Reach~内緒の話は中華麺を嗜んで~
――野太刀が切り裂く。
――双刃が叩き切る。
先頭をサイファーとジョンの二人が先行してくれるおかげで、ヘンリエッタとフレデリカはほとんど戦わずに済んでいる。
手に入れた刃鎖で構成された大鎌は使う機会を完全に見失うくらいに。
出会いがしらの敵にも瞬時に対応している。意識のスイッチを切り替える速度が段違いだ。フレデリカが敵の姿を認識した瞬間には、すでに迎撃態勢を整えている。反応速度の差ではなく、日頃の心構えの違いだ、常に戦いを意識するスタンスなのだ。
「歯ごたえねえなァ」
「お前のお眼鏡にかなうような相手が、そうそういてたまるか」
「じゃあアンタが慰めてくれよォ。なァ頼むぜ頼むぜェ?」
「マスかいてろ」
野太刀の血を
ジョンはいまだに倭刀を抜き身のままだ。おそらく得物が銃だったら、ずっと引き金に指をかけているだろう。いつでも相手を殺すための心構え――その表れとしか言うほかあるまい。ここまでくると狂気的であるが。
サイファーも同じようなものだった。鞘に収まった野太刀の鍔に親指を押し当てているのは、すぐにでも鯉口を切れる準備だろう。有事の際には神速の抜刀術からの二の太刀、三の太刀と連携で斬り込んでいくはずだ。
「外への道はわかりますか?」
「お前さんを救出して、もと来た道を戻るつもりだった。けど追手のいらん世話で道がめちゃくちゃだ。はっきり言えば、わからん」
「空気の流れから地表を目指そうとしても、デカい換気扇にぶつかったからなァ。探す当てはあンのかァ?」
「勘だよ」
「嘘だろ」
「ヘンリエッタ、勘を侮ってはダメだ。人より険しい場所を行くのなら、勘に頼るしかない。すべてを聞き入れなくていい。友人のアドバイスを聞くような感じでいいんだ」
その言葉にジョンは狂相の笑みを浮かべている。
ある一方を指さした。そこは少し離れたY字に分かれた道だ。
ジョンは右を指している。
「俺様の勘はあそこに行けと言ってるぜ?」
「奇遇だね。僕もあそこがクサい」
「私もなんか怪しいと感じるな」
ジョン・ドゥ、サイファー・アンダーソン、ヘンリエッタ・ウェントワース。この三人すべてが珍しく意見があっている。
フレデリカも同感であった。言いようのない不安による胸騒ぎを、その道から感じている。脱出は先決であるが、見過ごせないものがそこにはある。
「私も……行くべきだと思います」
「全員の意見が合ったな。用心して進もう。何が出てくるかわからんからな。ジョン、お前はケツを固めてろ」
「お嬢様二人を挟んでお守りってわけかァ。いいぜ」
左手の倭刀を納刀し、散弾銃に持ち替えた。ポンプ・アクション式だがコッキングの時は、フォア・エンドを握りしめて上下に振ってやれば片手で装填できる。
自分も何か小回りの利く武器に持ち替えたほうがいいだろう、と思い拳銃を抜こうとしたが、いかんせん大鎌をどうするかに躓いた。両手で持っておかないと取り回しに困るうえに、誰かに持ってもらうこともできない。重さをあまり感じないのが唯一の救いだ。
どうしよう、と思った瞬間に大鎌は一瞬にして刃鎖に早変わりするや、コルセットのあたりで一周し、背中側で縦二〇センチ横四〇センチの直方体に落ち着いた。ほんの一秒もかかっていない。
近くのヘンリエッタは眼前で狙撃弾を受けたような顔をして驚いている。
「なにを……したんだい?」
「わ、わかんないですよッ! かさばるな、と思ったらこうなっちゃって……」
「持ち主に応えることができるくらいのお利口さんか……羨ましいね」
だが持ち運びには困らなくなった。
両手に二挺を構え、周囲を警戒しながら進んでいく。
遠くで何らかの音が響いている。穴倉の中だから距離感を掴めない。
引き金に指はまだ掛けない。
音の正体がおぼろげにわかってきた。
