見舞いはふれあいを伴って

 綺麗な天井だ。

 目覚めたフレデリカが初っ端から抱いた感想だ。記憶を整理する前に、自分の左横でリンゴとナイフを持って、皮むきに苦戦中のサイファーが映る。テンガロンハットとロングコートは脱いでおり、汚れていない白いシャツとブルージーンズに、白い革製のシャップスだ。

 面白いことにフレデリカが目覚めたことにも気づかず、時折「痛い」とか「いてぇ」と呻いているのが、妙に笑いを誘う。ナイフで幾度も手を切っているらしい。

 倉庫での活躍が嘘のようで、リンゴの皮むき一つ出来ない人間くさい不器用さと、荒事となったときの超然とした活躍のギャップに、人って本当に不思議だ。と改めて認識する。

 ンオ、と声を上げてサイファーが気付いた。体を起こそうとするフレデリカを止めると、左腕を指さした。

 包帯とギプスでガチガチに固められている。黒人の男によって与えられた傷の一つだ。その後に因果応報という言葉を思い出させるように、ヘンリエッタによって冷たい彫像にされた男。傷は今までで一番重いように感じる。大学時代は骨折までいかなかったが、全身打撲なのは共通項であった。

「意識を失ってから、今日で二日目だ。腹は減ってないか? 今リンゴを剥いてんだけど、なかなか難しいな」

 手つきを見てみると初心者にありがちな、刃物を動かして切ろうとしているわけではない。リンゴを動かして剥こうとしてはいるが、皮が短く落ちたり、手を切ったりしている。本当に皮むきが苦手らしい。これは真正のものだ。

「あ……できたら、お願いしま…………あ!」

 思わず顔に手を当てた。身体が吹っ飛ぶほどに殴られ、蹴られたのだから、きっと酷いことになっているはずだ。それを異性に見られるのは、どうしても避けたかったが、眼前に手鏡を差し出されて、思わず目を剥いてしまった。

「傷の治りが随分早いって、医者も驚いていたよ。左手のギプスは三日もあれば治るって、そういう診断だ」

 思わずハッとなって、サイファーから顔を背けた。

 涙が目尻に浮かんだ。安堵ではない。恐れからくるものだ。秘密にしていたことがバレてしまった、という恐れからの。

 大学時代に初めて受けた暴行以来、フレデリカの治癒速度は異常であった。というより再生能力の域に達していると言った方が正確だ。

 何しろ折れた歯が元通りになっているのだから、この事に気づいた当初はバレないように必死だった。

 恐れる理由は両親の冷遇を思い出すからだ。フレデリカの両親は、彼女を何か化け物でも見るような目で、左右で色の違う双眸と目が合わないように、そうやって接してきた。きっと知られてしまったら、その人間も同じような反応を返すだろう。

