酒宴は血生臭さに溢れて

 アルカンシェル。フランスの言葉で虹を意味する。

 早朝の襲撃の痕跡は無い。いかなる手段を使ったのかは誰も知らない。全壊から一日で直っていることなど、さして珍しくはないことだ。ここはそういう店なのだから、それを不思議に思うのはアーカムに住んで間もないか、外部の人間だけだ。

 そこに集うのは泥臭く、いぶし銀どころか錆びた鉄にも劣る、幾多の修羅場をくぐってきた腕っこきの荒事屋ばかり。

 なにしろアフリカ系の店主が元荒事屋なのだから、訪れる知り合いも荒事屋か、彼らに関わる職業がほとんどだ。

 いつしかアルカンシェルは、荒事屋たちが集う情報交換の場であり、盛り場であり、仕事の斡旋の場となっていた。店主のフランク・アーミティッジは黙って、今日も皿を拭き、至福のひとときを提供する。

 そこに早朝から訪れ、またも現れた男がいた。一度目と同じ服装で、その時にはいなかった男を引きずりながら。男の顔はひどく変形し、四肢はねじ曲がっている。

「サイファー、ソイツはどうしたんだ?」

「僕のことを嗅ぎ回っていたから、少しお話ししただけだよ」

「お話し」

「そ、お話し」

「拷問の間違いじゃねえのか?」

「それは世界常識で、アーカムの常識じゃないよ」

「もっともだな、特に下層はヒドいもんだ」

 アーカム下層。

 暴力と享楽に溢れたアーカムでも、弱肉強食を地で行き、死がありふれている魔境とも言うべき最悪の場所。

 生半可な機関改造では瞬く間に全身を解体され、まだ使える埋め込んだ数式機関を摘出され、残った血肉は下層民の腹に収まる。

 フランクもサイファーも、なるべく行きたくない場所だ。

 サイファーが拷問めいたお話しで済ませるなら、下層民は色々な過程を飛ばして日々の糧とする。物理的に、胃袋に納めたり、僅かなシリングに替えたり、と。

「ま、その常識のおかげで、僕らにとっては天国だ」

「暴力振るおうが、荒事屋なら許される世の中、いいんだろうか?」

「気にするな、今を楽しんでこそアーカムの民だ」

「イギリス本土の奴ら、それを享楽主義者エピキュリアンと呼ぶ」

「享楽主義者、結構じゃないか」

「それで、ソイツから情報は掴めたか?」

 フランクは震えるだけの男を指差す。

 ここに連れてきたのだから、何かしらの情報はあったのであろう。そうでなければ、叩きのめされた男が気の毒にも程がある。

 ただサイファーのことだ。何の理由もなしに、口を噤む男を気が済むまで痛めつけただけかもしれない。彼なら、やりかねないのだ。

「ミスカトニック大学で教授を射殺して、ナコト写本を盗んだ下手人なら分かった。コイツはミスカトニック大学で警備の仕事をやっていたが、金を握らされて、下手人を招き入れたらしい」

「まさか……ベアトリクスか?」

「その通り、だよ。奴さん、専行が考古学だったらしい。なら後輩からナコト写本のことを聞いていても、全く不思議じゃあない。人脈は相当深いらしいからな。だがナコト写本でナニをする気だろうね?」

「リベンジだな。十中八九」

「モテる男はつらいぜ、泣けるぜ。カフェオレ一杯、いただこうか」

 昼下がりのアルカンシェルは十数人ほどの荒事屋の喧噪に包まれ、早朝の閑散とした空気が嘘のようだ。この時間から酒を飲む者もいれば、ランチに興じる者と、それぞれの楽しみ方を満喫している。

 その中で、たった一人で茶色の芳香を放つ、ほのかな甘みと苦み、そしてまろやかさを味わう巨漢は、瞳に憤りをたたえる。

 自分のお気に入りと言っていいのか、想いを抱いていると言っていいのか、説明する言葉がサイファーでは思い浮かばない。そんな複雑な感情を抱いている、あの美しき少女を、どこまでも苦しめるベアトリクス。

