Match~霧中より赫き三眼は出でる~

 見下ろすものがいる。

 ロンドンを、大英帝国全てを睥睨するように。慈しみも、野望も、打算も、嘲笑もない光を宿さぬ瞳で見下ろす。

 整った容貌だけあって、その冷淡さはいっそう際立つ。

 座するのは天高くそびえる塔。それは時を刻む塔だ。大英帝国の象徴シンボルと言っていい、大出力重蒸気機関を組み込まれて半永久的に時を刻み続けるという蒸気時計スチーム・クロック

 ビック・ベン。

 ゴシック調の退廃的景観を覆うように張り巡らされた、どこか冒涜的にさえ思える蒸気機関の配管は二四時間三六五日片時も一秒も休まずに駆動し続ける。機関技術に明るくなくとも、時計塔一つの運用にこれだけの大機関を使用するのは過剰だと思うだろう。

 ただ、それもこの蒸気時計スチーム・クロックを一目見れば疑いもなくなる。なぜなら“そういうもの”だと建設当時から定まっている。

 当てはまらないとすれば、文字盤のステンド・グラスを窓代わりにして下界を睥睨する彼だけか。

「進捗はどうだい?」

 いつの間に背後に男が立っていた。

 実に壮健な老境に差しかかった男だ。長衣の制服を見に纏う姿は山とも壁とも例えられそうだ。

「順調、の一言に尽きます。あと一週間もあれば完成かと」

「うん、それでいい。技術者には相応の見返りをくれてやるように」

「それはもとより承知の上です」

 そのまま男は下がろうとした。

 涼やかで若々しい声が止めた。

「待って」

「なんでしょう?」

「正直言って、君ほどの人間が来るとは思わなかったんだ。今まで何回聞いても理由は話してくれなかったよね? いつになったら話してくれるのかな、と思ってさ」

 ふうむ、と顎に手を当てて考え込んでしまった。

 男の腰にあるものは本来であれば生身の人間が使うものではない。それを彼は自在に操ってのける。矛先が向けば断ち切られぬものはないだろう。それが自分に向けば――地雷を踏み抜いたか、と思案するも表情には出ない。

「心境の変化、というよりは自分の本質に気づいたというべきでしょうな。戦場で生きて戦場で死にたい、という爺の浅ましい願いですよ」

「そうか……うん、うん、幸せとは人それぞれだ。戦いに生きて戦いに死ぬ。それが君の望みであれば、僕はそれを否定しない」

 しかし、彼は否定もしなければ、認めもしない。共感さえしないだろう。

 すべては些細な差異だと、そう言わんばかりだ。

 それでも彼は受け入れるのだ。どんなに冷たい眼差しをたたえたままでも、いかなる思想に共感を見いだせずとも、自分の理想のために必要なのだと割り切って。

「君のために、ここを戦場にしよう。そうすれば、きっとなれるよ――幸せに。幸せに、なれるんだよ。止めるものも、貧しき者も、強き者も弱き者も。みんな、みんなが一つになって幸福になれるんだよ。大英帝国のすべてが、いや世界のすべてが僕の幸福に包まれるのさ」

「期待させて……いただきましょう」

「その剣だって存分に使うことができるはずだ」

 口調はあくまで優しく語り掛けるように。しかし、光を移さぬ瞳は老人の腰に注がれている。

 壮健なる男の腰に提げられているのは大振りの大剣だ。眩いほどの銀に輝く一八〇センチ以上はある刀身、その峰には柄との接合部分まで伸びるパイプ状の噴射口があり、前述の接合部分には駆動音を響かせる蒸気機関が搭載されている。

 ――機関大剣エンジン・キャリバー

 本来であれば生身を捨てている者が扱うことを前提に設計されている規格外級の兵装を、老いた生身で振るうとでもいうのか。あるいは生身に見せかけた高度な機関改造か。

「ええ、久しぶりの戦いに、この老骨も滾ってまいりました」

「期待しているよ。キングを守るための騎士ナイトとして、僕は君しかいないと思っていたんだ。持てる限りの力を尽くして頑張ってほしい」

 老剣士にはわかっていた。

 言い放った言葉などは建前だと。自分になんの期待もしていないことを。目に見えている表情に素振り、声も口調も言ってしまえば対外的な建て前のようなもの。

 それでも老剣士には十分だった。

 体が、精神が、本能が戦いを欲していて、彼はそれを満たしてくれると言った。

 ならば、それでいい。どの道にしろ戦いは起こるはずだ。

 

