Slash~貴公子の薄氷は溶けかけて~

 時は少し遡る。

 サイファーはアクセル・スロットルを思いきり捻ってスレイプニルを加速させる。

 途中で会ったワイアットにフレデリカとヘンリエッタの手助けを、見かけたらやってほしいと言い含めておいて。ジョンもおそらくは自分の後を着いてくるだろうが、アレは自分で何とかできるだけの力がある。

「正面から堂々と行くのも悪くなさそうだけど……」

 そう言いつつもスレイプニルとサイファーは時計塔の裏口を探し求めている。

 周辺をぐるぐると猛スピードで回ること、およそ三分とかからない。見張りもいない裏口の扉に向けて、大型蒸気圧式二輪車もろとも突っ込んだ。

 前輪が一体の機関兵士の顔面を潰したのを確認、即座に基礎の鉄筋に掴まった。二メートルを超す巨躯のおかげで、諸手を上げて少し腰を浮かせれば容易いことだった。

 操縦手を失った二輪車は壁に激突するまで止まらなかった。止まってへしゃげた鉄くずは二輪車だけの分にとどまらず、肉と鋼の合わせ物が混じっている。

 背負い太刀にしていた野太刀を左手で握る。抜刀術の構えだ。

 ぶら下がった体勢から地面に下りたときには、すでに十体以上の機関兵士に取り囲まれている。

「こんなにも大勢そろってご苦労さん。ま、挨拶もそこそこに、だ」

 サイファーは野太刀を抜き放った。刃渡り五尺四寸三分もの長大な刃も、彼の巨躯を前にしては少々長めな程度としか思えない。

 正眼に構えた刃が機関兵士たちを竦ませる。

 とうに生身を捨て、銃弾すら物ともしなくなった彼らは恐怖を覚えているのだ。次の瞬間には自分の身体が真っ二つにされている様を幻視させられる。全員が一歩だけ後退る。

「どうした? 来ないのか?」

 挑発の言葉はウィンクとともに放たれた。

 一人が無謀にも挑みに行く。

 その手に携える片手半剣バスタード・ソードの切っ先が触れるか触れないか。気づかぬうちに一歩分退いていたサイファーの一刀は、すでに振り抜かれていた。刃の描いた軌道はちょうど機関兵士の腰を一閃している。

 機関兵士の身体は一瞬でずれた。血とオイルの混合液をまき散らしながら、何が起こったのかも理解できぬまま崩れ落ちる。神速の一閃がそれを可能としたのだ。

 二メートルを超すサイファーの巨躯は一気に加速する。

 次の獲物に狙いを定め、腰だめに構えたまま突き進む。

 突撃を阻まんと機関兵士たちは一斉に散弾銃を発砲した。腰の蒸気圧タンクから供給される圧力で半自動で撃てる。圧倒的な量の弾幕は回避行動を強制させる。それは相手が常人であるという前提であればの話だが。

 野太刀の刃が漆黒に染まる。おそらくはサイファーの鬼気に反応した結果であろう。

 大嵐のごとき激烈な鬼気と共に、野太刀は刃先も霞まんばかりに振り抜かれて濃密な刃圏を作り出す。散弾のほとんどが斬り落とされた。わずかに残った散弾も剣風によって殺傷能力を失う。もっともサイファーのロング・コートを貫くにはあまりにも無力だが。

「歯ごたえないなぁ」

 目の前の一帯を難なく斬り捨てると、血とオイルの混合物を振り払う。

 人食い鮫を思わせる凶悪な笑みを浮かべ、野太刀を正眼に構えなおす。

「そんなんじゃ虫も殺せねえぞ?」

 首を少しかしげてウィンクまですれば、挑発としてはこの上ないものとなる。

 一斉に片手半剣を携えて躍りかかる。表情など作ることができないせいか、瞳には憤怒の炎を赤々と燃やす。関節を構成する生身と機械ピストンの合わせ技を最大限に発揮し、常識外れの速度を持った戦闘機動を可能とするのだ。

