魔域、悩める乙女は次元を手繰る者に迎えられ
日差しが差し込んできて、フレデリカは微睡んだ
柔らかな朝の温もりに包まれながら、少々気だるげにベッドから起きあがった。
冬の寒さは部屋を容赦なく冷やすだろうが、アーカムで広く使われている暖房システムは優秀だ。蒸気機関の余剰熱で温水を作り、張り巡らせたパイプを通して循環させる。アンダーソン邸には暖炉もあるので、快適さはさらに増す。
文明の力、万々歳ということだ。
だからベッドから這いだすのも容易だ。寝不足でもない限りは。
──あ、シャワーでいいから、お風呂入らないと。
昨日は戦いの疲れもあって、適当なダイナーに入って夕食にした。その後、シャワーも浴びずにドレスだけ脱いで、上下の下着にスリップのまま寝てしまった。
淑女としては失格といっていい。身だしなみから内面、服装のセンスにマナー以前の問題になる。 シンプルな白一色のブラウスと紺色の膝下丈のスカートに着替えて、朝食の支度を始めることにした。この時間からサイファーは起きていない。声をかければ起きてくるが、放っておくと午前八時を過ぎても寝てる。
まずは身を清めるためにもシャワーを浴びる。
黄金に変じた双眸と目が合った。浴室に据え付けてある姿見に、一種の芸術品ともいえる少女がいた。一六〇センチを少しだけ超える身長でも大きいといえる、オーバー90センチの胸がいやでも目立つ。スマートにくびれ、魅力のラインを描く腰回り。どうにもアンバランスだ。10代の少女といっていい顔が、男好きするグラマラスな肉体に乗っているのだから。
自分の顔は、贔屓目に見なくても綺麗だと思う。だからこそ、いやでも陰火の灯る肉欲の対象として見る、まとわりつくような視線に晒された。そのたびに辟易して、ずいぶんと傷つけられた。
でもサイファーはそんなことはなかった。シニカルな笑みを浮かべていながら、眼差しは優しげであった。フレデリカのために怒って、その力を振るってくれた。
だからこそ、彼の存在は少しずつ大きくなっていく。 ──これじゃ、まるで。
──サイファーさんのこと……
一気に温度調節のレバーを冷水に変える。体が急激に冷えていって、思考も冷静になっていった。
「うん、きっと一緒にいるから、そうなっちゃうだけ」
自分に言い聞かせて、早々と着替えて台所に立つ。
いつものようにスープにポーチドエッグ、酸味を効かせたドレッシングをかけたサラダ。あとは調理法が間違いなく茹でているのに、名がベイクドビーンズ、あとはロールパンとブラックプディング。
イギリスの典型的な朝食であるフルブレックファストを手早く調理して、食卓の上に並べていく。
ここで生活する前から得意なことだ。
祖父と暮らしていた頃も、大学時代も、時間が余ることは多かった。だから、その分を家事に回して自活力の向上を図っていた。
やっぱり女性と家事能力というものは切り離せない。不利に働くことなど皆無だろう。身につけておいて損のない能力だ。
「そろそろ起こしたほうがいいかな?」
言ってみた声は空しく響いた。
ため息一つ、それから二階にあるサイファーの自室に向かう。
上等な家だと階段を上がる度に思う。祖父の自宅は年季が入ってることもあって、一歩踏み出すごとに大きくギシギシキイキイと鳴る。
静かなせいか直接声をかけたり、体を揺すったりしない限り起きない。仕事柄ゆえに命を狙われることもあるはずだが、起こしに行くたびに気持ちよさそうに眠っている。
もしかしたら意識を切り替えているのか、と思うこともある。
意識が戦闘用に切り替わっていたら、背後に立ったら殴り倒されそう。そんな突拍子もないことを考えたこともある。
ドアを開けて、二枚目半だが眠っていなくても端正な顔。それに顔を寄せて、耳打ちでもするように、囁きかけるように、おはようの声をかけた。
「そろそろ起きて下さい」
「……んぁ。今、何時だ?」
「もう少しで8時になりますよ」
