教鞭をとるものは来訪を予期して

 風が吹き抜けていく。

 正確には僅かな風も遮られることなく、さほど広くない店内の隅から隅まで吹き抜ける。そういう意味である。つまりは閑古鳥が大合唱ということだ。

 その閑散とした店内に、単独で閑古鳥の大合唱をお通夜に変えた、それほどの質量を持った男が現れた。ロングコートのガンマン気取り。そういう男だった。

 すん、と男の鼻が動いた。首が左右に動いて、刃のごとく磨かれた眼光を、誰もいない店内に振りまいていく。それがカウンターに止まった瞬間、彼の右手が閃いた。

 空を切って飛んだボウイナイフは、浅黒い長く太い指に挟み取られ、男の手に弧を描いて投げ返される。

「腕、落ちちゃいないようだな」

「アンタは衰えたように感じたが」

「肩を見てから言いやがれ」

 現れた浅黒いスキンヘッドの大男は、言われたとおりに自分の肩を見た。

 一本、よく見ないと分からないほどの、耐久性という言葉とは無縁なほど細い針が刺さっていた。

「それ、毒針だったら南無三してたぞ」

「搦め手か……正々堂々は前時代的になったらしい」

「手段は選ばないのが、最近の流行らしいね」

「なら引退するべきじゃねえか? 最近になって女囲ってんだろ、サイファー?」

「誰から聞いた? この海坊主。出所次第じゃタダでは済まさねえ」

 この浅黒いスキンヘッドの大男の名はフランク・アーミティッジという、元荒事屋にして喫茶店「アルカンシェル」の店主である。店名を示しているのか料理の皿の縁には、円形の虹が描かれている。

 その皿を拭くのはギャルソンの制服をはちきれんばかりに押し上げる、豪壮な筋肉。身長は一九〇センチを下らない。それほどに大きな男だが、サイファーには及ばない。

 そんな彼がポップな趣味にあふれる虹の模様の皿を吹いているのは、一種のシュールギャグのように感じられる。彼にとっては普通に仕事をしているだけなのだが。

 カウンターの席にサイファーが座ると、間髪入れずにミルクと砂糖を多分に入れたカフェオレが出てくる。

「ヘンリエッタ、だよ」

「ヤロゥ、減給四ヶ月に延長だクソが」

「野郎は流石にヒドいぜ」

「あァ? アイツにゃ絶対にサオがぶら下がってらァ」

「ココで言うようなことじゃねえな。それで囲っているのは、一体どんな女だ?」

 サイファーはテンガロンハットの鍔を引っ張り、目を伏せた。カフェオレを一気飲みしたのが、より怪しさを加速させる。

 そこにフランクは言いたくない、面白そうな話題を感じ取ったらしい。

「別に言いたくないのなら、言わなくてもいいが、近い内に一緒に飲もうじゃねえか…………お前の家でな」

「分かったよ、言うから…………十七ぐらいに見える二十三の超絶金髪美少女。顔なんかスッゲエぞ、クレオパトラに楊貴妃に西施も、自分の顔を醜いと思って首吊るレベルの美少女だからな。危うく襲いかけた」

