Weakening~少女は無力なり、鋼鉄は獣たちを追い詰め~
ダイオニシアスは力任せに鍔迫り合いから逃れる。
両者ともに足取りは危ない。サイファーは傷がもとで、ダイオニシアスはにわかに咳き込み始める。
口の端から黒血が漏れる。肺を病んでいるのだろう。
「この身体に残された時間は少ない。早く決着をつけようではないか」
「まったく年寄りが急いても寿命が縮むだけだぞ」
「なら、その前に君が私を斬ればいい」
「望むところだ」
納刀しての抜刀術の構え。
抜刀して構えた状態から振るう一閃と比べれば、抜刀術による居合抜きは剣速で確かに劣る。もともとは短刀で向かってくる相手を太刀で迎え撃つための技術だ。それでも構えをとったのは最も自分が信頼を置く技術故か。
自分が最も得意とする、最も使い続けた技術に、サイファーは己の命を賭けることを選んだ。
ダイオニシアスの構えも同じ思想に基づいてか、帯刀するように右腰のあたりで機関大剣を構えている。
そのまま――両者ともに動かぬまま。
踏み出す機会を完全に喪失している。完全なる拮抗状態の中、破ったのは上階からの轟音であった。
サイファーが踏み出したのと、機関大剣が圧搾蒸気を噴いたのは同時であった。
ダイオニシアスの一線をサイファーの抜刀が迎撃した。
それでも機関大剣を取り落とさなかったのは、剣魔と称される腕前がなせる技か。そのまま第二撃へと繋げたのも、苛烈なまでの修練が成せた業か。
抜刀の勢いを乗せた一閃が弾き返す。
刃がぶつかったとは明らかに違う感触を、機関大剣は伝えてきた。
右手一本で返された刃は円弧の内側で振り払われている。すでに左手は柄の後端を握り込んでいる。
――峰打ちだと!?
――まさか!
危機を感じたときにはすでにダイオニシアスは袈裟掛けに、バッサリと切り捨てられた。
サイファーの左手だけによる逆手での振り抜きだった。
抜刀の一閃で仕留められぬ場合、即座に返した太刀で相手を討つ燕返しの技。ある意味、その発展形と言える技であった。抜刀で仕留められれば御の字。仮に外したとすれば峰打ちで打ち据えられ、さらに逆手に握られた一刀で斬り裂かれる。
日本刀が片刃であることの宿命――刃を返さねば相手を斬ることは叶わない。どんなに刃を返す工程を短縮しようと、動作が一つあるだけで生じる遅れを、あろうことか峰打ちを挟むことで高速化した邪道の魔剣というべき技であった。
「――成った、か」
「…………未完成、だったのか?」
「初めて使った時は上空に逃げられてな。櫂を削っただけの木刀で頭をカチ割られた。そいつは天下無双の名で呼ばれてる。一度だけ、プライドを捨てて弟子入りしたけど、強さに納得のいくキチガイじみた修行漬けの日々だったよ」
辟易するようにサイファーは天を仰ぐ。
納刀の鍔鳴りが一つ、決着のついた死闘の場に響き渡った。
同時にふうと一息。呼吸を整えて、滾る血潮を鎮めていく。
「――魔剣・燕返し。剣術は斬るためであれば、魔にも邪にも堕ちる」
「真理、だな」
「何か言い残すことは?」
「私の首を……持っていけ」
――こいつ、日本かぶれか?