 殴り殺す。

 ──足りない。

 四肢を撃ち抜く。

 ──足りない。

 四肢を切り落とし、乳房を削ぎ落とす。

 ──足りない。

 この店にいる連中に声をかけて、輪姦する。

 ──足りない。

 鏖殺する。

 ──到底、足りはしない。

 気づかぬ内にカフェオレが空になっていた。

 店中の視線がサイファーに集まっている。込められている畏怖の感情に気付かないわけがなく、フランクでさえカウンターの下に手を伸ばしている。手には愛用としている放熱用のゴツいリブを取り付け、スラム・ファイアの機能を持った八ケージ散弾銃が握られているであろう。

 肩を竦めつつ、フランクが溜め息混じりに口を開く。

「少し抑えてくれ。お前の本気の殺気を浴びたら、下手するとショック死するぜ」

「悪い」

「それだけ大事に想っているのか? 最近囲った女を」

「ほっとけ。少なくともお前さんに冷やかされる覚えはないよ」

「会わせろ。一回だけでいい」

「ダメだ」

「俺とお前の仲だろう?」

「…………近い内に飲もうや。ベアトリクスの居場所の情報と引き替えに」

「交渉成立だな。フォーレンシルトの連中とヤリ合うときは言え。俺も加勢する」

 その申し出にサイファーは嗜虐的に微笑む。ニヤリとした笑みは、微笑みにあるはずの快さが皆無だ。十中八九、ヒドいことを考えているのだろう。

「たくさん呼べ。祭りは盛大な方が良い」

 この場で暴虐の限りを尽くす、破壊と混沌の宴の開始が、この瞬間に約束された。

 日がな力を振るう機会に餓え、抑圧された獣性を募らせる荒事屋。単身で軍隊の一個師団に匹敵するだけの者もいれば、常人より多少は出来る程度と、ピンからキリまで開きは多い。

 それでも驚異には違いない。過剰すぎるまでの暴力の技術武器と、根絶やしにするべき衝動の固まりが渦巻いている。それがアーカムだ。二〇世紀の世に生まれし、最悪の魔境なのだ。

 その証拠にアルカンシェルにいる荒事屋のほとんどが色めき立ち、店内に実在しない熱気が渦巻いていく。気温が十度は増したように感じた。

「さぁて。真っ青な空を夢想して、地上に目も暮れぬ大貴族様には、汚れた土と泥水にまみれてもらおうかね」

 サイファーは笑う。

 その表情は微笑みから、完全な笑みとなっている。

 狂笑とも言うべき、そんな笑み。フランクは目を逸らすしかない。

 直視に耐えうるものではないから。それを数秒も見ていれば、脳神経が灼き切れるような、確かな実感を感じたのだ。事実、そのあとに三日三晩もの間に渡って頭痛に悩まされた。

 完全にフォーレンシルト家は狙われている。

 内に秘める想いを向ける相手を苦しめた、その私怨の延長線上にあるような理由で、彼は多くの荒事屋を使って波乱を巻き起こそうとしている。

 何度でも言おう。理由はそれだけだ。

 ──そう、それだけ。

 ──ただ、それだけなのだ。

 それだけの理由で強大な力を持つ大貴族に、刃向かおうというのだ。

 無謀であるといえる。

 蛮勇ともいえる。

 本来であれば糾弾されるべき行いだ。

 しかし、それは彼を思いとどまらせる理由になり得ない。

 彼の力は甚大すぎる。策も、異能も、法も、倫理も、何もかもを吹き飛ばしかねない。そう、彼の力の前に、あらゆるものは意義を喪失する。

「居場所が割れたら言ってくれ。飛んでくる」

「…………本当に飛んでくるなよ?」

「気分次第だね、それは」

「享楽主義者め、って褒め言葉だな」

「アーカム限定だがな」

 席を立つと背中を見せたまま、手を振ってサイファーは帰っていく。

 吹き抜けていく風に、彼の橙色の髪が靡いて、ふわりと漂っていった。



 ◆◇◆◇◆◇◆



 ──ギュイン、ギュイン。

 ──ウィン、ウィン、ウィン。

 ──ギリ、ギリ、ギリ、ギリ。

 ピストンが動作を繰り返し、リンクカムとベアリングの間接が動き、歯車が唸りを上げて高速回転。それに混ざるのは純粋数式機関──緑鉱石と赫鉱石が生み出す、既存の物理にある熱でも光でも電気でもない、謎のエネルギーを発する──がブウゥゥゥンと獣の唸りにも似た、そんな音を立てる。