「そんなんじゃ僕には届かないんだよ」

 先頭を切っていた一人を難なく斬り捨てた。制御を失った体は壁に激突、衝撃でただの染みに成り果てる。

 返す刀を踏み込みと同時に振るえば二人纏めて倒れ込む。普通の刃渡りでは為しえない、野太刀であるからこそできる一閃であった。

 背後より迫ってきた片手半剣による一突きを身を旋回させて回避。灰色のロング・コートが翻り、奇襲を仕損じた機関兵士の視界を潰す。そこを逃さずにサイファーは回し蹴りを顔面に叩き込む。割れるような音は眼球代わりの光学機器が砕けた音か。

 瞬く間に、わずか数度の打ち合いで四人が戦闘不能に追いやられた。一人は存命だが視界を潰されて、修理されない限りは戦えないだろう。

「な、僕には届かないと言ったろう?」

 残った機関兵士が全員後退る。

 絶対的な差を認識させられて。

 自分たちに残された道は二つ。おとなしく食われるだけか、せめて一太刀でもいれることか。その逡巡を内蔵された解析機関が感知、脳の未使用領域に書き込まれた戦闘機動プログラムを開放させる。

 機関兵士の眼から意志の光は失われた。

 ただ目の前の目標を徹底的に排除する、それだけの戦闘機械になり下がったのだ。

 故にサイファーは淡々と相手をする。相手の虚を突き、連携する、そんな理想的な戦い方を忠実に実行しているのだ。正道をド直球にいっているのだから、経験溢れる優れた戦士であれば余裕で裏をかくことができるのだ。独立戦争からの戦士たるサイファーであれば容易いことだ。

 打ち合い一つないまま機関兵士は切り捨てられていく。

 わずか数分とかからぬうちに全滅してしまった。

「まったく……機械相手はこれだから嫌なんだ。いくら高度に組まれた戦闘機動も、慣れていくうちにパターンが見えてくる。歯ごたえないんだよなぁ」

 鍔鳴り一つ、小気味よく立てて納刀した。

 派手に殴り込んでいるのだから、ゆっくり納刀してやる必要はない。

 ずかずかと上階に踏み込んだ。

 柱に整備用の機材で込み入っていた一階と違って、二階は異様なほど開けている。

 白熱電球のうすぼんやりとした照明だけが光源だった。室内でガス灯は使えないから、当たり前だが。

「――ッ!」

 背後からの気配に迎撃の一閃を見舞う。

 激しく火花が散った。刃と刃のぶつかり合い。

 その相手はひどく巨大な大剣であった。おそらく二〇メートルを超える鯨をも解体できそうな、分厚い対人戦を想定としていない巨大な剣だ。

 その担い手は――驚くことに老人だ。

 白髪の混じった頭髪は後ろへと流して撫で付け、険しい眼光を放つ鋼色の瞳と目が合った。灰色の軍服めいた長衣が翻る。ダイオニシアス・ガラルド――剣魔とまで称された大英帝国屈指の老剣士であった。

「やっぱり、あの綺麗すぎる坊主が絡んでいたというわけか」

「そうだ」

「足止めということかい?」

「そうだ――同時に私自身の望みを果たすため」

「そんな年で叶えたいことがあるというのかい?」

 おそらくはすでに六〇を超えているだろう。もう引退を考えてもいい頃合いだ。みっともなく前線にいても、部隊の足を引っ張るだけ。静かに、ゆっくりと人生の終わりを迎えるのだろう。

 それでも、なお老人の鋼の瞳には強い意志の炎が燃えている。

 だからサイファーは察した。彼の求めるものを。

「生粋の戦士ゆえに――戦いの中で死にたいということか」

「老いさらばえて、仲間も、家族も忘れ去って、呆けて死んでいくなど御免だ――――私を斬れ。人生最後の剣をかけて、お前と戦おう。勝とうが、負けようが、私の望みは果たされる。だがせめて、願い叶うなら――格上のものに斬られたい」