訝しみながらも抜刀する。瀕死の老剣士を二つに分けるには、死闘を制して疲労した状態でも十分すぎる。その程度で刃の冴えは鈍らないし、自分を危うく殺しかけるほどの一閃の傷もようやく癒えてきた。
せめて苦しまぬよう一太刀で。
サイファーの灰色の双眸は、いつでも首を刎ねるだけの準備があると物語っている。
「エドワード様は、狂っている……」
「知ってるよ。あの目を見りゃわかる……何にも見てない目だ」
「そう、だ……現実の世界など、一度とて見ていない。ずっと自分の中にある、理想通りの世界を現実としている」
「普通ならすぐにでもズレに気づく。だがあんなにキレイな顔してれば、悪魔サタンだって涙を流して自分のすべてを引き換えにしてもお願いを聞いてくれる」
「だから……私の死を突き付けろ。止めるんだ。解析機関を大出力で稼働させ、ビッグ・ベンの鐘を使って特定の音波を流す。機関の計算によってもたらされた音は、脳に大きな干渉を行い、細胞に刻まれた情報を漂白する。続く音は情報を書き込むのだ……エドワード様と同じ存在になるよう、同じ脳内情報を、な」
「イギリス全国民……いずれは世界中があのガキと同じ存在になるということか――争いをなくす手段として多様性を失わせるのは人類滅亡を除外すれば、ただ一つの賢いやり方で、多くの人間が思想統制に心折られてさじを投げた。それを解析機関の計算で強制的に提供か。これなら世界を幸福に包むのも簡単だ。自分が一番喜ぶことをすればいい」
「頼む……あの方を、止めてくれ……私の言葉は、もう……」
「安心しろ、首と一緒に届けてやる」
ダイオニシアスは安らかに目を閉じた。すべてを託す覚悟を決めたのだろう。
サイファーの手から白刃が閃いた。
納刀から、何かを受け止めるように右手を差し出す。
その上に宙を舞った剣魔の首が落ちてきた。
覚悟を決めた老人の生首は、舌すらはみ出すことなく口は真一文字に結ばれている。双眸もまた、安らかに閉じられたままであった。
「さて、社会勉強といこうか。お坊ちゃん? ま、僕も人のことは言えんがね」
生首片手にのしのしと歩き出す。普段ならもっと軽快に歩いているが、血を流しすぎたせいで身体が重く感じられる。その分、思考は普段より落ち着いていた。いつもより理性的な判断ができるかもしれない。鯉口を切るのが少し遅くなるだけかもしれないが。
だがゆっくり歩いてはいられない。上階の爆発音がずっと気掛かりだ。
ここまで響いてくるとは相当大きなものだから、フレデリカとヘンリエッタが無事でいるだろうか。爆発の下手人がジョンだとしたら首を十回転はさせるかもしれない。最低でも。
――他人の心配か。
――まったく、らしくないな。
あの娘を心の片隅で、いつも気にかけている自分がいる。
一人の女に入れ込むのは、もはや自分には禁物だ。いかに逢瀬を重ね、蜜月を費やして、添い遂げるための誓いも、残酷に時が引き裂く。恋仲となった女は少なくないし、そのほとんどが事実婚の状態だった。彼女らが老いて天命を全うしていくのを見るたび、変わらぬ自分の姿に辟易した。
それでも――人並みの感情が温もりを欲する。
遊びだけの関係では決して得ることのない、温もりを。
その度に時は、自分の心をいずれは引き裂いていく。
――我が一刀が、時の死神を斬れるのであれば。
――もう少しだけ、自分はまっとうに生きることができたろうか。
意味はない。すでに過去だ。
意味はない。出来もしないのだ。
意味はない。とっくに自分は堕ちている。
今を見るだけだ。未来に希望など、とっくに抱いていないのだ。
エドワードを斬って、殺して、終わらせる。
これで今回の仕事はカタがつく。
「おわっ!」
