進撃、彼の帰還を一途に求め

 空気が重く渦巻いている。

 彼がいないだけでこんなにも変わるものなのか、とフレデリカは思わざるを得ない。再度、アーカム最下層に戻るのは容易だった。きっと、あの狂碩学がフレデリカが戻ってくることを見越して、廃工場の抜け道をそのままにしておいたのだろう。

 ならば足元をすくってやる。フレデリカはサイファーを助け出すことにのみ集中し、その気迫が大学からの友人であるヘンリエッタを恐れさせていることなど眼中になかった。

「ずいぶん殺気立ってるじゃないか」

「これでも、抑えているほうなんですけど」

「なるほど、フレデリカは怒ると怖い手合いか」

「誰だって怒れば怖いですよ」

「違いない」

 傍目にはいたって普通の婦女子の会話にしか見えない。

 しかし、その実態はフレデリカから放たれる鬼気ともいうべきものに、ヘンリエッタはてられていた。その証拠に茶髪のボブの前が身に隠れた額には、ふつふつと脂汗が浮かびつつある。

 ――まったく、フレデリカに何をしたんだ?

 ――理由はどうあれ、何かしらの形で責任を取ってもらわないとな。

 ――もしかしたら、の可能性だってあるかもしれないからね。

 そこからはほぼ無言で歩みを進めた。

 デリンジャー・ファミリーから援軍を出してもらうことも、不可能ではなかったが、できれば巻き込むなかった。それはフレデリカもヘンリエッタも同じことを考えていた。これから行くのは尋常ならざる魔の領域、常識の通じぬ狂気の領域だ。

 銃の扱いを知り、命の取り合いを経験し、幾多の鉄火場を乗り越えたとしても、不足すぎるのだ。

 スライドを戻して初弾を装填する間に、わずか数インチのところまで肉薄し、首を引っこ抜く連中がいる。

 人ならざる領域に足を踏み入れたものだけが、存在することを許されるのだ。

 決戦の地──あの洋館の正門、その前でフレデリカは足を止める。

 ケースに入れて背負っていた『Song For Fog』を取り出し、その銃口に小銃榴弾『Flare The N'Kai』を差し込む。薬室に強装の空砲をボルトを引いて送り込んだ。

「開幕に大きな花火を上げるのかい?」

「派手なのは嫌いだった?」

「いいや……たまにやる分には、ちょうどいいんじゃないかな?」

「だったら、盛大にやってやりましょう」

「まったく……いつから、そこまで逞しくなったんだか」

 引き金を絞り切った瞬間、空砲の爆圧を一身に背負い、榴弾はやや山なりの軌道を描きながら飛んだ。

 正門にめり込んだ300ミリもの榴弾は、内部に封入された灼熱と圧力を一気に解き放った。弾頭から発せられた熱波と爆圧はエントランスを焼き尽くし、内部の一切合切を吹き飛ばす。玄関扉周辺の窓ガラスは溶解し、窓枠は吹き飛んだ。

 その余波は二人のところまで飛んでくる。予想以上の勢いに、ヘンリエッタは尻もちをつくように倒れ込んだ。フレデリカも膝立ちの状態でなければ、今頃銃を取り落して吹っ飛んでいたかもしれない。

「……やりすぎです」

「まったく同感だよ……」

 洋館は燃え上がっていた。あの博士の権能をもってすれば、かなりの規模で燃え上がったとしても消し止められそうだ。が、その気配が一切見受けられない所からして、ホーレス謹製の榴弾には火薬とは違う何かが封入されていたのか。そう思わずにはいられない。

 いっさいの立ち入りを拒むかのごとく、正門とその前庭は火の海と化す。

 ちりちり、しゅうしゅう。

 肌を焼く、そんな音が聞こえてきそうな熱量。

 そこを銀色が三条、炎をものともせずに飛び抜けていく。

 遅れて、後を追うように突風が吹き荒れた。御伽噺の風精ジンが自らの口から吐き出した、といっても良い荒々しくも心地よい風。炎熱による破壊の残滓を、すがすがしいまでに吹き消してしまう。