「はぁ…………そういう趣味だったのか。スタイルはどうなんだ?」

「胸はデカいけど、腰回りは細いな。あとミスカトニック大学飛び級卒業の才女。あとメシがウマい」

「最優良物件じゃねえか、クッソうらやましいぜ」

「わっはっはっは、僕は勝ち組だぜ」

「もげろ、勃たなくなれ」

「残念ながら実力行使請負業と並行して、僕のムスコは生涯現役だぜ」

 下品な話題でひとしきり談笑した後は、フランクは神妙な顔をして切り出す。苦虫を千匹ほどまとめて噛み潰した、そんな顔をしている。

「また派手に暴れたみてぇだな」

「わかるか?」

「使われていなかった倉庫が蜂の巣になって、その中でフォーレンシルト大公家の御令嬢がワンワン泣いてるんだ。俺が知る中じゃ、そんなことする鬼畜外道はお前だけだ」

「照れちゃうぜ、褒め言葉が上手いな」

「こっからマジメな話だ…………大公家のお偉いさん方、草の根分けて探してるんだ、お前をな」

「戦争だな、下手すると」

「俺はお前が勝つのに十ポンド賭けても良い」

「ありがとさん」

「それと、もう一つ」

 人差し指を立てて、今日の朝刊を投げた。

 ぽすん、なんて間の抜けた音を立てて落ちた新聞。その一面の片隅に、その記事はあった。

「ミスカトニック大学考古学教授が殺害される、か」

「お前のことに、御令嬢が気付いたのかも知れねえ。教授の遺体を発見した警備の話じゃ、やっこさん、うわごとみてえに『ナコト写本が…………ナコト写本が…………』そう言っていたらしい」

「おし決めた! 即刻ヤっちまうか」

 意気揚々と席を立って歩き出したサイファーを、フランクは必死になって止めようと、肩を掴んだ。

 二メートル近い浅黒い肌の男が、天井いっぱいに宙を舞った。サイファーの体術が炸裂し、重力を無視したような動きであった。

「ぐえっ…………ジュードーか?」

「外れ、合気道だよ」

「アイキドー? 何が違うんだ?」

「合気道で投げられると、今みたいになる」

 足の裏を見てから起きあがると、その場でフランクは飛んだり、片足を軸にして回ったりしている。サイファーに投げを掛けられたときに、まるで地面がなくなったように感じられた。気付いたら宙を舞っていたというよりも、地面の方が彼を投げ出したようにも。

 一生かけても解けそうにない問題だ、と苦笑する。

「それで、どうやってフォーレンシルト大公家を相手するつもりだ? 奴さん方、最新鋭の機関改造兵に機動鎧どころか、四脚重機関戦車に航空要塞まで私兵として持っているぞ」

「いつも通り、あくまでもいつも通りにやるさ。だからさ…………止めないでくれると嬉しいね」

 そう言いながらサイファーは懐に手を伸ばすと、愛用の巨大な拳銃を抜いた。どんな荒事屋も使いたがらないような、彼のみが扱える黒白の二挺は、アルカンシェルのドアを真っ直ぐ照準している。

「隠れてないで、出てくればいい」

「いるな、こりゃ…………」

 返答は言葉ではなく、多種多様な弾丸の応酬で行われた。散弾、ライフル弾、拳銃弾とバラエティーに富んだ銃弾は、瞬く間にアルカンシェルを破壊していく。

 二人の巨漢は揃ってカウンターの向こうに隠れ、破壊の応酬をやり過ごした。このような一斉掃射に逢うことを前提としていたのか、アルカンシェルのカウンターは防弾仕様であった。

「ブッ殺してやらァ! ペンペン草も残してやらねェ!」

 身に二挺だけを帯びてカウンターから驚異的な跳躍力で、アルカンシェルの建物自体をブチ抜いて、サイファーは飛び出した。

 飛び上がった彼は五メートルも上空にいた。

 火線が上へ上へと移動していき、サイファーを捉えんとする。

 そこに規格外の二挺が機関銃以上の火力を以て、アルカンシェルを蜂の巣にした十五人ほどの武装した男たちに、報復の弾雨を降り注がせた。

 生身でサイファーを侮っていた者たちは、何も出来ずに着弾と同時に血と粘塊に変わる。原形を留めることは誰一人としていない。全てが臓物と脳漿を辺り一帯にぶちまけたのだ。

