貧しき時も、健やかなる時も、
病める時も、死が二人を分かつまで、愛し、慈しむことを誓いますか?』
」
それは、二人が付き合うときに誓いあった言葉。
■
両親がいないという共通点をもった二人。
ただただ偶、然流行りの小説を知っていたというだけの二人。
一番好きな小説が一緒なだけであった二人。
そんなちょっとした共通点の欠片が少しずつ積み重なり、よく話すような仲にになった。
二人共独り暮らしだった。具体的にどういう手続きがあったのかは知らないが、一度だけ会ったことのある法律上の親が二人にはいた。もちろん、親は別々だ。中学を卒業しようというときに、今二人が通っていた学校、「私立S学園」の校長、桜井雪下に呼ばれた。一ノ瀬はそんなお呼び出しをもらったことはないので、ドキドキしながら普段であれば絶対に立ち入ることのない『応接室』に入った。中学校の担任の教師、学年主任、教頭、校長と錚々たる面子がその教室にはいた。そしてその錚々たる面子の中に一人、当時の一ノ瀬が見たことのない人間がいた。それが桜井雪下であった。真っ赤な無地のネクタイを除いては特に不思議な点はないが、なにせネクタイがこれでもかというほどの真っ赤さだ。すべてその真っ赤さにひっくり返されてしまう。白い髭は顎下6cmほど、立派に伸びており、仙人のようではあるが、顔はいくぶん若々しかった。なんともアンバランスな感じが不安感を煽った。
一ノ瀬はその仙人に軽く会釈してから担任の教師に指されたソファに座る。それから、仙人が口を開いた。
「私は、桜井と申す者です」と……。
それから桜井から話された内容は簡単に言えば以下のようなものだった。
桜井はある学校法人の理事長を務めているのと同様にNPO法人を主宰しており、優秀な生徒でありながら家庭の経済的な要因で進む道が限られてしまっている青年に対し支援をしている団体である、ということ。そして今回、一ノ瀬がそのNPO法人の支援者候補となったこと。一ノ瀬はその公立中学の総合的な成績は200名中2位であったため、〝優秀な生徒〟の部分についてはあっさりクリアされていたということ。そしてさらに一ノ瀬は高校に行かずに就職を考えていた。それを担任の教師にすでに伝えていた。だからこそ、担任の教師は学年主任にこれを伝え、話が桜井のもとにまで伝わった。
「もちろん、最終的な判断は君に任せるつもりではあるとですよ」
不思議な口調で桜井は言った。今までに聞いたことのない口調、というか語尾だった。
「ですがまぁ、大学にまで、とは勿論言わないがね、高校は出ておいた方が良いと思う。これは私が教育関係者だから、とかそういった理由ではなく、客観的な事実として、そう思う、という話なのだがね」
一ノ瀬はえぇ、えぇ、と軽く頷いた。頭は恐ろしいほど冷静に回っていた。
その後、私立S学園のパンフレットを取り出し、大学への進学実績、就職率、部活の数、部活の実績、どういう部活があるか、どういう施設があるかなどを簡単に、しかしながら丁寧に一ノ瀬に話した。その部分は一ノ瀬はほとんど右の耳から入って左の耳へ抜けるといった具合であった。
そして問題の金銭の面について。これは高校3年間はまったくの無料であるということだった。申請があれば、寮(というか、学校が運営する普通のアパート)も用意が可能であるという点。この二つは一ノ瀬の興味を大いに引き寄せた。さらには、奨学金の給付も受けることが可能であるという、至れりつくせりの待遇であった。
「ここまでですと、大抵の生徒さんが疑問に思うのが、なぜ無料でそこまで提供できるのかということなのですがね、まぁ早い話が、我々のNPO法人には協賛企業というものがバックについております。その企業がいくらかのお金を我々に提供してくださっております。それと……、まぁ早い話が寄付金ですな。お陰さまでこの学校は設立15年の歴史を持っておるです故、当学校の出身生徒の一部が寄付金をくださっておるのです」
結局、OKの返事をしたのはそれから3日経ってからであった。
聞けば、神宮も境遇と経緯は似たようなものだったと言う。