 ヘンリエッタは風のルーンを刻んだナイフを投擲したのだ。それに込められた力が、いかほどか。その効力が如実に、雄弁に物語る。

「やれやれ…………あの銃工も困ったものだよ。加減というものを、誰かと同じくらい知らない」

「だから、口ではなんだかんだ言っても、信頼しているのでしょうね」

「こういうのを……そうだ『類は友を呼ぶ』というらしい。東洋の諺だよ」

「それだと私もヘンリエッタもお仲間ということになっちゃいますよ?」

「私とお仲間は、イヤだったかい?」

 悪戯っぽく笑って、顔を近づけてまで、そうのたまったのだ。

 悪辣ささえ感じてしまうほどのからかいだ。大学時代は予想もつかないほど、フランクでありながら凛々しかったヘンリエッタとは思えない。

「ちょ、ちょっと、近い。近すぎますよ」

「ん、このくらい普通じゃないかい? 女の子同士のスキンシップの範疇だと思うけどね」

「だから近いですって!」

 ほほとほほがくっつきそうな距離まで迫られ、思わず飛びのいた。

「残念。サイファーには勝てなかったか」

「そ、そこで、なんでサイファーさんを引き合いに出すんですか!?」

「いや、こうやって助けに行ったりするくらいには、彼のことを気に入っているのかと思ってね」

「気に入って……」

 言葉に詰まった。

 サイファーには悪感情は抱いていない。助けてもらったし、居候させてもらってもいる。悪く思えるような人間ではないし、彼を悪く言える立場でもない。

 それでも、わざわざ死地にまで赴いてでも助けようとするには足りないような気がした。たぶんだが放っておいても勝手に逃げ出して、報復に完全壊滅させるところまで行くはずだ。容易にその想像がつく。

 それを踏まえても、ここまできたのは――

「そうですね……きっと嫌いではないですし、親愛はあると思うんです」

 その言葉を紡いで、ヘンリエッタのほうを向いた。

 顔を真っ赤に染めて、俯いてるヘンリエッタがいた。

 ――あれ。

 ――私、変なことを言いましたっけ!?

 困惑が埋め尽くしていく中、ヘンリエッタはおずおずと口を開く。

「いや……そんなことを恥ずかしげもなくいえるなんて、こっちが逆に照れくさくなってしまうというか」

「え?」

「親愛であれ、その他の感情であっても、好意を抱いているのは本当なんだろう?」

「……ああぁっ!」

 思わず頭を抱えた。

 確かにすごいことを言った。言ってしまった。

 確かに嫌いではない。嫌いではないのだ。ただ好きと言えるかどうかは、別物だ。

 しかし『親愛はある』と言ってしまっては好きと言っているのと同じだ。恋慕ではないにせよ『好き』という言葉には無限と言っていいほどの受け取り方がある。

「そうか……サイファーのことが好きだから、ここまで来れるんだな」

「ち、違います! あくまでも親愛というか、恋愛は一切ないですから!」

「そう必死になって否定したら、むしろ怪しくなってくるよ? それに私はちょっと喜んでもいるんだ。男を必死に遠ざけていた、大学の時から見ればものすごい変化だからね」

「うーん、サイファーさん以外の人はいまだに苦手というか」

「……運命の相手かもしれないね、彼は」

 噴き出した。

「こらこら、そんな粗相をしていけないじゃないか」

「う、うう運命、じゃありませんから!」

「悪くはない相手だと思うんだけどなぁ」

「ちょっと謎な部分が多すぎて、下手に踏み込んだらヤケドしそうなんですよ」

「それは同感だね。ミステリアスなのは魅力なんだろうが、あまりにも過去を晒さないのは壁になってしまう」

「ヘンリエッタも昔のことは語らないですよね」

「言いたくもないことなんだ。すまないね」

 そして口をつぐんだ。

「……傷だらけですね。私も、ヘンリエッタも、サイファーさんも」

「無傷の過去なんてありはしないよ。その傷跡を燃え上がらせて生きるか、目を背けて生きるか。それくらいの違いしかない」

 ならば、自分はようやく傷跡に向き合っているのだ。いまだ吐き気さえ催すほどの思い出から、フレデリカは立ち上がりつつある。傷があるのなら舐めて、傷薬を塗ればいい。彼との出会いが、そのきっかけになっている。

