第3話 殺人事件、発生
殺人事件、発生
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一ノ瀬優貴はどちらかと言うと、〝明るい〟に属する人間だった。これは、自他共に認めていることだ。少々変わっているところはあるにせよ、明るい人間であることは、一之瀬自身を含めそれはほとんど皆が知っていること、共通認識であった。しかしそれは、あくまでも表向きのもの、公の部分でのことであり、裏の部分、つまり、皆が知らない部分の話になると、それはいささか事情が変わってくる。
一ノ瀬優貴は皆の知らない、闇の部分があった。と言ってもそれは、一之瀬優貴自身の手落ちで発生したものではない。彼は一切関与していないが、彼が引き継いでしまったものだった。彼の両親は決して良い両親とは言い難いもので、ギャンブル癖が抜けきらなかった。競馬、競輪、その他違法ギャンブル……様々なものにどっぷりハマり、どっぷり負けた。どっぷり負けたということはつまり、どっぷり借金をこさえたということだ。そしてそれを、一之瀬優貴は自らの意思と関係なく、相続してしまったのだった。
そんな事情があり、一之瀬優貴には一週間に一度ぐらいのペースで、ヤクザの下っ端のような野郎が一人、下校中に付きまとうことになった。見るからにチンピラという風貌をした男で、サングラスをして、紅い斑のような模様がついた白いシャツをだらしなく着込んでいた。
「いよう、優貴ちゃん、元気ぃ? 俺だよ、俺。別にさ、そんな黙らなくていいじゃないか。んで、借金を返す決心はついた? 首を一回縦に振ってくれればいいんだよぉ、そうすりゃ俺だって、こんなところに何度も遊びに来なくて済むんだからさぁ」
と、甘えるような気持ち悪い声色でときどき一ノ瀬にすり寄って来たのだった。
それに対し一ノ瀬は基本的にだんまりで通してきた。親が死んだ際の相続について対応してくれた覇気、やる気のない弁護士にそう対応しろと指示されたからだった。
時々、このチンピラは声を荒げて一ノ瀬に迫るときもあった。誰もいない通りで。チンピラもこの辺の土地には明るかったのだろう。どこで声を荒げても誰も気にすることはないだろう場所を知っているのだ。しかし、声を荒げられても一ノ瀬は何も言わず、ただ黙って前に歩を進め続けた。家に帰ればこのチンピラは何もしてこないことを一ノ瀬は知っていたからだ。理由を詳しくは知らないが、このチンピラはどうも一ノ瀬が家に入った瞬間、何もせず引き返してしまうらしい。
そんな生活が2ヶ月ほど続いた後、それは起きた。
いつものように一ノ瀬が帰途についていると、愉快なチンピラが一ノ瀬にすり寄って来たのだった。どこからともなく。それに対して一ノ瀬はうんざりしながらも、前を見つめ続け、歩を進め続けた。
「あ、ちょっと飲み物買うけど、優貴君はなんかいるかい?」
チンピラが自販機のそばで一ノ瀬にかけた一言だ。もちろん、チンピラに飲み物を恵んでもらう筋合いもなければ、恵んでもらう気もさらさらない。いつものように一ノ瀬はその言葉を無視して前へ、前へと歩き続けた。
運良く大きめの交差点の信号が赤に変わりそうだったので小走りでそれを渡り切った。一ノ瀬が渡り終えた時にはもう信号は赤に変わっていた。チンピラはついてきていなかった。と言っても、これでもうチンピラが追いかけてこないわけではない。チンピラも何かしらの事情があるようで、何かに追われたかのように追いかけてくる。それでも、このちょっとしたチンピラがいないこの間が一ノ瀬にとって心地良かった。
7分ほど歩いた後、その心地良さも霧のように消えてなくなる。
あのチンピラの姿が未だに見えなかったのだ。
足を止め、後ろを振り返る。
この辺りは建設が止まったボロボロの工事現場や、これまたボロボロのアパートと言ったなんとも言えぬ哀愁漂う地域で、見通しが良いとは決して言えない場所だ。なんとなく空気も悪い気がする。砂塵は舞っていないが、砂塵が舞っているのが今にも見えそうだ。人もあまり多くはない。人が歩いている様子を見ることはほとんどない。後ろから、チンピラが来る様子はまったくない。静かで、足音も聞こえない。交差点を渡った後、一之瀬はここに来るまで3回ほど曲がった。ちょっとした路地裏を何度か通った。別にそれはチンピラを撒こうと思ったわけでもなく、いつも通りのルートを辿っただけだ。いつもの行動とまったく変わらないのに、あのチンピラは来ない。そのたったひとつの異常さが、何とも言えない不安を一ノ瀬に与えた。
足を止め、後ろを振り返り、じっと耳を澄ます。
やはり、誰も来ない。誰も来ないし、何も起こらない。
何かの気まぐれでチンピラが自分を追いかけるのをやめたのだろうか?