もしかしたら、一ノ瀬と神宮が所属している他のクラスの生徒も、事の大小の違いはあれど、皆似たような経緯でここに来たのかもしれない。しかし、そんな人間の核とも言える部分についての話をあちらこちらの人間と居酒屋で話すノリでは話せない。話せる人間ももしかしたらいるのかもしれないが、当時高一、若干15歳の一ノ瀬には無理な話であった。ある程度、どの程度か具体的に量を視覚的に説明することはできないが、ある程度の段階まで友人関係が進まないと無理な話であった。その〝ある程度〟まで神宮とまでは達したわけだ。
話せば話すほど、お互いの趣味が合っていることがわかった。紅茶派か緑茶派かと言われれば二人共緑茶派であったし、目玉焼きにケチャップか塩か醤油かと言われれば二人共即答で醤油であった。しかし、それはさすがに直接的な要因ではないであろうが、小説、ゲームの趣味が一致していたのはかなり大きかったのかもしれない。
最初は同じ本の感想について言い合う。それは、お互いが知らない本を教え合う。そして数日後にはその本についての感想を言い合い、ここをこうすればもっと面白くなったという談義だったり、この主人公のここが嫌い、や、この主人公のここが好きといった趣味嗜好方面の話もした。
そしてそれは、もちろん後になってわかったということではあるが、これは一之瀬と神宮、互いが互いの性格を知るのにいたく役に立つことであった。二人が本の中の登場人物や設定、世界観などに思いを巡らせて議論をしている間にお互いのお互いの性格、趣味、思考などを自然と理解し合っていた。そして、価値観も。気がつけば、二人は互いが良く識る間柄となっていた。心理学でいうところのシェマ、もしくはスキーマという概念ができあがっていたのだった。
そして自然に、はじめはそれが俗に言う〝デート〟であることなんて意識してはいなかったが、映画を一緒に見るなんてこともした。はじめはまるで相手が異性であることなんて意識していなかった。例えればそれはそう、友人と一緒に出かけているような感覚であった。趣味が合う友人同士が行うような行動、行為。それ以上でも以下でもない。自分たちの独立した世界、空間であった。自分たちが周りから見ればどう見えるかなんて、考えもしなかったのだ。そして、自分たちが第三者から見たとき、どう見えるのか。一之瀬が神宮のことを〝異性〟なのだと意識したのは桜井から話をされたときのことだ。
「あ、一ノ瀬クンじゃないか。最近どうだい? この前の中間テストも1位だったみたいですのじゃね」
やはり語尾が変であったが、それには多少は慣れた。
「ありがとうございます。これも先生のお陰です」
笑顔を添えて答えた。偽りのない笑顔だった。なんの比喩でも謙遜でも卑下でもない。桜井が居なければ、一之瀬の人生は間違いなく変わっていた。
「ま、ま、これからも適当にやんなさい。君ならそんなに頑張らなくてもそれなりに過ごせるだろうさ。まぁ、そんな堅苦しいことはさておき、」
「?」
「どうじゃい? 神宮クンとは」
と、そんなことを言ってきた。口元を歪ませて、笑顔で。
「え? 神宮って……由岐のことですか? まぁ、彼女もこの間のテストでは2位だったので、すごいと思いますよ。良いライバルです」
トボけているとかそういうのではなく、まったくの素の返事であった。負けられない、とまでは思ってはいないが、何もせずのうのうと1位を譲る気もなかった。
「まーたまたまた、トボケおって。そうではないよ。この前も、街にお二人で繰り出したと噂になっておったぞ。新聞部に聞いた」
「……?」
町に繰り出した? 二人きりで? 数瞬考えてからヒットした検索結果をもとに、一ノ瀬は返事をする。
「あ、あぁ。そうですね。僕と由岐……神谷さん、偶然、同じ本を愛読しておりまして、その小説が映画化されたんですよ。ですからまぁ、ちょっとした記念に、というかまぁ、率直に内容が気になったので映画を見に行ったんですよ。よく御存じですね」