「戦闘狂だよ、お前。狂ってるぜ」

「どの口が言う」

「んじゃ……もう、言葉はいらないか」

 体の急速な脱力でサイファーの巨躯は、一瞬で地面に迫ろうとする。その速さを踏み込みで縮地へと変える。

 ダイオニシアスとの距離はおよそ三メートルほど。自分の得物のリーチを考えれば、それほど踏み込む必要はない。首筋に向けての一閃を放つ。ほんの小手調べだ。

 振り上げた大剣で弾かれた。

 老いた身体とは裏腹に、その膂力は凄まじいほど強い。

 思わずたたらを踏んだ。全力を出し切って最期としたい。その思いが先ほどの一撃に込められている。

 応えねばならぬ。

 この老剣士の願いに。

「本気で行くぜ?」

「そうだ、それでいい」

 互いに得物を正眼に構える。

 剣を持ったのであれば、ほとんどの者が最初にやる構えだ。基本中の基本。中段だからこそ、取れる選択肢は幅広い。突くも、上段からぶった切るのも、下段からすくい上げるように真っ二つにするのも、どれでもとれる。

 ほとんど同時に動いた。

 刃と刃がぶつかり合って、火花と衝撃波を生んだ。双方のコートの裾が舞い上がってなびく。

「頑丈だな、その刀。普通の日本刀であれば、刃をこぼすどころか折れても不思議ではない」

「ワケありでな――お前さんの剣はイリジアス鋼製かい?」

「この日のために用意したのだ」

「僕を斬る気満々じゃねえか」

 この剣に斬られるわけにはいかなくなった。

 ほとんどの現代兵器を防ぐ自負がある自分の身体を、ただの人間が傷つけるために必要な唯一のもの。剣魔と呼ばれた老人が長年にわたる実戦経験に基づき、驚異的な大剣を振り回す。

 サイファーのこめかみに冷や汗が一滴浮いて、そのまま頬まで流れていく。

 ――アレで斬られたら、ただじゃ済まないだろうな。

 ――素人が百人集まって、イリジアス鋼製のナイフで武装しているほうが良心的だよ。

 武に通じているからこそ、老人の脅威は正しく推測できる。極東で剣に目覚め、独立戦争を駆け抜け、世界中をさまよった。様々な強者とも出会った。この老人はその中でも五本の指に入る。そう断言できる。

 それでも野太刀を握る手は適度に脱力して、普段のサイファーのように不敵に構えている。

 ――行くぜ。

 瞬時に一歩引いてから、一瞬で平突きの構えに移行する。

 そこから全身のバネを最大限に使っての加速、放たれるのは最速の突き。

 人間の神経反応速度など余裕で上回る。切っ先が放つ閃きを見たときには、すでに刃は心臓を貫くのだから。

 だから何の手ごたえも返ってこないのを感じた瞬間、もう一度サイファーは退いた。

 彼のいた位置を狙った兜割は空を切ったのを見て、久しぶりの純粋な剣での殺し合いに昂っていく。

「今のを避けたか」

「僕も同じセリフを言いたいよ」

 老人の剣はただの剣ではない。ダイオニシアス・ガラルドを剣魔にまで押し上げた超常の一振りだ。

 ――機関大剣エンジン・キャリバー

 原理は簡単。高圧の圧搾蒸気の噴射機構を剣に取り付け、噴射の圧力で剣速を爆発的に引き上げるというもの。

 だが生まれたのは剣の皮を被った何か。常人の手では構えることもできず、身体に鋼鉄の機関を組み込んだものしか扱えない代物と化した。

 しかし、何事にも例外は存在した。ダイオニシアス・ガラルドは生身でこれを扱ったのだ。

 この一振りで二〇年もの間、数多の戦場を勝ち抜いてきた。剣魔の称号を得るのも無理はなかった。

「突きが来たからと言って蒸気噴射で回避し、そのまま上空へと飛んで兜割。噴射した蒸気は目くらましに使う。すばらしいコンビネーションだ。拍手喝采を送りたいね」

「これを凌ぎ切った者は、お前が初めてだ」

「そう買いかぶってくれるなよ。結構、ギリギリのとこだったんだ」

 サイファーは野太刀を上段に構える。もっとも攻撃的な構えをとったのは、苛烈な攻撃を叩き込むためか、はたまたプラフか。

 ダイオニシアスは自分が最も信頼する構えをとる。流派を学んで身に付けたわけではない。戦場を生き抜く中で、この機関大剣の性能を最も活かす構えを。帯刀でもするように、柄は順手で握りしめ、右腰のほうに切っ先を上げるように持つ構えだ。