 だから恩を返そう。

 エントランスに足を踏み入れた。

「うおおぉぉぉおおぉぉぉッッ!」

 やかましいほどの雄叫びを上げて、手斧を振り上げた男が突っ込んできた。自然に右腕が上がって、二発撃ちこんだ。胸部に空いた二つの射入孔を視認してから、間髪入れずに左手の銃で眉間に撃ち込む。どうと倒れこんだ。

 エントランスはどこから湧いたのか武装した男たちで溢れかえっている。

 全員がトンプソン短機関銃、ブローニング自動小銃といった連射可能な武器。マンリッヒャーM1895にリー・エンフィールドといった傑作小銃で武装している。完全に詰みの状況だが、フレデリカもヘンリエッタも切り抜ける無謀ではない確信があった。

 かさばる『Song For Fog』は床に置いた。『All In One』と『One In All』の二挺を肘を曲げて掲げるように構え、じっと武装した男たちを見据えた。

 ヘンリエッタもすでにグルカナイフを抜いている。黒い艶消しされた刀身は、きっと赤黒く染まることだろう。

 ナイフが閃くや、ヘンリエッタの姿は掻き消えた。宙に色濃く残ったように見えるナイフの挙動は、男たちの首を精密に切り裂いている。血飛沫が舞ったのを見て、フレデリカも動く。

 銃口の向きから射線を予測し、発せられる殺気から誰がどのタイミングで撃つのかを読む。それができれば機先を制することなど朝飯前だ。身をひるがえして、射線から逃れ、一番先に攻撃に及びそうな人間から撃ち倒す。

 一種の舞踏だ。銃弾を躱し、死線をかいくぐる、死の舞踏ダンス・マカブル

 戦場のど真ん中で、可憐に艶やかに黒き薔薇が咲く。黒い外套は花弁のごとく翻り、銃火と鮮血は残酷でありあがら鮮やかに彩られる。屍山血河を作り上げながら、フレデリカは敵陣の真っただ中を突き進んでいく。

 狙撃の雨霰が叩き付けられた。ほぼ不意打ちに近いそれを、驚異的なスウェイ・バックを用いて避ける。

 エントランスの二階にブローニング自動小銃を持った男たちまでもが集まり、ライフルを何十挺も集めた掃射を叩き込む。特にフル・オートの可能なブローニング自動小銃や、ストレート・プル・ボルト方式により一線を画す速射性のマンリッヒャーM1895は驚異的だ。

 対抗するべくヘンリエッタは手投げナイフを抜く。フレデリカはとある一点に向けて駆け出した。

 ナイフの投擲と『Song For Fog』を拾い上げてからの発砲はほぼ同時だった。サイファーの巨銃に勝るとも劣らない銃声と、青白いマズル・フラッシュが銃口抑制器から十字に放火を噴き上げた。

 弾丸とナイフはエントランスに直撃した。ナイフに刻まれた火のルーンは輝きを放って間もなく、火炎の渦を巻きあげる。焔の舌が一体を舐め回し、男たちの体を容赦なく焼き焦がす。その火の勢いは、たった数瞬のうちに五体を炭化させたことからも伺える。

 巨弾はエントランスの一角を吹き飛ばす。装填されていた対物用破砕弾は衝撃だけでも致命的だ。軍用の爆弾に等しい衝撃は身体を千々に裂き、確実に即死へと誘っていく。

 エントランス上階に陣取った狙撃班は壊滅状態になった。そこを追撃するようにフレデリカは、彼ら以上に正確な射撃で次々と片付けていく。七〇口径対物用破砕弾は人体相手ではオーバー・キル過ぎた。命中の都度、人体が真っ二つになるか、上半身が跡形もなく吹き飛ぶといったゴア・シーンの連続。目を覆いたくなるような光景は、その後二分ほど作り続けられた。