コーヒーのホットを買って飲むのに苦労しているのだろうか?
別に何かの気まぐれで来ないのだったらそれはそれで大いに構わない。しかし問題なのは、その気まぐれは今の今まで一度も起きたことがないということだ。
頭を巡らせる。頭を巡らせるが、特にこれといった考えが導かれることもない。
下手に頭を巡らせても無駄に時間が過ぎるだけ。そう思い、一之瀬は今来た道を戻った。
この行動は果たして正しかったのか、それとも誤りだったのか。それは、誰にもわからない。
狭い路地裏を2度ほど曲がり、ほんの少し開けた(と言っても見える風景はやはり工事が途中で終わった建物が並ぶ殺風景な場所)ところで、一之瀬が見たものは非常に奇怪なものだった。
寝ているチンピラが目に入った。
いや、それだけでは奇怪なものではないのかもしれない。いやいや、奇怪なものに違いはないわけだが、問題はさらにもうひとつ。
そのチンピラの上に、神宮由岐がいたことだった。またがっている……。
それに気付いたときにはもう一ノ瀬の足は動いていた。無言で、ただただ足だけを動かして。
「おい……、おい!」
神宮の傍まで行き、声をかけた。肩を揺さぶる。そこで一ノ瀬は初めて気付いた。彼女は、どこから持ってきたのか、瓦を持っている。赤土色の瓦だ。問題は、その瓦が2つに割れている点だった。
なぜ瓦が2つに割れているのだろう? もしかして神宮が瓦割りでも披露したのだろうか? 倒れているチンピラを見ればそんなしょうもない疑問はどこかに飛んでいく。
なぜならその赤土色には、濃い目の赤色のペンキのようなものが、ビッチョリとついていたから…………。
静かに理解する。乾いた砂が水を取りこむような滑らかさと、素早さで、一之瀬は一体ここで何を起きたのかを理解した。なぜ起きたのかはもちろんわからないが、何が起きたのかは理解することができた。
一ノ瀬は素早く前、そして、後ろを見た。人影はない。人がいる空気も感じられない。
チンピラの頭からは血が滲み出ている。目は閉じられており、口は開いたままだ。
「おい、神宮、……由岐!」
一ノ瀬はさらに肩を揺さぶって神宮に返答を求める。しかし、神宮はただただ茫然としているだけだった。
もう一度前、そして後ろを見る。大丈夫、まだ人影はない。しかし、この状況はどう考えてもヤバいということは誰でもわかるような確定事項だ。これから何をしようとも、そう、何かこれから行動しようとも、ここでゆっくりダラダラするのはどう考えてもよろしい一手ではない。
「なぁ、由岐。ここを、離れよう」
と言った。言った、というか、声をかけた。神宮は首を小さく縦に振った。当たり前ではあるが、意識はあるらしい。しかし、どうも声帯に異常が起きたのか、声は出せないらしい。腕を取って、ひとまずその場に立たせようとしたが足は震えている。まるで、ここが北極地帯かのごとく。彼女はまるで、地球の重力とは別の力を足に受けてしまっているらしい。それがどんな力なのかはわからないが、なぜそんな力を受けることになってしまったのかは一ノ瀬にはすぐに理解できた。
その後、なんとか一ノ瀬は神宮をおんぶし、一之瀬の家まで運んだ。
一ノ瀬も神宮も共に独り暮らしであった。家に帰る途中、一回神宮を自分の家ではなく、神宮の家に送り届けるべきかと思ったが、そんな考えはすぐに引っ込んだ。どう考えても、この状況で神宮を一人にすべきではないと思ったからだ。今の彼女は何をするかわからない。一ノ瀬は神宮と付き合っていたが、彼女は怒り狂った姿なんて見たことがない。それはそれで当然だが、見たことがないというのがどうしても怖かった。今起きていることがすでに一之瀬自身の積載量を30kgほどオーバーしている。この状況を軽く処理できるのは殺し屋かヤクザかアメリカの特殊部隊ぐらいのものだ。または、常人とは違う精神構造を持っている人間か。誠に残念なことに、一之瀬はそれらの、どれにも属さない、いたって普通の人間だった。
