Kiss~風と共に歩むものは、もういない~
サイファーとの再会に耽溺していた。が、大事なことをフレデリカは思い出した。
時間を稼いでくれていた、大切な友人のことを。
「あ……ヘンリエッタが、時間を稼いでエントランス・ホールに残ってくれているんです!」
「なにィ!? そりゃ大変だ、今すぐ戻るぞ!」
ひょい、とフレデリカを抱えて走り出そうとする。サイファーにこうやって抱えられるのも久しぶりに感じてしまうが、別に今じゃなくてもいい気がする。だがサイファーはとっくに全力疾走の態勢に入ってる。たぶん五分もしないうちにエントランス・ホールに着くんじゃないかと思った時だ。
「そんなに急いでどうしたんだい?」
「うおぉっっっっとッ!!」
急ブレーキ。
ほぼ皮一枚で止まった先に、ヘンリエッタの姿があった。
ほとんど無傷に等しい。そのヘンリエッタの姿に面食らってしまう。特にフレデリカは代わりに相手を引き受けた存在がいかほどのものか、知っているが故に意外に思えてしまう。あれだけの巨獣を相手に無傷で済んだとはとても考えにくかった。
だから、あえてフレデリカは聞くことにした。
「大丈夫なんですか……ヘンリエッタは」
「ああ………………問題は、ないよ」
「嘘だろ」
サイファーはそこに切り込んだ。いつも振るう一刀のごとく。
言い逃れを許さぬほど、銀灰色の双眸からの眼差しはきつい。どんな秘密であろうとたちどころに喋ってしまうだろう。
これにはヘンリエッタも観念した。どのみちばれることは明白だった、と彼女自身も思っていたのだから。
「……実をいうと、反動があってね」
「魔術の中には、命を削るものもあると聞くが、そんな術を使ったのか?」
「だ、大丈夫なんですか?」
フレデリカの心配は悲愴だ。親友の危機かもしれないのだから、必死にもなるのは当たり前だろう。さっきまで重臣との死闘に加え、サイファーの真の力ともうべき闇の暴威に曝されたのだから、精神的に極限状態と言っていいだろう。
それでも錯乱に至っていないのは精神力が鍛えられている証拠だろう。くぐった修羅場は数少ないが、その質はほかの追随を許さない。だから親友の身を案ずるだけの余裕も生まれているのだろう。
「すまないが、ここで脱落かな」
「洋館を出ればデリンジャーさんが迎えに来てくれると思いますから」
「おお、そこまで準備がいいのか」
「それじゃ、助け出したことだけは言っておくよ。ちゃんと帰ってきてくれ」
平素の時と比べて幾分かおぼつかない足取りで、ヘンリエッタは去っていった。
せめて洋館を出るまでは見送っていきたかったが、サイファーがそろった今はホーランドのもとへ行くこととなる。あの狂碩学にほんの少しの猶予を与えようものなら、さらなる惨事を生む可能性もあるだろう。だから立ち止まってなどいられない。
無言で歩き出したサイファーにフレデリカは黙って着いていく。
沈黙が痛い。自分の前を歩く、ものすごく背の高い彼。何を思っているのかを推し量ることもできず、だから口を開くこともできない。怒っているのか、呆れているのか。そのどちらかさえ、微塵も窺い知ることはできない。
「どうかしたか?」
歩みはそのまま、首だけこちらに向けて聞いてくれた。一向に何も切り出せずにいた状況で歩み寄ってくれたのは、素直にありがたく感じるものだ。
その表情からもサイファーの心中は読み取れそうにない。自らの内を悟らせない技術というべきなのか。その必要があるほどの生き方を、サイファーはしているというのか。
その心理的な壁が作る疎外感を、否が応でも感じてしまう。
「いえ、なんでもありません……」
「どうせ僕が怒っているんじゃないか、なんて手合いのくだらない杞憂じゃないのか?」