「…………こうしちゃいられん! フレデリカも急いで支度してくれ。今日から下層に行く」
ガツン、と物凄い衝撃でぶん殴られたような錯覚に陥った。
急に言われたのと、下層という単語。この二つが強烈なショックを与えた。
──なにも、急に言わなくたって。
そもそもアーカム下層は超がつく危険地帯だ。
常識というものが薄氷となって、たやすく砕け散る。ありえない事象が平然と起こり得る、魔界の理に守られているとさえ言われている場所。
ろくに準備も予備知識も入れず、踏み込んでいけば数時間で物言わぬ死体と化す。そこまで言われる魔性の領域だ。
「朝飯はできてる?」
「ええ、準備万端ですよ」
「そいつは楽しみだ。着替えるから出ていった方がいいよー」
間延びした声をかけられて、フレデリカはあわてて飛び出した。
なし崩し的に、すがりたくなって、色々な経緯から一緒のベッドで眠ったことはある。ただ一緒に眠っただけで、変な意味はない。
そのほとんどがサイファーの腕の中にいた。
でも着替えとか裸を見るのとは、それはそれで別問題だ。また違う羞恥心が駆り立てられる。腕の中にいるのは安心感を得ることが出来るが、着替えに裸を見るのは下心だけしか満たされない。
──振り回されてる。
勝手に下層に行くのを決められたのも、いきなり着替えだしてドギマギしているのも。この傍若無人な彼に振り回されているのだ。
だが、フレデリカが思う最も危うい点は。
──それについていかないといけない、と思っている自分がいる。
いつから自分の根に入り込んだのか。
いつから日常に欠かせなくなってきたのか。
依存、なのだろうか。彼が、サイファーがいなくては、きっと何かがおかしくなってしまいそうなのだ。
おおよそ少し前──大学卒業直前──のフレデリカからしてみれば、まず抱くことのなかった複雑な感情。男性に対する強すぎる不信から、雄を遠ざけていたあの頃からすれば、ありえないことだ。
それは──サイファー・アンダーソンがフレデリカの中では特別であることに他ならないのか。
聡明なフレデリカでさえ、異性のことはなに一つとして分からない。男心というものは、数学者フェルマーの最終定理と同じほど、小指の先も分からぬ未知なるものなのだ。
「らしくないなぁ…………」
ふう、とため息一つ。
冷水を浴びて冷静になったと思っていたが、実際は違っていたらしい。静寂が思考を行う時間を与え、思考はフレデリカの胸中をかき回す。
すでに食卓でフルブレックファストに舌鼓を打っているサイファーを尻目に、胸のあたりに手を当てて、去来した複雑な感情に思いを巡らせる。
──きっと、私の心を何一つわかってないのかな。
──でも言わない私も、きっと何一つわかってない。
また、ため息が一つ。
振り返ったら、目が、合った。
見慣れたはずの銀灰色の瞳と。
「どうした?」
「い、いえ、なんでもありません」
「………………そうかい」
妙な間があって、その瞳が見透かしているように感じられた。 心臓が跳ねる錯覚を覚える。
うまく息が吸えなくなって、つっかえているような感じ。耐え難く、吐き出して楽になりたい苦しみだ。
──依存、しているのかな。
胸中の自覚は出てこなかった。出せるはずもなかった。
迷惑になりそうな気がした。変な苦労をかけさせてはいけないような気がして。
そのまま何もないまま二人は朝食を終え、各々の部屋に戻って着替える。
ふわりとスカートが翻った。
黒を基調に、灰と白で彩られている、ぴたりの華美さがある。シンプルながらも華がある、フレデリカの好みなデザインだ。これが防弾防刃使用の戦闘用の衣服というのだから、荒事屋たちの需要と、職人たちの供給はよくわからなかった。
下層に行くのも、おそらくは実力行使請負業としての仕事で行くのだろう。朝食の後にサイファーが『ドレスを着ろ』といったのは、そういう意味でもあるのか。サイファーの言うドレスは、この防弾防刃の黒い戦闘服のことなのだから。