 音の集合体が聞こえてくるのは三メートルほどの人型。鋼鉄の鎧に覆われた、重厚なる人型の鉄塊から聞こえてくるのだ。

 元は人間だったのだろうか、呼吸でもするように身じろぎをしたり、T字の目出し部分がある細長い兜を指で掻いたりしていた。

 脳機関さえ超小型にして歯車式計算機など足元に及ばぬ、それほどの情報処理機関に大半を置き換えている。彼には戦い以外に出来ることはない。彼に出来るのは、腰にある長剣を振るって、各部に仕込まれた火器を以て、この世ならぬ惨劇を生み出すのみ。

 上層守護用機関兵士。一部の富裕層の生活を、文化の営みを守るために生み出された、狂気なる技術の結晶。その落とし子にして、被害者であった。彼に本来の生身の部分など、魂以外に存在しないのだから。

 それと引き替えに得たのは、数百キロに及ぶ重量の長剣を片手で一呼吸に三度は振り、現役で使われているカノン砲を無効化できる躯。そして容赦と手加減を省かれ、高度な計算で相手の動きを予測する戦闘用の頭脳。左手には最新式の軍艦さえ、五発で沈める旋条式迫撃砲が仕込まれている。

 意志のない彼の主人は、その肩に乗って、鮮血で描かれた円形と直線の図形の上。そこで苦しみ抜く男たちに嗜虐の笑みを向ける。

 それは冒涜的知識を持って行われる、外法の顕現を行う儀式。

 呼び出すは知能を与えられたが故に、その主人たる種族に反旗を翻した、頑強なる黒き不定の存在。この世にいてはならぬ、この世への否定。その外法の理は、この世の物理法則など意に介さない。

 主人の女の腕が彼に絡み付く。

 妖艶に、淫靡さを帯びて、冷たい鋼に巻き付いた。

 か細い指が、兜の目出しを部分をなぞって、撫で回す。 

「順調、そう極めて順調よ」

 膨れ上がる。膨らんでいく。大きくなる。

 成長していく黒い粘塊の生物は、男たちを飲み込んでいって、その速さを加速させていく。

 冒涜的としか言いようのない。一目見るだけで尋常には戻れない。それほどの光景を見て、女は平静を保っているように見える。

 だが彼女はすでに狂っていた。憎悪に身を焦がしたが故に、儀式を執り行う前から発狂していたのだ。

 それでも悪しき感情の炎が消えることはなく。

 彼への、サイファーへの憎悪を燃料に、強く、より強く燃え盛っていく。

「さぁ、アナタの番よ」

 女は鎧の彼から飛び降りると、その背中を押した。

 白銀の鎧、黒く焼かれた脚甲に覆われた、機械仕掛けの足が陣へと踏み出されていく。

 黒い不定形の固まりが、血管とも、植物の葉脈にも思える、奇怪な形を作り出しながら、金属の身体を侵す。

 白銀の鎧は黒く染まり、鉄の強靱さだけを残して、堅さを喪失して粘塊へと変わっていく。そう、黒く、黒く、染め上げられていく。柔らかく、柔らかく、作り替えられていく。

 鎧の腕が粘塊に沈んだとき、女も取り込もうと黒い触手が伸びた。

 女は微笑んで────それを受け入れた。

 仮足が女を引き込んだ。



 ◆◇◆◇◆◇◆



 帰宅して早々に香辛料のニオイが漂ってきた。

 寄り道に寄り道を重ねていたせいで、帰る頃には太陽はなくなって月が浮かんでいる。それもベアトリクスとフォーレンシルト大公家の情報を探っていたせいであった。

 カレー特有のものであると理解したとき、彼の内に住まう、もう一人のサイファー・アンダーソンは小躍りした。こっちの彼は表よりも素直でストレート故に、ひねくれる時など欠片も存在しない。そもそも表にはでない心中のことだから、察することが出来るのは当人だけだ。