「くだらないなんて、そんなこと……ッ!」
「そんなことは微塵も思っちゃいない。無謀と言えば無謀だが、来る予感はしていたよ。だから怒ってなんかいない。まぁ、何かあれば生き返らせてでも説教してやる」
――気にしていない。
その言葉で、いろいろなモヤモヤが吹き飛んだように感じられた。
――無茶をした。
――無謀の自覚はあった。
――死がちらついたこともある。
――親友だって、巻き込んだ。
――あなたの友人にも、声をかけた。
それらから来る負い目、申し訳なさ、面目なさ、そのすべてが晴れていった。赦された、という思いに心が満ちていく。
「まぁ、ここまでしてもらったんだ。ちゃんと帰ってきたら、盛大に祝おうじゃないか。ヘンリエッタに、ワイアットに、デリンジャー。みんな呼んで盛り上がろうや。料理とつまみはいっぱい作れ」
「……いいですね、そういうの。食べきれないだけ用意しますよ」
「そうなると大変じゃないか? ヘンリエッタあたりに手伝ってもらったらどうだよ?」
「えっ……と、ヘンリエッタはその、レシピ通りに作ってくれたらいいんですけど…………変にオリジナリティを入れるので……」
「なんだよ、はっきり言ったらどうだ?」
「……味覚に問題があるんです。マーマイトが大好物なぐらい」
「なるほど、よくわかった」
――マーマイト。
イギリス人ですら好みの分かれるビール酵母由来のペースト。生粋のイギリス人ではないサイファーはもちろん、食というものに対しレストランのシェフだった祖父に美食を仕込まれたフレデリカも苦手なのだ。
「やっぱりどこかしらでバランスというものをとっているんだなぁ」
「それさえなかったら、きっと最高の友人なんですけれど」
「料理くらい教えてやったらいいのに」
「レシピ通りにやれば、ちゃんと一般的な味になるんです…………ちょっと余計なものをつけ足したり、煮すぎ焼き過ぎ、材料を変える……レシピには先人の知恵が詰まった、科学の連鎖反応を起こすノウハウが詰まっているのに、それなのにヘンリエッタは、もう!」
「……おう、落ち着けよ」
「あ、ごめんなさい。こんなところでするような話でもないですよね」
「いいさ、それくらい落ち着いて構えていりゃあいいさ」
それからさらに地下へと二人は進み、コンクリートに鉄筋の風景は姿を変えていく――生々しく蠢く肉の壁に。ちょうど足元に合った野太い動脈が激しく脈打ったために、嫌悪に加えてバランスを崩したのが重なって倒れ込みそうになったのを、サイファーの大きな両腕が支えてくれた。
紫煙の香りに乗せられて、気遣いが上から降ってくる。
「大丈夫か?」
「…………はい」
「まったくひどい趣味だな。機械と生肉がごっちゃになってやがる」
サイファーはきっと意識のあるうちに、この光景を見たことはないのだろう。はじめてのはずなのに、フレデリカよりも動揺が少ない。いつもどおりだ。この程度の光景なら見慣れているというのか。
対してフレデリカは吐かないのが不思議なくらい不快だ。何か巨大な生き物に飲み込まれたようで。この中にいると自分という存在が溶けて、形を失って、消えていってしまう。体の末端からそうなっていくような、そんな錯覚を感じていた。
それでいて生物ではない鋼の配管が、赤とも朱ともピンクともいえぬ肉の軟壁を突き破って、どこかに機関より生み出された蒸気圧を供給する。
まるで血流だ。
――ごうん。
――ごうん。
得体のしれない怪物の吐息にも聞こえた。ありふれているはずの蒸気機関の息吹が、妙に恐ろしいものに感じられて、不安はゆっくりと加速していく。