工具の音だ。溶接の火花が散る音もする。
そのかわり、人の気配が少ないように思えた。
ついにたどり着いた。二つの機関が稼働していた空間に負けず劣らずの広さだ。ただ、ここは完全なる半球状だ。すり鉢状に窪んでないせいで、上下の広さは半分ほどに感じる。それでも天井は三〇メートルを優に超える。
薄明りの中、たまに散る火花が照らす姿にサイファーは絶句する。
「おいおい……こいつは最悪だ。フィッシャーの心臓が止まるぜ」
鋼鉄の巨躯が逆関節式の脚で立っている。その周りには足場が組まれ、おそらく解析機関で作業内容を書き込まれた工作機器が、忙しなく動き回って作業に励んでいる。
重厚な巨人というにはあまりに不格好で、人の形からかけ離れた巨大なものにジョン以外の三人は見覚えがあった。
「メルカバ……」
「こんなものを地下に、運び込んだのか……」
全高二〇メートル近い試作巨大兵器をいかにして奪い、そして運び込んだのか。神の戦車、の名を冠した兵器は稼働の時を今か今かと待ち構えているように思える。
出撃する際はどうやって出すのか、といろんな問題点はあるが最も気になるのはただ一つ。
――なぜメルカバがここにあるのか。
ジョン・アーバスノット・フィッシャーが作り上げた新型兵器が、なぜここにあるのか。兵器王の最新作、その模倣であるのか奪ってきたものなのか、まるで見当がつかない。
「……所々違う。武装が多すぎるし、パーツも増えてやがる」
「だとしたら別のメルカバでしょうか?」
「あんなものがもう一台あるなんて、冗談じゃないったら」
「俺様はあっちのほうが気になるがなァ」
メルカバの隣で建造されているのは玉虫色に輝くもやを放つ、大人一人分くらいの球体だ。マット・シルバーの防錆処理が施されている。
明らかに数式機関だ。未知の鉱物を持って生み出される、原理不明のエネルギー機関。稼働を示す玉虫色のもやを放っているということは、建造自体は終わっているのだろう。あとは試験稼働を行い、望むだけの出力が出ているかを調べている。
現に数式機関は計測機器に接続され、針は振り切れる寸前まで行っている。
その近くに計測者がいた。三〇代くらいの白衣を着こんだ男で、そんなにガタイの大きいほうではなかった。むしろ小柄と言ったほうがいいだろう。一七〇センチにようやく届くか届かないか、という瀬戸際なのだから。
サイファーが一歩を踏み出す前に、アクロバットでありながら完全なる無音でジョン・ドゥが肉薄した。
その狂相の笑みと目が合った瞬間に、男はコルトの三八口径を抜こうとした。
耳障りな音がした。生固い根菜類を握りつぶしたような音。
――実際は肉と骨、それと鋼鉄であるが。
遅れて響いた破裂音。
恐るべきことにジョンは銃把ごと男の手を握りつぶしたのだ。サイファーよりもはるかにすさまじい怪力の餌食になった手は、砕けた骨が皮膚を突き破ってずたずたになってしまう。衝撃で銃把内の実包も暴発した。男の手の名残は煤けた骨と、そこにぶら下がった肉片だけだ。
無論、ジョンも爆発を食らったが見る見るうちに手は元の姿を取り戻す。常識外れと言っていい再生能力の賜物だ。
「ジョン、やめとけ。それ以上はそいつを殺しちまう」
そう言いつつも手には工業用バーナーがある。ボンベは背中に背負っている。
痛みに悶え抜き、転がりまわる男を押さえつけてサイファーは穏やかな声で問う。あくまでも理性的で体躯に見合わぬ割と高めの声だから、男は少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「この穴倉を作るように言った、お前さんたちのボスは誰だ? 言ったら手の血を止めてやる」
「ほ、本当か? 治してくれるのか!?」