それなりに手狭なリビング(兼寝室)の座椅子に神宮を座らせて、一之瀬はキッチンに行き、冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターをコップに注ぐ。いつもは一人分のコップを用意すればいいだけだが、今日は少しばかり趣が違う。もうひとつ、もう一人分のコップを用意しなければならない。元々コップは4つあるので、急な来客もほんの少しの人数であるならばすぐさま対応ができる。それらのコップはどれも綺麗だった。油汚れもなければ、ちょっとした指紋もついていない。食器もまた然り。
何日も前に封をしたゴミ袋がその辺に転がっていることもなければ、冷蔵庫の奥に何日も前に買ったキャベツが転がっているわけでもない。漫画系の雑誌がうず高く積まれていることもなければ、スナック菓子の袋が食べっぱなしでその辺に放っておかれていることもない。その代わり、もしかしたらここはどこかのスパイがこの近辺に住む誰かを見張るためだけに借りたのでは、と思ってしまうかもしれない。それが、一之瀬優貴の家だった。
ミネラルウォーターをコップに入れるときに気付いたのだが、一之瀬の手は震えていた。それもそうだ。無理もない、と自分の中で一言二言言い訳をした。あんなことがあったんだ。あんな光景を見てしまったんだ。まったく何も自分の身体に異常がないことの方がおかしいのだ。
コップをリビングの机に置く。ホームセンターで買った安めの黒い机だ。冬にはこたつ布団をかけて、こたつにすることもできる。今は夏なので、ただの机だ。ひとつしかない座椅子は今神宮が座っているので、一之瀬は神宮の対面に座ることにした。普段一人でいるときには座ることのないフローリングに直接座る。冷たい。
あぐらをかいて座り、特に喋ることもないのでとりあえず水をぐいっと煽る。水の味がした。見事なまでの水の味。どんなことが起きようと、どんな気持ちになろうと、変わることのないミネラルウォーターの味にほんの少し感動してしまう。そりゃあ世の中、コンビニエンス・ストアや、マクドナルド・ハンバーガーが流行るわけだ。安定は希望です、なんていうスローガンを出した政党があったな、などとどうでもいいことを思い出してしまう。
ここで、一之瀬は初めて神宮を直視する。顔を、ではなく、身体を、だ。
ひと昔前の修道服のような、濃い青、いや、ほとんど紫色に近い色彩を基調にした私立S学園の制服は普段とあまり違いは感じられない。しかし、よく見ると下腹部のあたりには何か赤黒いものが飛び散っているのがわかる。そして、これは見えているわけではないが、おそらくソックスや、靴にも多かれ少なかれ帰り血が付着しているだろうと思った。大量、とまでは言わないまでも、決して少なくはない血があの場では流れていたのだ。どこかしこに付着していてもまったくおかしくはなかった。
「なぁ…………」
家に着いてから30分以上互いに無言だった場を打ち壊し、一之瀬が声を上げた。
「制服の替えは、家にあるか?」
厳粛な、低い声でそう訊いた。神宮はそれに対して、頷いた。声には出さず、ただただ、首だけを振った。
「これからどうするにしろ、とりあえず今着ている制服はまるごと捨てた方がいい。……もしかしたら、嫌かもしれないけど、できることなら捨てた方がいい」
これから、どうするにしろ。
それに対してもすぐに神宮は頷いた。特に反対意見はないようだった。