内容は散々であった。今からでもできるのであれば、記憶を消して、映画を見てから本を読むという順序を踏みたいような内容であった。原作で最も重要な部分をぬかしている映画など最初から見とうなかったのだ。原作の重要な部分には、重大な伏線があった。その伏線をすっぽかしてしまうと、ラストシーンで帳尻が合わなくなる。すると、原作を知らない客にとってみれば、ご都合主義のくだらないハッピーエンドに見えてしまう。映画の主演の俳優はテレビで何かと話題になっている若手の実力派であったため、原作を知らないで映画を見に来る輩はいくらでもいる。そういう方々から、映画は別に構わないが、原作の評価、もっと言えば、小説の作者の評価まで落ちてしまう可能性まで考えられる。それを考えると一之瀬の気分は少しばかり陰鬱になる。もちろんそれは言葉にはしない。
「ほっほ。それで? 神宮クンとはどれぐらいの間お付き合いしておるのかね?」
「えっと……」
ここに来てようやく一ノ瀬も『この話がどうもおかしなところに向かおうとしている』ことに気づいた。自分が考えていることと、相手の考えていることが明らかに違う。まるで、自分と相手、別々のルールに則って野球をしているような気分だった。
客観的に、それはもちろん、〝できるだけ〟ではあるが客観的に物事を考えてみる。今までの自分と桜井校長との会話。そして、数瞬の後にあるひとつの結論に辿り着く。
「え、えぇと、校長」
「ほ? なんじゃい? 顔、紅いぞ」
「いえ、そのですね……。いや、まぁ、たしかにそれだけを言われてしまうと誤解されてしまう点は多々あるとは思いますが…………」
客観的に見れば、一ノ瀬と神宮が行っていることは完全にデートだった。
「僕と神宮さんはその……付き合っているとか、そういうのではないんです。ただ、趣味が偶然合ったので、ちょっと映画を一緒に見に行った、っていうそれだけの話です」
「ほっほっほ、まままま、別にな、ワシにそんな説明をしなくていいんだよ。すまんな、ワシも聞き方が少々下衆かったかもしれんな。ま、お付き合いには気をつけなさい。あんまり堅苦しいことは言いたくないんじゃが、青春は一度しかないんじゃ。こう言うと教育者としては失格かもしれんが、まぁ、ちょっぴり危ない橋を渡っても平気じゃろ。んじゃ、良い青春を、一ノ瀬クン」
と言って、さくさくと立ち去ってしまった。一ノ瀬としては、無理矢理にでも引きとめて神宮との交際についてきっぱりと否定するべきだったのかもしれないが、『別にな、ワシにそんな説明をしなくていいんだよ』と言われた手前、ここで大声を出してまで否定すうるのもそれはそれで焦っていると思われるのではないかと思い、否定ができなかった。
そして、きっちりとそこで否定をしなかったからかどうか、それはわからないが、その桜井校長との会話以後、一ノ瀬は妙に神宮のことを意識するようになってしまった。
今までそんなことを意識したことはなかったのに。ただの友達のように付き合っていたはずなのに。いや、おそらくはこれからも友達のように付き合っていただろう。桜井校長の一言がなければ。今なら、知識の実を食べてしまったアダムとイヴの気持ちが少しだけわかるような気がした。アダムとイヴは神に禁止されたから知識の実がなる木に意識がいってしまったわけではない。ヘビが神に禁止されたことをもう一度イヴに話したから、意識してしまったのだ。〝なぜ、禁止されているのだろうか〟、と。その〝意識〟が結果的に、神の言葉に叛くこととなった……。
その日から一ノ瀬の、神宮を見る目が変わった。我ながら馬鹿なことだとは思っていたが、自我ではない何かが無理矢理それを意識させてしまうのだ。
そしてある日、神宮からそれを指摘されてしまう。
「ねぇ、優貴くんさ」
いつもの部室で、神宮が口を開いた。
「ん? な、なんだろう?」
「最近、何かあった?」
核心そのものズバリを地でいく質問であった。「最近、何かあった?」って。そりゃもう、何かあったからこそ毎日がしんどくなっているわけでありまして。
「まぁ、何かあったかもしれないけど、それがどうかした?」
できるだけ内心が見えないように対応をしたつもりだ。さすがに焦っているとは思われないであろう、我ながらクールでかつホットな対応だ。意味がわからないけど。
「……こんなこと言ったら怒られちゃうかもしれないけど……」
「怒ったりしないよ、なんでも言って」笑顔で言い切った。
「あのね……その、うまく言えないんだけど……」
「ん?」
「最近優貴くん、機嫌が悪いかな、って。そう思ったの。それだけ」
期限? キゲン? 起源?