そして一度は見た扉にたどり着いた。分厚い鉄扉。その先にいる碩学の姿が頭をちらついては、消えていく
サイファーはおもむろに鉄扉を蹴破った。くの字を軽く超えて、ほとんど二つ折りの状態のまま、弾丸並みの速度で飛んでいく。だがそれも僅かに数メートル進んだだけで、跡形もなく、元から何もなかったように消えてしまった。
右手を前方――フレデリカとサイファーのほう――にかざしたホーランドが、生肉と機械をめちゃくちゃにつぎはぎにしたような椅子に座って待ち構えていた。
「ずいぶんと乱暴だね」
ホーランドの声は肉壁全体を声帯にしているかの如く、大音量と大反響を伴っている。
「僕をとっ捕まえてくれたんだ。それに友達がな、お前さんのばら撒いた薬に大変ご立腹でね」
「ああ……あれも失敗だった。まさかアーカム統治局の治安維持部があれほど優秀だったとは。おかげでアルバニアンと手を組んでまで築いた流通ルートを潰されるとは。ガス状にして無差別にやるのもよかったが、“
――“
その言葉を聞いた途端、サイファーから一気に
思わず膝を着きそうになった。その単語が何を意味するのか、サイファーの反応をうかがう限り、あまりよろしくないものらしい。
「それを、どこで、どうやって知った?」
「ほほぅ因縁でもあるのかね?」
「決して浅くはないものが、ね」
「やはり“数少ない成功例”故か。今の我が力を与えてくれた存在は、力とともに知識を与えてくれた。それこそ世界の根底にかかわる、外なる叡智だ。人であったころには、到底知ることも理解もできなかったことが、今はだれよりも理解できている自覚がある」
「そのありがたい力をくれたやつは、今はどこにいる」
「愚問というものだよ。気づいているはずだ。君の感覚であれば、この屋敷に足を踏み入れた時から」
サイファーの右手には拳銃が握られている。あの異様なまでに大きな、回転式拳銃『Howler In The Moon』が。
その七〇口径もの巨大で、奈落を思わせるほどの銃口はホーランドのほうを向いている。
「やはりそうなると思っていた」
「フレデリカの眼を使って、何を考えていた?」
「“彼方なるもの”の向こうを垣間見ようとね」
「世界を書き換えるつもりだったか」
「そうだとも。全人類が、己の自由を阻まれることもなく、世界の均衡も崩されない、理想的な世界に変えるのだ」
「一も、全も、両方とも取ろうとしたか。二兎を追うものは一兎も得ない、と相場は決まっているぞ」
「それも眼があれば解決する。人知を超えるだけの観測によって、世界は新たな形を得るのだ」
「ならば、ぼくはそれを砕いてやる」
銃口はわずかに三度跳ねあがった。
マズル・ブレーキから十字に青白い砲火が上がり、現世のすべてを砕くことを許された権能を帯びる漆黒の弾丸はホーランドの眉間に一直線だ。
弾丸は狂碩学の頭蓋を三割近く粉砕した。脳漿も頭蓋も衝撃で半液状となり、肉壁で出来た部屋中にぶちまけられる。元から不快を催すほど凄惨な場は、鮮血と脳漿でさらに惨状を増す。
座ったまま、背もたれに身を預けるように崩れ落ちた。それでもサイファーに銃口を下す気配はない。
「いつまで寝たふりしてやがる」
「…………ふぅむ、バレてしまっていたか」
むくり、とホーランドが起き上がる。型抜きでもされたように吹き飛ばされた脳天は、何事もなかったように元通りになっている。
しわの刻まれた右腕が、ゆっくりと、前に。
「フレデリカ、僕の後ろにいるんだ」
言う通りにしないと、きっと死よりもひどいことになる。その根拠もない予感に突き動かされる形で、素早くサイファーの後ろに回り込んだ。そして彼は左手を、前に、かざす。
――ごう。