「あと……これから、神宮が帰る前に一度、シャワーに入った方がいい。シャツと、ジーパンだけなら、その間貸せる。その制服姿で外を歩くのはやめた方がいい。もちろん嫌だったら入らなくてもいいけど、帰らないのだったら、僕が送るから、帰るのは夜にした方がいい。この辺は人通りがかなり少ないとは思うけど、それでもやっぱり、帰るのは外が暗くなってからの方がいい。その姿をもし他人に見られたら……まずいと思うから。
あとは、そう、アイフォンだ。今、由岐のアイフォンはどこにある? 無いようだったら前みたいに僕が由岐のアイフォンを探そうか」
今のアイフォンには、アイフォンを紛失してしまったときに、自分のアイフォンがどこにあるかすぐにわかるアプリがある。一之瀬は以前、神宮が失くしてしまったアイフォンを見つけ出したことがあった。
そんな小話をしながら主語をぼかし、それとなく誘導をする。
〝何が〟〝どう〟まずいのか。その明言を避ける。今すぐその答えを完璧に出せる人はそうそういない。少なくとも、一之瀬にはその答えをすぐには出すことができなかった。ただ、それでも、自分とはまるで違う人格の何かが、指示をするのだ。「その姿を他人に見られたら、まずいと」。その声に一ノ瀬は従ったまでだ。それ以上でも、以下でもない。
その後、結局一ノ瀬も神宮も寝ることはなかった。夜中の3時ごろ、一ノ瀬が「帰ろう」と神宮に提案し、神宮はその提案を受諾した。一ノ瀬はもうその時間にはある程度の対策をまとめていたのだ。頭の中で。
とにもかくにも、これもあくまで〝ひとまず〟の案ではあるが、学校に行かなくてはならない。これは確定事項となっていた。それはもう秋の季語と言えば紅葉を想い浮かべるほどに、自然な流れ、自然な決定事項だった。
今、神宮と冷静に話をすることはできない。明日話をすることができるかどうかはわからないが、今、することはできないのは確かなことだ。だったら、冷静にこれから我々がどうするかについては、明日以降決める他はない。自暴自棄になってしまうのが一番怖かった。自分がどう行動してしまうのかもそうだし、それはもちろん、神宮についても同様だ。むしろ、神宮がどう行動するかが非常に気がかりだった。自分でこんなことを思うのはもしかしたら危険な兆候なのかもしれないが、自分は〝まだ〟大丈夫だと思った。冷静にものを考えることができるし、万が一何もかもが嫌になって暴走してしまったとしても、罰を受けるのはどう回りまわっても自分だ。他の誰か、いや、神宮ではない。自分の尻を自分で拭くことができる環境にある状態はあらゆる意味で幸せなことだ。それが本当の意味での自己責任というやつなのかもしれない。しかし、今、この状況で神宮が暴走してしまった場合、その責任を一ノ瀬が負うことはできない。お金を出しても買えないものは、こんなところにもあるのだ。もっとも、そのお金を一ノ瀬は持っていないが。
もちろん、茫然自失の状態に見える神宮が実はものすごく冷静に頭を動かしているという可能性も無きにしもあらずだが、それを一ノ瀬から見て完全に把握することはできない。すべてを把握することができないということはそれはつまり、不安に心が支配されてしまうということだった。
だから本当は、神宮を帰したくはなかった。
自分の目から遠ざかってしまった神宮が一体何をするかわかったものではなかったからだ。しかし、それでも一ノ瀬が神宮を家に帰したのは一ノ瀬自身も、自分をそこまで信用してはいなかったからだった。夜遅くに、自分がそれこそまさに自暴自棄になって神宮に何をしてしまうのかわからなかったし、もうひとつの理由として、明日、通学するのに神宮は一度家に帰らなくてはいけないからだった。これは賭けではあったが、24時間ずっと一度もいるというのはどこかで必ず無理がでてくる話だ。それに、完全に一人にならなければ見られないものというものがあるかもしれない。と、そう無理にでも自分を納得させて、一ノ瀬は神宮を家に帰す選択肢をとった。その日の夜は、一ノ瀬が体験してきたどんな夜闇よりも昏く、また、重いものだった……。