 両者の視線は交錯した。

 サイファーが動いた。

 大上段からの一閃。気づかぬうちに奇声ともいえる裂帛の気合を放っていた。薩摩示現流を源流とする雲耀の一閃であった。

 稲光に例えられる速さは、サイファーが振るえば比喩を脱する。白刃が閃いたのを見たときには、すでに標的の身体は真っ二つなのだから。

 剣魔と称された老人もそうなるのか。

 その結果はサイファーの巨躯がたたらを踏んだことで覆される。漂う蒸気の名残がせめて覆い隠そうとするように見えた。

 右肩から左脇腹にかけて、サイファーは一閃された。

 袈裟掛けに両断されなかったのは、攻撃を中断して身を躱した僅かな差であった。

「間一髪だったな」

 ダイオニシアスの言葉すら聞く余裕がない。

 傷はかなりの深さだ。いまも血が湧き出るように溢れ、流れ出ている。口の中は鉄の味と臭いに満たされた。傷口からは今もどす黒いモヤのようなものが漂っている。イリジアス鋼製の一撃は再生機能に一時的なショックまで与え、機能不全に追い込んだのだ。

 明滅する視界の中で倒れないように意識を保つ。それがサイファーにできるささやかな抵抗だった。

 ゆっくりと掲げられるように上段の構えをとる機関大剣を、荒い息を吐きながら見ることしかできない。

 ――くそっ。

 ――これ以上斬られたらヤバいな。

 ――なんで、こうも死にたくないと思っちまうんだろうな。

 ――もう生き過ぎてんだけど、さ。

 二発の銃声が響き渡る。

 機関大剣の峰に命中し、老人は思わずのけ反った。

「ずいぶんと手酷くやられてるみたいだなァ」

「誰かと思ったら、お前さんかよ」

「へっ、窮地を救ってもらってお礼の一つもなしかァ?」

「大変助かりました、ありがとうございます……これでいいか?」

「だめ、やりなおし」

「あったまきた……」

 両手にアーカム45を携えたジョンは二挺をダイオニシアスに向けて、何度も発砲する。

 全弾すべて機関大剣の巨大な刃に弾かれた。

「手ェ、貸すかァ?」

「いらん。先に行け」

「そっかァ……死ぬんじゃねえぞ、俺様はまだリベンジすらしてねえんだ」

「さっさと行け」

 ジョンは三階へと進もうとするが、眼前を機関大剣の一閃が遮った。

 さすがにジョンもイリジアス鋼製の大剣で斬られたくはないらしい。自分と比べて再生機能に異様なほど特化しているとはいえ、修復には相当に時間がかかるものなのか。

「その剣で斬られたら痛そうだなァ」

「ここから先、行けるとは思わないでくれ」

「いいや、階段だけが上に行く手段というわけじゃねェ」

 あろうことかジョンは五体のバネをフルに使って、間近の窓へと体当たりをかまし、そのまま外壁を上って行ってしまった。

「行かせるか!」

 噴射口での加速突貫ブースター・ダッシュを仕掛けようとしたダイオニシアスを、神速に迫らん一閃が遮っていく。

「まだやれるのかね」

「へっ、まだまだ元気いっぱいさ」

 虚勢だった。抜刀術による居合の一閃を、たった一度放っただけで倒れ込んでしまいそうだ。

 後ろから足跡が聞こえてくる。

 ぱたぱたと軽いのは女のものか。それが二人分聞こえてくる。

「サイファー、さん……」

 目を見開いて、驚愕に染まった表情のフレデリカと目が合った。髪と同じ色の黄金の双眸は、瞳孔に至るまで開き切ってしまっている。いまだ十代のあどけなさを残す顔も、不釣り合いなほどの豊かさに富む身体も、震えている。