部屋全体が激しく揺れるほどの轟風が吹き荒れた。フレデリカの“眼”が映し出したのは、ホーランドの手から玉虫色の波動が放たれ、それをサイファーの影から延びる半球状の暗黒の防壁が防いだ光景だ。おそらくは現実の視界では不可視であったはず。尋常ならざるものを見通す黄金の双眸だけが捉えたのだ。
二度、三度と『Howler In The Moon』が咆哮した。天地が揺らいだのではないか、そう錯覚するほどの銃声だ。
権能を帯びた漆黒の弾丸は、狂碩学が紡いだであろう不可視の障壁に阻まれていた。ライフリングから与えられた回転運動を維持したまま、虚空で静止している。
「この領域を書き換えて、ぼくたちの存在をまとめて抹消しようとするとは。いやはや、ぼくに負けず劣らずのやり方だな」
「君に、これ以外のやり方が通じると思うかね?」
「買いかぶりじゃないが、思わんね」
「そうだろう。こういうのは、どうかね?」
周囲の肉壁が蠢く。生物的な消化器官のごとき様相を示しながら、その形をグロテスクに変えていく。たった瞬き一つの間に、壁中に牙を備えた大口が出来上がり、獲物を引き込むための触手が名状しがたい動きでくねりぬいている。
あまりにも非現実的な光景が加速しすぎている。大口も触手もない領域と言えば、フレデリカとサイファーの立つ位置から一歩程度の余裕しかない。
「アブない光景だな、こりゃ」
「ヒドい趣味です」
「散々な言われようだな、作った私が言うものではないが。さて、どう凌ぐ」
触手が躍りかかってきた。吐き気を催すほどの気味悪い動きを示しながら、二人の足や腕をからめとろうと迫る。
それらを白刃が迎え撃った。
サイファーは野太刀を居合の要領で抜き打ち、さらに大ぶりの刀身を器用に翻し、さらに連撃を加えていく。刀を抜いていない状態から、いかに素早く攻撃に転ずるかに重点を置いた居合。抜き身のままと比べれば、どうしても攻撃速度に劣る点を、さらなる一閃をもって補ったのだ。
大口のない部分をサイファーは器用に踏み込み、ホーランドに肉薄せんと迫る。その気迫は鬼神と言っても過言ではない。いや、そのものとしか思えない。
「放たれる気迫は敵を竦ませるためのもの。本心からのものではないか」
「わかっちゃうかぁ」
「しかし、邪魔者はいるぞ」
そう、サイファーの巨躯。それを捕らえんと蠢きまわる肉の触手。捕まれば大口へと運び込まれ、瞬く間に飲み込まれてしまう。しかし、それを気にする必要は、彼には存在しない。
小気味のいい連射音。『下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる』なんてものではない。一発一発が必殺の制度を持った、立派な弾幕を張っての火力支援だ。サイファーの行く手を阻むものに、フレデリカは鉛球を送り届けている。
そうなると狙いはフレデリカに移行する。
四方八方から迫る触手をフレデリカは飛んで躱した。跳躍は高さ二メートル、距離は四メートル半に及んだ。その超人的な跳躍を成し遂げた自覚は、彼女の胸中には存在しなかった。しかも、跳躍の最高点――ちょうど放物線の天辺――で身をひねり、後方を向いた。二挺の引き金を絞り切った。反動で舞いながら、弾幕はフルオート射撃にあるまじき精度によって一発も外すことなく、触手たちを撃ち抜いて刈り取っていく。
フレデリカに注意が逸れていたホーランドに、サイファーの撃ちはなった剛弾が襲い掛かる。すんでのところで不可視の障壁を展開、弾丸は見事に静止した。
「お返ししてやろう」
ホーランドがかざした右手が、くるり、と反転した。
静止していた弾丸も併せて、方向を一八〇度転換した。
剛弾は三発撃ちこんだ。それらが射手に牙をむく。そうなるはずだった。
