第2話 山梨へ
2 山梨へ
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どうしようもない状況というものは、人生において多々あることだと思う。
それが具体的にどういうことだと言えばいいのか、それをすぐに説明することは難しいが、『無い』ということは無いと思う。それが如何に考えられないようなものだとしても、無いと断言することはできない。
それはかなり以前から考えていたし、ある出来事を通してその考えをより強いものとした。今、一ノ
埼玉に別れを告げ、電車に乗っている。電車の車両の中には、一ノ瀬が見える限り、3人しか乗っていない。自分の席、自分の目線から向かって左奥にいる。自分が座っているボックス・シートから左奥のボックス・シートに老婆が座っているのが見える。その老婆は赤と緑と黄色が混じった迷彩服のようなものを着て、ベージュ色のチロリアン・ハットを被っている。なんだかものすごい異様にも見える光景ではあるが、あまり笑える気分ではない。目を惹く格好ではあったが、あくまで目を惹くだけだ。普段の自分であったなら、もしかしたら少しは笑ったのかもしれないが、今はとてもじゃないが、笑えない。
老婆はこっくり、こっくりと船を漕いでいる。人目をそこまで気にしているわけではないが、できれば誰にも見られないことが望ましい。だから、老婆が寝ているのは好都合だった。
隣の車両をそっと覗いてみたが隣の車両には3人乗っていた。もう片方は見る限り2人、またはそれ以上。なので、移動しない方がいいだろう。
立ちあがって電車内の状況を簡単に把握した後、一ノ瀬は席に座り直した。ボックス・シートの向かい側には、女の子が座っている。神宮 由岐(かみや ゆき)。神宮は、黒を基調としたトーンオントーン・チェックのフランネルシャツと、グレーのレギンスを履いている。3ヵ月前に彼氏、彼女の関係になった、いわゆる僕の恋人だった。
「どう、元気?」と声をかける雰囲気ではなかったので、席からぼおっと外を見渡す。気が付けば、もう外は山だらけだった。一之瀬と神宮、二人の「ユキ」は、今までこんな山々を見たことがなかった。そんな山々を横目に見ながら、ここから、僕たちはどこに向かうのだろうか、と、そんなことを考えていた。それは、距離的な何かではなく、我々の精神的な、物によらないものの位置のことだ。
向かう先は、山梨。もっと丁寧に言えば、甲府駅。そこから先、どのようなルートを辿ろうか、そもそも、山梨にはどういう観光先があるのか、一ノ瀬はよく知らなかった。多分、神宮の方の由岐も知らないだろうと思う。いつか行ってみたいね、と度々言ってはいたが、まさかこんな急に、山梨に行くことになるとは思っていなかったのだ。山梨に旅行に行こうと決めたのは昨日の朝。家を出発したのが、朝の12時半。山梨はどういうところで、どこどこに泊まるか、それらを調べるのに使える時間は実質10時間もなかった。今回の旅はそれほどまでに急だったのだ。
何の気なしに外を見遣る。高尾駅から電車に乗って、もう30分、いや、40分ほどが経っただろうか。窓の外の風景は、埼玉ではあまり見たことのない田園風景だった。小川があった。水の流れはやや急だった。と思ったら次に赤い家が流れてきた。その赤い家の周りにはぱっと見たところ、何もなかった。もちろん森のようなものはあったが、その他に生活的基盤、――例えば、コンビニやら他の家やら、車やらが、何ひとつなかったのだ。あの赤い家に暮らしている人は普段、どのように暮らしているのだろう、と一ノ瀬はぼんやり思った。
大月という駅を過ぎた。そこで、耳が痛くなった。気圧の変化でも生じたのだろうか、あまり慣れないその妙な感覚に一ノ瀬は若干顔をしかめてしまう。飛行機に乗るとときたまこういうことが起きると風の噂で聞いたことがあったが、まさか電車に乗っているだけで耳が痛くなることがあろうとは。耳の奥にある凹みのある小さなボールを誰かに無理矢理ひっくり返されるような不快極まりないあの感覚。それをまさか、電車に乗りながら感じることになろうとは。
不快ではあったが、唾を飲んだりガムを噛んだり飴を舐めたりしてその感覚から逃れようとは思わなかった。窓の外を見やりながら、そして時々右斜め前に座っている神宮を目の端っこで捕えながら、その感覚が自然に過ぎるのを待った。ほどなくして、その感覚は一ノ瀬の身体から抜け出て行った。
そしてまた、外の風景に変化が生じる。膨大な緑と山と、ポツンと取り残された一軒家、という図式ではなく、膨大な緑の山と住宅密集地、という図式になった。もちろん、埼玉や、東京にあるようなビルや高層マンションなんてまったくないが、一軒家が増えた。黄色い家や、赤い家などもポツリポツリとあった。それらは平屋建てではなく、二階建てがほとんどだった。
ここで暮らすとしたら、買い物はどこに行くのだろう?