 おそらく状況を理解できていないはずだ。今までケガらしいケガなどしていなかったが、今は瀕死と言っていいレベルの傷を負っている。取り込まれたときには、無理をしてまで助けに来たほどの殊勝さだ。次にとる行動はだいたい予測できた。

 刃鎖の集合体である大鎌と一体化させられた『Song For Fog』が一瞬で展開した。くるりと巨大な刃を一回転させ、自分の背後に巨刃を突き刺す。石突として調整されたマズル・ブレーキと銃口はダイオニシアスを照準した。

 全自動射撃フル・オートに迫らんばかりの勢いで引き金を絞りまくる。

 ダイオニシアスの反応は迅速だ。剣魔と恐れられた技量を以て、迫る七〇口径対物銃弾の嵐を叩き落す。

「いい腕だ。だが正道を行き過ぎている……それは命とりだ!」

 射線から一瞬で老人は逃れた。圧搾蒸気噴射機構からの圧力で飛翔し、上空からの兜割でフレデリカを狙う。

 銃口を持ち上げるには遅すぎた。スタビライザー代わりに刺した刃を抜くのも。思わず自分の腕で庇ってしまう。

 ホーレス謹製のゴシック調のコートは凄まじい防御効果を持つが、剣魔と呼ばれた男の刃では蟷螂の斧だ。

 鮮血がわずかに迸る。

 玉虫色の煌めきが、炸裂した。

 ――生命防衛のため、自動防御を発動します。

 双眸が伝えた言葉が、いやなほど耳に残る。

「ぬおっ――!」

 ダイオニシアスは眼前で手榴弾が炸裂した、と錯覚するほどの衝撃を食らった。

 そこを逃さず、サイファーは抜刀からの一刀を振るう。

 鍔迫り合いとなった瞬間、声の限り叫んだ。

「フレデリカ! 先に行け! ジョンと合流しろ!」

「でも……ッ!」

「気にするな。こっちは大丈夫だ」

「…………わかりました。ヘンリエッタ、行きましょう」

「死なないでくれよ。あの子が悲しむからね」

 あとからついてきたヘンリエッタと共にフレデリカは上階へと駆け上がっていく。

 ダイオニシアスと二人きりになったのを確認して、口元に笑みを浮かべた。

 ――なりふり構っちゃいられないか。

 ――あまり使いたくはないけど

 ――葬りたい、過去だからな。

 老人を押しのけた後、ゆっくりとサイファーは抜刀の構えをとったのであった。


 ◆◇◆◇◆


 ――大丈夫かな。

 フレデリカの胸中は不安で満たされている。

 サイファーの傷は普通の人間であれば、完全に致命傷だ。出血量も、また同じ。

 きっと彼が突き放さなければ、きっと残っていた。あの老人を倒すまで、一緒に戦っていたはずだ。

 三階を超えて、今は五階へと向かっている。四階には誰もいなかったのだ。

 そうなると屋上だろう。地下にはすでに大英帝国が捜査のメスを入れたのだから。

「彼のことが心配かい?」

「……はい」

「無理もないはずさ。あれだけの傷を負ったことなんて、私は見たことなかったからね。きっと彼を知るほかの人間も、あそこまでケガをしたサイファーは見たことないんじゃないかな?」

「今は、信じて先を行くしかありません」

 無理を押して心配させるまいとしてか、それとも老人との決着に集中したいが故か。どちらも十分にありうる可能性だからこそ、サイファーの判断を反故にするようなことはしたくない。

 だから先を急ぐ。

 六階まであと階段一つ分のところで足を止めた。

 眩いほどの輝きが目に入ってきた。いや、これは人の形をした輝きだ。

 そう形容できるほどの凄まじい美しさ。その中に光る言いようのない怪しさ。

 フレデリカは黙って二挺の銃口を向けた。

 目の前の美しき狂人に、エドワードに。

「もう逃げられませんよ」

「さ、追い詰められた主はどうするのかな?」

 ヘンリエッタもスローイング・ダガーを構えた。

 その気になれば、いつでも目の前の男を狩れる。銃で撃ち抜くもよし、ナイフを首に突き立てるもよし。すべては二人の采配次第なのだ。

 だが――それでもエドワードは薄笑いを崩さない。その背後にあったのは、ビッグ・ベンの地下にあった数式機関と解析機関だ。ビッグ・ベンを貫くようにして、いつの間にか運び込んでいたのだろう。それもエドワードの微笑と同じく、変わることなく稼働し続ける。