わずかでありながら、圧倒的な違いにサイファーは笑みを浮かべた。男はうつぶせになるように抑えられているから、サイファーの顔もバーナーも全く見えない。男は圧倒的な痛みと異常な状況に正常な判断力を失っているから、相手の言葉にも自分の言葉にも全くの疑いを抱かない。
「ここは元からあったものを利用しただけだ。別に掘り抜いてはいない」
「んじゃあテメェのボスだ。いったい誰なんだ?」
「エドワード、そう呼ばれていた。思い出したくもないほど……美しい男だ」
「やっぱりな……」
「君の質問には答えた。だ、だから早く治してくれ。私はただの技術者だ。もともとは兵器王の下にいたが……このメルカバはお披露目だけに終わらせていいものじゃない。防衛の強化だけに終わらせてもいけない。あれは攻めるためにある兵器だ。抑止力のために作る兵器など税金の無駄だ。やはり兵器は殺し、滅することに存在意義がある。メルカバとフューリアスの設計図の写しを見せたら、彼は子供のように喜んでいたよ」
「フィッシャーを裏切ったのか?」
「あ、ああ。抑止力だけの兵器を作るだけの男だからな」
「そうか、じゃあ血を止めてやる。ジョン、押さえろ」
ジョンは無言で吹き飛んだほうの手を肘の近くあたりで、踏んづけて押さえる。
バーナーの引き金を引くと酸素と化学系可燃ガスの混合気体によって、噴射口から青白い炎が噴き出す。
その熱波が醜く引き裂けた傷口に近づこうとしたとき、男は己の運命を悟って暴れ出す。だが怪力のジョンによって鼻っ柱を踏んづけられては、抵抗もままならない。
人の焼ける臭いが一瞬であたりを包んだ。
バーナーが当たった時間はそれほど多くはない。一分強というところか。
それでも高温の炎によって傷口は焼け爛れるどころか炭化してる有様だ。男は白目を剥いて、泡を吹いている。意識は何処へ行ったのか。
噴射口の残り火で葉巻を吹かす。サイファーは口いっぱいに紫煙を吸い込んだ。
「フレデリカ、近くに灯油かガソリンの入った缶があったはずだ。持ってこい」
「……はい」
「持って来たらヘンリエッタに渡せ。そんでヤツにぶっかけろ」
サイファーが何をしようとしているのか、フレデリカはすでに察している。ヘンリエッタも同じであった。
ガソリンと書かれた缶を持ってくると、ヘンリエッタに手渡した。
男の近くで封を切り、中身の半分くらいを身体にまんべんなくヘンリエッタはかけた。あまり激しく注ぐと危険だから、注意深さが必要になる。それでも三〇秒とかかってない。
「ご苦労。最後に起こしてやれ」
ヘンリエッタは近くにあった鉄パイプで腰骨を叩いて喝を入れる。
「やぁ、お目覚めか?」
「な、治すと言ったじゃないか……」
「なに勘違いしてんだ。血を止めてやる、僕はそういったんだぜ。お前さん『兵器は殺し、滅することに存在意義がある』と言ったな」
「過激だと言って、私を殺すのか」
「いいや、頭が下がるほど同意するよ。僕もどちらかというと、けっこう過激な人間でね」
「そんなデカいナリなんだから、物騒なのは当たり前だろう。そんな長いコートまで着てさ」
ヘンリエッタの横槍を一睨み。そっぽ向いて黙ったのはささやかな抵抗か。
「でもフィッシャーを裏切ったのは話が別だ。死ね」
「や、やめ……!」
無慈悲にあっさりと、サイファーは葉巻をガソリンまみれの男に放る。
爆発的なまでの炎に男は呑み込まれた。悲鳴と絶叫を背後から聞きながら、一行はここを後にしようとした。
それを鋼鉄が遮った。ある意味では小さなメルカバと言える逆関節での二足歩行を行うのは、足を伸ばしても四メートルに届くかというくらいの戦闘機械――
何層にも重ねられ、特殊な化学透明フィルムを張られた操縦席のガラスは五〇口径重機関銃弾までなら日々だけで済ませるし、それ以外の装甲であれば手榴弾の爆発だって平気でいられる。
それが三体。普通なら武器を捨ててホールド・アップするのが定石だろう。