「皆殺しになってしまったな」

「ちょっとやりすぎてしまいました」

「いいさ、このぐらいでちょうどいいよ」

「いえ、どういてもやりすぎ……ヘンリエッタ! 上から来ます」

 いつの間に天井に張り付いていたのか。莫大な質量が五メートル以上もあるエントランスの天井から落下する。揺れる地面は立っていることすら困難にし、噴き上げられる削れた床が舞い上がったことによる埃は視界を潰す。衝撃に伴って発生した大音響は鼓膜にもダメージを与え、えもいわれぬ腐臭が激しく鼻を突く。

 舞い上がる埃と土煙が沈静化したとき、元凶はその姿を晒す。

 おそらくは蜘蛛をベースにされたのだろう。しかし、その体長は胴体だけでも大人二人分は優にあり、足を広げればエントランス・ホールの半分を埋め尽くすほどに大きい。おそらくは五メートル。そして隙間なく岩石とも鋼鉄とも言えない物質が身体中を覆い、頭部は明らかに豪壮な牙を携えた猛獣のものだ。

「なんだこれは!?」

「たぶん、作られた生き物です!」

「マッド・サイエンティストだな。生き物を作り変えるとは……ここは私が引き受けよう。サイファーのところへ急ぐんだ」

 頷くことはできなかった。

 サイファーも、あの強い彼も、そうやって自分を逃がした。そして、帰ってきていない。

 ヘンリエッタまで失うのは、耐えられなかった。

「早く行くんだ。私なら、大丈夫だから」

 でも、その瞳に宿った有無を言わさぬ決意を無碍にはできない。それはヘンリエッタの覚悟に対する、侮辱になるのだろうから。

「……ご武運を!」

 それだけ言って、走り出した。

 振り返ることなど、するはずはなかった。



 ◇◆◇◆◇



 遠ざかる姿をヘンリエッタはしばらく見つめ、それから怪物巨大蜘蛛のほうに向きなおった。

 右手にグルカ・ナイフ、左手に三本のスローイング・ダガーを握る。体の筋肉は適度にほぐれ、血行は最高潮だ。コンディションは万全ではあるが、相手したことのない巨大質量を持つ相手となるとわからなくなってくる。

 巨大蜘蛛が岩石の塊としか思えない巨腕を振り上げたとき、ヘンリエッタの姿は消え失せた。

 相手が巨体である以上、どうしても予備動作というものは大きくなる。となると攻撃の所作一つ一つは格段に読みやすくなるのだ。それを生かさないわけはない。

 自身の持ちうる最高速――すなわち銃弾の数倍近い速さ――で蜘蛛の頭上に陣取り、ナイフを自分の背後に放る。刻まれたルーンが発光するや、膨大な衝撃波を発して爆ぜたのだ。

 自爆に等しい真似は、誰でも血迷ったと思うだろう。しかし、加害するしか能のないと思われる衝撃波も、ヘンリエッタにかかれば新たな使い道を見出す。

 発生した衝撃波をヘンリエッタは。そのまま一気に最高速まで加速し、速さを載せてグルカ・ナイフを一閃した。超音速の速さと決して軽くはない重さを載せた一撃は、機関騎士の装甲さえ両断できる自信があった。