 聞き慣れた女の声と、最近になって住まわせた女の声。そして太い男の声が聞こえてきたあたりで、思い切り複雑な表情をした。嬉しさとやるせなさの混ぜものブレンド、喜ばしくもないものであった。

 リビングに出た瞬間に銀色の閃光が飛び、それはサイファーへと突き刺さった────ように見えたが、手投げナイフは前歯で噛み咥えられて止められていた。

「なんだってんだよ、ヘンリエッタ?」

「フレデリカに手を出してはいないな?」

「出してるわけないだろ。ロリコンの気はないと自負してるよ、そ、僕は真っ当だから」

「どの口が言うんだ」

 手投げナイフを投げつけた不届きな麗人、ヘンリエッタは少しだけ肩を竦めた。

 サイファーは真っ当ではない。色々なところで滅茶苦茶で、しっちゃかめっちゃかで、支離滅裂な男なのだ。要約するとキチガイ。溢れ出る力のままに、大雑把に、大味に、享楽刹那に生きる。彼はそういう男なのだった。

 そんな彼でも成人に達していない女性に手を出す。そんな趣味は持ち合わせていないらしい。それより上なら三桁は余裕でいるが。

 ふとフレデリカの方を見ると、彼女は不服そうな、口惜しいような、実に残念そうな顔をしている。だが、すぐに立ち直ったように顔を上げて、目の前の鍋をかき回し始めた。

 この今時の思考回路を持ち合わせているだろう、この二十歳を超えているくせに十代後半の姿をした、見た目だけなら十分に少女の女が何を考えているのか。サイファーには理解できない永遠の命題だ。そもそも女心というものを欠片も理解したことがあったか。

 彼は自分の内に数日前から渦巻くようになった、懸想にも似た想いを見極める必要があるのを自覚している。今までのように、その場の勢いで甘言で誘って、そして手に入れても彼女が傷つく。何となくだが分かるのだ。彼女は聡明で、今までの女にはいないほどに賢いのだから。

「どうした? えらく顔が冴えてねえ」

「自分の新たな性癖に気付きそうになって、半ば自己嫌悪なんだよ」

「らしくねえ」

 夕食前にもかかわらずスタウトを飲み干す、浅黒い毛のない頭の男。フランクは最近になってアーカムで新しく発明された、石油由来の化学繊維製のベストにチノパンであった。

 飲食店の店主としての顔はなく、サイファーの友人としての顔だ。

 傍らにいるヘンリエッタも頬が桃色。一杯ぐらいは付き合ったのかもしれないが、フレデリカだけは変わらぬ白い顔。どうやら素面らしい。

「できましたよ。いっぱい作ったので、たくさん食べてください」

「おおー!」

 いつものようにソファーにドシンと音を立てて座った、二メートルを超える巨躯が思い切り乗り出された。

 ヨークシャー・プディング、ミートパイ、スパゲティ・ナポリタン、鴨のソテー、キャベツとレタスにトマトとオリーブのサラダ、そしてメインを飾る大鍋のカレー。あまり知られていないことだがイギリス人はカレーを好む。というよりカレーは世界規模で込まれることの多い料理だと、サイファーは経験で知っている。

 フランクからスタウトの注がれたグラスを渡され、ヨークシャー・プディングにカレーを乗せて一口で食べる。気づかぬ内にウマいと叫んでいた。三人がクスクス笑って、彼の方を見ていた。