 どういうわけか、自分を二度救った彼に、この事は知られたくなかった。

 サイファーから放たれる言葉に、戦々恐々としていると、何も言わずに彼は紺色のハンカチを持って涙を拭った。

「何も泣くこたぁないだろ。考えようによっちゃあ、医者いらずじゃねえか。お前さん、顔形は綺麗だし、可愛いって太鼓判押せるぐらいだから、もっと笑えばいい」

「でも」

「いいから笑え。極東には笑う角には福来る、なんて諺があるんだ。早起きは三文の得と併用すれば、幸せが五割り増しになる」

「眉唾では?」

「極東にいるマフィアの友人の受け売りだ。騙されたと思ってやればいい。そもそも再生能力なんざ、僕だって持ってる」

 サイファーの言ってることは真実なのか、それとも励ますための方便か。

「だいたい、あんな弾丸の嵐で一発も食らわねえわけねぇだろ」

「確かに言われてみれば、そうですけど…………」

「だからな、あまり気にするんじゃねえ。少なくとも僕は気にしないからさ」

 そう言ってからリンゴの皮むきに戻る。さんざん手を切っているのに、血が一滴も付いていないのも、おそらくは再生能力の影響なのだろうか。

 だが、再生能力が励ましの嘘であっても、フレデリカにとっては嬉しいものであった。ここ最近は辛いことが連続したせいか、人の優しさが心身に染み渡るのだろう。

 だから口が滑ったのかもしれない。

「優しい人なんですね、あなたは」

「ンだとォ!? もう一度言ってみろォ!」

「え、ええ、えええ!?」

「二度と僕に優しいと言うんじゃねえぞォ?」

 先ほどまで不敵と穏和のブレンドのような笑みを浮かべていたのが、一瞬にして烈火のごとき怒りの表情へ変わった。

 何とも変わりやすい表情は、フレデリカの脳裏に百面相という言葉を浮かべたが、瞬時にサイファーの地雷をいつ踏んだのか思い出そうとする。だが知り合って二回目に会う相手の地雷など、さすがの彼女でも導き出すにはハードルが高すぎた。

 だが理由は斜め上どころか、垂直上昇ものだった。

「こっちはやり方が残虐非道なことで通してんだから、優しいとか噂が立ったらナメられちまうよ…………」

 そっぽを向いて愚痴った言葉が、あまりにも意外な理由の吐露に、フレデリカの琴線に触れたらしい。

「…………フフッ」

「何笑ってんだァ!? って笑った顔メチャクチャ可愛いな……」

「ちょっと……可愛い理由だと思ってしまって、すいません」

 サイファーは沈黙した。というより微動だにしないという有様で、ナイフが手から落っこちたが、拾おうとする気配がない。まるで氷漬けにでもされたようだ。

 そこにヘンリエッタが現れた。と同時に部屋の状況に、面食らってしまっている。

 ここでサイファーが解凍された。

「ヘンリエッタ……この子、絶対大物になるわ。断言できるぜ…………」

「へ? いったい何のことだい?」

「僕に優しいどころか、可愛いまで言いやがるなんて…………あーもー、なんかむず痒くなってきた」

「照れて…………いるんですか?」

 一瞬だけ光どころか、時間概念さえ超越したような、気づいたらこっちを見ていたというレベルの速さで、フレデリカの方を向いて、

「悪いかよォゴラァ!」

「ひっ」

「うわっ」

 古今東西、驚いて飛び上がるようなことはあっても、怒鳴り声で人間を物理的に飛び上がらせるなど、百年に一度あるかどうか、そのレベルだった。

 頭をかきむしると、橙色に近い髪が乱れていく。サイファーの髪はテンガロンハットとロングコートで分からなかったが、肩甲骨に届くぐらいには長い。

「身長二メートル超えの男が照れるなんて、一体誰得なんだか」

 肩をすくめてヘンリエッタが呟くと、恨みたっぷりの視線をサイファーは向けた。

「減給すんぞ」

「申し訳ありませんでした」

「よろしい」

 茶番めいたやりとりだが、気心知れているが故に出来ることだろう。

 だがフレデリカは心配になって、ヘンリエッタの袖を引くと、

「アレは七割冗談だよ」

 と小声で返したが、残りの三割は本気なのか。

 言わずに飲み込んでおいたのは野暮なのを感じたのが四割、残りは突っ込んではいけないようなものを感じたからか。二つとも同じような気がしたが、気にせず放っておくことにする。