漢字がうまく変換できず、神宮の言ったことがうまく飲み込めなかった。数瞬の後に、キゲンの正しい変換後の漢字が「機嫌」であることに気付き、会話を続けることができた。
「……悪い。もしかして、機嫌悪いように見えた?」
もちろん、一ノ瀬には自覚がなかった。いろいろ悩み事があったが、別にそれがいたく不愉快だったとか、そういうものでは一切なかった。
「まぁ、なんとも言えないけどねっ。ただ、普通じゃないなぁ、って、そう思っただけだよ」
特段不機嫌だと思ったわけではないないようだった。それに少し安心する。
「普通じゃなかったってのは、当たりだよ。考えゴトをしてただけ」
「…………何か、あったの?」
神宮は心底心配そうな顔でこちらを向き、尋ねる。
別にそんなたいそれたことじゃない。しかし、それを、あろうことか神宮に言うのははばかられた。しかし、ここで無駄な心配を神宮にさせるのもそれはそれで嫌だった。何か大きな隠し事をしているわけでもないのに、まるで何か大きな隠し事をしているように相手に思わせるのは一ノ瀬の本意ではなかった。……いや、実際には、大きな隠し事をしているわけだが。だからこそ余計に、何か心配をさせたくはなかった。
「あー、そうだな。んー、そうだな…………」
ここは変な隠しだてはせずにありのままのことを伝えた方がいい。理論的にはそれが正しいことで、そうするべきであることはわかっているのだが、いざそれを口にしようとすると、直前で何かに止められてしまう。
「その、なんていうか、別にこれは、僕が思っているわけじゃない。それだけは先に言いたい」
言った直後に、『自分は何を言っているんだ』という後悔の念に襲われる。そんな前フリはいらないだろう。本題から入る前に長い前置きを話して自爆する好例だ。
「その、なんていうか。校長から聞いた話なんだけど……」
口が馬鹿みたいに乾く。真冬の環境下に置かれてしまったかのようなカサカサ具合だ。
「この前、一緒に映画を見に行ったじゃない?」
「ん? ……うん、行ったね」
神宮は怪訝そうな表情を隠さない。それはそうだ。言っていることが怪しすぎる。
「あー、そのさ。なんだ、なんていうんだ。僕たち二人が付き合ってるんじゃない、っていう噂っぽいものが広がってるらしいんだよ」
「…………っ」
ここまできてようやくこの話がどこに向かっているかわかったのだろう、林檎が成熟するのをまるで早送りで見ているかのように、顔が一瞬にして真っ赤になった。自分が突っ込むのは野暮だし、いわゆるブーメランなのかもしれないが、由岐はなかなかに鈍感なのかもしれない。
「でも…………好きなんだ、由岐」
突然だった。誰にとって? もちろん、神宮由岐にとって。
神宮にとって、だけではない。一之瀬の方の優貴にとってもまた、突然だった。
「は…………へ……?」
という不思議な言葉を発したのは神宮だった。
一之瀬は一之瀬で、自分が一体何を言ったのか、わからなくなってしまったようだった。いや、違う。違くはない。違くはないんだ。これはそう、ニュアンスの問題だ。そういった、自分と神宮についての関係が誤解されている現状について、「嫌ではない」、「嫌いではない」と言いたかっただけなのだ。それがどうしてこうなった。自分の思考回路の不思議さには到底呆れてしまう。
しかし、すぐさま一之瀬は思考を切り替える。人生は何事も切り替えが大事だ。
野球のピッチャーの専門書の3ページ目ぐらいには書かれている、大切なことだ。
言葉には責任を持たなくてはならない。一度言ってしまったことは取り消せない。
取り消せる言葉もあるが、時と場合、環境によっては容易に取り消せないことがある。
国会であればいくらでも取り消せるかもしれないが、今一之瀬が立っている場所、空間では言葉の撤回自体は至極簡単にできるかもしれないが、相手の心から完全に拭い去ることはまず不可能だ。知らないことから知ることはできるが、知ることから知らない状態に戻ることはできない不可逆性とまったく一緒だ。
一之瀬が神宮のことを実は「好きではない」としたら、一之瀬は責任を以て言葉をすぐさま撤回しなければならなかっただろう。神宮が傷つくかもしれないが、その罰の十字架は一之瀬が背負わなければならないものだ。