絶対に寝れないと思っていたものの、人間とはまたよくわからない生き物で、2時間ほど眠ることができたようだった。驚くほど寝起きがすこぶる良かった。時間絶対厳守の職業のひとつである電車の運転士になることができるのではないかと思うほどの目覚めだった。
一瞬、昨夜のことは夢なのではないかと思った。
目覚めがあまりにも良かったので、夢と現実の境界が非常に曖昧なものとなっていたからだ。夢はほとんど何も見なかった。まるで電気を一度消して、やはりもう一度つけようと思って電気を付けた、そんなような睡眠だった。だからもしかして、目を覚ます前に体験していたあの殺人劇はただの度が過ぎた悪夢だったのかもしれない。そう思ったのだった。しかし、リビングのテーブルを見てそれそこまさに〝夢物語〟に過ぎないことを実感させられる。テーブルに置かれたグラスは、2つ。自分が一人生活している時には決して、グラスを同時に2つテーブルに置くことはない。ではなぜ、2つのグラスがテーブルに置かれているのか……? その答えを出すのは「五」という漢字を書くぐらいに簡単なことだった。いちいち考える間もなく、一ノ瀬の頭脳は答えを導き出していた。あの出来事は夢物語などではなく、現実のものであったという答えを。
グラスにはほんの僅かだが水が残っていた。透明な液体。もちろん、昨日入れたミネラル・ウォーターだ。片付けようとしてテーブルの中央にグラスを集めたものの、結局それが億劫になってしまって、そのまま朝、つまりは自分が今こうして気付くまで放置していた。どちらが一ノ瀬が使っていたコップで、どちらが神宮が使っていたコップか、それはもうわからなくなってしまったが、今この状況ではそんなことはどちらでもよかった。場合によっては間接キスになってしまう、なんて考えも屁ほども出なかった。そういったワンダフルなことを考えられるテンションではない。今求められていることは、非常にシビアでシャープな心だった。ソフトな心なんて誰も求めていないし、そうなりそうにもなかった。
シャワーを浴び、適度に格好を整えてから家を出る。
神宮は学校に来るだろうか。頭をよぎったのはそんなことだった。
〝できれば来てほしい。というか、来てくれないと困る。〟
という至極論理的な自分がそう呟く一方で、
〝来れないのも無理はない。むしろそちらの方がある種、正常だ。〟
という至極感情的な自分が冷静に呟いていた。
道中、神宮を迎えに行こうかと考えてみたが、〝ある地点を通り過ぎた時点〟で考えは変わった。神宮は学校に来ているだろうと一ノ瀬は結論付けたのだ。そして神宮は、――一ノ瀬の思考過程がすべて正しかったとは限らないが、学校にいた。窓際一番後ろというエロゲギャルゲその他アニメではよくよくありがちなポジションに神宮は、――まるで誰かが置き忘れた旅館の漬物石のように、そこに鎮座していた。首を軽く下げて、うな垂れていた。
「おはよ」一ノ瀬は軽めに声をかけた。いつものようにを心がけて。
一ノ瀬の声だと判別したのか、神宮は顔を上げた。
「うん、おはよう」
久しぶりに神宮の声を聞いた気がした。思いのほか、凛とした声だった。
昨日はまるで、――それはもう当然、しょうがないことではあるのだが、まるで声帯機能を取られてしまった犬のように、何も喋らなかったので、ちょっとした驚きに包まれる。が、それもつかの間、その驚きの感情も身体からすぐさま抜け去ってしまう。
「昼休みのときに、部室に行かないか」
周りに人影はないが、誰がどこでどのように聞き耳を立てているかわからない。念のために必要最低限の音量で、二人の間だけでわかるような言葉を選んで話をした。神宮も察したのだろう、微笑みを添えて、「うん、わかった」とだけ返事をした。