「さて茶番は終いだ。まずは自己紹介から、僕はサイファー・アンダーソン。実力行使請負業『Call of Cthulfu』の社長だ」

「はじめまして、フレデリカ・エインズワースといいます」

「次に状況を説明すると、あの倉庫で君はブッ倒れたから、かかりつけの医者の所に運び込んで、処置してもらった後、僕の家に運び込ませてもらった。何か質問は?」

 質問は一つあった。

「なぜ、あなたの家に?」

「荒事屋は方々から恨みを買っているからな。病院とかで、こういう話は出来ねえんだ。誰が聞いてるか分からねえし、医者だって金欲しさに患者の情報を売るからな」

 サイファーの言ったことはメチャクチャなようで、アーカムなら誰もが心得ていることだ。他人をホイホイ信用しようものなら、骨の髄までしゃぶり尽くされて、何も残らない。

「んでもって、君には身の振り方を考えて欲しい」

 人差し指を立てて、巨漢が迫った。銀灰色の瞳が、心の奥底まで射抜くようで、だが目を逸らしたくても出来ない。

 ぞっとするような声で、ぴしゃりと告げた。

「一つは僕らの元で事務員及び雑用として働く。待遇は全力で良くしよう。働きによっちゃ昇給も考えるし、衣食住には困らないようにする。だが荒事屋に関わるということになるから、命を狙われることは覚悟しておけ」

 次に人差し指をそのままに、中指を立てた。その時までが、もどかしく感じて不快感にも似た、落ち着かない感覚が渦巻いた。

 サイファーの表情は穏やかなもので、口元に笑みまで浮かんでる。それも戦闘の際に浮かべる不敵なものではない、相手の緊張を解きほぐそうとするものであった。

「もう一つは僕が斡旋したレストランのウェイトレスとして、今までの日常通りに暮らしていく。こっちも衣食住には困らないようにするし、店長も良い人間だからな。僕としては、こっちをオススメするぜ」

 腕組みをしてサイファーがフレデリカを見据える。

 ヘンリエッタも何とも言い難い顔をして、彼女を拒むような意志が見て取れる。

 二人ともフレデリカを自分達の世界に引き込みたくないのだろう。日の当たる場所を歩いて欲しい、そう目が訴えている。

「それでは…………ウェイトレスの方向で考えさせてもらいます」

「そう……なら良いさ。これも人生の選択だよ」

 一瞬だけ逃した魚は大きいという状況に浮かべるような顔をしたが、あまり気にした様子はない。ヘンリエッタも安堵の表情をしている。フレデリカは争いの世界にいるには、弱すぎて、優しすぎた。銃を持たせても威嚇射撃さえ、ままならないのだから。

「何かあったら、コレに連絡しろ」

 手渡されたのは電話番号の書かれたメモ。

 震える右手で受け取ってから、これからのことを考えると目が回りそうだ。

 きっとベアトリクスは諦めていない。その確信が胸の内に鈍痛となって、ぐるぐると、巡り巡って気分を静めていく。

 近い内に再度の襲撃を受けようものなら、きっと心は砕け散ってしまう。大学時代に受けた不可逆の傷は、きっとフレデリカが考えてるよりも、ずっと深いのだから。

「もしかしたら、また、お世話になるかもしれません」

「だろうな。あのアマがアレで諦めるようなタマじゃねえ。もしそうだったら、今回のことだって起こらなかったはずだ」

「…………なんで」

 心の奥底に秘めていた、やりきれない想いが、堰を切って溢れ出そうとしている。

 止められない。止められるわけがない。

 一度でも起こった激流は、水が無くなるまで止まることを知らないのだから。

 それは今のフレデリカも同じことだった。

「……なんで、私ばっかり……こんな目に遭うの? 普通に、暮らしていた……だけなのに」

 感情の激流が渦を巻いて、涙とともに止めどなく流れ出ていく。

 口を押さえても嗚咽が隙間から漏れ出て、布団に数センチほどのシミがぽつぽつと出来上がっていく。

 止められない。止まらない。枯れるまで、出続けるだけなのだから。

 俯いたまま、自由に動く右手で布団を握りしめる。

 そこに温もりが覆い被さって、じんわりとした温もりを伝えてきた。

「誰だって、一度はそう思うときがある。お前さんみたく、自分の境遇だったり、他のヤツらだと生まれとか、性別でも『なんで自分が』という風に悩む。でも、それは天災のようなもんだ。やってきたら巻き込まれるしかない。変えようがないのさ」