「悪いか?」

 ドスの利いた声だ。

 泣く子も黙るどころか、舌を噛みきる。そう断言できるほどに恐ろしいものであった。それを無意識で出してしまうあたり、どこかしら壊れているのではなかろうか。

 それでもヘンリエッタとフランクは気にした素振りもない。慣れているのだ。この程度の殺気は。鉄火場にいる彼の殺気は、この比ではないのだ。

「いいや」

「美味しいものを美味しいと言っても、悪く思う人間はいないよ」

「そうだな。スマン、悪かったよ」

「ああ、ちょっと声が大きすぎただけなんだ」

「なんか引っかかる物言いだなァ? ん?」

 彼は笑っている。口角が上がって、目尻が下がっている。だが目が笑っていない。銀灰色の双眸には、笑顔では絶対にあり得ないような危険すぎる光が宿っていたのだから。

 それをこの場にいる人間の中で、一番小さな手が止めた。一番大きなサイファーの手を握って、その手を両手で包み込んで。

「その……ことあるごとに喧嘩をするのは、私はいけないと思います」

 一瞬だけ、ほんの僅かに一瞬だけ、不服そうな顔をするとスタウトを一気飲みした。整った歯列が覗く口を、でかでかと開けてサイファーは息を吐いた。

「そりゃそうだな。でも、まぁ、七割は冗談だよ」

「聞くのが怖いけれど…………残りの三割は?」

「二度とナメた口をきけないようにしてやろうかと思う、そんな感じの本気だよ」

「本気なんですか!?」

「悪いか?」

 先ほどとは違う声。爽やかな声だった。声に見合う程度に微笑んでいるが、目がどう見ても笑っていないのだ。その笑っていない目に残りの三割を強く感じてしまう。

「でも……私の前でそういうことは、冗談でもやめてください」

「本気ならいいのか?」

「ほ、ほほ本気なんて、もっとダメです! ゆ、許しませんから!」

「そんなに顔真っ赤にして怒るもんじゃねえよ。可愛いじゃねえか」

「…………からかってます?」

 じっとりとした半開きの目で見据えた。マニアでニッチな層であれば、両手を上げて喜ぶだろう。

「うん」

 サイファーは躊躇いもなしに首を縦に振った。気持ちよいと思えるほどに、潔く認めた。

「…………あっ」

 フレデリカの顔が茹で蛸になっていく。面白いくらいに真っ赤だ。と思っているや、クラレットのボトルを握るや、グラスになみなみと注いで一気に飲み干した。酒の赤も混じって、頭を揺らして倒れ込んだ。

 ヘンリエッタが慌てて抱き止めた。フレデリカの目は虚ろで、口が半開きなのがどうにも淫猥に見える。意識しなくても、男性であれば、そう見えてしまう。悲しいかな、男の性であった。

 虹彩異色の虚ろな双眸が、じっとサイファーを見る。

 思わず身構えてしまった。相手はアーカムの一区画を仕切るギャングの親玉でも、泣く子も黙る上層守護騎士でもないのに。

「…………あなたの、せいなんですから、ねぇ?」

「はい?」

 間抜けな声が出た。それはサイファーから。

 艶めかしい声が出た。それはフレデリカから。

 フランクとヘンリエッタは何も言わない。どうやら傍観に徹することにしたらしい。それがサイファーにとって、面白くないことを生み出すのだ。

「あなたが、私をからかうから、お酒に逃げちゃったじゃないですかぁ」

「とりあえず水飲むか?」

「いりません!」

「うおっ」

 巨体がソファーの上に倒れ込んだ。それをやったのが一六〇センチに満たない、か細く、繊細という表現の似合う、そんな少女とはにわかには信じがたい。だが事実だ。

「……バグしてください」

「お前さんは何を言ってるんだ」

「一緒に寝た日みたいに、ギュッとしてください」

「聞き捨てならないことを聞いた気がするが?」

「笑顔で見逃してくれ」

 ヘンリエッタから冷ややか極まりない視線が飛んできた上に、腰のあたりにフレデリカが馬乗りの現状は、いささか処理しきれない。

 おまけに腰の上、本当に言ってしまえば股間の上にフレデリカが陣取っているのは、非常にマズい事態だ。性欲を起因とする男性の生理現象が起ころうものなら、酒で暴走状態の彼女が何をしでかすかは、未知数なのだから。

「バグしてくれないなら、いっそのこと、私から……」

 華奢でありながら、豊満なものを胸に二つ付けた身体が、ベッドにでも飛び込むように倒れ込んできた。否が応でも感じてしまうのは女性特有の芳香と、押し付けられている柔らかな肉の感触。実に甘美としか言いようがない。