すぐ上の階から響いてきた機関砲の発射音に、弱っていたこともあって危うく転びそうになる。
何とか踏みとどまれたのは僥倖だ。誰も見ていないとはいえ、無様に転ぶなどあってはならないことだ。自分の中では。
居ても立ってもいられず駆け出した。上階への階段を一段一段と踏み込んでいくたびに、上からの粉塵交じりの煙はどんどん濃くなっていく。
上階は完全に吹き抜けと化している。外から内部を睥睨するのはメルカバの頭部だ。そのうえで立つ金髪の貴公子に一閃をくれてやる。倭刀が刺さっているのはジョンのせいか。
喚き散らすエドワードを一瞥するとさらに野太刀を一振り、立ち込めていた煙は一瞬で吹き飛ばされる。フレデリカもヘンリエッタも無事だった。忌々しいことにジョンも五体満足だったが。
「ほら、受け取れよ」
ダイオニシアスの首を放った。それでもなお、剣魔の目も口も厳かに閉じられたままだ。
その首を受け取ってもエドワードは微笑を崩さなかった。俯いても。天上の工芸家がやり直しを重ねた繊手からは、確かに生首が放つ死の冷たさが伝わっているというのに。
「本人きってのご要望だ。僕は勝ったぞ」
それでも微笑みは崩さなかった。
俯いた顔を上げたとき、その眼は黄金に変化していた。
――フレデリカの目と同じものに。
「何を言ってるんだい?」
そのままダイオニシアスの首を落とす。メルカバの髑髏の意匠を持った頭部に沿って地面に落ちる。そうなるのが当たり前だ――だが常識の薄氷は呆気なく打ち砕かれた。
鋼鉄の頭部に波紋が生じた。生首は一瞬でメルカバの頭部に沈んでいく。
停止していたままのメルカバに明らかな変化が現れた。各駆動部が激しく振動し、動力機関からは蒸気とも煙ともつかない白いモヤが広がっていく。
メルカバの逆関節式駆動脚の関節が伸びる。そのまま関節は直立二足歩行の形態をとる。胴体部分の関節もすっくと立ち、頭部横のパーツはゆっくりと展開するや五本の指をしっかりと持つ腕となった。
鋼鉄の巨人だ。
紛れもない鋼鉄の巨人が自分たちを見下ろしている。
ぽっかりと光学機器など入っていない頭部眼窩に、深紅の光が宿る。
「あれ、は……」
フレデリカには見覚えがあった。おそらくはここにいる全員が見たことがあるに違いない。
サイファーとジョンの最初の戦闘で、最後になって霧と共に現れた何か。
このメルカバがその正体なのか。
――駆動系、良好。
――動力系、良好。
――武装管制、異常なし。
――システム・マクスウェル、異常なし。
発声装置など存在しないはずなのに、確かに響く声。
メルカバの腕が何かを掴んだ。紛れもない剣だ。
腕部のアクチュエーターとなる蒸気圧ピストンが駆動音を立てながら、蒸気の煙を勢いよく排気する。剣は高々と振りかぶられた。
時計塔に一太刀が振り下ろされる。
◆◇◆◇◆
――なに、あれ。
――どうなったの。
理解が及ばぬまま、ぐるぐるとフレデリカの思考は混乱を続ける。
すべてはエドワードの黄金に変じたあの眼を見てから――自分と同じものになった、あの眼だ。
「大丈夫か?」
サイファーの声で我に返った。同時に自分が彼の肩に担がれているのも把握する。ヘンリエッタに反対の肩に担がれていた。どうやら自分たちを両肩に抱えて、メルカバの一刀から逃れたようだ。
相当離れたところまで跳んだらしい。二〇メートルを優に超える高さまで変形したメルカバが小さく見えることから、五〇メートルは離れているだろう。今は二階建ての建物、その屋根の上にいる。
「あんな改造までしてあったのか。完全に巨人だな」
サイファーの呟きはほとんど聞こえてこない。
見えない。
――いつも通りの視界しか見えないのだ。