「それじゃ……私は、どうした、ら、いいんですか……?」

「泣けばいい、胸ぐらいなら貸してやる」

「それじゃ……もっと寄ってください」

 何も言わずにサイファーは椅子から身を乗り出し、フレデリカに身を寄せた。

 豪壮な筋肉を包み隠す、純白のシャツに淡い金色が埋まった。

 部屋中に嗚咽と鳴き声が響いていた。



 ◇◆◇◆◇



 本日二度目の起床をフレデリカは迎えた。

 目覚めて早々にサイファーが言った「泣けばいい」の一言がフラッシュバックして、顔に熱が集まる感覚を覚えた。

 十中八九、泣き疲れて、そのまま寝入ってしまったのだろう。心のつっかえは取れたかもしれないが、何か大事なものを捨てたようで、いたたまれない気持ちになった。

 のろのろと起きあがってベッドから抜け出すと、ガクッとよろめいた。丸一日は眠りっぱなしだったそうで、不用意に歩き出せばバランスを崩すのも自明の理であろう。左腕が自由でないのも追加事項か。

 ベッドのすぐ側に愛用の編み上げブーツが置いてあった。衣服は倉庫にいたときのものから、グレーがかかったネグリジェに変えられている。

 窓の外をのぞき込むと、日は完全に沈んでおり、夜の帳が降りたばかりであった。

 ブーツを履いて壁に手を着きつつ、足取りをしっかりと保つように歩いていく。足腰が立たないばかりというのに、ルームシューズの一つもないのは恨みたいが、ここは他人の家である上に、置いてもらってるだけ有り難いと思うべきだろう。

 リビングのドアを開けると妙なニオイがした。微妙に違う部分はあれど、これは煙草のニオイだ。祖父も吸っていたから、特有のニオイには敏感に反応するものだ。フレデリカ自身、吸わない人間であるからか。

 三人掛けぐらいの大きなソファーに座っていたサイファーが、葉巻片手にこちらを向いた。体が大きなせいか、ソファーが二人掛けに思えてくる。

「ンア、別に寝てても良かったんだけど」

「なんか……目が冴えてしまって」

「そうだろうな、あんなことがあったんだ。眠れなくなるのも納得だ。おまけに丸一日寝込んでいたしな。腹は減ってないか?」

「あ……その、空いてはいますけど」

「なら食いに行こう。着替えはヘンリエッタが、お前さんの家から持ってきた。寝てた部屋においてあったはずだが」

「わ、分かりました」

 部屋に戻ってみれば、黒檀であろうチェストの上に膨らみきった紙袋が鎮座している。本当にお世話になってばっかり、と思って中を覗く。

 普段着として買ったブルーのドレス。パフスリーブで中流階級の身が着るには妥当なデザインと価格、そして逆V字に切られたスカートから、裾にレースをあしらって青薔薇の模様を施した中着のスカートが覗くデザインがお気に入りであった。

 いそいそと着込んで、ブラウスに赤のリボンタイを締める。

 部屋の姿見で確認をしてみると、人前には出れる格好だった。少し瞼が腫れているのが気がかりだったが、帽子か何かで目元を隠しておけば問題ないと判断した。

 あとは最近になって寒くなってきたので、防寒としてショールを巻いておけば大丈夫であろう。幸いにもショールも紙袋の中に入っていた。ヘンリエッタのチョイスに心から感謝した。

 リビングに戻ってみるとサイファーの姿はない。ソファーに座っていた、彼の大きな姿に面食らって、細かい部分が分からないリビングだが、派手な内装だった。

 壁紙が茶色で幾何学模様のようだったり、ゴツい角が生えた牛に見える動物の骨が飾ってあったり、壁に拳銃やらウィンチェスター・ライフルが鎮座している。こんな空間で落ち着ける人間はサイファーだけだろう。