 ――彼ほど狂った男が動けば、きっと争いは起きるのだから。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

 半顔を黒く染め上げ、赤い亀裂のような三つ目と生身の双眸でサイファーはジョン・ドゥを見据えていた。

 無言だ。彼にとっては珍しいことだ。いつもであれば軽口の一つや二つは飛ばしているはずなのに、それをしないのはジョンが相当の実力者であることの証明か。

 抜き身のままの野太刀を一振りするだけで、ジョンの身体に輝線が走る。おそらくは斬った軌跡なのだ。尋常の存在であれば両断されるはずだ。しかし、空間ごと断ち切る刃によって頭頂から股間まで刻まれた斬線は消失した。それはジョンもサイファーと同じ頂上に身を置く者の証ということか。

「ははっ、やっぱり歯ごたえあるヤツで嬉しいよ。食べがいがある」

「二回目だが、腹壊すぞ」

「それでも結構。毒もいいスパイスだ」

 犬歯をむき出しにするほどの笑顔を見せ、ジョンは両手の二刀をくるりと器用に回して構えなおす。

 跳躍による縮地は消失と出現と言ってよかった。忽然と消え失せたかと思えば、瞬き一つの間にサイファーに前に現れる。サイファーは驚くことなく初撃を簡単に防いでみせた。

 無論、ジョンの攻勢は衰えることを知らず、二刀の連撃は嵐そのものと言っていい。

 その全てをサイファーは野太刀一本で防いでいるというのか。いや、傍観するしかなかったフレデリカは野太刀に加わって防御を行う何かを捉えていた。

「触手……鞭? ううん、違う」

 ――あれは。

 ――翼、だ。

 ――翼の羽、ただ一枚が自由自在に伸び縮みしてる。

 幾度となく見てきたサイファーの操る鞭状の闇。長外套を黒く染めて顕現するそれが、翼のたった一枚の羽根だと誰が気づこうか。

 焦げる臭いが鼻を突く。

 羽が通るたび、舞う塵はおろか空気さえ焦げ付いているというのか。

 伸縮自在にして音などはるか遠くに置く羽と、磨き上げられた技術で振るわれる長大な野太刀。どれもが僅かでも掠れば、そこから百では済まぬ致命の連撃を食らって果てるだろう。たかだか再生能力を有していようが、肉が繋がる前に新たに裂かれ、さらに一太刀を加えられることとなる。

 ――それでも。

 ジョン・ドゥは止まらない。

 ――それでも。

 ジョン・ドゥは退かない。

 ――それが。

 ジョン・ドゥであることの証だと、雄弁に語るがごとく二刀を振るう。

 人知を超えた高速戦を展開するサイファーに対抗するため、ジョンの一挙一動も尋常の領域ではなくなった。まさしく怪物同士の戦いと言ってよかった。銃弾すらはるかに凌駕するほどの刃と肉弾のぶつかり合い。立った人たちが戦略兵器と言える。

 そこに付け入る余地はない。フレデリカも、ヘンリエッタも。

 両手の二挺を向けてみても、指は震えたまま一向に動こうとはしない。もどかしくて、逸る気持ちだけが重苦しくわだかまる。

 鍔迫り合いになって、両者は一度止まる。

「そんな姿になって、その程度なのかァ?」

「なめるなッ!」

 ジョンの二刀は弾かれた。次の瞬間、腰のあたりで何かが爆発したようになり、血飛沫が飛び散る。

 轟突だ。それしか言いようのないサイファーの野太刀による一突きだ。一刀を握り込む右腕の引き込みで切っ先の間合いは取られ、突き出す勢いを生み出したのはたった一歩の踏み込みと上半身と下半身の屈伸によるバネだ。その威力は切っ先がめり込んだ瞬間、ジョンの腹が爆発したように弾けたことからも伺える。