ついさっき思い浮かべた疑問とまったく同じ疑問を一ノ瀬は頭の中で再び思い浮かべる。
先ほど見た風景の中に、コンビニのようなものは何一つなかった。もっと言うならば、そもそもスーパーすらなかった。
そして、自分の住んでいる近辺を思い浮かべる。自分が住んでいる家の周りにはコンビニがある。コンビニでは高いので大体の買い物はスーパーで済ませるが、そのスーパーすらあの風景の中にはなかった。コンビニがないのはなんとなくわかる。緑の巨大な山に、夜中もえっちらおっちら商売に励んでいるコンビニなんてなんとも合わないからだ。合わないからやってはいけない、なんてことはもちろんないが、やはり物事には合っていること、合っていないことがあるんだな、と思わせられる。誰もマクドナルドに高級フランス料理を求めて行かないのと一緒だ。物事には適切な場所があり、人々もその適切な場所をゆっくりと学んでいく。そしていつの間にか、人は無駄な行動をまったくしなくなる。ライトノベルに必要以上の文学性を求めないのと同じように。世界はそうやって、少しずつ調整を重ねながら回っているのだ。少しの歪みというのは、この世の中では些細なものなのだ。些細な歪み程度であれば、簡単に元に戻るように出来ている。
では、ほんの少しの歪みではない、〝かなり〟の歪みを生んでしまった人は、どうすればいいのだろうか? 世界に直せないほどの歪みを背負ってしまった人は、一体、どこに行けばいいのだろうか? 教会に行き、神父さんに土下座をすればいいのだろうか? たったそれだけで、歪みというものは元に戻るものなのだろうか?
そう……、例えば、罪を犯してしまった人は、一体どこに行けばいいのだろうか? この世界で生きることができなくなるほどの大罪を犯してしまった人は、世界のどこに行けばいいのだろうか? この世界に居場所はあるのだろうか? そんな場所が本当に、存在するのだろうか? 人を殺してしまった人は、どこに行けばいいのだろうか? この世界に、もう場所はないのではないか? そう考えずにはいられない。
時間が戻ることは、永遠にない。僕らは進むしかないのだ。例え、人を殺してしまったとしても。ありもしない場所を探すために前を進まなければならない。
僕たちは今、山梨へと向かっている。そこにありもしない場所はあるのだろうか、と、自分の内側にいる誰かに問いながら。どうして、とか、どうすればこんなことにならなかったのだろう? とは考えない。人を殺してしまったのに、後悔も何もしていないのは我ながら面の皮が厚い人間だとは思ったが、本当に後悔などしていないのだから、仕方ない。こうするしかなかった、とまでは言わないまでも、それを自然のままに受け容れていた。
一ノ瀬優貴と、神宮由岐は、〝殺人〟という罪を犯した、犯罪者だった。
だから彼らは、逃亡することにした。
彼らにとっての始まりの場所、山梨へ。
すべての始まりと終わりが、ひとつに重なる土地、山梨へ。
これから僕ら、私たちはどうなるのだろうかと、自らに問いながら。
誰も答えられない問いを、胸に秘めながら。山梨へ、向かうだけ……。
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