「戻れるかな……?」

 呟いたのは不安からなる一言。

 きっと非常識とも言える内装を見てしまったせいで、また溜め込んでいたものが堰を切ったのか。

 ウェイトレスとして当面は生きていくことを決めたが、個人の選択だけで日常に戻れる日は来るのか。どのみち命を狙われるのなら、荒事屋の片棒を担いだ方がマシなのかもしれない。

 だけどフレデリカの根本的な部分、魂というべきものが戦いを拒む。その板挟みになって、彼女は道を決めあぐねた。最終的には杞憂な問題だと一蹴して、ソファーに座ってサイファーを待った。

「待たせたな」

 振り向いて────そして固まった。

「ンン、変か?」

「いえ、似合っています、とっても」

 グレーのスリーピースに、深緑色をしたダブルブレストのコートを羽織っていたサイファーは、荒事屋だとは思えないほどの品性があった。

 コートと同じ色のソフト帽をかぶって、割と長い髪は髪紐で束ねている。それだけでも十分に様変わりするものだった。

「お手をどうぞ」

 差し出された、白い手袋に包まれた、大きな手を差し出されて。どうすればいいのか、フレデリカは迷いに迷ったが、手を取りやすいように屈んでくれてもいる、サイファーの厚意に甘えることにした。

 体格差は大きかったが、エスコートは手慣れていた。歩調を彼女に合わせて、半歩先を行ってくれる。あらかじめ呼んでおいたのか、止まっていたガーニーのドアも開けてくれた。

 並んで座った車内で、フレデリカは訳も分からず、妙に緊張してしまっている。右隣に座っているサイファーの存在が気になって、横目でチラチラ見てしまったが、気づく様子はない。もしくは気づいている上で何も言わないのか。

「ディナーは期待してくれていい」

「おいしいところ、なんですか?」

「ンンー、隠れた名店と言うべきか。ヘンリエッタから聞いたが、あの元々の家はレストランだったそうだな」

「借金さえなかったら、私が二代目だったんですけど」

「料理が出来るのか?」

「人並み以上には」

「言ったな? 今度作ってもらおうか」

「希望はありますか?」

 微笑んで問いかけると、サイファーは腕を組んで唸ってしまった。

 彼もフレデリカの祖父と同じように、味にはうるさい人間かもしれない。

「カレーかな。しばらく食べていないんでな」

「得意料理の一つです」

「期待して良いかい?」

「お眼鏡に叶うか分かりませんけど、不味くならない保証はします」

 意外と俗っぽい答えに、思わず笑みがこぼれた。

 サイファーが食べるのだったら、大鍋に五人前ぐらいは作っておかないと、体格相応の胃袋を満たすことは叶わないかもしれない。もしかすると、それ以上だろう。

 そうこうしている内に、そのディナーを食べる店に着いたらしい。ダイナーを彷彿とさせる簡素な作りだが、それが気にならないだけの気品と落ち着きのある内装だ。

 訪れている客も全員が正装しているあたり、それなりに地位のある人間が、お忍びという形で来るのだろう。少しばかりの庶民的な雰囲気が、来客の肩の力を抜いているのだろう。

「ご注文は?」

 品のいい装いのウェイターが、席に着いた二人の元にやってくる。

「ン、セーケイグヤーシュにテルテット・パプリカ」

「私はフーゼレークとテルテット・カーポスタで」

「かしこまりました」

 恭しくお辞儀をしてウェイターは消えていった。

 周りの客は語らいつつ、料理に舌鼓を打っている。一緒に食事をするにも、気心知れた人間の方が変な気遣いをしなくて良い。

 ただ惜しむべきは目の前に座っているのは、知り合い以上友人未満の巨漢で、優しくしてはくれるものの、フレデリカにとっては取っ付きづらい人間だ。冗談は問題なく通じるだろうが。