 その自信を打ち砕くように、グルカ・ナイフは猛獣の頭部表面を火花を上げながら滑る。

 勢いもそのままにヘンリエッタは地面に投げ出された。受け身をとっていなければ、音速を保ったまま狂走し、減刑も残っていなかったかもしれない。

 ――まいったな、ナイフが通らない。

 ――これじゃルーンも効きそうにないな。

 体内へナイフが到達しない限り、堅牢な装甲の内を攻撃することは叶わない。

 打つ手なしのドン詰まりだ。絶望的、という言葉がこの上なく似合う。

 巨大蜘蛛が前足で薙ぎ払う。振り上げる予備動作を確認し、懐へともぐりこみ、背後をとる。

 やはり腹には、糸イボがある。蜘蛛が蜘蛛であるためのアイデンティティである、糸。体を支える強靭な糸、獲物を捕らえる粘り気のある糸、その両方を出す優れた器官。そこは装甲に覆われていない。

 拳に挟むように握ったスローイング・ダガーを殴りつけるように突き刺した。黄緑色の汚液が噴出し、ヘンリエッタの腕を汚していく。刹那、そこから白煙が立ち上る。汚液は強酸性だったのだ。

「ぐうぅぅッ!」

 思わず腕を抑えて、身体をくの字に折った。皮膚から水分が一瞬で消失し、ケロイドの様相を示して焼け焦げる。

 痛みに耐えながら、焼け焦げた皮膚の上から爪でルーンを刻む。喜びケン贈り物ギューフ樺の木ベオーク。癒しを連想できるワード、それに再生を表すルーンを選ぶ。焼け焦げた皮膚は時間を巻き戻したかのように、元の白く滑らかな肌を再構築する、

「体液まで武器になるとは……それもここまでかな?」

 糸イボから叩き込んだのはエントランスでの銃撃戦にも使った、火炎のルーンだ。

 巨大蜘蛛の体は内側から爆発したに等しい。それほどの勢いで燃え上がったのだ。

 炎上は六分も続いた。その間、巨大蜘蛛は暴れ狂い、エントランスを二目とみられないほど、原型もなく叩き潰していく。後に残ったのは大きな炭の塊。かろうじて巨大蜘蛛の形だけを留めている。

 それが一気にはじけ飛んだ。

 後から現れたのは、生皮を剥がれた筋肉で構成された、あの巨大蜘蛛の姿だ。

「しぶといなぁ……」

 もはや呆れさえ混じってきた。

 本当にしつこい。しかも神経系むき出しの影響か、痛みで凶暴化しているようにも見える。むき出しの神経が空気中にさらされているだけでも、ひりつくような痛みがあるはずだ。これも織り込み済みで巨大蜘蛛を設計したのであれば、ホーランドは相当な悪趣味だ。

 装甲を捨てたからか。巨大蜘蛛の機動性は相当に上がっているが、動くたびに筋肉が断裂して、苦悶の叫びをあげる。やはり悪辣な設計だ。痛みをもって凶暴性を上げ、より手強くしようという腹なのだ。

「それじゃ、私も切り札を切る必要があるということか」

 取り出したのは獅子をかたどった指輪。総黄金造りのそれからは成金趣味は感じない。それ以上に不気味な何かを感じさせる。

 右手の中指に嵌めたとたん、己の内で何かが鼓動するのを感じた。心臓ではない、もっと根源的なもの。魂、というべき何かが解き放たれようと、蠢いているのだ。

凶獣天換ワー・コンバート――」

 それは合図の言葉。

 それは解放の単語。

 それは拘束の破壊。


――どこかで、獣が吠える。




 ◆◇◆◇◆



 託された。

 フレデリカはその一心で駆け抜ける。大切な友人が鉄火場を引き受けてまで稼いでくれた、貴重な時間を無駄にしないために。

 ホーレス特製の衣類は不可思議だ。スカートも、ストッキングも、ガーターも、コートも。それに腰を締めるコルセットも、フレデリカの体の動作を一切邪魔しない。さらに重さもほとんど感じなかった。おかげで、かつてない速さで走ることができている。

 ただ背中にスリングで背負った『Song For Fog』の重さは耐え難いが、走るのには苦労しない。情人ではきっと持ち上げるのも困難であろう巨銃を、背負ったまま全力疾走できている自分の変化が信じ難かった。