 これで何も感じなければ男として失格だ。あるいはゲイの烙印を押されかねない。

「んん~、あなたが懲りるか、私が満足するまで、放す気、ないですよ」

「放してくれ、放してください、放せ」

「ダメです。そんなこと言うなら…………」

 おもむろに黄金とアイオライトの双眸が、シャツ一枚で隔てられた胸板に埋まる。香りと柔らかさ、それらに加えて息遣いまで追加された。

「どうですかぁ? ドキドキしますか?」

「…………する」

 消え入りそうな声だったが、確かに彼は言った。

 そう確かに言った。それをフレデリカが聞き逃すわけはなかった。

 そのか細い白魚めいた指先が、シャツ一枚隔てた胸板を滑る。

「ムラムラ~って、しますか?」

 危うく首を縦に振りかけた。

 振っていたら、確実に何かが終わっていた。絶対に。

 それは社会的地位かもしれないし、それは彼の自信の人格かもしれない。

 前者はともかくとして、後者に関しては救いようがないと、サイファーは自覚している。

 これで危うくなるのは、はっきり言ってしまえば性癖の面だ。

 少女性愛の烙印を押されてしまったら、きっと死にたくなってしまう。

 しかし、だがしかし。

 目の前にいる少女の見た目を持つ女。その瞳は見た目相応の輝きでありながら、年相応の色を宿していた。

 そこから互いの胸が接している部分に視線を移す。メロンを彷彿とさせる二つの柔らかで、それでいながら形をはっきりと保っている肉の果実。

 服を押し上げる膨らみが、サイファーの胸板で形が変えられている。

 それと同時に否が応でも感じざるを得ない柔らかい感触。男であれば一生に一度は味わいたいと考える、甘美な肉の感触がサイファーの胸板に伝わっている。

「答えて下さい。潔く、迷いなく、酔いを醒ますくらいに、はっきりと答えて下さい」

「そうだな…………」

 酒によって朱に染まった頬に、恥じらいの紅が加わっている。

 もしかすると、もう酔いが醒めてきたのか。酔いやすく醒めやすい、フレデリカはそういう人間かもしれない。

 銀灰色の双眸に、黄金とアイオライトの虹彩異色が移る。

 サイファーの唇が動く。

 それはフレデリカの頬へ、そっと口付けてから。

「異性として刺激されるね、襲いたいくらい」

「………………はい?」

 一から百まで疑問のみの「はい?」は小首を傾げる動作も添えて、サイファーとフランクとヘンリエッタの耳朶を打った。

 か細く白い人差し指が唇に添えられたのを皮切りに、端正白皙の美貌はクラレットを起因としない羞恥の赤に染まっていった。

「も、ももももう! ね、寝ます!」

「一緒に寝るか?」

「い、一緒に、ね、寝るなんて、そんなこと、す、するわ、わわわわわぅ!」

 追い打ちの言葉に張り倒されたように。

 一種、滑稽とも言える動き。犬のように「わぅ!」と言って盛大に尻餅をついた。

 そのまま振り返りもせずに転がるように去っていった。

 嗜好次第では愛らしく思えてくるような。お淑やかさとは無縁の振る舞い、と言うよりは醜態だが。

 その一部始終を温かい目と、微笑みを浮かべて見送ったフレデリカ以外の三人は向き直って表情を固くする。

 今までのどんちゃん騒ぎはどこへやら。

 そんな感想を禁じ得ない。

「なんでお前さん方は僕んチにいるの? まぁ、合い鍵は渡してあるけど」

「ベアトリクスの居場所が掴めた。第十二層の二十三区画で目撃情報があった」

「かと言って、おいそれとは踏み込めないんだ。フォーレンシルトの私兵が、あの一帯を駐屯地にしている。おまけに…………幻想生物をナコト写本で呼び出した」

 幻想生物グリム・クリーチャー

 このウルベスが入植されたのを皮切りに現れた、御伽噺の存在、冒涜の神話の存在、人知の及ばぬ存在をひっくるめた呼称だ。

 幻想生物の戦闘力は大型の機関兵器に匹敵する。

 そんな彼らが人に領域に手を出してくることは、結構な割合であることだ。

 そういった事件があればイギリス本国の出向政府組織であるアーカム統治局の、治安管理部あたりから討伐か撃退の任が出る。

 報酬を出すのは政府という公共機関であるために、荒事屋にとっては実入りも相当に良い。少なくともギャングの抗争や、殺し屋まがいの仕事、破壊工作よりはずっと良いのだ。