だが彼らは違う。
「フレデリカとヘンリエッタで一体、僕とジョンで一体ずつな」
「人使いが荒いな」
「まぁ幸いにもここは広い。動き回ったって大丈夫だろォ?」
「いつも通り……うん、やれる」
ジョンが先手を切った。こちらを向く銃口の脅威などお構いなしの、不死性に与えられた豪胆さは突貫で生きる。
蒸気駆動鎧も黙っているわけではなかった。その鈍重そうな見た目とは裏腹に、充分にスピードを乗せた一撃を軽やかなバック・ステップで避けたのだ。
左右合わせて四門の機関銃が炸裂する。
おびただしい量の三〇―〇六スプリングフィールド弾の薬莢が小気味よく落ちていく。
一体がサイファーのほうを向いて機関腕を向ける。榴弾砲から口径一〇〇ミリもの弾丸が発射される。
「そんな一人だけで楽しもうとするな」
ジョンに負けず劣らず、凶暴な笑みを浮かべたサイファーは野太刀の鯉口を切る。
銀条一閃――刃は迅雷となって走る。
榴弾は真っ二つになる。上下に分かれた弾丸はサイファーの後方に飛んでいき、むなしく爆発することなく落ちた。神速の抜刀術は信管に作動させる暇すら与えぬというのか。
その神速が勢いを失わぬうちに続く二撃目が右脚を捕らえる。
蒸気圧と油圧の二つのピストンで構成された歩行脚は、歩行の要となる人工筋肉のもとであるピストンを断たれた。薄茶のオイルと真っ白な蒸気が噴射しつつ、歩行脚は自重を支えきれなくなる。
ついに倒れ込んだ蒸気駆動鎧、その操縦手はガラス越しに見た!
――自分を狙う巨銃の銃口を。
――自分を見つめるサイファーの瞳を!
銃口が跳ねる。雷鳴と聞き違う砲声が響く。
発射された弾丸は銃口を抜けるや三つに分かれ、中から細長いダーツを撃ち出す。ホーレス謹製の徹甲弾はよほど水平に撃ち込まぬ限りは、装甲が分厚くない限りほぼ確実に貫徹する。
矢弾は操縦手に弾頭のエネルギーを思う存分に叩き込んだ。操縦席のガラスは真紅に染まる。矢弾の射入孔から漏れた鮮血が、外部に奇怪な図を描く。
「お先に一人」
「あっ、抜け駆けしやがってェ!」
倭刀を両手に構える二刀流をとった。
身体を機銃が貫通してもお構いなしだ。そのままジョンはもう一体に駆けてゆく。
左足を回るように駆け抜けながら、二刀をやたらめったらに振りまくった。サイファーの野太刀に比べれば半分程度の刃渡りしかないから、幾度に分けて斬り刻む必要がある。それも技術の欠片もない力任せだが、ジョンの怪力が切断を可能にする。
「ハッハッハ! メイン・ディッシュといこうじゃねえかァ?」
狂相の笑みが深まった。
犬歯も前歯も、歯という歯を剥き出しにした笑いだ。
蒸気駆動鎧は膝から折れる形で歩行能力を失った。倒れ込まなかったのが、せめてもの幸いだろう。
――それも死期を少しだけ長引かせるだけだが。
歩行脚から漏れたオイルと蒸気の混ざりものが立ち込める中からジョンは跳躍した。
操縦席のガラスに倭刀が突き立てられた。だが刃はあと一歩のところで及ばない。
操縦手は自衛火器として与えられている拳銃を抜こうとした。ブローニングM1910だ。とにかく引っかかる部分が存在しないから、素早く抜き撃ちができる。
その前にジョンが腰のハーネスに付けた散弾銃に手を伸ばすほうが早かった。倭刀を突き刺したヒビを銃口で突き割る。
十二ケージのOOバック・ショットは操縦席にぶち撒けられた。ここでジョンは己のものではない血を浴びる。顔とアッシュ・ブロンドを汚す鮮血を手で塗りたくりながら、恍惚と歓喜の声を漏らす。
「あぁ……もう気が狂うほど気持ちいいぜ」
もう一体の機銃がジョンを狙おうとしていた。
それを操縦席へと飛ぶスローイング・ダガーが遮った。炎熱を纏ったそれは、当たった瞬間に爆炎を広げる。
ヘンリエッタお得意のルーン文字を刻んだ魔術ナイフだ。
しかし、これはただの目くらまし。