ただ目の前の景色を黄金の双眸は映すだけだ。常人が見ているのと同じものを。
「……見えない」
「どういうことだ?」
「普通のものしか、見えないんです」
拙い語彙でうまく言い表せなかったが、サイファーは眉間にしわを寄せた。双眸が機能を停止した今でも、彼の眉間が歪んだ理由が自分の言葉を理解できなかったことからくるものではない。感覚的にだが、素直に思える。
フレデリカの持つ超常的視覚をサイファーも何となく察しているのだろう。
ヘンリエッタへの目配せは迅速だった。
「本調子が戻るまでフレデリカのそばにいてやってくれ」
「そっちのほうが適任じゃないのか」
「お前さんにアレが相手できるか?」
「無理だ。さっきからジョンが何回も突撃してるのを、ハエでも払うように吹っ飛ばしているのを見たらね」
先ほどからメルカバに向けて突貫を重ねる黒い影がある。
ジョン・ドゥは滾る野獣性に身を任せては、メルカバの手で払われて吹っ飛ばされるのを繰り返していた。ある意味滑稽と言えるかもしれないが、あの巨体でジョンの素早さに対応できているのは驚異的だ。
フレデリカは『Song For Fog』を引き寄せようと、その銃把を掴んで――目を見開いた。
――重い。
――今まで取り扱えていたはずが、持ち上げることすら耐えられないほどに重い。
手をそっとサイファーが包み込んだ。
「アレは僕に任せておけ」
いつものように不敵な笑みを浮かべてはいるものの、いささか顔色がよろしくない。
あの老剣士から貰った一閃はサイファーの身体を未だに責め苛んでいるようだ。
だから無力となってしまった自分が、耐えがたいほどに不甲斐なくて許せなかった。銃を持ち上げることも叶わぬくらい、見た目相応のただの女になってしまった自分を。
メルカバがこちらを向いた。ジョンの様子はよく見えない。いつもなら見えているはずだ。
「うわっ、あいつ下半身が挽肉になってやがる。機関砲を食らい過ぎたな」
黒塗りの表面処理をされた髑髏を模した意匠の頭部、そのこめかみのあたりが白煙を噴き始めた。
「機関砲掃射来るぞ!」
ヘンリエッタの行動は迅速だった。
豹のごとき俊敏さでフレデリカと『Song For Fog』を抱えると一気に跳躍した。その距離は実に十メートルを超えたに違いない。
建物の屋根は一瞬で粉砕された。口径三〇ミリもの機関砲弾は並大抵の装甲を一瞬で潰してしまう。
掃射はサイファーを追いかけた。
屋根から屋根、高低差十メートル以上の差もなんのその。そう主張せんばかりに灰色のロング・コートの裾は翼となって翻り、なおも追いすがる弾丸は鞘からの抜刀一閃で斬り落とされる。
メルカバの頭部で銃火が炸裂する。サイファーの右手に保持された規格外の巨大リボルバー『Howler In The Moon』の砲撃に等しい銃撃だった。おそらく装填されているのはホーレス謹製の対装甲弾であろう。秒速七〇〇〇メートルまで加速した溶解重金属と数万度もの火炎を噴き込む代物だ。
それでもメルカバは揺らがない。
頭部装甲の表面に焦げ跡を付かせただけで、凹みなど一つたりとありはしない。
こうなってくると通じるのは森羅万象を砕くサイファーの権能か、空間ごと相手を断ち切る空間切創くらいだ。それも野太刀を振るう僅かな隙に機関砲の連射を叩き込まれる。
「三十六計目を決めるしかないかな?」
諦念など欠片もないぼやき。逃げようなど微塵も考えていない。
怪力無双を誇る益荒男も一分と保持していられないほどの巨銃をコートの内に仕舞い込むと、空いた右手は野太刀の柄を握り込んだ。
メルカバの照準速度を上回る速さを以て、その頭上へとサイファーは跳んだ。