「弾丸を止められるのが、自分だけの専売特許と思うな」
サイファーが、右手を前に、かざす。
ホーランドのやったことと同じことが起きた。七〇口径もの巨大な弾丸は、サイファーの右手の手のひらから数インチのところで静止し、ぽとりと地面に落ちた。
「いいぞ、やはり“数少ない成功例”たるお前の力。この程度の物理干渉などたやすいかッ!」
ホーランドは笑う。
ホーランドは嗤う。
ホーランドは、嘲笑う。
脳髄の欲求、知識への食欲、あくなき探求心。
それを満たしてくれるような存在。その力の片鱗に歓喜する。心から、歓喜する。
――故に気づかぬ。
麗しい射手が、己を狙ってることなど。たとえ知っていたとしても、些末事だった。
黄金の双眸は駆動した。狂碩学のすべてを見透かし、それをフレデリカに伝える。
――狂碩学ホーランドの構成情報は異常。
――三次元上の物理法則は、ことごとく無効。
――物理的破壊は、不可能。
双眸の告げた事実は絶望的。
フレデリカの手では狂碩学は打ち倒せない。
それでも、手がないわけではない。
――基底現実への干渉は、幻想を以てのみ破壊可能。
――支援行動を、推奨します。
二挺に青白い光が灯る。
雷のように稲光とスパークを放って、長大な二挺を走り抜ける。
すでに弾丸には十分すぎるほどに、充填された。
あとは、撃つだけ。狙いをすまして、ぶち込んでやるだけだ。
――
あくまでも引き金を引く手は、冷静に、努めて冷静に。
弾丸は幻想に変貌し、物理の縛りから解き放たれる。弾丸にあるまじき速度を発揮する。おそらくは稲妻よりも、光よりも。傍目から見れば、稲妻を帯びた軌跡しか映るまい。
それが狂碩学を無力化する。狂碩学から現実を混ぜる術を、一時的に剥奪する。
充分だ、充分すぎる。
サイファーにとってみれば、その一瞬で充分だ。
「ぐうぅおおあアァァァッ!!」
ホーランドの胸のど真ん中。ちょうど心臓の真上を、サイファーの一刀が貫いていた。しゃがれた苦悶の声を漏らし、狂碩学の老いた身体はのけぞった。
死の足音がようやく近づいている、という段階だが、この時点でもホーランドが生物にあるまじき最期を迎えるのは目に見えていた。
――ひび割れている。
薄焼きの陶器か何かのように、傷口を中心にひびが走っている。それは首筋にまで及んでいた。
「油断した、か」
「いいや、ぼくが関わった時点で必然だった。これは起こり得るべくして起こったことだったのさ」
「ならば、問おう――なぜ、私の望みはここで潰えた?」
「お前さんが何を望んでいたかは、僕はどうだっていい。だが、お前さんの信じるものを誰もが信じているわけではあるまいし、正しいと信じていても間違っていると思うやつもいる」
「――平和を、信じられぬもの、間違っているものとでも、のたまうか」
狂碩学の身に入る亀裂が、加速する。顔まで一気に、ひび割れた。
「来る暗黒の時代を――避けようと思わないのか? 私は見たぞ、およそ百年後の世界を。見せつけられたのだ、あの自己顕示にまみれ、拝金に溺れ抜いた世界を。ああ、絶望した。変えねばならぬと、その日から狂うことを決心したよ。変革には平和が何よりだ。安全と充足の得られる世界がね。そのために、たとえ一人の女が犠牲となろうとな」
「僕は一分先のことも予測できないんでな。百年も未来のことなぞ、わかるわけがない。もし、そんな夢物語があるとすれば、僕にも見せてもらいたいものだね」
「あれを見せた存在か……X、Y、Z、いあ、イア、いア、イあ、フルーシュチャ!」
それっきりだ。
狂碩学の身体は砕け散った。