本命は別にいる。
「大丈夫……飛べる。飛べるんだ」
刃鎖の塊は一瞬にして大鎌へと変わる。
これは試し切りも兼ねている。
地面を蹴って、フレデリカは宙を舞った。ゴシック調のコートとスカートが翻った。揃いの黒であった。
飛び上がって操縦席に刃を突き立てようとした。あまりにも大ぶりな動きであることはフレデリカも自覚している。蒸気駆動鎧は歩行脚のパワーで、軽やかにバック・ステップで躱す。
――届かない。
――だったら、伸ばす。
返す大鎌を縦に一閃。柄から垂直に伸びる禍々しささえ感じる刃は蠢いた。柄から真っすぐに伸び、歪にねじくれ抜いた巨大な刃へと変わる。その長さ実に六メートルを超える。
刃鎖はただ蠢いているのではなかった。小刻みに震えて耳障りな高音を奏でて、獲物を切り裂く瞬間を待ち変えているのだ。
大刃一振。
刃は触れるだけ。高速振動を行う奇怪なる刃は重厚な装甲を薄紙のように裂いた。
二つに分かれた機体がどうと倒れた瞬間、軽快な口笛が耳に届く。
「その鎌、なかなか便利じゃねえか」
「私もまだ慣れてないんですけど……」
「…………オェイ! アレ見ろアレェ!」
ジョンの視線の先には天井に一閃が刻まれている。さきほどフレデリカが一撃を放った後だ。
――薄紫色の夕日が隙間から差し込んでいる。
おそらく地上に相当近い位置だったのだ。六メートルにも及ぶ巨大振動刃の一閃は地表を走ったに違いない。
「――サイファーさん!」
「わかってる」
それを一発だけ込めて、輪胴を振って戻す。
銃声と共に、地上への道が開く。
◆◇◆◇◆
熱いシャワーを浴びて生き返った気分になる。
あのあと炸裂弾で開けた穴から脱出し、リッツ・ロンドンに何とか帰還した。途中の公衆電話で何度かサイファーが連絡を入れていたのは、メイザースへの連絡をはじめとする諸々の手配であろう。
ジョンはいつの間にかどこかに消えていた。ホント傍迷惑なヤツだ、とサイファーは愚痴っていた。
リッツ・ロンドンに辿り着いた時も従業員がなるべく目立たない裏口から通してくれたし、食事はルーム・サービスになった。
ただ食事よりも先に体を洗いたかった。髪に染みついた血と土の臭いを落としたかった。
何度も何度も洗いで濯いだ自前の金髪。浴びた返り血のことも、被った土ぼこりのことも気にせずに歩いていた。だから排水溝へまっしぐらの水が濁っていたのに身震いした。
――出ることだけ、ずっと考えてたんだ。
一意専心。ただひたむきに。
地上に出ることだけを考えていた。
そこまでひたむきになる理由がぴんと来なかった。もやっと存在はしているのだけど、はっきりとした形ではないような感覚だ。とにかくもどかしいことは確かだ。
「もう上がろ……」
ネグリジェになるにはまだ早い。食事も終えていないのだから。
だから“平穏な日常”での普段着にしてるブラウスと紺色の膝丈スカート、そして愛用の編み上げブーツを履く。
シャワー・ルームから出れば見慣れた巨躯が、椅子に腰かけて葉巻を吹かしている。灰色のロング・コートを羽織っているということは出かける気なのだろうか。
その瞬間、胸に衝撃が来た。
「だーれだーァ?」
下からすくい上げるように自分の胸を鷲掴みにしてくるのは、たぶん一人だけだ。サイファーが『ア゛ア゛―ッ!?』と絶叫していたことなど、まったく眼中になかった。この不埒者の色情狂をぶちのめすことだけに集中する。
体を瞬時に翻して、揉みしだきにかかる寸前の手を振り払う。その勢いを乗せて体重を乗せて踏み込み、鳩尾に捻りを加えて正拳をぶち込む。狙い通りに身体をくの字に折った。
それでも助平心は失ってなかったのかもしれない。
とどめの一撃を放とうと足を高々と上げた。それはスカートが役目を果たさなくなるに等しい。
こちらを見ようとする瞬間。
――見るな!