 それでもジョンの身体は二つにならない。背中側の皮一枚で繋がっていた上半身と下半身は、急速に復元を開始する。サイファーの身体が傾いだ。蹴りを叩き込まれたのだ。

「耐えてみせろよォ」

 サイファーのコートを突き破って突き立てられたのは、アーカム45の弾倉だ。振り下ろされた太刀はあろうこと赤く輝いている。このジョン・ドゥという男はたった一振りしただけで日本刀の刃を熱するというのか。赤く焼ける刃は弾倉の上に食い込み、一瞬で弾薬の装薬を熱する。

 今度は紛れもなく爆発だ。常人であれば肩が千切れ飛んでいて当然だが、多少たたらを踏んだ程度だ。

「痛いか? 痛ェだろォ?」

「多少はね」

 右肩を爆破されたにもかかわらず、野太刀を取り落とす無様もない。傷を押さえる左手を払った時には、あるはずの痕は欠片もなかった。傷も、コートには穴もほつれもない。爆破の事実さえなかったのでは、そう錯覚しそうになる。

「なァんだよズルいなァ。服直せんのかよ」

「種も仕掛けもある手品でね」

「教えてくれよ。こちとら、治せんのは自分テメェの身体だけなんでなァ」

「やだよ、企業秘密なんだ。教えるわけないでしょうに」

「カーッ、ケチくさいヤツだ。お返しにバシッと散らしてやるぜ!」

 二刀の両方が赤熱する。空気摩擦を用いているのだろうが、一振りだけで成し遂げるあたり剣速の凄まじさをうかがわせる。この程度なら序の口なのだろうか。惜しげもなく見せつけてくる。

 ぶつかり合うたびに火の粉が散るようになる。

 放たれる熱気のせいで陽炎さえ生じる有様だった。

「……なに、これ」

 水を差したのはフレデリカが周囲の変化に気づいた時だった。

 いつの間にか戦場を覆うのは、深い霧。離れたところにいるサイファーとジョンの姿がようやく見えるくらいに濃い霧が、気づかぬうちに立ち込めている。

「急に霧が立ち込めてきたな」

「そうじゃない。これ、霧じゃない」

「なにを言ってるんだい? これは、どう見ても……」

「全部、暗示情報でできています!」

 あらゆるものを見通してきた黄金の双眸は突如立ち込めた切りにも遺憾なく、その力を発揮した。霧に見せかけた超常の力で編まれた暗示領域を見事に見抜いたのである。おそらくは霧中のことを第三者が窺い知るすべなど一切ないのであろう。

 気づけば、ワイアットの姿はない。この霧で分断されてしまったのか。

 変化は刃を交える二人も気づいていた。

「霧が出てきたな」

「雇い主のお膳立てかなァ? 邪魔が入らないようにするための」

「おっと結構な雇い主がいるんだな」

「やられた墓穴掘っちまった。手かがり与えちまったなァ」

「この際、全部あらかたゲロってみたらどうだ?」

「冥土の土産にくれてやるには、アンタはちょっと強すぎらァ」

 サイファーはどういうわけか、野太刀を納刀し、居合の構えをとる。

 二刀は両方とも赤熱している。回転するような動きでジョンは一気に肉薄する。

「じゃあ、絞り出すか」

 赤く焼ける刃は二つともサイファーに触れることはなかった。その代わりにジョンの腹部に鉄拳が叩き込まれた。それだけなら彼にとっては大したことはないのだが、拳だけに留まるはずがない。

 腹部に突き刺さったのは七〇口径もの巨弾だ。

「弾丸の爆発、なかなか効いたぜ。お返ししてやる」

 居合抜きの一閃は、肉を、骨を断つことはなかった。そのかわり弾丸の雷管を弾いていく。

 ジョンがアーカム45の弾倉で起こした時よりも大きな爆発が起こる。体をくの字に折ったまま、3メートル近くも吹っ飛んだ。

「そうだ、そうだ、そう来なくっちゃあ」

 たった一歩踏み込んだだけなのにもかかわらず、吹っ飛んで開いた距離をあっという間にサイファーは詰める。居合抜きからのさらなる連撃を見舞うべく、上段からの唐竹割り一刀が振り下ろされようとしていた。