ところがどっこい、幸いなことに、一之瀬は神宮のことが好きだ。嫌いではない、などというくだらない逃げ道を作る回答は一之瀬は好まない。中途半端な意見は皆、悪しきもの、とまでのたまう極論者ではないが、一人の人間が好きか嫌いかという重要な二択においては中半端な逃げ道的回答は許されない。嫌いな人間とは映画を見に行かない。そして、言ってしまったからにはもう伝えるしかない。酔った勢い、という言葉があるが、おそらく一之瀬は今のこの会話の空気に酔ってしまったのだろう。将来、勢いで物事を進めたりしないことを祈るばかりだ。
「――うん、好きです。付き合ってください」
ほんの少しの勇気を振り絞り、そう声に出した。
いや、勇気なんて大それたものではない。
勇気ではない、そう、言い換えるならばそれは、ちょっとした「タメ」のようなもの。
「えっ…………、ふぇ…………、えっと、でも、その……」
展開についてこれていない神宮がそこにはいた。周りの人間はもうほとんど全員がスマートフォンを持っているのに自分だけは未だにガラパゴパスケータイを持っていました、というような状況に陥ってるようだった。自分の中の時間と周りの時間の流れる速度がまったく違うなんてことは、よくある話だ。急すぎる世界の変遷についていくことができない。ただ、それだけのこと。
「急にごめんね。大丈夫、今すぐ返事をしなくても。嫌だったら、嫌でも構わないからさ」
あんなことを言ったのに、よくもまぁ、ぬけぬけと言えるな、と自己嫌悪に陥りそうになりながら一之瀬は言った。彼はいつもそうだった。ある地点を通り過ぎてしまえば、いつでも冷静になることができた。まるで自分が、ある地点を通り過ぎたときから、別の世界に飛んで行ってしまい、別の世界から自分を見つめているような感覚さえあった。
「えっと、その…………」
それでも神宮はなんとかして言葉を捻り出そうと努力しているようだった。
おそらく、5秒黙り込んでしまったら放送事故、という業界のルールを守ろうとしているのかもしれない。見上げたプロ意識だ。ただ少し問題なのは、神宮は別に放送業界の人でも、弁士でもないという点だ。
「
『良き時も、悪き時も、富める時も、貧しき時も、健やかなる時も、
病める時も、死が二人を分かつまで、愛し、慈しむことを誓いますか?』
」
「え?」
と返したのは、神宮。
不思議な、古の呪文のようなものを唱えたのは一之瀬。
「一度さ、言ってみたかったんだ。これ」
切なそうに一之瀬は返事をした。
「もし」
と言うと、一之瀬は一拍をあけて、
「僕の返事がOKだったら、今の台詞を僕に言ってほしい。一度さ、言ってみたかったんだ、これ」
おちゃらけて言っているが、決して一之瀬の内心はふざけていなかった。
一之瀬に、両親はいない。気付けば彼に、親というものは存在しなかった。
存在しなかっただけなら、まだマシだったのかもしれない。
もちろん、それに対してコンプレックスを抱かなかった、と言えば嘘になる。
しかし、決して、そのコンプレックスに押し潰されはしなかった。
親がいないというコンプレックスに押し潰されているようなら、一之瀬は今、この場にはいない。勉学に秀でて、桜井校長に見出されることもなかっただろう。
親がいない。親に愛されたことがない。桜井校長からは〝良くしてもらった〟と思っているし、今も感謝しているし、この恩を永遠に忘れてはいけないと強く自念している。しかしそれは、親からの愛、いわゆるフィレオーではなかった。〝親でもないのに、こんな自分を救ってくれた〟という思いだった。
そんな一之瀬だからこそ、思ったことがある。
もし自分が恋をしたとき、その恋を始める前に、誓いを立てようと。
相手へ向けて。そして、自分自身に向けて。
『良き時も、悪き時も、富める時も、貧しき時も、健やかなる時も、
病める時も、死が二人を分かつまで、愛し、慈しむことを誓いますか?』
■
「もし、お前が自殺するんだったら、俺も必ず、後を追う。それだけは言っておくよ」
と言ったのは、一之瀬。
口に出してみたら、それはまるで、脅し文句のそれのよう。
しかし、それは決して、嘘ではなかった。
誇張でもなく、虚偽でもない。
結局、山梨への旅行はその後、何事もなく終わった。
言うまでもないが、帰りの電車中の一之瀬と神宮は、終始無言だった。
交わした会話は、「明日、学校で会おう」の、一言だった。
最後の登校、最後の下校を経て、自首をすると、決めたのだった。
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