 それを呼び出したということは、並の荒事屋であれば鏖殺できるだけの力を得たという証拠なのだ。

 御せるか、御せないかは、ほんの些細な問題なのだ。

 そこにいるだけで、重火器で武装した荒事屋数十人を超える驚異なのだ。そういう存在なのだ。幻想生物、とは。

「第十二層の荒事屋に声かけろ。フォーレンシルトと幻想生物の二つと戦争だ、とでも言っておけば来る奴は来る」

「こりゃ久し振りにデカい事件になりそうだ」

「一般人の避難誘導、都市修復機構の使用申請、終わった後のことも考えないと」

「ヘンリエッタ、東洋の諺だと、未来のこと言うと鬼が笑うそうだ」

「そりゃ来年のことだろ。あと後片づけのことを考えるのは大事なことだぞ」

「それもそうだな。言い出しっぺの法則だ。ヘンリエッタに一任しよう。特別手当もつけておいてやるからさ」

「なら解散するべきだろうな。今日のところは」

 ヘンリエッタが立ち上がる。

「俺もそうするとしよう。ヘンリエッタ、送っていくぜ」

「やるねぇ、送り狼」

「殺すぞ」

 はにかんだ冗談混じりの言葉をサイファーに向けて、二人そろって帰って行った。

 その後ろ姿はどう見ても深い仲の男女に見えなくもない。もしかすると本当にそうなるのかも、などとサイファーは思ってしまう。

 妄想がすぎたな。頭を振って数十秒前まで思い浮かべていたことを、忘却の彼方へと追放した。あのまま続けていれば精神衛生上良くないものが生まれたかもしれない。

「あの二人じゃ見かけは美女と野獣だけど、中身で考えるとどっちも野獣だよな」

 一人、ソファーの真ん中でうんうんと頷いて、軽くシャワーを浴びる。

 一日を終えるために眠りにつくには、シャワーを浴びたり、湯を張った浴槽に浸かるなど、何かしらで身体の汚れや汗を疲れと一緒に流したいのだ。

 サイファー・アンダーソンの日常の一幕である。

 それを終えてから頭の水気をとって、寝室へと向かったのだが。

「おいおい、どういうことですかねぇ…………?」

 キングサイズのベッド、その真ん中が人がいるように膨らんでいる。布団からは淡い金髪が覗いている。

 さらにクローゼットを開けてみると、先ほどまで見ていた女物のドレスが整って収められている。

 英国淑女を心掛けているにしては変な部分が抜けている、と胸中で愚痴りながら布団に手をかけた。

「フレデリカ…………まったく」

 ゆったりと布団をめくってみる。そして一瞬で戻した。

 いつもの自分なら、じっくり見つめている。

 そういう光景があったのにも関わらず、目を離してしまうとは自分らしくないと、戒めになっていない戒めをする。

 どうにもフレデリカと出会ってから、どうにも調子が狂って仕方がない。

「下着とフルスリップだけ…………しかもズロースじゃなくパンティとはハイレベルにもほどがある」

 体を丸めて眠っている、その体の曲線に下着のラインが浮き出ている。そのために分かってしまった上に、本音を言うならじっくりと見ておきたいほどの美貌だ。

 しかも浮き出たラインから察するに、最近になってアーカムで流行りだした布面積が少ないもの。

 お淑やかな彼女はイギリス本国で広く着用されている、無難なズロースだと思っていたために意表を突かれた形になった。

「一思いに襲ってやろうかね…………?」

 そう言っておきながら優しく彼女の体を揺する。

 ん、と声を漏らした。

 やや艶っぽい色を含んだ、そんな声だった。

 こういった部分を見てしまうと、フレデリカも見た目とは違って喫煙も飲酒も許された大人だと改めて思ってしまう。

「あれ? なんで、サイファーさんが私の部屋に……?」

 寝ぼけ眼を擦りながら、とろんとした瞳がサイファーを見つめる。

 ほんの少し甘言をささやいてしまえばベッドインまで漕ぎ着けられる。

 そう思ってしまうほどに無防備だった。

 ため息をついてからサイファーは告げた。

「ここは僕の部屋なんだけど?」

「え?」

 はっとした様子でキョロキョロと自分のいるベッドと、その周りの家具や調度品を認めたとき、あわてて這い出てきた。

 その様が寝室に向かったときの再臨であった。

 慌てているときは見た目相応なのがサイファーにとっては愛らしいところだった。