「撃たないのかい?」

 むしろ煽ってくる様だ。その声は何らかの伝声機器を使用しているのか、妙にエコーがかかっている。この距離で使う必要性など皆無なはずだ。

 ――冷や汗でも流せ。

 フレデリカは『Song For Fog』に持ち替えた。大口径対物狙撃銃の銃口がエドワードの眉間を照準する。引き金を絞れば、一瞬で上半身まで四散するだろう。

 迷うことなく引き金を絞り抜いた。

 大鎌の石突として使えるよう円柱状にされたマズル・ブレーキから、盛大に発射炎が散った。

 ハーフ・アップにリボンで結った髪が水平になびくほどの衝撃波が来た。

 へしゃげた弾頭が空中で止まっていた。

 いや、二人とエドワードの間で細かく振動しているものがある。透明度の非常に高い素材で出来ているのか、この瞬間まで存在を認識できなかった。

「テクタイト素材ベースの強化ガラスだよ。大型の機動兵器の主砲でも持ってこないと」

「おう、持ってきてやったぜェ」

 階下からやってきたのはアッシュ・ブロンドの男。間違いなくジョン・ドゥだった。

「仕込みしてそうだから、ちょっと死ぬまで借りてきた」

 肩に担ぐように持っているのは六〇ポンド砲だ。現在の大英帝国がアーカムの技術なしに開発できる、最大威力のカノン砲だ。

 とても人間一人が持てる重量ではないが、ジョンの怪力を前にしては問題ないのだろう。

「よし、じゃあぶち込んでやるぜェ!」

 引き金に結びつけたワイヤーを引こうとするのを見て、二人とも速やかに伏せた。

 瞬間、先ほどとは比べ物にならない衝撃が来た。

 この威力ならエドワードどころか背後の二つの機関まで跡形もないはずだ。

 砲弾の爆炎もバック・ブラストは二人に何の被害ももたらさない。フレデリカの双眸が“力”を行使したとしか思えない。証拠にダイオニシアスを弾いた時と同じ言葉が、脳に直接伝えられたのだから。自動防御の範囲にヘンリエッタもいたのは、幸運なほど偶然だろう。

「おっ、意外と薄かったなァ」

 砕け散った強化ガラスを踏み砕きながら、六〇ポンド砲を惜しげもなく捨てる。

 爆炎の名残も晴れぬ内に、ジョンはエドワードの死体探しに興じようとしていた。

「まさか木っ端みじんになったかァ? そいつは残念だ――」

 その瞬間、ジョンの身体はハチの巣どころかバラバラになった。

 壁を貫通しての機関砲による砲撃だ。口径は三〇ミリを下らない大口径だ。

 それでも――ジョンの身体は砲弾が通り抜けた瞬間から、千切れた筋肉繊維が繋がり、砕けた骨は一瞬で元の姿を取り戻す。眼球は水晶体まで虚空から生まれていき、掃射が終わると同時に変わらぬジョンの姿がそこにあった。服はほとんどボロ布状態だったが。

「へぇ、面白そうなオモチャじゃねえかァ」

「……メルカバ」

 機関砲の掃射で壁には大穴が開いてしまっている。そこから顔を覗かせるのは髑髏を模した独特な形状の頭部。間違いなくメルカバだ。それもお披露目されていたものではなく、あの地下で開発されていたものに違いなかった。