 いくつもの階段を飛び降りるように駆け下り、一回下りるごとに暗さの増す廊下をひた走る。

 着いた先は、倉庫なのか機関室なのか、よくわからない部屋だ。壁一面にのたくったように大小さまざまな配管が立ち並び、部屋のところどころにフレデリカの身長を超える大きさのコンテナは立ち並んでいる。面積も天井の高さも、エントランス・ホール以上にある。

 どこにこれだけの空間を収めていたのか。全力疾走に意識のほとんどを費やしていたから、地下へ地下へと進んでいることしかわからなかった。

 あたりを見回していると、その鼻先を銃弾が掠めた。並みのライフルより遥かに重く、そして速いと実感した。

 着流しを着た老人が、その老躯には不釣り合いすぎる巨大なライフルを携え、コンテナ三つが重ねられた上から見下ろすように構えていた、

 フレデリカの反撃はほぼ反射的だ。右手に握った『All In One』はバネ仕掛けのように跳ね上がり、フルオート射撃の指切りによる三連射を叩き込んだ。秒速一〇〇〇メートルを優に超える三発の弾丸は、老人の脳天を吹き飛ばすかに見えた。

 一発の剛弾が相打ちとなった。長大なライフルから放たれた五〇口径弾は、九ミリ弾三発など戯れに等しいといわんばかりに吹き飛ばす。

「いい反応だ……儂は斑鳩重臣。お前の大切な人間を預かっている」

 返答は二挺の射撃だ。

 もはや言葉は不要。この老人を殺す、と決めたのだから。

 重臣は跳躍した。その高さは部屋の天井いっぱいにまで届いているあたりから、おそらくは一〇メートルを下らない。そして拳銃でも構えるような片手撃ちで、MV社製M3エクスキューショナーを撃ったのだ。

 着弾の衝撃でコンテナが宙に舞い、フレデリカめがけて降ってくる。

 それを七〇口径もの砲というべき一発で撃ち返した。発砲の反動をそのまま生かし、一気にスウェイ・バック。瞬時に二挺に持ち替えて駆け出した。

 重臣はフレデリカの視線の先、およそ七メートル前方にいた。

 コンマ一秒もたたぬうちに接敵した。重臣の構えるM3エクスキューショナーの射線から身を逸らし、左サイドから撃ちこんでいく。その銃口を長大な銃身が払いのけ、銃弾は壁の配管を穿つ。冷却水と思しき真水が噴出する。だが払いのけられた勢いに乗せて身をひるがえし、逆サイドからの発砲。頭部を狙った弾丸は寸前で、射線から頭がそれたことで背後へと飛んでいく。

「面白い戦い方だな。銃で近接戦を挑むことにより、接近戦の攻撃力を銃の火力に置き換えている。当たれば致死の弾丸だ。避けるには銃口から射線を読まねばなるまいが、接近戦という環境ではそれも難しい。だが――まだ完成してはいないらしい」

 わき腹に衝撃、それも破格のものが。

 高速回転する弾丸がコートの上で噛みつくように、貫かんと奮闘している。M3エクスキューショナーのマズル・ブレーキと銃口からは白煙が上がっている。いつ撃たれのか、まるで見当がつかない。それに腹部への衝撃は内臓にもきっちり伝わって、息を詰まらせる。

「うぅ……ぐッ!」

「攻撃を読むときは、ほとんど殺気頼りか。ならば殺気の一つもなく、静の動きをもって対処すればよろしい」

 弾丸は衝撃を与えただけだった。だが内臓のいくつかは傷ついたかもしれない。その証拠に内で肉のつながる感触があるのを、フレデリカは確かに感じていた。こみ上げる何かを吐き出せば、血反吐だった。