 知覚強化系の数式機関を埋め込んでいたと思われる、機関改造人間たちは鈍重に思える金属部品を露出した姿から想像もつかない速さで、音速の数倍に迫る弾雨から逃れる。

 スネイルマガジンを装備したボーチャード・ピストルを構える者、縦横共に五〇センチはある箱型弾倉を備えたベルトリンク式のブローニング機関銃を携えた者、右腕そのものをガトリング機関銃に改造した者。彼らの数は十五から八人ほどに減ってはいたが、それは強者をより分けるふるいであった。

 無数の銃口がぐるりとサイファーを囲み、少しでも動けば幾千もの銃弾が彼を貫くのは確定的だ。だが黒白の巨銃も男たちを睨みつけている。

 ためらいなくサイファーは引き金を引いた。

 二人が倒れて、残りが彼を討たんと各々の銃を以て、死の弾嵐を巻き起こす。

 弾丸は撃ち込まれた瞬間に体積を数倍に広げる拡張弾や、砕けて体内で四散する特殊弾の類がほとんどで、サイファーの体は筋肉繊維一本分に至るまでズタズタにされた。

 それでも原形を留めるどころか、意識さえはっきりしている彼は、不敵に笑みを浮かべる。

 見よ、その巨躯がゆっくりと起きあがっていく。

 首を鳴らしてから、怖じ気付いた者もいる男たちを、睨むわけでもなく見ていく。

 右手を前に掲げて、人差し指を曲げては戻す。手招きでもするかのように。

「来いよ、粗チン野郎Small Dick

 左手に収まっている白銀の巨銃が、天地を揺るがすような咆哮を上げる。

 放たれた銃弾は一人の男の右側頭部に着弾し、その衝撃で顔の右半分を粘塊に変えて吹っ飛ばす。

 反撃の弾丸はサイファーを傷つけるには小さすぎた。

 かすり傷さえ、皮膚に痕を残すことさえ不可能であった。

 今の彼は珍しく本気を出していた。が、たったそれだけ、ただそれだけのことで、男たちには鏖殺を受け入れるだけの運命しかなくなった。

 銃を仕舞った彼の右手の周りが、水面の波紋のように歪んで、たわんで、景色を不明瞭にして、そこから日本刀が抜き放たれた。

 すでに抜き身の状態であった虚空より取り出した長物に、男たちはようやく戦慄一色となって恐慌に染まっていく。

「こいつ…………異能者か?」

「いや……変異使い?」

「まさか…………幻想生物グリム・クリーチャー?」

 銃口は自ずと無意識の内に、下へ、下へと向いていき、完全に銃口の延長線が地面と垂直になる。

 諦めとも、絶望とも、飾る言葉はいくらでもあるのだろうが、抵抗する意志は完全に失ってしまった。そう欠片一つ残すことなく、抗うことを男たちは自ら放り捨てたのだ。

 サイファーは男たちを満たすものを感じ取り、口角を異様なまでに吊り上げる。笑みだ。凶悪さを前面に押し出したとしか言えない、見た者全てが卒倒しかねない喜びの表情だが、常に不適な光を宿す瞳は真逆だった。

「拍子抜けだなぁ。足掻け、死に物狂いで這いつくばって、死中に活を求め続けろ。銃を握った以上、同業のみならず、市井に生きる者にも、同じものを向けられる覚悟は済ませたはずだぜ?」

 また巨銃を握る。それだけではない。彼の双眸は赤く、紅く、何よりも赫く染まっていき、炎のごとく揺らいで移ろう。

 ────あれは、何だ。

 男たちの誰かが口にした言葉は、紛れもない全員の総意たる疑問で、目の前で起きている事象への否定で。

 なんとなく、なんとなくの範囲で彼の影が形を変え、それから──それから、後に残ったのは常識外れの破壊の痕。ただ暴れ回っただけではない、縦横無尽に走った刀傷、子供の頭ほどある弾痕の数々、一メートル近くも抉り込まれた石畳、ドロドロに溶解したモルタル。どれを取っても異常としか言いようがない。