「ま、話があるからちょうど良かったけど、さ」

「お話、ですか?」

「そ、お話だよ」

 巨体がベッドに座り込んだ。そのせいで盛大にスプリングが軋む。

 大きな手が隣を叩いた。それだけでもスプリングは軋む。

 フレデリカが叩かれた場所に座る。ベッドが沈むだけしか変化はない。

 金とアイオライトの虹彩異色が、銀灰色の双眸を映す。

 行儀良く両手は重ねて膝の上。足もそろえて。実に模範的な座り方であった。

 きっと誰もが羨み、そして真似するであろう、それほどに様になって美しい座り方。

 対する彼は豪快さを表すかのような、足を広げた座り方。しかし不思議と違和感というものはなく、むしろ自然であるかのように思えてくる。

「前にウェイトレスの仕事を紹介しただろ?」

「次の職場のことですよね? 何から何までお世話になってしまって、迷惑ですよね」

「いいよ、僕がやりたくてやっているんだから。それのことなんだが、今日ウチに来たフランクって黒人が、職場の店主なんだ。悪いやつじゃない…………まぁ、やんちゃしてた時はあったけど、仲良くしてやってくれ。少なくとも話は通じるヤツだ」

「…………それだけでは、ないですよね?」

 こちらを見上げる真剣な瞳に誤魔化せないと察した。

 かつて自分のそばに寄り添っていた女たちもそうだ。

 荒事屋でもないくせに、やたらと勘がいい。隠し事の一つや二つ、それも命の危険があるような仕事のことなどは、すぐにバレる。

 そうしてお決まりのセリフを吐く。

 "行かないで"、"一人にしないで"。

 決まってそうなのだ。戦いの場でのみ生きる実感を得ていると言っても、全くの過言でも言葉遊びでもないサイファーにとって、正直にはっきりと言ってしまえば非常に煩わしい。

「ベアトリクスと、その実家の私兵連中とケリをつける。この第十二層のほとんどが戦場になるから、荒事屋仲間が避難を呼びかけたら、おとなしく従え。命が惜しいならな」

 ──さぁ、なんて言うかな?

 ほくそ笑んだ彼の顔は、すぐに面食らったようになる。

「…………止めても行くんでしょう? なら私は見送るだけです」

「あ……その、なんだ。お前さん……」

 その先を止めるように触れた指。

 フレデリカの人差し指がサイファーの唇を押さえる。

 諭すように。その先はいらないと言うように。分かっていると示すように。

 唇を押さえる指は、そう主張している。

「心配してない、と言ったら嘘なんです」

「だったら…………」

「でも、信じていますから。必ず帰ってくると、そう信じていますから。だから信じて、私は背中を押すだけです」

 きっと彼女はお決まりのセリフを言いたいのだ。

 だがそれを押さえつける。

 口を真一文字にして。

 閉口するのだ。彼を信じるために。

「悪くないね。そうやって女から信頼されるのも」

「信じることも、一つの愛情ですよ」

「愛情?」

 からかうような笑みをサイファーが浮かべたのを見て、しまったと思った。

 こうなってしまうと顔が見れなくなるまで、きっと弄り倒してくるのだろう。短い間でも分かった、彼の一面の一つであった。

「あの、あなたが思い浮かべているのとは違います。私が言っているのは友達の間、つまりは親愛といえるもので……」

「それだったら言い直す必要はないんじゃないか?」

「言っておかないと、またあなたは私をからかいます」

「だって弄り概のある、珍しいだもの」

「わざとやってますか?」

「うん、だって可愛いもの」

 何も言うことなく、ため息だけ。

 そして半目になって見つめてきた。

「いつか痛い目見ますよ」

「注意しておくよ、優秀な才女の貴重な忠告だからな。さて、そろそろ部屋に戻って寝るといい」

 それをフレデリカは良しとしなかった。

 ぐいっとサイファーの袖を引いた。

 何を言いたいのかも分かった。何を望んでいるのかも。

 それは両手の指では数え切れないほどの、女との付き合いが為し得た。

「僕でいいの?」

「私は言いましたよ?」


 ──信じていますから、と。

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