人類文化研究部部室。
それが、一ノ瀬と神宮のひとつの秘密基地のようなものだった。一ノ瀬が合法に作りあげた、静かなこの学校の、秘密基地……。
その部室には、特に何があるというわけではない。縦に長い机に、やや新品気味のパイプ椅子が3個。本棚には漫画本が数冊と、小説が適当に数十冊。一ノ瀬と神宮、そしてもう一人の部員が作りあげたものだった。あとは、一ノ瀬が学校に持ってきた適当なノートパソコン。
他にこれといったものはない。部室は私立S学園の3階にあったから、見晴らしは悪いものではなかった。東棟の奥地に居を構えているため、人もあまり通らない。放課後は文科系の部活の連中が通ることがままあるが、昼休みにはそれも珍しいものとなる。
そして何と言っても重要なことは、鍵をかけられることにある。防音については議論する余地があるかもしれないが、それは話す声を小さくすればいいので、なんの心配もいらない。もちろん、窓も閉める。
二人共、どちらが言うまでもなく、適当にパイプ椅子に座る。この部室の部屋に、指定席はなかった。この部屋には、しっかりと人数分の椅子があるからだ。各々が、適当に座る。早い者勝ちだった。この日も適当に座った。と言っても、二人共窓際に座った。扉側には座らないようにしたのだ。
「さて…………」
二人共が座った後に、一ノ瀬が切りだした。
「どうしようか?」
あえて笑顔で、一ノ瀬は神宮に言った。もちろん、笑顔で言うべきことではない。聞く人が聞けば「不謹慎だ!」と大騒ぎするかもしれない。
しかし、それでも一ノ瀬は無理矢理笑顔を作った。笑わなければやっていられない。笑わなければ、別の何かを考えてしまいそうで。
「自首…………するの……?」
と神宮は言った。〝一体どんな罪で〟とは言わない。まるでそこに、言ってはいけないというルールがたしかに存在しているかのように。
「いつかは……自首するよ。でもさ、今すぐに、というわけではない」
一ノ瀬はあえて笑いながらそう言った。この状況で笑えるとは、なんとタフなことか、と我ながら呆れてしまった。しかし、笑わなければ神宮は今にでも自殺してしまうのではないか、という根拠は特にない何かがあった。
「ど、どういうこと…………?」
「そんな難しいことではないよ。1週間ぐらいはさ、猶予があるんじゃないかと思うんだ。僕もね、あんまり頭が良い方ではないけど、今すぐ自首しても、1週間後に自首しても大局的には状態はあまり変わらないと思う。1週間ぐらいでは多分、警察は犯人が僕たちであるというところまで辿りつけないと思う」
これは嘘だった。あのチンピラが嗅ぎまわっていた人間の数なんて、多くても10人ほどだろう。警察はまずその10人に狙いを定めるだろう。そしてその10人の内、怪しい動きをしている人間がいれば警察はその人間を徹底マークするはずだ。つまり、ここで1週間ずっと学校に登校しなければ警察は当然一ノ瀬にアタリをつけるだろう。そうすれば警察は一ノ瀬を疑ってくれる。そんな期待を持っていた。
「本当に…………?」
と聞く神宮の顔は残念ながらとてつもなく懐疑的だった。そりゃまぁそうだろう。
「あぁ、大丈夫。あのチンピラ、どこかのヤクザの組の下っ端でさ、警察は色々なことを疑うはずさ。もしかしたらヤクザの間の抗争……殺し合いかもしれないし、ヤクザの上の人間からやっかまれていたかもしれない。ヤクザっていうのはいつも死と隣り合わせのところだからね、まぁ、僕もよか知らないんだけど。警察もあらゆる可能性を念頭において調べるだろうから、1週間は大丈夫。1週間を過ぎたら、また話は変わってくるかもしれないけど」