フレデリカの眼だけが捉えていた。もしかしたら、サイファーも見えていたのかもしれない。何かがホーランドの体内で蠢いていた。数式だ。膨大な量の数式記号とアラビア数字。そのすべてが輝きを放って、狂碩学の身体を狂わせ、砕け散らせる。
口封じ、とサイファーもフレデリカも同じことを思っていた。
その思案も、洋館の激しい揺れの前に中断させられる。
◇◆◇◆◇
ヘンリエッタは何の障害もなく、洋館を出ることができた。逆に何かしらの罠があるのではないか、と怪しんだもののデリンジャーが来てからは、その警戒も消え失せる。
「サイファーは無事だったのか?」
「すこぶる、いつも通りだったよ。ついてきたけど、これじゃ杞憂だったみたいだ」
「あの男が臥せっているのは、想像ができんがな」
「同感だよ」
おそらく噂の本人が聞いていれば、威圧感たっぷりに後ろに立っているであろう。
「それで、あのフレデリカという娘だが――」
「言わなくてもわかっているよ。たぶん、本人は気づいていないか、否定するかのどっちかだろうけど」
「向けられているほうは、どうなんだろうな」
「気づいてないからスルーしているのか、気づいているうえであえてスルーしているのか」
「……そこまで悪辣な男なのか」
「天邪鬼なんだよ。デカい図体しているくせに、な」
そこで激震が中断の合図を告げる。洋館を中心に蜘蛛の巣上に亀裂が走っていき、地面が陥没と隆起を繰り返し、地割れとなる。
――何かが、出てこようとしている。
――何かが、這い出ようとしている。
――何かが、飛び立とうとしている。
周囲に暴風が吹き荒れる。地割れで起こった大地のかけらが巻き上げられて、宙を舞う。なのにデリンジャーとヘンリエッタには何の影響もない。
「どうなっている!?」
「自分の望むものだけに干渉する外法の暴風だ! こんなものを使えるのはただ一つ!」
「風に乗って歩むもの、白き沈黙」
灰色の外套をまとった、大きな男が降り立った。類まれなるほどの美少女にしか見えない女を、抱きかかえたまま。視界の端にほんの少し捉えただけでも、二人は誰かがわかった。サイファーとフレデリカだと。
「狂った碩学に力を与えた元凶だ」
「なるほど、予想は合っていたか」
――イタクァ
誰かが言った。
デリンジャーは口をつぐんでいた。
ヘンリエッタは何も言わない。
フレデリカは沈黙している。
サイファーは嗤う。ただ笑う。口を三日月に歪めて。
この四人以外の誰か――いや、何かが話している。
暴風は静寂となる。だが風は吹き荒れている。大地のかけらを、宙に浮かばせるために。その中心に、名乗った者はいた。
人型に見えなくもない身体。それはのっぺりとした質感を帯びた乳白色の肌で、落ち窪んだような眼と獲物をかみ砕くための牙をもった大口がある。その身体は巨大だ。巨大であるがゆえに、崇めたくなる。信仰したくなる。目の前の怪物を!
――この領域に下りたのは、いつぶりだったろうか。
「人語を解するか」
――“彼方なるもの”の向こうを見た、その恩恵だよ。今はどんな言語でも、理解できる。
「未来を見せたのは――お前さんか?」
――違う。見せるための権能は存在しない。でも、彼と同じものなら見たことがある。生贄を捧げてまで呼んでくれたので、相応のものを以て返したよ。彼に未来を見せたのは――“狂える方程式”と言っても、君たちにはわからないだろうけど
「それで、こんなに派手な登場をして、お前さんはどうするつもりだ」
――どうしようかね。また彼のような人間を生み出すのも一興だ。
「なら――僕のすることは、ただ一つだけ」
空気が沈む。
黒く染まった一刀を、怪物に向ける。風の神性、イタクァに。
――君はなんだ。なぜ知らない。その力は、一体なんだ?
