第14話
宮守ひじりは自室に戻るとフライパンを手にした。
これは武器である。
さらに防具として、手頃な大きさの鍋をヘルメットのようにかぶった。
先ほど遭遇したの少女は、紛れもなく“神”だった。
それが例の要注意神仏なのかまではわからない。
だが、司を守ってあげられるのは自分だけなのだ。
と、ひじりは意を決して自宅を飛び出した。
あの少女の姿をした“何か”を追い払わなければならない。
新海と印された表札とドアを前にして、ひじりは一度、深呼吸をした。
呼び鈴を鳴らす。
インターホンでの確認もなく、すぐに鍵が解除されドアが開いた。
「なにやってるんだ?」
「司!良かった。無事だったのね」
ひじりはぎゅっとフライパンの取っ手を握りしめる。
緊張で手が震えていた。
「無事もなにも……さっきうちを訪ねて来たよな」
鍋をかぶったひじりに、司は怪訝そうに聞いてきた。
「え、ええ。事情は後で説明するから、今すぐ逃げましょ!」
ひじりは司の腕を掴むと引っ張った。教会にかくまってもらえば、あの“何か”への対策を練るまで、ひとまずの安全は確保できる。
「おいおい。そんなに慌てて、いったい何から逃げるんだよ」
「あ、あの……逃げるっていっても……それは……その……」
具体的な説明を求められて、ひじりは口ごもる。
司はひじりが天使だということを知らない。
彼がそれを知る機会があるとすれば、それはひじりが使命を果たした時だけだ。
その時こそ自分から司に全てを打ち明けると、ひじりは心に決めていた。
彼の人生から途中退場するのはすでに決定事項だとしても、せめてひじりは司の大成を見届けてからにしたかった。
司が聖人になることで自身の課題が終わるとか、そういうことを抜きにして、司に幸せになってもらいたかった。
そのためにも、司を生かさなければならない。
なのに、説明すれば司のそばにはいられない。
邪神の存在を説明すれば、自ずと天使であることも言わねばならなくなる。
黙って悩むひじりに司が不思議そうに首を傾げた。
「どうしたんだ?」
「…………」
このまま放っておけば間違いなく、司の身に危険が及ぶ。
「あれ?さっきの人だ。どうしたの?元気ないね。お腹減った?」
唐突に幼い声が玄関に響いた。
司の背後から、小さな影がひじりをじっと見つめて首を傾げる。
褐色肌に金髪、エメラルド色の瞳。その美しさは人間を魅了するに十分だった。
「――ッ!?」
ひじりは悲鳴を押し殺す。
司が困ったような顔つきで、ため息を吐いた。
「さっき電話で説明した通り、この子はその……母さんの知り合いの人から預かった女の子で、名前は……」
「テペヨロトルです。よろしくね。えっとね、好きなのは美味しいのと司!」
無邪気に微笑むテペヨロトルに、ひじりは身震いした。
女の子が口にしたのは、邪神の一柱の名前だ。
その名は天使の基礎知識として学ばされるほどに有名だった。
中米にはケツァルコアトル(文明によってはククルカン)という善神と、テスカトリポカという邪神がおり、そのテスカトリポカの別の名前がテペヨロトルだった。
九柱ある夜の神の八番目で、人喰いジャガーの化身とされ、中米最強の邪神と呼ばれている。
ひじりのような下っ端天使がどうこうできる相手ではない。
「あ、ああっ……」
何で、こんな大物が司の隣に!?
そもそも、近年までの説では、テペヨロトルは永き眠りについているはずじゃ……。
そう、ひじりは習ったのだが、現にこうして目の前にいるのである。
声が震えて喉がカラカラに渇く。
ひじりは立ったまま気絶しそうになった。
なんとしてでも司だけは逃がさなければならない。
人喰いの邪神が大人しく人間と一緒にいるわけがないのだ。
震える両手で握ったフライパンをつきつけるようにして、ひじりは声をあげた。
「た、た、食べるならわたしにして!」
テペヨロトルはぽかーんとしている。司も惚けたような顔だ。
「いつまでも玄関にいないで、中に入ったらどうだ?」
「できるわけないでしょ!」
「どうして?急に遠慮がちになられても困惑するんだが」
ひじりは返す言葉もない。
天使や邪神が実在するなど信じてくれるだろうか?