首筋にかかと落としを見舞う。不埒者は一瞬で床を舐める羽目になった。
後頭部を踏んづけてぐりぐりしてやる。
「それでなんでジョンさんがここに?」
「理由はわからん。いきなり窓を開けてやってきた。外壁をよじ登ってきたんだな」
「ヤモリかなにかでしょうか?」
「ヤモリのほうがまだ可愛げがあるよ」
「ヘンリエッタの言う通りですね……そこに『Song For Fog』があったと思うんですけど」
かさばるからと置いていった大口径小銃なら少しは効くだろうか、と思いながら体重をもっと掛ける。
「申し訳ないけど、リッツ・ロンドンを貫通しかねないのでダメだ。これならいいんじゃないかな?」
手渡してくれた小ぶりのダガー・ナイフを容赦なく延髄にぶっ刺した。脳からの神経命令が普通なら途絶えて窒息死するが、ジョン・ドゥだけは別なのだろう。いまだに後頭部を踏まれて床を舐めながら悶えている。
「ああぁぁぁぁ……ちょっと痛過ぎんよ、お前らさァ……」
「痛いのは生きてる証拠だよ。いったい何の用で来た?」
さすがに足は離した。踏んづけ続けるのも楽じゃないのだ。
「今日のこと雇い主に報告したのかァ?」
「質問で返してくるとはな。ま、言ってはみたけど人数動員するにも準備がいるらしい。二日くらいで終わるとは言っていたがね」
「そっかあ……アンタら、夜中は腹減らねえかァ?」
「脈絡のない質問はよせよ。第一、こっちは夕食もまだなんだ」
「私なんて、朝食だけなんですよ」
あの穴倉に落ちてから、飲まず食わずだった。健啖家である自覚がある身にしては、道中で腹の一つもならなかったのが不思議だ。いや、鳴っても気付いてなかっただけかもしれないが。
「中華街にさァ、うまい中華麺の店あんだけど……今から行かねえか?」
ジョンがただ食事の誘いをしているわけではない、というのは目を見れば分かった。なにか話したいことがあるのだ、と雄弁に物語っている。そのアメジストそっくりの輝きを宿す瞳が。
「おう考えてやるよ…………車を一台手配してくれ。おおまかな行先は中華街だ」
と言葉とは裏腹に中華街行きが決定した。
リッツ・ロンドンの対応は迅速で完璧だ。それにある程度の融通も利かせてくれる。ジョン・ドゥの存在にも追及することはなかった。ただ耳打ちひとつだけ。ジョンの不敵な笑みが一瞬で崩れた上に、顔を面白いくらいに青ざめさせていたが。
ざまあみろ、と内心でほくそ笑んだのは内緒だ。
黒塗りのリムジン・タイプの
中華街はロンドンからかけ離れた異世界と言っていい。
ちょうど香港のあたりはこんな光景が広がっているのだろう。ガス灯の代わりに家々に張り巡らされた行灯が夜闇を照らし、道行く人々にアジア系の人間がはっきりわかるほどに増えている。建築様式も中華特有の紋様などが目立つものに変わり、“におい”も明らかに変わってきた。
「よし、このあたりから歩いて行こうや。デカチチは中華街初めてだろォ?」
「フレデリカです」
「僕もいつぶりだろうかね、中華街は。どっちかと言えば日本のほうが馴染み深くてな」
「日本も中華街も私とフレデリカには縁がないな。本音を言うと、少しだけワクワクしている」
「サイファーさん、今度は日本のことも教えてくれますか?」
「そのうち連れてってやるよ……長い船旅になるけどな」
「…………うへぇ」
ガーニーから降りた瞬間、胃のあたりがきゅうッと締め付けられる感覚を覚える。
きゅるきゅる、と空腹にギヴ・アップした音が響いた。
「わ、忘れて、聞かないで!」
「ん、そうだな」
「良い匂いがするね。さすがは中華街というべきかな?」
「ションベンしてェ」
「そこまで知らないフリをしなくても……」
そこからはジョンの案内で中華街を歩む。
ついさっきまで殺伐とした穴倉にいたというのに、ここでは完全に日常に戻ってきたような感覚がある。こうやって他愛のない会話をしながらショッピングをしたり、外食をしたりする。