 ――さすがホーレスさん。一発も貫通してない、けど。

 ――衝撃も殺してくれたら、もっと良かったですよ。

 あふれ出る鮮血を口のわきから垂れ流しつつ、ようやく立ち上がった。

「ほう……立ち上がるか」

 殺気が叩き付けられた。あまりにも、強すぎる。

 腕がまるごと喪失したように感じられた。構えた二挺の引き金を引くことさえ、忘却の彼方に追いやられた。

 体の熱が失われていき、足の力が抜けていく。だが、へたり込めない。それすら封じ込まれた。

「…………負けるかッ!」

 紫電を帯びた弾丸が放たれた。それはフレデリカの持つ数少ない、攻撃するための“力”だ。雷という体裁をとってはいるが、その本質は物理を超えた幻想の雷。世界の理という縛りから脱し、雷さえ遠くに置いていくもの。無明にとどろく雷なのだ。それを帯びた弾丸は雷に乗せられ、同じ速さで目標に叩き込まれる。

 重臣もたまらず呻いて、体を折り曲げる。撃ち込まれた弾丸から迸るエネルギーに、臓腑を焼き尽くされているのだ。

 左手に握る『One In All』の四五口径重量高速弾がついに重臣の脳天を捉えた。弾頭は頭蓋を粉砕しながら大脳を修復不可なまでに攪拌し、頭蓋から抜けるときにほぼ半液化した脳漿をぶちまけた。それだけにとどまらず、正中線を下るようにフルオート射撃を叩き込む。

 重臣の身体は半壊状態だ。それもわずかな皮と筋だけで、右半身と左半身が繋がってる状態。内臓の名残といっていい肉片が股の間から、ぼとり、びちゃり、と生々しい音を連れて落ちる。

「……なめるな」

 銃身は棍となり、フレデリカを吹っ飛ばした。

「考えもなしにここまでやってくれたな……儂が死ねば、お前の大切なものも失われるのかもしれんぞ」

「……関係、ないです。筋の一本まで掻っ捌いてでも、取り戻します」


――へぇ、ここまで想われていたとはね。


 声はどこからともなく響く。

「ウォルターめ、討たれおった……ぐおっ!」

 どす黒い瘴気を噴き上げる一刀が、重臣をから貫いた。

 それと同時に安堵した。

 ――ああ、やっぱり。

 ――生きていて、くれた。

 出口を切り開くように一閃した時だった。

 空気がどす黒く染まる。存在してはいけない何かが、重臣の身体から出てこようとしている。それは解き放ってはいけないもの、大地を踏みしめてはならぬもの、光を見ることも許されぬもの。この世のすべてから拒絶されてなお、その抵抗をすべて打ち砕き、やってくるのだ。

 黒き幻想を振りまくもの。

 その名は――。

「…………サイファー、さん?」

 ほとんど疑うようだった。

 どこか人ならざる部分があるとは思っていたが、この場を支配する空気は異常すぎた。それは今が初めてでは、ない。

 あの無限の厚さと質量を持った扉を破った時と同じ。この空間に満ちるものは彼の力、そう“この世に存在してはならない何か”である。サイファー・アンダーソンの権能ともいえる、あの黒い闇だ。

 重臣の身体より突き出る一刀を中心に、暗黒は竜巻のごとく渦を巻いた。一切合切を引き寄せながら、万物を黒く汚していく。この闇は、それを許されている。許されているが故に、この世に存在することを、許されない。その道理は莫大なエネルギー量によって蹂躙され、いともたやすくひっくり返される。

 そして、ここに顕現する。

 黒き幻想が。

 昏き存在が。

 万物を打ち砕くことを許された、その権能を携えて!