サイファーは飛び上がる。舞い上がる大地の欠片を足場にし、野太刀の黒く染まった刃を届かせんと迫る。それを猛風が迎え撃った。イタクァの操る黒い暴風。触れた一切合切を朽ちさせる、外法の風だ。
黒き刃が虚空を染める。野太刀の一閃で黒き暴風は断ち切られる。
――風を切るとは。
「まだまだだよ。水を斬れるようになってからが、一人前というやつだ」
――だが、そのかたちでは傷をつけられない。
サイファーの一刀がイタクァの乳白色の肌に食い込んだ。だが、それだけ。刃を何も斬ることなく、表面を滑っていくだけだ。森羅万象を破壊することを許された黒き権能を帯びた刃は、その役目を果たすことは叶わなかったのだ。
暴風がサイファーを叩く。幾千、幾万もの圧倒的な鎌鼬の礫となって撃ち込まれる。一つ、二つ、百、と防いだところで押し負けるのは明白だ。浮遊する大地の欠片も砕いて飛んでいき、クレーターとなった洋館の跡地に叩き落された。
――そこで見上げているだけが、お似合いだ。
「言ってくれるじゃねえか――拘束体、展開」
フレデリカは一度は見た。おそらくヘンリエッタも、デリンジャーも見てはいないはずだ。サイファーは、これだけは見られまいと、警戒していたはずなのだから。奇しくもヘンリエッタもデリンジャーも、こっちを見てはいない。フレデリカが見せないように取り計らってくれている。
あの鎧が展開する、怪物を縛るための黒き鎧が。
無謀の兜に光る三つの赫い眼を、すべてイタクァに向け。内からあふれ出る力に、鎧の関節は激しく軋む。
鋼鉄の翼が展開する。羽ばたかんと、己の存在を主張する。高圧縮蒸気が噴射するように、翼一つ一つから推進力を得るかのように、黒とも濃紫とも言えない色に染まった炎をが噴射される。
一瞬でイタクァの前に飛んでいた。
「今度は、僕が叩き落す番だ」
――その力…………まさかッ! お前が“数少ない成功例”だというのかッ!
「その身を以て、確かめてみるといいさ」
イタクァは逃走した。
死を恐れた。
砕かれるのを恐れた。
消失を恐れた。
恐れたからこそ、飛ぶ。逃げるのだ。
黒き暴風を操り、イタクァは飛翔する。時さえも彼方に置き去りにして。
「逃がさねぇよ」
一刀はない。握られているのは――およそ三メートルはくだらない、騎兵用の突撃槍。鎧と同じように鋭角的な意匠を含んだ、どこか機械的な要素を感じさせる、漆黒の大槍。
穂先となる超重量の円錐の刃が、回転を始める。それをきっかけに闇も渦巻き始めた。
フレデリカの瞳は――イタクァの終わりを予見していた。
――“彼方なるもの”の向こうを見たことで、イタクァの構成情報はさらに上の領域にシフト。
――幻想でさえも、身を砕くことは不可能。
――“数少ない成功例”である、彼ならば可能。
――比類なき、その権能であれば。
――すべてを打ち砕く、その力であれば。
「吹っ飛べ」
大槍を放った瞬間、それは一筋の黒い光となった。何もかもを巻き込みながら、時さえ飛び越えてイタクァへと一直線に進む。
――いやだ…………やめろッ!
「やめるわけあるか、消え失せろ」
一筋の黒い光条となった大槍は、サイファーの黒い権能に螺旋の力を加えて迫る。この世に存在するものを振り回し、森羅万象を砕く権能が毒のように染み渡っていく。
像さえもちっぽけに見えるほどの、比類なき巨体に大槍が触れた。
その瞬間、権能は螺旋の力を借りて、一瞬で染み渡った。
――あ……――――ッ!
呆気ないほど、たやすく、イタクァは消え去った。
◆◇◆◇◆
「また“彼方なるもの”の見る景色が、一つ消え失せたか」
そこは稲妻走る電気の世界。
幾重にも張り巡らされた電線を、電気がスパークを散らして駆け抜ける。
情報伝達だ。階差機関の歯車が一回転する間に、膨大な情報を電子が走る一瞬の間に処理してしまう。まるで数百年後の電気文明の世界のようで、現実的なようで非現実的な光景だった。
スパークとケーブルに囲まれた中央、そこにある玉座に老いた碩学が座していた。この蒸気文明の現在では異端と言っていい、電気技術の結晶で身の回りを固めている。その中心で老碩学は
「――おお、素晴らしきことよ。
――おお、喜ばしいことよ。
正気の鎖は、今はじけ飛んだ。破壊者の手によってな
狂える数式は嘲笑うがいい。
儂が、お前のもとに行くその日まで」
老碩学も狂っているのか。