「見え見えなんだよォ!」

 それでもジョンは動く。動くのだ。

 荒唐無稽としか言えない弾丸の炸裂を食らい、腹を半壊させていたとしても。

 前蹴りの速さはもはや異常だ。手負いの身体で放とうものなら、傷口は開き切るはずだ。事実、風穴を開けられた腹からは瀑布のごとく鮮血が噴き出した。

 しかし、サイファーの体勢は崩れたどころか、いまだに形を残している建物の瓦礫に叩き付けられたほどだ。

「最後の一撃、決めてやんぜオラァ!」

 回転しながら飛んだのは赤く焼ける二刀。高速回転は刀身に新鮮な酸素を供給し、一時的に刃を燃焼状態にさせる。見事に二つともサイファーの両掌を刺し貫き、叩き付けた瓦礫に縫い付ける。

 それだけに止まるはずもない。あろうことか腹に空いた穴に手を突っ込むや、何かを引きずり出したのだ。血と肉片にまみれてはいるが、口径八ケージはあろうソード・オフした上下二連散弾銃だった。一足飛びに身動きの取れぬサイファーに接近し、喉元に銃口を突き付けた。

「腹ン中に銃隠してるとは思わなかっただろォ?」

 引き金は無慈悲に引かれた。首から上を隠すほどのおびただしい硝煙が、一時の間だけサイファーの顔を隠してしまう。

「サイファーさん!」

 悲痛な叫びは霧中に吸い込まれる。

 銃声だけがいやに響いていた時だった。

「最後の一撃、って言っておいて二回も攻撃ってどういうことだ?」

「あら?」

 サイファーは変わらずそこにいた。散弾を受けたはずなのに、喉元には傷一つない。代わりにあるのは黒く染まったのっぺりとした闇だけ。

「お返しだ」

 灰色のロング・コートは一部だけ黒く染まっている。そこはまるで筒をせり出すように変形させ、ジョンを標準していた。銃声はなく、ジョンは吹っ飛んだ。そこを逃すわけはない。両掌に刺さった二刀をいつの間に引き抜いたのか、両手で握り込んでいる。

 くるりと一回転して逆手持ちの状態にすると、一切の躊躇いなく両目に突き立てた。

「う、ががあッ!」

「目をやられるのは、さすがに堪えるか」

 両目に刺さった二刀は頭蓋を貫通して、地面にまで深々と刺さっている。脳漿と血の混ざりものがどんどん広がっていくが、ジョンの悶え苦しむ勢いというものは変わる気配を一切見せない。七転八倒、という言葉がぴたり解きそうだ。本当に転げまわっていれば。現実は頭を太刀を二本も刺して、固定されているような状態だが。

 それほどの所業をやっておいてなお、サイファーは手を緩める気はさらさらなかった。

 愛用の規格外に巨大なリボルバー、その銃口を悶えるジョンを見下ろすように向ける。

 銃口が吠えて、跳ね上がる。

 一度、二度、三度――そして二十四回目を終えたときには、赤黒いシミだけがその場に残っていた。肉片と血痕だけを残してジョンは消失したようなものだった。やり過ぎと言えばやり過ぎだし、過激と言えば過激だ。しかし、ジョンが見せた傷さえ生まないほどの再生能力に支えられた不死性を鑑みれば、多少はオーバー・キルなくらいがちょうどいいのかもしれない。

 赤熱していた二振りの日本刀は元の鋼の輝きを取り戻していたが、その名刀というにふさわしい円弧を描く刀身の形状美は見る影もない。刃は溶けて、ほとんど潰れてしまっている。熱して使うものではないのだから当たり前と言えば当たり前だ。

「サイファーさん……」

 死戦をようやく終え、元の姿を取り戻したサイファーのもとに歩み寄ろうとした時だった。

 一瞬で天地が逆転した。身体のすべてをひっくり返され、胃のあたりが一気に沈んでいくような、そんな奇怪な感覚に襲われる。視界の回転が収まって、逆さまのサイファーを見て状況をようやく把握した。