そして重要なのは、この二挺。
M2アナイアレイターとアーカム45。
ドレスのスカートにはファッショナブルなデザインのガンベルトが巻かれており、そこには二挺を収めるホルスターと弾倉を保持するクリップがある。
蹴りの威力を上げるためなのか、フレキシブルでありながら強靱な皮革で出来たブーツに履き替える。そのまま玄関に降りてみても、サイファーの姿はなかった。
そして足下から音がする。
場所はわかっている。地下の武器庫へはハシゴを降りていかないと辿り着けない。
トランクに大型の散弾銃を収めている、サイファーと目があった。
ウィンチェスターM1912だ。銃身と銃床がソードオフされている。散弾の拡散が広がることを考えれば、突っ込んで来る相手には45口径より心強い。
「下層は想像を絶する、魔の領域だ。ちょっとやりすぎるくらい、備えはやっておいた方がいいのさ」
そう言いながらブローニング重機関銃を分解して収める。統治局保安課でまじまじと見せつけられた代物だ。多対一の不利というものを儚く散らしてしまう。
トランクからはイギリス本国で開発途中で、アーカムでは実用化されている短機関銃が二挺。手榴弾にダイナマイトまで収められている。
「私も、何か選んでいった方がいいのでしょうか?」
「それは問題ない。下層にいる知り合いのガンスミスに、専用の銃を拵えてもらったんでな」
「い……いつの間に」
「かれこれ三週間前から予約はしていたんだ。ただ…………いや、率直に言う。狂ってるヤツだが、腕は確かだ」
「……狂ってる?」
「曰わく『自称』だがな」
なんだか不安になってきた。
サイファーの表情も、心なしか浮かないような気がする。もしかすると、その銃工のことが苦手なのかもしれない。
「心配しなくても腕は確かなんだ。あのリボルバーを作ったのはヤツで、僕の知る
確信を持って言い放った。
そこまで言うのであれば、きっと腕はあるのだろう。
あの馬鹿げた大きさと不可思議な装弾数、そして全てを戦慄させる威力を持ったあの銃を作ったのだ。きっとサイファー以外に誰も扱えない、あの魔銃を。
家を出てからの移動は徒歩だった。下層に向かうのであれば、階層間列車を使うのが普通──というより他の方法が存在しない──のだが駅を普通に通り越した。
「道は間違っていないから」
そんな彼の言葉がなかったら、十中八九呼び止めていた。
人通りもまばらな往来を過ぎたあたりで、彼は路地裏に歩みを進めた。泊まりになるから、と一週間分の備えを詰めたトランクを携えて、フレデリカは慌てて追った。
ジメジメとした路地裏の地面に、危険極まりない銃火器弾薬を詰め込んだトランクを置いて、裏口であろう扉にサイファーは手をかけていた。
「
扉が瞬く間に黒く染まりきったかと思えば、開け放った瞬間、そこは
「『抜け道』…………ですか?」
「ご名答」
魔の超機関アーコロジーであるアーカムに怪奇は絶えない。
上層やフレデリカの住まう十二層あたりの中層は大人しいものだが、下層近くともなれば"人ならざるもの"の目撃例や、
そういったものが都市伝説的な扱いを受け、人から人に伝えられるときもあれば、新聞の片隅を賑わせるオカルト記事にもなる。
『抜け道』もその一つだ。大学在学中に聞いたことだが、アーカムの一握りの人間はアーカム中を自在に行き来できる特別な場所を知っている。そんな話であった。
「本当に、あるものなんですね……」
「"ある"というより、適当な扉を『抜け道』に作り替えるのさ。ただ外にでる扉は屋外にあるものがいいし、何かの建物に行きたいときは屋内の扉がいい。扉の向こうの状況が分かるものでもないし、何より目立つものだから、割と使い勝手は良くないんだ」
「……もしかして、私も使えたりしますか?」
ふうむ、と顎に手を当てて考え込む仕草。