銃把を握ることを否定するわけではないが、それだけでは擦り切れてしまうのも事実だ。バランスをとらなくてならない。正も負も、聖も魔も、陽も陰も、何もかも同じようにあるのがちょうどいいのだ。
「おっ、ここだよ。ここが美味いんだ」
「隠れた名店、というわけか」
路地裏の少し奥にその店はあった。
店の外観は少し薄汚れているが、店内は清掃が行き届いている。二階建ての店舗には上下ともに明かりが煌々と灯り、一階は客で埋め尽くされている。
「満員だな。ひそひそ話には向きそうにない」
「安心しろ、二回の個室に予約を入れといてあるからなァ」
「どっちみち連れ来る気、満々だったじゃねえか」
「…………私、お腹が空きました!」
たぶん換気扇から流れてくる匂いに限界だった。
あまりに空腹で痛みさえ感じてきた。
「おっ、行こうか」
ジョンの案内で予約席に座る。
「とりあえず当店自慢と銘打ったアレを頼むぜェ」
「わかったよー」
気さくな黒髪の娘はぱたぱたと言ってしまう。
二〇分ほどした頃か。良い匂いが漂ってくる。
「おまたせいたしましたー」
少々片言の英語と共に持ってきたのは、四つの
中華麺がそこにあった。醤油ベースのスープに浮かぶ油は煌めき、熱々の湯気が立っている。四枚も添えられたチャーシュー、メンマにネギと具材はシンプルであった。中華料理は初めてなフレデリカとヘンリエッタにとってはハードルは低めであろう。
「んじゃあ、食えよ食えよ」
とは言われたものの食べ方がわからない。それに箸の存在は知っていても持ち方を知らない。
箸に関しては見よう見まねだ。サイファーが難なく扱えていたのには驚いたが、日本に行ったことがあると言っていたのを思い出した。ならば使い方を知っていて当然だろう。
次の瞬間、箸で麺をすくうと一気に啜り上げた。熱くないんだろうか。
「ああ、やっぱうめえなァ!」
「わりと日本系中華麺の味だな」
「イギリス人向けの改良したと言うが……日本に行って食べ比べてみるか」
ヘンリエッタはなんとか悪戦苦闘の末に慎重に面を口に少しずつ運んでいる。それでも目を見開いて味わっている様子から、相当に美味しいものであるらしい。
「フレデリカ、すすって食ったほうが麺にスープが絡んでうまい」
「や、やってみます」
なんとか麺をすくい、持ち上げた。ふうふう、と息を吹きかけて冷ます。意を決して啜り上げた。
味覚の暴力が走り抜けた。
――なんだこれ、すごくおいしい。
もう箸が止まらなかった。
「スープは鳥系の出汁かな……この厚切りのお肉はどうやって作ってるんだろう。口の中でホロリと溶けて……スープの油もしつこくないし、ネギが清涼剤になっているのかな……スープをからませて一気にすすって……うん、おいしい!」
「お気に召したみたいだね……」
「――材料は手に入るかな?」
「おい作る気かよ!?」
「まずお肉の研究からかな……」
「ダメだ聞いちゃいない。んじゃあアンタに本題を話そうか」
ここでジョンはここに連れてきた本当の要件を切り出す。
「ロンドンで『幸福な社会を求める会』のビルで暴れただろォ?」
「ああ、会員がほとんど雲隠れしちまってな。行方がつかめていないんだが……」
「俺様はそこの新しい支部を知ってる」
「へぇ……つまりアレもエドワードってヤツの手下というわけか。カルト洗脳で資産を差し出させ、自分の身ですら差し出させるというわけか」
「実際はただのクーデター軍だがなァ……ところでさァ、その支部を明日潰しに行かねえかァ?」
サイファーも考えていることは同じだった。
「あぁ……いいじゃねえか、それ」
そう言ってスープまで飲み干すのであった。
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