 ――何かが、私を逆さづりにしている。

 そう思った時には後ろを向かされていた。

 目が合った。

 そう、目が合ったのだ。

 霧は五メートル先も見えないほど濃くなって、首をひねって後ろを見てもサイファーの姿さえ認識できない。その確信があるというのに、空中に浮かぶ三つ目はいやにはっきりと見えるのだ。赤く、紅く、そう赫く輝く三つ目は。

 唸り声が夢中に響き渡る。

 明らかに生き物の声ではない。柔軟な声帯を以て出されたような声ではなく、硬い金属を擦れ合わせたような耳障りな音。威嚇とも、警戒ともとれるような響きだった。

「フレデリカ!」

 魔銃の咆哮が負けじと轟いた。今まで銃口を向けたものを等しく爆砕してきた巨弾は、この正体不明の存在にも威力を見せつける――そのはずだった。

 ――がぁん。

 思わず目を見開いた。黄金に染まった、その双眸を。

 間の抜ける呆気ない音を立てて、巨弾は弾かれた。

「ええい!」

 ヘンリエッタもスローイング・ダガーを投擲した。それは飛翔の途中で燃え上がり、装甲を融溶貫通させる徹甲弾と化した。

 しかし、それが効果を発揮したのかはわからない。おそらくはサイファーと同じ結果になったはずだが、立ち込める霧がナイフの行方さえ眩ましてしまう。

 ――駆動系は良好です。

 ――武装系を起動します。

 凄まじい連射音が轟く。大口径火砲を毎分一〇〇〇発を超えるペースで連射しているらしい。

 ヘンリエッタは回避に徹したが、サイファーは『Howler In The Moon』に別の弾丸を装填していた。ホーレス特性の徹甲弾だ。わずか直径数ミリの金属ダーツだが、凄まじい運動エネルギーによって超音速で飛翔する。

 フレデリカを捕まえて、逆さ吊りにしていた何かが爆発したような音を立てた。凄まじいエネルギーを一矢に引き受けたダーツは、着弾の衝撃でもはや爆発と化していたのだ。これには堪らず、フレデリカを捕らえていた何かは彼女を開放した。

「ええぃ、クソッタレ!」

 落下するフレデリカを受け止めるべく、サイファーは滑り込んだ。

 ――どさっ!

 フレデリカを受け止めたと同時に、急速に霧は晴れていった。

「なんなんだ、あれは……」

 そう言った時だった。

「ヘッヘッヘッヘッ」

 楽しげな、下卑た笑い声。

 ジョン・ドゥが、そこにいた。跡形もなく破壊されたはずの彼が、肉体を完全修復して健在でいる。ただし、服だけは修復できていないのは、もはや宿命のようなものらしい。全裸だった。

「なァるほど、そういうことだったかァ。アンタも同じこと考えてんのかァ?」

「まあね。その前に服着たらどうだ」

「跡形もなく吹っ飛ばしてくれた本人が、どの口を叩いてやがる」

「恨むぐらいなら、とっとと帰るこった。今なら見逃してやる」

 明確なまでの挑発。ジョンの性格を考えたら、激昂して向かってきそうだが以外にも踵を返す選択をした。

「そォだな、武器もねえことだ。今日は帰るよ。またリベンジ・マッチをさせてもらうぜェ?」

 そのままジョンはどこかへとジャンプして、行ってしまった。

 どこからかワイアットの声がする。自分たちを探しているのか。

「そういえば、さ」

 言い出しづらいような口調でサイファーが口を開く。いまだに受け止めてくれた時の体勢、そのままだ。

「あんな大胆なヤツ、いつ買ったの?」

「え…………ああっ!」

 ここでフレデリカは気づいた。気づいてしまった。

 逆さ吊りにされたとき、着衣の様子まで気を配れてなかった。押さえもされてないスカートは、きっと…………。

「いや――ッ! もう、もう、最低です! 忘れて、忘れてください! 忘れろ!!」

「ガーターに合わせたのはいいけどさ、もうちょっと抑え目でも……」

「…………とりあえず、リッツ・ロンドンに戻ろうか」

 