乾坤一擲の一太刀を見舞うためか、すべてを砕いて消し去る“力”は霧状の闇となって噴き出した。とくに野太刀は風雅香る彫金も見事な黒塗りにされた鉄ごしらえの鞘も、赤金の柄頭も見えないほどに霧となった闇に包まれている。
サイファーの抜刀にメルカバも剣を抜いた。刃渡りだけでも十メートル以上はある、巨人が振るうための代物をどこからともなく抜き放ったのだ。
それはしなりながらサイファーの一刀を迎え撃つ。
だが彼の一刀もまた、尋常のものではない。
抜刀の軌跡はメルカバの剣と同じだけ伸びた。
超常の刃同士、ぶつかり合った瞬間に周辺は打ち震えた。建物の外壁にはヒビが突っ走り、窓ガラスは粉砕された。周辺住民はすでに避難済みであったことが、不幸中の幸いというべきか。
「ええい、くそっ! これで仕留めきれりゃ御の字だったんだが、なかなかそうはいかないということか。あの坊主はどこに行きやがった?」
メルカバの頭上に立っていたエドワードの姿はない。
倒壊しないのが不思議なくらいのビッグ・ベンの時計塔に、煌めくほどの貴公子がいた。
あれだけ撃たれた機関砲弾の嵐の中でも、ほとんど無傷だった解析機関と数式機関にゆっくりと歩を進めていく。
――マズいな。
近づかせるものか。仕舞い込んだ『Howler In The Moon』を再度抜き放つ。
七〇口径もの規格外に巨大なリボルバーが、威容に見合うだけの咆哮を上げた。青白い砲火はマズル・ブレーキのスリットに沿って十字をとる。一発だけに留まらず、続けて四発も放たれた。並みの人間であれば腕の関節すべてが粉砕されてもおかしくないが、サイファーの膂力と肉体強度は手負いであっても未だ常識の範囲外であった。
「邪魔を……しないでくれッ!」
右手を一振りしただけで巨弾ははじけ飛んだ。
舌打ち一つ、サイファーは即座に思考を切り替えた。巨銃を仕舞い込み、野太刀の柄に手をかけた。
銀条一閃。
空間切創の一撃はエドワードを捉えることはなかったが幸か不幸か、その一歩先を無慈悲に切り裂いた。切断された床は支えを失って真下へと落下する。無論、エドワードも巻き込まれることとなる。
「ナニやってんだ。俺様も仲間に入れてくれよォ」
吹っ飛ばされた下半身を再構築して。
獰猛極まりない笑みを浮かべてジョンは立っていた。
その手に倭刀を携え、もう一方の手は六〇ポンド砲を担ぎ上げている。
支柱と骨組みだけが残っているようなビッグ・ベンの六階からメルカバを見下ろす。
「よし、じゃあでっかいのぶち込んでやるぜェ!」
倭刀を握ったままの手で器用に発射装置に結んだワイヤーを引いた。
こちらは紛れもなくカノン砲だ。マズル・ブレーキは十字の砲火を噴き、腰部に強烈な砲弾の一撃を見舞う。
着弾と同時にメルカバは震えた。装甲が、関節が、武装が。軋み合って呻き声のように響き渡る。
「流石はカノン砲。威力が段違いだ。そしてお手軽ときている」
もし六〇ポンドほうが列を組み、一斉に砲撃したとなれば。この巨人のごとき戦車は打ち砕かれるはずだ。
サイファー、ジョン・ドゥのような怪物的存在は必要ない。訓練を積んだ兵士が指揮官の号令で撃てばいい。ただそれだけで目の前の脅威はするりと片付くのだから。
だが鋼鉄の巨人戦車がこれで終わるわけがない。
全身の関節が震えだして、耳障りな音を響かせる。
――システム・マクスウェル、出力全開。
――炎熱防御、展開開始。
――攻性凍結権能、出力最大。
発声機関などないはずなのに、金属の軋み同然の不気味な声が響く。
空気が渦巻いた。周辺の半径五〇メートルくらいは風をはっきりと感じるはずだ。メルカバを中心に渦巻いて立ち上っていく上昇気流が原因だ。
莫大な熱量をメルカバは発している。下手な建物よりもはるかに巨大な鋼鉄の身体が赤熱している。