今回の騒動を起こした、ホーランドのように。一心に
周囲の電気技術の結晶は、己の手で作ったのか。宙に浮かぶ、電子によって編まれた
「近いうちに来そうだな。せいぜい、もてなしてやるとしようか」
映像に移るのは、鎧に縛られた怪物。
「――サイファー・アンダーソン」
彼の名をつぶやいてから。
「待っていろよ、わが教え子たるヒルベルトよ」
そして椅子の背もたれに、身を預けた。
◇◆◇◆◇
デリンジャー・ファミリーのアジトで宴は盛大に行われた。
アーカム統治局治安維持部保安課という公僕の身でありながら、ワイアットも拉致同然に連れてこられた。出るところに出ればスキャンダルものだが、デリンジャーであればもみ消すことも可能であろう。サイファーも報道関係には少ないものの、頼れる伝手がある。
それから酒に溺れ、紫煙が大気となる。それほどの大宴会が繰り広げられた。つまみはあっという間に足りなくなり、土壇場で店屋物を頼むような事態になったが、それでも全員が楽しんでいた。アーカムにやってきた機器を、乗り越えたことに。
フレデリカは給仕に大忙しだったのは言うまでもない。健啖な連中が勢ぞろいしたのだから、無理もない話だ。ヘンリエッタの手伝いは丁寧に断った。集団食中毒に等しい事態は未然に防がねばなるまい。
終わったころには空も白み始めていた。
日も届かぬアーカム下層でも、夜明けの光だけは入る。そう、誰かが言っていた気がする。一度は見ておくべきものだ、とも言っていた気がする。
だからアジトの洋館、そのベランダに出て、フレデリカは暁の時を見る。
「――――ぁ」
漏れた声はそれだけ。
真上から光が降ってきた。どうやって降り注いでいるのか、なんて科学的な考察は野暮に思えた。天使でも舞い降りてきても、ちっとも不思議ではない。放棄された建物と瓦礫、それからできるカスが黒い雪となって、赤月の光を得てようやく白日にさらされる。
不浄にして、幻想的なきらめきがあった。
だから、声を出すことなど憚られる。言葉を発するなら、一秒でもこの景色を焼き付けていたい。
ぽんぽん、と肩を叩かれた。
振り向いたらギャバジン織の灰色のロングコートが目に飛び込んだ。視線を上げれば、サイファーの顔が飛び込んでくる。
「びっくりしました」
「見入ってたモンだからさ」
「はい、見入ってしまいました」
確かサイファーは八〇〇ミリリットル入りのスピリタスを山ほど空にして、デリンジャーとワイアットが左右を固める形で寝入っていたはずだ、と回想する。そのうえで、化け物並みに酒が強いのだと確信した。
サイファーも下層の夜明けに目を向けていた。
「平気か?」
「もう、いろいろと慣れてきちゃいました」
「僕のあれを見てもひっくり返らないあたり、ほんとすごいと思うね」
「からかっているんですか?」
思わず半目になって見上げてしまう。
「いいや、本心だよ。デリンジャーもワイアットも、アレだけはダメだったらしい」
「あの姿も、あなたなんですけれどね」
「ホント、似ていると思うわ」
似ている、という言葉に反応した。
サイファーが何となく自分と似ている、と発言した存在。フレデリカは少しだけ、気になっている。気になってしまっていた。
「どういう人だったんですか? その私に似ている人は」
「うむむ、なんか近いうちに話すような機会がありそうだからな、今は教えないでおくか」
「ひどい」
「いまさら言うことかよ……そうだ、助けてくれたご褒美をやろうか?」
ニヤッとした笑いを見せたので、とっさに『いらない』と言おうとして――できなかった。
生暖かい感触を額に感じて。その正体に気づいた途端、それを中心に熱が顔中に満ちるのを感じる。
前髪を上げるサイファーの大きな手が、視界をふさいでいた。だから額に感覚が集中するのも、仕方がなかった。彼の行為を触覚のすべてを総動員して、感じてしまっていた。
サイファーが離れた。フレデリカの額から。
「ここと、ここには、まだ早いかな?」
頬、唇の順で指さしながら、サイファーの巨躯は洋館の中に消えていった。
ぺたんと膝を折った。へたり込みながら、赤く染まった顔を両手で覆った。
――おでこに。
――キス、された。
それだけで、フレデリカは
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