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 

「信じられん、な」

 リッツ・ロンドンに戻ってから、しばらくして――およそ二〇時を過ぎたとき――メイザースが訪ねてきた。

 ジョン・ドゥとの交戦。

 暗示情報で構成された魔霧。

 そして現れた謎の巨大な存在。

 事の仔細に至るまで、洗いざらい話した。

「僕も信じたくはない。ただ、それがお前さんの持ち込んできた依頼の連中がやったことだとしたら、一介のマフィアになんざできることじゃない」

「確実に内乱を起こせるほどの存在――この国の中枢に入り込んでいる人間かもしれん」

「なにを企んでいるのか……そういえば僕らが乗り込んだ会館にあったカルトはどこに行った?」

「それが…………消えたんだ」

「なんだと?」

「消えたんだ。会が存在していたということを示す公文書も届け出も、戦闘要員から一般会員まできれいに消えた。あの会について知る者さえ、すべていなくなった」

「何もかも振り出しに戻った、というわけか」

「そういうことになる」

 そう言ってメイザースは紅茶を一口すする。

「サイファー、正直言うと今回のことはお前の助けを借りたくはなかった」

「だろうな。今も嫌々話してるって感じだ」

「だが一人では今回の件は手に余るのも事実だ。下手に意地を張って、事態を深刻にするようなことはしたくない」

「それは僕も同感だ」

 ここで二人の視線は一度交錯した。

 両者ともに剣呑な光を瞳に宿して、一触即発の空気を場に漂わせ始める。

「お前は、まだ」

「ん?」

「彼女のことを、引きずっているのか? だから、手を貸すのか?」

「……いいや、この国を、アーカムを、まだ壊したくないから。だから手を貸したんだ。タダではないけどね」

「ならいい、いいんだ」

 そう言ってメイザースは帰っていった。

 今後の方針についてどうするか、考えをまとめる前に一服しようと思い立ち、葉巻の吸い口を切って火をつけたとき二人目の来客がノックを響かせる。

 扉の前の気配、ノックの大きさから誰なのかは予想がついた。

「いいぞ、入れ」

「……お邪魔します」

「そこまでかしこまる、こ、と…………」

 思わず目を剥いてしまった。

 薄手の、白い少しだけレース飾りのあるネグリジェのフレデリカが、おずおずとドアの隙間から顔をのぞかせている。シルクと思わしき生地の薄さは、包まれた女体の艶っぽさをいやでも想起させる。あけすけなほどに男を誘う高級娼婦のランジェリーより、よほど扇情的と言えた。とくに胸の豊満なライン、そしてわずかに透ける下着のラインは。

 ――なに動揺してんだ、青臭い子供でもあるまいし。

 悪魔の誘惑をはねのける聖者、というには大げさだが心情的には極めて近い気分だ。しかし、相手が悪魔とは違って無垢の無自覚的誘惑なのがタチが悪い点と言えた。

 それでも葉巻を一吸いして、喉まで紫煙を満たせばそれも消えた。

 ぷう、と煙は奇妙な図形を描いて、空調機構にかき消された。

「具合、どうですか?」

「なんだ、そんなことか。見てのとおりピンピンしてる」

「無理はして、いませんよね?」

 ――相変わらず勘のいいだ。

 隠し事なんてできやしないな、と自嘲するしかない。それももしかすると黄金の双眸の権能か。別に騒ぎ立てたり休むほどではないが、ジョンに与えられたダメージが癒え切っていないのを見透かされたのか。

「実を言うと、明日は休んでいたい気分だ」

「やっぱり回復していなかったんですね」

「別に騒ぐほどのことでも、休むほどのことでもないけどね。あくまでも気分さ」

「……お節介でしたか?」

 入室してからずっと、ドアのそばでびくびくとした様子のフレデリカを傍らに招く。

 二人掛けのソファーは満杯になった。サイファーで一人分と少し、残りはフレデリカが。

「別に心配してくれるなら、それはそれでいいんだ」

「でも男の人はそういうお節介は嫌がるんじゃ……」

「そりゃそうだ。男ってモンはいつだってカッコつけたい生き物なんだ。それは僕だって例外じゃないし、フレデリカみたいに綺麗で可愛い女の子の前じゃなおさらだよ」

「ふざけないでください! もう!」

「だから言い出しにくいんだ。痛いとか、辛いとか、悲しいとか。全部ひっくるめて押し殺して、何にもないようにふるまわないとカッコ悪すぎてな。だから、そっちから気づいてくれるのはありがたいんだ」