今このタイミングで訴えても、冗談だと受け取られかねない。
「そ、そうだわ!良い天気だしお散歩しない?」
「その格好でか?」
鍋を頭にかぶってフライパンを構えるひじりに、司はいっそう怪訝そうな顔をした。
「こ、これはその……ハロウィンの仮装パーティーの予行練習よ!」
「今は三月だぞ?」
「予行は早いほうがいいの。それじゃあ早速お散歩に行きましょう!」
「わーい!テペヨロトルも一緒がいいな。お散歩お散歩楽しいな」
司だけを連れ出すつもりが、テペヨロトルも着いてくる気満々で、鼻歌交じりの上機嫌だ。
さすが人喰いの邪神。
まったく隙をみせないと、ひじりは改めて恐怖した。
だが、これはチャンスかもしれない。
散歩と称して教会に行き、司を避難させる。
あとは戦闘系天使の力を借りてテペヨロトルを撃退すれば……主神級の邪神を相手に教会もただでは済まないが、最悪の事態だけは避けられるかもしれない。
現在、この国内にある教会の戦力だけでも、邪神の一柱を国外に追い払うくらいはできるはずだ。
「じゃあ、三人で一緒にお散歩に行きましょ」
「あ、ああ。ひじりがそれでいいなら、そうするか」
司は不思議そうにしていたが、呼びかけに素直にうなずいた。
テペヨロトルが両腕を万歳させる。
「わーいわーい!どこに行くの?スーパーマーケット?」
「それだと散歩じゃなくて買い出しだな。まあ、もう一人増えたからそれでもいいんだけど」
司の奇妙な言い回しに、ひじりの目が点になった。
玄関に新たな人影が姿を現す。
それはスーツを着たモデル体型の美人だった。
一目見て、それが人外の存在だとひじりは直観した。
「私の事はお気になさらず。それよりもテペヨロトル様。出かける時は私に一言、どこに行くか告げておいてはいただけないものでしょうか?それと、あまり人の多い場所にはいかないようお願いしたいのです」
「えー。セイパはすぐそれだし。近くだからいいじゃん」
セイパと呼ばれた美女は、眉一つ動かさずにじっとテペヨロトルを見据えた。
「よくありません。ちょっと食べてくると言うから、てっきりジャングルに芋でも掘りにいったのかと思えば、こんな遠くの島国にまで来てしまうなんて……テペヨロトル様の神聖に干渉したくはありませんが、聞き分けてくださらなければ、こちらも奥の手を使わざるをえませんよ」
「あーもう。またセイパのくどくどが始まったし」
テペヨロトルがぷくーっとほっぺたを膨らませる。司が改めてひじりに紹介した。
「ええと、彼女はセイパ。テペヨロトルの保護者だ」
「保護者ではありません。忠実なる主のしもべ。世界樹に連なる由緒正しき樹霊にございます。テペヨロトル様を保護していただいて、司様には感謝の言葉もありませんが、そこはお間違えなきようよろしく申し上げます」
新たな脅威の登場に、ひじりは言葉を失った。
樹霊というとマンドラゴラやアルラウネといったものが有名だが、世界樹ともなれば樹霊の中でも最高の格を持っている。その力は主神級にも比肩するだろう。
「ええと、彼女はひじり。俺の幼なじ……ひじり!?」
ひじりの頭が不規則にふらっと揺れたかと思うと、フライパンを手放して、司に向かい崩れ落ちるように倒れ込んた。
教区に侵入したのは邪神一柱だけではなかったのだ。
そのしもべまでいるなんて聞いていない。
もしこのことが自分以外の天使たちの知るところとなれば、教区内に大混乱が巻き起こるだろう。
遠のく意識の中で、ひじりは悲嘆した。
もしかしたらこの教区の教会と天使たちは、一両日中には壊滅させられてしまうかもしれない……。
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