小首を傾げているのが、巨躯には似つかわしくなくて。フレデリカは内心「可愛い」とまで思ってしまった。
「結構コツがいる技だが…………教わりたいなら教える。今はちょっと無理だが」 「…………できちゃうんですね」
「悲しいことにな」
ベアトリクスの一件以来、普通の人間から離れてしまったのは自覚しているが、こうも目に見える形で突きつけられると心が痛むほどに噛み締められる。
でもヘンリエッタを助けられた。
きっと以前のフレデリカであれば、引き金を引くさえ出来なかったはずだ。
「さ、早く行くとしよう。目立つ技なんでな」
「はい」
そのまま手を引かれて、下層に通じた扉をくぐった。
◇◆◇◆◇
液体の沸き立つ音。
ごぽり、ごぽり。
天秤の揺れる音。
ゆらり、ゆらり。
歯車が回って軋む音。
キリリ、キリリ。
そこは実験室。人倫と道徳をあざ笑い、そして冒涜する狂気の場。天井の滑車とロープと鉤には、その毒牙にかかった哀れな人々がいた。
年齢に人種も性別も問わない人々が、少なく見積もっても五〇は吊り下げられている。どれも防腐処理のされた死体だ。
薬品の実験体になった者がいる。
全身の七割近くがグズグズに爛れた者。
目も鼻も口もなくなって、のっぺりとした顔になった者。
全身の筋肉が異様に膨張した者。
数式機関を埋め込まれた者がいる。
全身を鋼で覆われた、異形の騎士と化した者。
肋骨を飛び出させてでも機関を埋め込まれた者。
鋼の腕を背中に八本も植え付けられた者。
吊り下げられた死体は主の狂気を如実に、そして雄弁に物語っている。口は利けずとも死者は肉体の痕跡で、死した瞬間を知らせるのだ。
「これも失敗作だ」
落ち窪んだ目を爛々と光らせて、老いぼれた狂碩学は歯噛みする。 手には注射器、中には赤黒い液体で満たされている。
半ば投げつけるように近くのネズミに注射した。暴挙とも言うべき行いだったのに、液体はネズミの血管を通って全身を駆けめぐる。
かたちが崩れていく。
青黒い粘液と化して、ネズミは際限なく広がっていく。
表情を一変させて、フフと微笑んだ。
老獪な笑みが場を黒く染め上げているようだった。 「人間もこれで少しはマシになるだろうに」
狂碩学が狂碩学たる一面がにじみ出ている。
彼に他人がどのように映って、どう認識されているかなど思い及ばぬことだ。世界を7日で作り上げた神も彼を創造したことを悔やみ抜くだろう。
だから彼にとっての「マシになる」ということが、人類をいかなる方向に導くのか身の毛もよだつことだ。多くの人間は先頭を取る者には人格者を選ぶ。歴史上、狂人と呼ばれた者がその座に収まる時は盤石の引っくり返るような転換点の時だけ。
アーカムは岐路に立たされた。 歴史的にも、
◇◆◇◆◇
じんわりと湿気を孕んだ風が柔肌をなぜて、フレデリカの背筋がぞくりと震えた。
――アーカム下層。
この魔都において一年間の死亡者は50人から100人といわれている。だが、それは中層から上層までのデータだ。十分に多いといえるデータだが、下層の惨状は想像を絶する。
実際の死亡者は90人前後といわれているが、これは死ぬことさえ許されない犠牲者がいることを物語っている。
区画支配者の歪み切った倒錯性癖を満たすために、常識の世には出られないように作り変えられた者がいる。
頭脳が優秀な者は妖技術によって脳だけにされて搾取される。
変異生物のエサになる者もいる。一思いに食われず、ただの娯楽として食われることさえある。
そんな魔の領域に立っていることが、改めてフレデリカを戦慄させた。
「ついに……来てしまいました」
「無理もない。誰だって好きで下層に行くヤツはいないんだ。それだけ危険な場所というわけだ」
「でも……ここ、空気がまるで違う。今まで生きてきた全てが根こそぎ否定されているような…………ここは、来てはいけない所です」