 ぽん、と優しく頭の上に手を乗せて。

 フレデリカは少し複雑そうではあった。思い切り顔に出ているのだから。

「撫でられて喜ぶほど、子供じゃないんですよ」

「そりゃ悪かった」

「だったら手をよけてください」

「やだよ」

 このまま、あと五分くらい撫で続けてやろうかと思ったところで思わず手を放した。むくれた顔と目が合ったと思った時には、フレデリカの繊手はぎりりと手の甲を抓り上げていたのだから。

「わるい、わるかった」

「ならいいんです。あんまり調子に乗らないでくださいね」

「善処しよう」

「それでいいです。善処してくれるなら」

 手の甲の痛みを紛らわせようと葉巻を吸う。

 煙草とは比べ物にならない、楽しみ方さえ違う煙が満ちていく――ジョン・ドゥに与えられ、身体に未だわだかまっているような感覚のあるダメージも萎えていくようだった。

 明日、起きているころには九割とはいかずとも八割くらい回復してくれれば御の字だ。七割でも講堂には困らないが、戦闘は厳しいかもしれないが。

「で、一体何の用で来た。こんな夜遅くに男の部屋を訪ねるなんざ、変な勘繰りの一つや二つはあるんだぞ。僕だからいいものの」

「え、サイファーさんはすぐにでも手を出すんじゃ……?」

「そうか、フレデリカの中の僕は相当なスケコマシらしいな。心外だぞ。こう見えても純情派なんだよ」

「でも娼館に行ってたことはありましたよね?」

「あ、あれは……そもそも、そんなこと聞くために来たんじゃないないだろ? 話を振ったのはたしかに僕だけどな、ここまで脱線するとは思わなかったわ。ちょっとばかり、お前さんをからかってやろうと思っただけなのによ。そんで男は定期的に溜まったモン出しとかないと、悶々として上の空なんだ。わかったか?」

「ごめんなさい、よくわかりました。それと、やっぱり私をからかうつもりだったんですね。善処するって言ったのに」

 ――善処する、だからね。しないとは言ってない。

 この呟きは胸中に呑み込んでおいた。言ってしまったら、確実に温厚なフレデリカも怒り出すに違いないから。

「――今回の仕事、どうですか?」

 ここで声のトーンが一気に変わった。打って変わって真剣そのものだった。

「前の事件でサイファーさんは敵の体内に取り込まれて、今日はかなりのダメージをもらって。どんどん、あなたが痛め付けられているのに、私は見てることしかできなくて……」

 気にするな、という言葉はあまりにもありきたりで、あまりにもフレデリカの自責に拍車をかける。

「危険も顧みずに僕を取り込んだヤツに立ち向かったのは誰だっけ? 僕についていこうと努力しているはどこのどいつだ? そんな僕の目の前にいる健気な頑張り屋さんが自分で『見ているだけ』なんて言っちゃあいけないね」

「でも……ッ! 私は、あの人を目の前にして何もできなかったんです。何が起こっているのか、それを理解するのに精一杯で、引き金なんて一回も引けないままで……あなたがピンチになっていたのは、わかっていたの、に……」

 薄手のネグリジェに一滴、二滴と涙が落ちる。

 自責からの涙は押し殺し難く、あっという間に堰を切ったのだ。

 それを指で拭ってやりながら、なるたけ目線を同じに合わせる。相当な猫背になってしまうが、身長差も大きければ、座高差も相応にあるのだ。

「アレについていこうなんて考えるな。『この世に留まり続ける、最後の幻想たれ』なんて呪いの掛けられた化け物ファンタズマゴリア相手なんて、フレデリカにはあまりにも早すぎる。できることをやってくれればいい。例えば、いまみたいに僕の話し相手になるとか」