 男たちの死体は何処にいってしまったのか、それとも"かたち"の全てを消し飛ばされてしまったのか。

 いずれにせよ──人の形をしたものに出来る所行ではない。それが出来るのは怪外の怪物か、アーカムの伝承にある名状しがたい生物のみか。

「拍子抜けだよ。少しは出来ると思っていたんだが」

「お前のお眼鏡にかなう人間は、ここ数年は現れねえと思うぜ」

「どうせ群れている時点で、おととい来やがれってモンだ」

「一匹狼が少ねえのさ。牙を保ってるヤツに的を絞れば、もっと少なくなる。皆、狼は怖いからな」

「だからこそ、だよ。生き残ってる狼は化け物が化け物と呼ぶレベルだからね」

「お前もその一人、というわけか?」

 サイファーは答えない。

 ただ、ただ顔だけが物悲しく哀愁というものが漂っている。そんな風に思えるのだ。何か思うところがあるのだろうが、それを察するにはフランクは付き合いが短すぎた。

「狼は孤独さ。いつ、いかなる時でも、誰もそばにいない」

「だから女を囲ったのか?」

「同居と言え、同居と」

 ギニーやポンド硬貨のオンパレードを叩きつける。さすがに踏み込んで欲しくない領域に、片足を突っ込んでしまった。そんな反応をした。

 まるで初恋をからかわれた少年。まさしく、そんな表現がよく似合った。

 フランクを初めとするサイファーの知己にとっては、珍しいといえる瞬間。この常に余裕を保ってる巨漢に似つかわしくない、そんな瞬間だった。

「ツリはいらねえ、とっておけ。邪魔したな」

「今度はその子も連れてこい。一杯だけならタダにしてやる」

「考えとくよ」

 それだけ。ただ、それだけを言ってサイファーは帰っていった。

 ドアの残骸。それについたベルが澄み渡った音を、惨劇の跡地に響かせる。


 ──カラン、コロン。


 ──カラン、コロン。


 ──カラン、コロン。



 ◆◇◆◇◆◇



 すすり泣き。

 声を悲壮なほど押さえつけた嗚咽と、空気からでさえ伝わってくる悲しみの念。それほどの感情にフレデリカ叩き落とした元凶は、彼女に手の内にあった。

 それは新聞。家主であるサイファーが毎日とっている朝刊で、一面の記事にそれはあった。

 ミスカトニック大学の考古学教授が殺害される。その教授はフレデリカと個人的に親交があり、考古学を個人的に教えていた人間だった。

 悲しんでばかりのフレデリカではなかった。知りたくなった。探偵を気取るわけではないが、恩師の死の真相というものを。なぜ殺されなければいけなかったのかを。

 涙を拭って、立ち上がった。サイファーと食事に出かけたときに着たドレスの色違い──黒を貴重としたものに着替えて、バッグに貰った女王陛下の束を入れ、ソファーの間に手を入れれば、冷たい鋼の感触。

 FNのM1900。この拳銃を始めて見る人間は銃身が二つあるように感じるだろう。実際は下が銃口なのだが。三二口径の護身用でなら十分すぎる、その程度の威力をフレデリカは用意に扱える。住んでいた区画の護身セミナーは、本当に役に立つ。

 ただ、M1900だけではなく、ボーチャード・ピストルやらレマット・リボルバーまであったのは驚きだった。

 外出する旨の書き置きを残して、ドアをくぐれば、薄い煤煙の雲を突き抜ける陽光が、真上から差し込んでくる。少しだけ、息がしやすい日であった。

 ミスカトニック大学はサイファーの自宅から、結構な距離があったため、タクシーを捕まえた。高出力の数式機関のガーニーは、数キロに及ぶ道のりを数分で駆け抜けていった。

 アポイントメントを忘れていたな、と今更になって気づくが、今となっては過ぎ去ってしまったことだ。ダメであれば日を改めるまでで、機関学の教授と会えないかと受付に聞いた。