「初めて来て、そこまで気付ければ御の字さ。中層の腕利きでも余所見したら死ぬところだ。場所によっては空間が歪んでるところもあるし、極稀に時間さえ歪む。常識なんて生易しいものが通用すると思うな。ここが本当のアーカムだ。まずガンスミスのところに向かおう。本命の場所は後だ」
まだ昼にもなっていない、早朝から少し過ぎた時間帯にも関わらず、下層は異様に薄暗い。 別に煤煙が濃いわけでもないのに。
まるで光が自ら退いているようで、ここが闇に占拠された領域のように感じられた。
そして移動を開始した二人にまとわりつくような視線がきた。確実に獲物を見る視線だ。
薄暗がりの石畳、ひしめき合うように建てられた住居の間から、絶えず浴びせられている。風に乗って、その主の体臭が鼻を突く。
「フレデリカ、銃を抜け」
言われる前に二挺は手の中にあった。
「
奇怪な鳴き声を聞いた。生物が出せるはずのないような、金属が激しく擦り合わすような声だった。
サイファーに向かって踊りかかったのは、禿頭の、異様なほど肥大化した筋肉で武装された、”人だったモノ”。
元の食生活を忘れ、同法を食らうために著しい進化を遂げた元人間。それが
彼らの食欲は、今サイファーとフレデリカに向けられているのだ!
「僕を食いたきゃ、もう二回りくらいデカくなってから来い」
食わせろ!
食人者たちの悲願に真っ向から否定を突きつけるように、いつの間にか握られていた『Howler In The Moon』が轟いた。人を食らうために歪な進化を遂げた強靭な肉体が、七〇口径もの巨弾で見る影もなく破壊された。
さらに3人、弾丸さえ超える速さで襲い掛かった。
フレデリカも動いた。初速も威力も申し分ないM2アナイアレイターを食人者に撃つ。
避けられないことは必定だ。長さを変えることなく45LongColt弾をリムレスにした45ALPよりも、三割ほど効力のある弾丸だ。口径と弾頭重量で劣るのを、弾丸の初速を早くすることで補っている。下手なライフル弾より速いのだ。
それを食人者はわずかに首を傾けて避けた。
驚くことなく第二弾を素早く撃つ。
動揺している隙があるなら、即座に反撃に出る方が建設的だ。
だが食人者は弾丸を噛み咥えて止めたどころか、さらに咀嚼し始めた。
流石に予想外の行動を、食欲で満たされていながらも麻痺していなかった動物的本能は逃さない。
豪拳が唸って、フレデリカに迫りくる。
食人者の脳裏には、目の前の少女といっていい美しい女を好き放題犯して喰らい尽くすことしかない。
だからこそ気づけなかった。
目の前の四五口径弾に。食人者の獰猛な顔形に、ハッキリと驚愕が浮かんでいた。
あっけないほど、あっさりと頭の右半分を吹っ飛ばした。
「やっぱり、一筋縄ではいきませんか」
「ちょっとでも油断すれば死ぬ。さっき吹っ飛ばしたヤツみたいにな」
もうサイファーは話しながら、七匹目の上半身を跡形もなく吹っ飛ばしていた。規格外の巨銃から放たれる砲撃に等しい銃声にも、驚かなくなるくらいには慣れた。
変わってしまった感性に嘆息しながら、フレデリカはもう一匹に拳銃弾の猛射を浴びせる。
人外の瞬発力と神経反応速度故に音速の数倍強がやっとな拳銃弾では、食人者相手では不利極まりない。相手するには、もっと火力と範囲のある火器が必要だ。
「散弾銃をください!」
「受け取れ!」
ソードオフされたウィンチェスターM1912がサイファーから投げ渡されたのを、フレデリカはしっかりと捉えていた。
ポンプ部分をしっかりと掴んで、そのまま自分に引き寄せる勢いを利用してポンプする。
初弾装填完了。
グリップを握りながら、そのまま自分の背後かつ斜め上の方向に銃口を向けた。
食人者の大口の中にウィンチェスターの銃口が突っ込まれていた。
「そんなに大きな口を開けていては、とてもみっともないですよ」
引き金を引いた。爆発でもしたように頭蓋が一気に吹っ飛んだ。
右手にM2アナイアレイター、左手にウィンチェスター。