サイファーもジョンも頬が焦げる感触を感じていた。並みの人間であれば産毛は燃え上がり、息を吸えば気道熱傷で呼吸困難は確実だ。何の異変もないのは二人が超常の魔人たるが故か。
「何の小細工だよォ。もう一発ブチ込んでやるかァ」
六〇ポンド砲の砲身をメルカバに向ける。
砲弾の再装填をいつの間に済ませたのか、ジョンは完全に発射態勢を整えている。溢れる膂力に任せて砲全体を担ぎ、発射機構に結んだワイヤーを引いて撃つ。荒唐無稽の塊としか思えないが身長よりも大きい砲身は微動だにしない。
だが――その前に六〇ポンド砲が爆ぜる。ちょうど砲弾を装填されたであろう、機関部のあたりから盛大に火花を噴いて。
「熱で誘爆させたのか!?」
サイファーは素早く『Howler In The Moon』の輪胴から弾丸を捨てた。次の瞬間にすべてが一斉に爆ぜた。
火薬は禁物だ。
爆弾も禁物だ。
熱波の範囲内から灰色の外套に包まれた巨躯が逃れる。
ジョンも上半身が左側しかないが、何とか範囲内から逃れたらしい。
メルカバの周囲は熱波で陽炎となった。鋼鉄の巨躯は揺らぎ、大きくなったり、小さくなったり。その姿はまるで安定しない。
ついに発火点の低い物質は燃え上がった。メルカバは黒煙を纏い、その姿を一層わからなくさせる。
それとは逆に冷ややかな空気を帯びるものがある。
メルカバが手に握る剣は目に見えるほどの白いモヤを纏い始めた。低下する刀身の温度が大気中の窒素を液化させつつある兆候だった。
「熱と冷気の操作……いや温度ないし熱分子の操作と見るべきかな?」
「へェ、意外と博識なんだなァ」
「ミソのいいヤツほど長い付き合いでね。おかげで科学には少しばかり明るい」
「羨ましいなァ。俺様の周りは似た者同士だぜ」
「そのほうがいい。話についていけないからな。そんな友人のほうが気が楽だぜ」
「おっそうだなァ。んじゃ、アレをさっさとぶっ壊して、大切なダチと飲みに行くとしようかァ」
六〇ポンド砲を捨て、ジョンは二刀を構えなおす。左側はまだ表皮が治り切っていないが。
メルカバの頭部がこちらを向く。三〇ミリ口径機関砲がサイファーとジョンを照準する。それだけではなく脚部の榴弾砲も
機関砲と榴弾砲が火を噴いた。
濃密な弾幕と爆炎が二人に降り注ぐ。立っていた屋根は波打ったように跳ね上がり、跡形もなく砕け散っていく。
「バカスカ撃ち過ぎだ」
懐から規格外の巨銃『Howler In The Moon』が現れた。大きさも、重さも、火力も、すべてが銃という概念から大きく外れた破壊兵器の照準はメルカバの胸部を狙う。六発しか入りそうにない輪胴には、二十四発ものホーレス謹製の対装甲弾だ。
火線の長さは数メートルまで達した。
だが弾丸はメルカバに当たる前に爆ぜる。熱波に
空薬莢も実包も排莢すると、新たに徹甲弾を装填した。カバーに包まれた直径数ミリのダーツが飛んでいくものだ。銃口付近でカバーは弾け、凄まじいエネルギーを引き受けたダーツはよほど水平に当たらない限り相手を貫通するのだ。
それでもメルカバの装甲、その表面で火花が散るだけだ。ダーツは食いこまずにぶつかっただけに終わった。尖形状のダーツも熱波によって形を崩壊させ、貫徹力を失ったのだ。
「銃はダメみたいだな。かと言って、近づいたらじわじわとローストされる。ジレンマだな」
「ここにじっくりローストされても平気な奴が一人いるんだがなァ」
「おう、じゃあ逝ってこい」
容赦なくジョンのケツを蹴っ飛ばした。
ほぼ直線軌道を描いてジョンはメルカバの頭部めがけて飛んでいく。
「今度は俺様の番だァ!」
二振りの倭刀は難なくメルカバの頭部に突き立てられた。