 その頭上でエドワードは変わらぬ様子で微笑んでいる。

「やっぱり生きているか」

「まぁな、俺様はハート以外は無敵の男だからよォ。俺様を殺しきるには、そのでっかいオモチャの機関砲じゃ不十分ということだなァ」

 いまだに白煙を上げ続ける三〇ミリ機関砲を目の前にして煽る様は、対峙する貴公子の狂気に勝るとも劣らないものがある。

 背中で交差させていた鞘から倭刀を二振り抜いた。

 それは野獣の牙。得物に突き立てて、命を貪り尽すためにある。

 今にも飛び出さんばかりに身を屈めるのを見て――エドワードはメルカバ頭部の機関砲をヘンリエッタとフレデリカがいるほうに向ける。

「ケッ、人質か。けったクソ悪いなァ」

「そう言わないでおくれよ。僕も結構心苦しくてさ」

「ハッ、どの口が言いやがる。心にも思ってないこと抜かすんじゃねえやァ」

 ジョンは左手の倭刀を投げ捨てた。右手の倭刀も放り捨てようとして――一刀は掻き消えた。

「あっ――――」

 エドワードがたたらを踏んだ。

 ジョンの放った倭刀は左肩に深々と刺さり、完全に鍔まで通ってしまっている。

 してやったり、という笑みを浮かべたジョンが叫ぶ。

「立て! この手合いは次に何するかわからねえからなァ!」

 のろのろと立ち上がった。

 エドワードはいまだに刺さったままの倭刀を押さえながら、メルカバの頭上でうずくまっている。

 絞り出すような嗚咽が混じった叫びが漏れ始める。

「ううッ……痛い、痛いじゃ、ないかぁ……こんなに深く刺して、ここまでするっていうの、かい? ひどい、なぁ……ひどいじゃないか。みんなを、苦しみから解放してあげようと、いうのにさぁ……どうして、ここまでできるんだよ……わからないなぁ」

 涙も鼻水も垂れ流し、それでも瞳に宿る光は狂気そのものと言っていい。

 左肩の痛みが狂気を表出化させたのか。

「薙ぎ払え……メルカバッ!!」

 機関砲が火を噴いた。

 よく見れば機関砲の銃身は三つ、蒸気圧の力で高速回転しながら三〇ミリ砲弾を吐き出し続ける。ガトリング式機関砲なのだ。これなら長時間の掃射にも耐え得るだろう。

 ビッグ・ベンの六階が吹き抜けになろうとしていた。

 それでも機関砲掃射は止まることを知らない。

 やめさせたのはエドワードの美貌を一閃する一太刀。

 目と鼻の間に朱線が走った瞬間、一気に鮮血が噴き出した。

「なっ、あ、があああぁぁぁぁぁぁぁ!!!! 僕の、顔がッ! 先生が褒めてくれた、僕の顔がッ! なんで、どうして……」

「その綺麗な目で、ちゃんとこっち見たらどうだ? お坊ちゃま」

 機関砲掃射によって粉塵が舞い上がる。放った一閃はその全てを晴らした。

 フレデリカの視界を遮るものはない。それに声だけでもわかっていた。聞きなれた、体格の割にハスキーな声。

 その手には、変わらずに野太刀を携えている。

 風が吹き込んで灰色のロング・コートと橙に近い茶髪をなびかせる。

 サイファー・アンダーソン。

 剣魔を倒してやってきたというのか。瀕死の傷を負っていながらも、ダイオニシアスを切り伏せたとでもいうのか。だが彼はここに立っている。戦いを制して、生きることを許されたのだ。

「ほら、受け取れよ」

 エドワードへと放ったのは、人の頭ほどもある何か――――いや、実際に頭だ。

 厳かに瞼を閉じ、一切の血色を失ったダイオニシアスの首であった。

「本人きってのご要望だ。僕は勝ったぞ」

 受け取った首を見つめながら――狂える貴公子は呟いた。

「何を言ってるんだい?」

 俯いた顔を上げたとき、誰もが目を疑った。

 サイファーが一閃した傷はもうなかった。ジョンが刺したはずの倭刀は消え失せている。

 金髪碧眼の貴公子は、もう存在しない。

 エドワードの右目は黄金に染まっていた。

 ――警告。

 ――瞳同士の衝突を確認。

 ――生命防衛のため。

 ――位階を上昇させます。

 双眸の呟きも、もはや聞こえなかった。

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