そのまま前進しつつ、発砲する。四五口径は牽制として撃ち、本命の十二ケージのOOバックショットが食人者を捉える。ソードオフされているだけあって散弾の広がり方も一線を画している。
だがM1912はポンプアクション故に一発ごとに、フォアエンドを前後させての装填動作が必要になる。
その問題点をフレデリカは拳銃を撃ちながら牽制して時間を稼ぎ、その間にフォアエンドを掴んで上下に振ってコッキングする。拳銃のリロードは散弾銃を脇に挟んで、M2とアーカム45をローテーションしながら素早く装填する。
「残りは何匹ですか!?」
「3匹だ。気を抜くなよ」
ソードオフされているだけあって取り回しは格別だが、いかんせん射程と装弾数が犠牲になっている。
弾切れしたM1912を放り捨て、二挺拳銃に切り替える。機関銃もかくやと言えるほどの連射は正確に食人者の回避を阻み、命中弾を確実に撃ち込んでいく。
それから二分もする頃には食人者は全て倒されていた。
「ここが……下層」
「今のヤツらに喰われるようじゃ、ここでは数分と生きていられん。さっきの様子を見る限りじゃ、僕がいなくても一週間は大丈夫そうだがな」
「喜んでいいものなのか、とっても微妙です」
「笑えばいいんじゃないか? そういうときは」
「…………ははは」
乾いた笑いが虚しく漏れた。
普通じゃない、とサイファーと過ごすようになってから思うようになっていたが、それも序の口であった。
人の理を超えた下層の怪物を手にかけて、改めて実感してしまった。ベアトリクスを射殺したときに比べれば浅いが、さらに戻ってこれない領域に踏み込んでしまったらしい。
「……案内人が来たな」
いつの間にいたのか。
サイファーの視線の先に異様な男がいた。背丈は一七〇センチ後半くらいで、ジーンズとブーツだけ履いて、上半身は裸だった。
そして剥き出しの逞しい肉体は、色とりどりの金属光沢が頭まで覆っている。彼は禿頭だった。その姿に反して人当たりの良さそうな顔立ちであった。
「お久しぶりぃ、何年ぶりだよサイファー」
「変わってないようで何よりってヤツだ。アイツの使いか?」
「デリンジャーの旦那はアンタに会えるのを心待ちにしてる。早く顔見せて安心させてやれ」
「相変わらずの悪人面なのかなぁ?」
「そこだけはいつまでたっても変わっちゃいないよ」
風体の異様さに気圧されることも、訝しむことも恐れることもなければ、何も問題なさそうに男と話し込み始めた。
二人の間柄は親しいのだろう。古くからの知り合いというものだろうか。見た目だけで判断すれば、友人という間柄というには怪しいワイアットもいれば、見た目だけなら同年代のフランクだっている。一概にどうということもできない、そんな微妙な関係の人間がサイファーの周りには多いような気がした。おそらくフレデリカもその中に入っているのだろう。
そうやって観察していたせいか、ふと男がフレデリカの方を向いた。顔から瞼まで金属光沢を放っているのに、瞳はきちんと水晶体もあるような眼であった。いや、どこか違和感がある。上等のビスクドールにでも使うような宝石や大理石に似た冷たさがある。それでいて柔和な笑みを浮かべてフレデリカを見つめていた。
「自己紹介が遅れたな。俺はDMと呼ばれている。ちょっとワケありでな。本名は名字から名前まで忘れてしまった。DMは俺の手品からついた異名でな、ちょっと見せてやるよ」
そういってDMは足元にあるネズミのような生物――胴体は限りなく近かったが、足が六本、尻尾が二本で額にも目があった――を掴み上げると手刀でも叩き込むように反対の手を振るった。
ネズミモドキがぐしゃりと落ちて、そのまま石畳の上でもがいている。
起き上がれないのも無理はない。
小さくか弱い命は真っ二つであった。断面図のように、骨格から内臓に至るまで形を損なうこともはみ出ることもなく、半分にされたままネズミは生きている。血潮を送り出して、そして流れ込む心臓も半分になって内部を露出させながら鼓動している。