今すぐ逃げれば1週間ぐらい時間は取れるのでは、という希望的観測だった。
警察はヤクザの抗争が絡んでいないことなんてすぐにわかるだろう。
ここは別にヤクザの抗争が激しい地域ではないし、警察は馬鹿ではない。
「敢えて学校でゆっくりするのもいいけど、それだと、いつ学校に警察が来るかはわからない。ずっと学校にいると、警察に怯え続けなくちゃならない。まぁ、それはそれで味があることだとは思うけどね。ただ、どうせなら最後、どこか遠くへ行ってさ、覚悟を決めてから自首しないかい?」
1週間。旅行するには充分過ぎる時間だった。一ノ瀬の貯金をはたけば1週間ほど旅行するなんて造作もないことだ。ちょっとだけならば、贅沢することなんてもちろん可能だった。金なんてもう、この状況に至ってしまったらもはや何の意味もない。まさに無用の長物だ。しかし、使わないのであればそれはそれで勿体ない。今回の最後の旅行(のようなもの)に使うのは至極真っ当なことではないかと思われた。そしてそれが、思い出に残るようであれば、非常に有効な使い道であるのではないか。そう、思った。
だが問題はどこに行くか、ということだ。遠くでも問題はないが遠過ぎるとそれだけでお金が余計にかかる。しかし、遠い方がいざというときに警察に捕まりにくくなるというメリットがあるようなないような気がする。そしてなにより、これから行く場所は、思い出になるという点が何よりも重要だった。これから先、十数年は人生の中でもっとも辛いものとなることは目に見えている。その間、凍えた荒野を渡り歩くのに必要なものは暖かい思い出だ。その思い出となる地は、できるのであれば、普通以上の意味をもった場所であると有難い。そんな考えが一ノ瀬にはあった。しかしながら、普通以上の意味をもっていればそれだけでいいとは限らない。いつだって理想には現実というものも付きまとう。極端な話、ヨーロッパへの旅行はできないということだ。時間的には可能かもしれないが、金銭的には土台無理な話だ。0がもうひとつ必要になる。
そこで、白羽の矢がたったのが「山梨」だった。〝普通以上の意味〟の件は、今はさておき、コストパフォーマンス的には悪くない話なのではないかと思えたのだ。どう好意的に解釈しても決して開放的なムードとはいえないこの状況において、あまり海は見たくない心境だったので、千葉方面への旅行は無条件で、無意識的に却下となる。どうせなら静かな場所がいい。それが一ノ瀬と神宮の暗黙の決まりのようなものとなっていた。そして、静かな場所といえば、なんとなくではあるが、〝山〟がありそうな場所がいい。もっと言えば、閉鎖的な場所がそれなりに望ましい。そして前述の通り、「ある程度近場」であることも条件には含まれる。それらの条件に一致したものが山梨だった。もしかしたら神宮は、心の奥底では別の場所に行きたかったのかもしれない。しかし、一之瀬の中では、山梨という場所はこれ以上ないほどに、適当な場所であったのだ。
お互いの過去について深く突っ込んだことはないので知らないが、神宮由岐の故郷は山梨だったそうだ。しかし、山梨の具体的にどこに住んでいたかどうかは知らない。これは一之瀬が知らないということではなく、神宮自体が知らないのだ。物心ついたときにはもう、神宮は埼玉にいた。生まれた地が山梨というのは人伝てに聞いたことらしい。具体的に誰から聞いたのか、というのは一之瀬は知らない。もしかしたら生前の神宮の両親かもしれないし、それとも近しい知り合いなのかもしれない。
なんにせよ、警察に捕まる前に、その山梨の地を一度踏んでみたいという気持ちがあった。一之瀬もそうだし、神宮もそうだった。
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