ジョンが誇るサイファー以上の膂力が為せる技だ。倭刀はよく鍛え上げられた名刀なのか折れることなく、ジョンが求める務めを果たす。
突き刺した片方を引き抜くと、今度は別の場所を突き刺し始めた。滅多刺しだ。動力系が集中している個所に蹴れば良かったか、とサイファーは内心で後悔した。例えば胸部とか。頭部などいくら突き刺そうが、搭乗者がいない限り最早張りぼてのようなものだろう。
納刀した野太刀の鯉口を切る。
空間切創で一撃必殺だ。胸部には確実に動力用の数式機関が存在するはずだ。そこを破壊されてしまえば、この鋼鉄の巨人も停止するほかない。動力を失った機械は止まるしかないのだから。
幸いにもジョンのめった刺しでメルカバの注意はサイファーに注がれていない。
あとは野太刀を胸部に向けて一振り。一切の分別なくすべてを切り裂く空間切創の一撃は、猛威を振るうメルカバの熱波など意に介さない。軌道上にあるすべてを斬り捨てるだけだ。
「――何をする気だ?」
白いモヤを帯びた剣をメルカバは振り上げた。どう考えても届くわけがない。サイファーとの距離は三〇メートル近いのだから、一〇メートルを超える程度の刀身ではあまりにも足りない。
だがサイファーは本能的に危険を感じ取っていた。
少なくとも新大陸独立戦争があったときから戦場にいる。積み上げられた経験は計り知れない。無論、近代の戦闘理論では思い及ばぬ第六感も凄まじく研ぎ澄まされている。
その第六感が叫ぶのだ。
――逃げろ、と。
切った鯉口を納めて、その場から離れるべく跳躍した。
遅れてメルカバが剣を振るう。
冷気が大瀑布となって炸裂した。大気中の窒素を容赦なく液化させるほどの冷気が嵐となり、切っ先が向いたほうを駆け巡った。何もかもが容赦なく凍てつき、すべての熱分子は活動を停止した。
百メートル近くも飛んで避難したというのに、サイファーは頬に痛むほどの冷たさを感じた。もしかしたら凍傷になっているかもしれない。人間離れした時を生き、人間離れした強度を誇る自らの肉体が温度変化で傷を負いつつある。
間違いない。幻想の冷たさだ。人類の叡智、人理の内からかけ離れた外なる冷たさ。
――自分の命に手をかける、唯一のもの。
メルカバの一撃で前方二百メートル近くも氷漬けになった。冬の冷たさとは一線を画する幻想の冷気が場を支配しつつあった。
「ジョン! 無事か!?」
「死なないことが俺様の取り柄だァ! ハート以外は無敵の男だからよォ!」
心配したことが杞憂だった。ジョンの不死性は刃を交えたことは少なかれど、嫌というほど思い知らされている。
だから大丈夫だと――そう思った。
メルカバが首を振り上げた。
宙を舞うジョンをメルカバは平手で地面に叩き付けた。叩き潰されたハエよりも哀れなほど、その様は憐憫を掻き立てるようだ。
石畳を砕き、大地を踏みしめる鋼鉄の脚が持ち上がる。髑髏を模した頭部はジョンを見下ろして――正確には見下していた。
その次に行う行動はいやでも予想がついた。
サイファーのいるほうまで振動が来た。強烈な足踏みによるスタンプがジョンに炸裂した。止まることを知らず、メルカバは右脚でジョンを踏みつけ続けた。
ただでさえ暗い冬の空にさらなる陰りが加わりつつあった。
――フューリアス。
ジャッキー・フィッシャーがメルカバと共同運用するはずだった航空機動要塞が睥睨する。
『まずは君からだよ、サイファー・アンダーソン』
空を覆う鉄塊から聞こえたのは、まぎれもないエドワードの声だ。
火砲群が一斉に彼を照準し始める。
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