「この下層ネズミは生物学的にも医学的にもきちんと生きている。血液は問題なく循環し、脳味噌は植物状態でもなければ死んでもいない。ちゃんと自分の状況を判断していられるくらい正常に活動している」
「でも、ま、真っ二つになって」
「そう見えるだけだ」
サイファーが割って入って解説する。
「血管一つずつ、それも把握できない幾千幾万もの毛細血管に至るまで空間と次元を歪めて開けた『通路』とも言うべきもので繋がっている。これを解いちまえば下層ネズミは真っ二つになって死ぬ。DMと呼ばれてる理由は次元と空間を操れる
これもアーカム下層の脅威とも、神秘ともいうべき存在であった。
イギリス本土の碩学を招集して協議したとしても、その数割も理解できるか怪しい次元や空間の概念を本能的に理解し、人知を超える魔技ともいえる御業を自己紹介がてらに行える。神の力とも言っていいのかもしれないが、それが表に出ないのがアーカム下層の恐ろしさなのかもしれない。
そうだとすれば――アーカムには次元と空間を指先一つで動かす力以上の恐怖があるのかもしれない。
それは森羅万象を自在に操る全能者の力だろうか。それとも森羅万象を自在に砕き尽くす絶対なる破壊者の力だろうか。どちらにせよ現世には受け入れられない、最悪の力だろう。
ハイリスク・ハイリターンでは済まない分の悪い賭けに出る者など、アーカムの住人達を除いてはいなくなってしまったのかもしれない。だからこそ内での争いは絶えることはなくても、外部からの侵略者ともいうべき存在は滅多にいないのだろう。ベアトリクスの件は滅多にない貴重なケースの一つとしてカテゴライズされ、ほんの一時の間だけアーカム・タイムズを飾るだけ。
気分の良くない奇跡を目の当たりにして、一時の間言葉を失っていたが温もりを持った固い感触が肩を叩いたことでフレデリカは我に返った。
「あんまり長い間口をぽかんと開けて固まられてもな」
「そ、その、なんか凄すぎて。なんと言っていいのか、わからなくなってしまって」
「僕は妥当な反応だと思うけどな」
「サイファー、お前の時は俺が驚かされたがねぇ。特製の次元防御を貫通して砕かれた上で、腹を長い刀でぶっ刺されたからな」
なんか凄いことを聞いた気がする。
というより聞きたくなかった。最初は殺し合うような仲だったのか。どうも、この二人だと掘れば掘るだけ、物凄い過去のエピソードが出てくるのではあるまいか。
「貴重な初体験だったじゃないか。あと長い刀じゃなくて、いい加減きちんと野太刀と言ってくれよ。何回僕に言い直しを要求させれば気が済むんだ?」
「諦めるまで続ける。それに長い刀と言った方が楽だ」
「アレにはすごい思い入れがあるんだ。もう少し日本文化を学べ」
そのまま日本の料理はうまい、トーフは素晴らしいツマミだ、ヨシワラは一回でいいから行け、と話し込みだした。サイファーは相当日本文化に傾倒しているらしく、DMもタジタジになりながら相槌を打っていた。
そうやって話し込む二人の姿は、何よりも男臭かった。
主義やこだわりの違いから、見ている女としては下らなくても、男たちにとっては沽券に関わる問題なのだろう。ただ童心に帰って横道に逸れ抜いた二人の熱弁に、やれやれとなっていると不意に双眸が
――突発的な空間歪曲を観測。
――安全のため自動防御を任意発動。
急に視点が反転した。
内臓を一気にひっぺ替えされるような、急激な酩酊感とも高揚感とも言えない感覚であった。そのまま視点はフレデリカを中心に回り始めたようで、そのまま景色は色とりどりの絵の具を掻き雑ぜたように極彩色が暴力となって襲う。
双眸の急な激痛に目を閉じたとき、意識もまた闇に閉ざされたのであった。
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