 予想とは違って快く迎え入れてくれたことに、フレデリカは教授への認識を改めつつあった。あの気難しそうな、憂いのある表情と、全てを見通したような目の輝き。あらゆるものへの期待と歓喜に満ちたサイファーの目とは違う、学者の瞳であった。

 鋼鉄の扉。案内もなしにたどり着いた場所だが、ここに教授が入るとフレデリカは知っている。

「レオ教授、いらっしゃいますか?」

 その呼び名は教授が許したもの。敬語を外さないフレデリカの最大の譲歩からのもの。取っ手に手をかけただけで、ピストンが駆動し、歯車が唸りを上げる。

「君が来るのは分かっていたよ。大体は察しがついていたからね、君が来たら通すように言っておいた」

 座面と背もたれだけが革製で、残りは機関を搭載した機械仕掛けの椅子に座るのは、初老の男。今、この瞬間でも世界の真理を探究し、伺いしれぬ思考を巡らせる紳士。そういう表現がよく似合う男で、白のスリーピースが不思議と似合う。

 彼の名はチャールズ・バベッジ。階差機関の父にして、蒸気機関の性能上昇に大きく貢献した男。白髪混じりの口ひげを整え、穏和に笑ってみせる姿は紳士そのもの。

「かけたまえ、今、給仕装置で淹れた紅茶が出来る」

「あ、お気遣い、ありがとうございます」

「私も久しぶりに君と話がしたかった」

 カムリンクと歯車、蒸気圧ピストンで構成された、赤銅の輝きを持つ機械の腕が、ティーカップと砂糖壷にミルクの入ったポットを乗せたトレーを運んできた。バベッジ謹製の給仕装置である。初見の人間は、これで度胆を抜かれる。

「残念だったよ、彼は聡明で、老いて尚、探求の心と好奇心を忘れなかった。私も見習うほどに」

「なぜ、教授は殺されたのでしょうか?」

「君が卒業してから、彼は本物のナコト写本を発見した────ほんの数ページ分だったがね。その記述を読んでから、彼は少しばかり狂ったのかな。その数ページ分を仕舞い込んで、門外不出にしてしまったのだよ」

「あの教授が……それだけ恐ろしい内容だったのでしょうか」

「恐らくは、君の考えている通りだ。ナコト写本は数ページだけでも、専門家の心を抉り取る、この世の条理を否定する知識に満ちている。それが奪われたとなっては、半端に知識を持つ者にとっては何よりも恐ろしいのだろうね」

 半端に知識を持つ者は、半端であるが故に対策を知らずに恐れを為す。例外はありふれていれど、大抵のものには対策が存在する。

 フレデリカはナコト写本やネクロノミコンといった、外宇宙の叡智をしたためた古文書には詳しくない。だが殺された教授は機関と同じものと言っていた。扱いを間違えば惨劇を招くが、正しい志をもってすれば人類の益となる。そう、豪語していた彼は、もういない。いないのだ。

「ナコト写本…………探さないと、何が起こるか……!」

「君には、それが出来る人脈があるはずだ。自分を信じて行きたまえ」

「はい! ありがとうございました」

 揚々としてフレデリカが去った後、バベッジは一言。

「目覚めは近いな。鬼が出るか、蛇が出るか。東洋の諺だったろうか」

 タクシーで行きと同じ時間で帰ると、聞き慣れない迎えの言葉が耳朶を打った。

「おかえり、フレデリカ。どこに行ってたんだ?」

「あの…………ミスカトニック大学に」

「ははぁん、さては探偵気取りで調べに行ったのかな?」

「…………はい、ダメだったでしょうか?」

「いいや、僕も調べようとしただけだけど、何かあったのか?」

「それがナコト写本の本物が奪われていたらしくて、厳重に保管されていたのを、犯人は奪ったそうで」

「ン、僕も出先でカチコミかけられてね。癪だから相手方を調べたら、あのベアトリクスだった。どうやら実家とヨリを戻したみたいで、僕にリベンジを企んでやがる」

 非常に不安だ。

 フォーレンシルト大公家の権力は、噂話程度で耳にしているが、にわかに信じがたい話でいっぱいだった。

 彼女に楯突いた人間は、いつの間にか行方不明となっている。娼館に売り飛ばされている。アーカム下層で物言わぬ姿となって見つかった。逸話は探せば、いくらでも見つかるであろう。