「……それって、慰めているつもりですか?」

 言葉とは裏腹に笑いが混じっていた。泣き笑いだ。

「あー、ちょっとは考えたつもりだったんだが。ちょっとクサかったか?」

「ちょっと、じゃないです。かなり、でした」

「こりゃ手厳しい」

「それじゃ、私にできること。いま考えたので、実践してみてもいいですか?」

 いつもの調子を取り戻したらしい。

 世紀の大作戦を思いついた参謀のような雰囲気を漂わせた。マッサージの一つでもしてくれるのか、と思っていたところ、それはいろんな意味で裏切られた。

「どうぞ!」

 足を綺麗にそろえ、ソファーに腰かけたまま太ももをポンポンと叩いてみせる。

 ――これは、アレか?

 ――確かに男は喜ぶだろうが、まさかなぁ。

 ――でも、それ以外に考えられんよな。

「あの…………膝枕なんですけど?」

「やっぱりそうだったか」

「え、何の話ですか?」

「なんでもない、こっちの話」

 促されるまま、頭を乗せてみれば至福の感触が襲い掛かってきた。羽毛の枕なんて比べるまでもない、独特の柔らかさと人肌の温もりが心地よい。薄手のシルクと思しきネグリジェの生地は、生肌の温もりをチラリズムに則ったかのように程よく伝えてくる。

 膝枕など、女を知らない男たちの願望が作り上げた幻想かと思っていたが、ハマる男がいるのもうなずけた。

「誰の入れ知恵だよ」

「キャサリンさんですよ。下層から帰るときに『男が疲れていたら、やってあげなさい』って言われたので」

 ――言われたので、じゃねえよ。

 ――なんで、こういう時だけ羞恥心は欠片もないんだろうね?

 そんなことを思った時、第二の衝撃が後頭部から頭を太ももと挟むように伝わってきた。

「ヌッ!?」

「あ、なにかありましたか」

「……い、いいや。なんでもない、よ」

 ――現在進行形で挟まれているけどね。

 かねてから大きいと思っていた胸で揺れるたわわ。フレデリカが会話に応じようと前傾姿勢をとったことで、サイファーは太ももと胸で頭を挟まれることとなる。

 何とか平静を保っているが、内心はかなり動揺している。いつも当たったり押し付けられたりということはあった。しかし、今回は挟まれている。挟まれているのだ。男としては、かなり至福だ。

 だが、ここで欲情の反応一つでもやろうものなら、きっと三カ月は口をきいてくれないだろう。そういう方面には初心うぶなことは、サイファーとて重々承知しているくらいの事実だ。

 だが男としては、かなり。そう、かなり至福だ。極楽だ。桃源郷すら垣間見える。

 高級娼婦という商売臭さにまみれた技とは違う、日常に隣接しているが故に気まぐれに降ってくるのを待つほかない奇跡の瞬間。サイファーのとった選択はただ一つ。

 平静を装いながら、この瞬間を味わいぬく!

 そう決め込んだ時だった。

「フレデリカ、明日の予定が決まってないとは言っても、早めに寝ないと肌に悪い、ぞ……」

 闖入者ヘンリエッタのエントリーだ。

 いまいち状況が理解できていないのか、サイファーとフレデリカの顔を交互に見るだけだった。おそらく動揺しているのだ、かなり。

 サイファーとて内心はかなりひやひやしている。あらぬ誤解が生まれそうだ。眉間にナイフが飛んでくる可能性は十分にある。

「そ、その……」

 サイファーを指さしながら、言葉を絞り出した。

「挟んじゃってるぞ、胸で。その、大きなので」

 ――いや、待て。

 ――よりによって、言うことがそれか!?

 ヘンリエッタは予想以上に動揺しているどころか、きっと混乱している。

 フレデリカが嫌々やっているのではない、ということが容易に読み取れることが逆に拍車をかけているのだろうか。

「うわ、ごめんなさい! 苦しくなかったですか!?」

 ――いやいや、待て待て、お前さんもか

 思わずサイファーは視線で問う。

 ――フレデリカって、もしかして天然入ってんのか?

 ヘンリエッタの返答は視線で行われた。

 ――ああ。

 図らずも、初めてサイファーとヘンリエッタは目で会話することとなった。

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