「緊張してる?」

 ほんの少し小首を傾げて、サイファーが銀灰色の双眸で見つめながら、問いかけた。

「はい、ほんの少し、ですが」

「まぁ、料理を待つ間の話にも困りそうだ。共通の話題があるかどうか」

「話題はアナタが振ってください」

 ガーニーの中でも同じように、腕を組んで唸った。

「貧弱なボキャブラリーを先に謝ろう。大学でどんなことを学んだ?」

 サイファーなりの気遣いか、ベアトリクスのことを思い出させないように、なるべく大学のことを聞かないように努めて、他の話題を探ろうとしたのか。

 だが彼の脳内のボキャブラリーは、他の話題を探るには貧弱すぎたか。

「そうですね……機関学と医学の二つでした。あとは考古学の教授とは仲良くやっていましたね」

「ほほう、ミスカトニック大学って図書館があったろ? 割と入り浸っていたりしたのか?」

「両手の指で数える程度でしたけど、一度だけ考古学の教授がナコト写本のレプリカを見せてくれました」

 サイファーの目が、ほんの少しだけ見開かれた。

 ナコト写本。

 名状しがたき外法の理、外の次元宇宙、届かぬ高次次元領域の、冒涜的叡智の数々を記した魔導書と言っていい代物。ミスカトニック大学に写しの一つがあるといわれていたが、そのレプリカをフレデリカは見ていたのだ。

「平気だったのか?」

「その……引き込まれるような感覚はありましたけど、噂に聞くほど辛いものでもありませんでしたよ?」

「なんか嫌な感じがするね、それが仮に本物だとしたら、ナコト写本の内にいるものに、魅入られていたかもだよ」

「そ、そんなこと言わないでください! 不安になって眠れないじゃないですか」

「不安になって眠れないとか、あまりにも可愛すぎるんですけど」

「…………からかってます?」

 鉛のように空気が重く、ずしりとサイファーにのしかかってくる。

 彼が口を開いたのは一分後のことであった。

「……七割は、な」

「からかっていたんですね?」

「………………はい」

「まったく、もう!」

 頬を膨らませて怒りを露わにする様は、元から幼く見えるフレデリカを、さらに年下に見せる。動きや立ち振る舞いの所作が、完成された淑女として出来上がっているからか、そのギャップは大きい。

 それ故かサイファーも素直な感想が、意識せずに口から飛び出した。

「ホントに二十歳超えてんのかね?」

「……どうせ童顔ですよ」

「世の中を探せば、それが良いという人間もいるよ」

「アナタも、そういう人間なんですか?」

「若ければ若いほど、女は瑞々しく僕に耐えてくれる」

 フレデリカは彼の言っていることが、だいたいは理解できたが、反応を返す気にはなれなかった。

 そういう意味合いを含めた、猥談めいたものは願い下げなのだから。



 ◇◆◇◆◇



 電球も、緊急の機関灯もない、いくつもの壁のようなもの──本棚が並んだ空間で、女のものと思しき影が蠢いている。

 どことなく彼女はやつれているようで、目だけがぎらついている。まるで幽鬼そのものと言える、元の淑女たる姿など微塵も残っていない。

 ただ一冊の本を探して、影は右往左往とするばかりだ。

 どこかの扉が開いた。

 初老の男が右手に電気式のカンテラを持って、影の元へと歩いていく。

「君は!?」

 男の顔が驚愕の一色に染め上げられ、女の目には危険すぎる光が宿った。

 乾いた破裂音、花火にも間違えられる、死をもたらす音。

 それは男の胸を穿ち、着ていた白いシャツに赤いシミを作り出した。そこを押さえて、女に手を伸ばしたものの、何も出来ずに力尽きて、倒れた。

 FNのM1900の銃口から硝煙が立ち上っているのを、女は吹き消しもせず、動かなくなった男の身体をまさぐって、鍵束を探り当てた。

 女が闇に消えていく。

 戻ってきた彼女の手には、一冊の本が握られていた。

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