「大丈夫……なんですか?」

「親の臑齧り娘なんざ、小指の先でチョイだ」

「無理は、しないでください。あなたに何かあると……私は悲しいんです。私には、あなたしかいないから…………」

「安心しろ。人より死にやすいけど、兵器や改造頼りのヤツに後れをとったことはない」

「約束…………して下さい」

 フレデリカは小指をたてて、サイファーに差し出した。

 華奢で白魚のようにか細い指に、無骨で皮膚が硬化した太い指が絡む。

「指切りをお望みなんて、結構子供っぽいのな」

「でも意地でも約束を守ろうと思えませんか? こうやって繋ぎ止めておかないと、あなたは離れていきそうで」

「繋がれるのは趣味じゃない。でも何も言わずに行ってしまうこともない。だからさ、安心するといい」

「誓って下さい」

 空いた手を胸に当てて、サイファーは誓う。

 目の前にいる小指だけでつながれた少女。その側から離れないことを。

 その誓いがフレデリカの心に染み渡る。じわり、じわりと解かしていく。温もり、暖かみが染み渡って、体を回っていく。

「この僕、サイファー・アンダーソンはフレデリカ・エインズワースのそばからいなくなりません」

「ありがとう…………とっても、嬉しいです」

「そうだ、嬉しさを積み重ねて、笑え。君の笑った顔は、僕の人生の中で一番キレイだ」

「………………歯が浮きますよ」

「事実を言っているだけ。フレデリカ、お前さんはキレイだよ。そして可愛い」

 頬が赤くなる。どことなく色っぽく、扇情的な表情のまま、フレデリカは何も言わなくなった。羞恥の余りに、口を開かなくなったのだろう。

 本当にウブだ。サイファーはそう思わざるを得ない。少なくとも容姿を褒めただけで、赤面する女は初めてだ。思い直してみると、付き合った女性は娼館出身だったり、過激な服装で応対する売春黙認の酒場で知り合ったのがほとんどだった。

 彼女らと体だけの付き合いと割り切って、つかの間の蜜月を過ごすのは悪くなかった。ただ、心の距離が遠いだけで。

 だがフレデリカは真逆だ。体の距離は遠く、心の距離を縮めていっている。今までになかった、まっとうな付き合い方。物欲と情欲で繋ぎ止めるのではなく、心と精神を通わせて時間を共有して繋ぎ止める。

「フレデリカ」

「サイファーさん? どうしました?」

 小首を傾げて聞く仕草が、この上なく愛らしい。今すぐにでも手に入れたいと思う、可憐なる一輪の華奢な花。

 今すぐに抱きしめたい。今すぐに桜色の唇を奪いたい。その先さえも、我が手に納めたい。

 今までに味わったことのない、妙な高ぶり。性的な興奮という言葉で片づけるには、あまりに複雑すぎる劣情をサイファーは必死に押さえる。

 ほんの少しだけ身を任せれば、瞬く間にフレデリカの肢体をねじ伏せ、余すことなく肉の味を味わえるというのに、それをしない理由も分かっていない。いや、分かっているが、やらない。

 きっと彼女は自分と添い遂げてくれる。といえるような、そんな願望が本当のことに、現実になる。確信もない思いのために、彼は自制する。

 ──どうやら、僕は。

 ──フレデリカのこと。

 ──嫌いじゃあ、ないんだろうな。

 その想いが真実か、それとも一過性の幻想か、サイファーは計りかねていたのだった。

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