 ――フレデリカ、お前だけは。

 ――ひっくり返ってくれるなよ。


 重臣の身体から飛び出したもの。それは人ではない、人の形がかろうじてあると言えるが、その本質は全く違うものだと確信できる。それが黒い鋼鉄の鎧を着こんでいる。実用性皆無といえる示威を前面に押し出して作り上げられた、鋭角的で怪物を思わせる意匠。飛行するには、あまりにも重量がありすぎると思わざるを得ない鋼の翼。剣を握るには不都合な爪を有する籠手で、刃を黒く染めた野太刀を握り込む。鎧が鋭角的なのに反して、兜は無貌といえるほどシンプルだが、赫く、三つの眼が爛々と光をともしている。

 状況が物語っている。

 目の前の鎧に覆われた怪物は、間違いなくサイファー・アンダーソンその人だ。

 怪物が一歩を踏みしめるだけで、空間が軋む。ここに存在するだけでも耐えられないのに、と悲鳴を上げているように感じられる。そして、鎧も悲鳴を上げている。

 勘付いた。これは鎧ではないと。

 ――抑えているんだ。

 ――力が暴れ出さないように。

 怪物を覆う漆黒の鎧は、拘束具なのだ。この世界では留められぬ力が、暴れ狂わないための。

「そうか……それが、お前の力か」

「覚悟を決めろ、死にかけが」

 姿は変わっても、声は変わっていない。不気味なほど。

 手に握る一刀は黒く染められた答申を、朧げに揺らしながら、殺戮の時を待ち焦がれている。目の前の老人を切り裂かせろ、と叫ぶように。

「だが……彼女はどう思うのやら」

 返答はない。

 ――黒条一閃。

 光も呑み込むほどに漆黒の一刀が振るわれた。

 フレデリカがハチの巣にした正中線上を、縦に続く弾痕をなぞるように振るわれた。

 それだけで、身じろぎ一つ、呻き一つ、眼球も動くことなく。あっさりと斑鳩重臣は、事切れた。

 千と少し、の命を吸い上げた亡骸は残らなかった。能力の代償か、それともサイファーの権能か。砂よりも細かい粒子に変わり、風もないのに散っていった。残ったのはボロボロの着流しと、巨大なM3エクスキューショナーだけ。

「あっ……」

 サイファーと、目が合った。

 怪物的な意匠の鎧、無貌に輝く三つの眼。瞳孔のように白く灼ける一点が、フレデリカを三点から見つめていた。

 何も言い出せない。

 まったく踏み出せない。

 息さえ、吸えない。

 そのまま彼は、踵を返した。それが背中を押す、合図となる。


 ――その背中に、追いすがって。


 ――両手を、回す。そして、引き寄せる。


 ようやく、声が出る。

「……よかった、生きていてくれた」

 涙と嗚咽が混じってしまう。恥ずかしさはない、これは歓喜からくるのだから。

 鋭角的な鎧は痛かったが、それも気にならない。

「助けに来るとは……ちょっと意外だったな」

「いや、だったんです……あなたがいなくなるかもしれない瀬戸際で、黙って待っているのは」

「……無茶するなよ、恋人ってわけでも、ねえンだしな」

 ポン、と頭の上に置かれた手。鎧の籠手じゃない、温もりを持った手のひら。気づいたら感じるものに鎧の冷たさはなくなって、ギャバジン織にも似た布地の感触があった。

 いつもの眼差しが降ってきた。赫い、三つ眼ではない。銀灰色の双眸、見慣れた瞳の色。

「いつの間に衣替えして、髪形も変えて……男でもできたか?」

「…………知りません」

「似合ってるぜ、とても」

 どきり、とした。わずかに薄暗い曇り空の向こうにある、蒼天と同じ色をしたリボンでハーフ・アップにまとめた髪を撫で、さらりと言い放った。歯の浮くような、殺し文句。ベタといえばそれまでな代物なのに、ひどく動揺した。

「こんな、ところで……褒めなくたっていいじゃないですか」

「仕方ないだろ、似合っていたんだし」

 さも当然のように言う。これも懐かしい。一週間と経っていないのに、懐かしいのだ。

「それよりもだ」

 ようやく見た灰色のロング・コート、その懐に手を入れて、黒い缶を取り出した。茶色い葉巻、長軸マッチ。

「一服させてくれ」

 葉巻の吸い口をナイフで切り、咥えて火をつける。

 頭上から降り注ぐ紫煙の香りも、また懐かしく。


 ――安心する。彼の帰還を示す、彼のすべてに。



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