展開は事件のニオイを帯びて

 朝になって着替えてから昨夜の現場に向かって、そしてフレデリカは目を剥いた。男たちの脳漿に血液がこびり付いた痕も、ぶち破られたドアも、所々にあった弾痕も、何もかもが元通りであった。たったの一晩でだ。なんとなく常識外れなところはあったが、ここまでだと苦笑するしかない。しかし、心のどこかでありがたく思うのが、ちゃっかりしていると感じてしまう。

 今日から四区画先のアパルトメントで暮らすことになるため、黒い皮の金属製のキャスター付きトランクを引きながら外に出て行く。トランクの中は衣食住の住以外の要素を詰め込まれており、少し重く感じてしまう。

 ウルベスでは珍しくもない白と黒のツートン・カラーをした丈の長いブレザー、そして膝丈のスカートに施された青い薔薇の模様が目を引く外出着は、フレデリカのお気に入りである。イギリス本土に行くとなれば、それほど着る機会はないと思うし、もう少し華やかで明るい色を選ばないといけないだろう。だが今履いている茶色の皮で出来た脹ら脛を覆い隠す編み上げブーツくらいなら、履いて表を歩いても譲歩してくれるとフレデリカは思うのであった。

 あらかじめ呼んでおいた蒸気自動車ガーニーが白い蒸気を車体後部から生えでる、真鍮色をしたラッパ状のマフラーから吹き上げつつ、フレデリカの前で止まった。

 数式機関式か、と内心で呟いた。イギリスの領土が植民地としているウルベスは百年先のテクノロジーを有していると言われる。フレデリカが昨夜に撃つことなく終わったデリンジャーの炸裂徹甲弾もそうだが、最大のオーバーテクノロジーといえるのが数式機関だ。

 ウルベスが発見されたのは十八世紀末のことで、そこから発掘された緑鉱石には、物の情報を数式として顕現させるという効果があり、同じく発掘された赫鉱石からは緑鉱石で顕現させた数式を現実のものとしてフィードバックする効果があった。

 例えば緑鉱石で病人の情報を数式として顕現させて、病気や怪我を示す数式を解いて元通りにし、赫鉱石でそれを現実の肉体にフィードバックさせることで治療するという使い方があれば、フレデリカの持っているデリンジャーのように弾丸に爆発の数式を書き込んで炸裂弾へと変える。まさしく万能の力といってよかった。

 数式機関とは、これら二つの鉱石の力を持って作られた蒸気機関に変わる、新たな時代の幕開けといえる動力源なのだ。同じ大きさの蒸気機関と比べても数千倍近い出力を誇り、なおかつ燃料は比較にならないほど少なく、そして煤煙はほとんど出さない。

 これを基礎原理を作り上げたのが数学王と呼ばれるドイツの数学者ダフィット・N・ヒルベルトで、その特許をイギリスは破格の値段で買い上げた。この超機関アーコロジーであるアーカムのライフラインを賄っているのは、ヒルベルト自信が作り上げた超高性能数式機関『ヒルベルト・メカニズム』一つのみであることは、機関学の最初に習う初歩の中の初歩である。

 その時代の最先端を動力とするガーニーに乗り込むと、軽快な唸りを上げて走り出した。前時代の車ではこうはならない。きっと途中でエンストの一つや二つはするだろう。一応なのだがウルベスは植民地なのだから。

 目的のアパルトメントが見えてきた。祖父が残し、借金の返済に売り払った店に比べれば、ぐっと小綺麗な建物であった。オフホワイトの外壁は汚れてない上に、青い屋根が琴線に触れる。見た目からして好みであった。これで内装も一級品なら言うことはほとんどない。あるとすれば、ここを設計した人間と、ここを格安物件にした不動産屋、そして紹介してくれた友人に感謝を告げたい。

 大家に挨拶をして、数日前に運び込んだ家財道具が調えられている、自分の部屋である三階の三〇一号室の鍵を受け取ると、安普請なのを色を塗って誤魔化した階段を上った。そして鍵を使って部屋に入れば、新居独特のようなニオイがした。

 三部屋にバスとキッチンに、最近の先端技術の賜物である水洗トイレまであった。本当に仮住まいにはもったいなさすぎる。イギリス本土に戻って職がなく、ウルベスにとんぼ返りするとなったときに備えて、ここをキープしておくのもアリかもしれない。

 一人暮らし分の家財道具はシンプルで、機関式冷蔵庫を動力パイプに接続すれば、重苦しい音を立てて動き出した。一世紀前までは食料の保存は氷冷蔵庫が主流だったのに、今では真鍮の外装を持つ鉄の箱が腐敗を遠ざける。二〇世紀万歳、とでも叫びたくなるが、そんなことをすれば奇人の烙印を押されるのは明白だ。

 クローゼットに衣服を仕舞い込んで、朝食と昼食はどこかで済ませる心積もりのフレデリカは、メモ帳に買い物リストをしたためる。夕食は自炊するつもりで、その腕は声を大にして上手いと言える自信がある。なにしろレストランを経営していた祖父にしごかれ、切り傷を量産しながら玄人の腕前を得たのだ。その腕はクリームシチューを作るつもりのようだ。

 日傘を片手に外出すると、向かいのアパルトメントが目に映った。あちらの家賃は桁一つ分違うために断念したが、それだけの価値があると分かる。出入りする人間の服装が上流階級だと一目瞭然の上に、近くでウィンチェスター・ライフルを構えた警備がいる。

 流石は上流階級ですね、そう呟いてから歩き出した。アーコロジーとは言え石畳の地面はイギリス本土と変わらず趣があり、その下に鋼の板と機関が埋め込まれているなんて、考えられる人間は初見ではいない。

 そのまま二区画先にあった商店街に辿り着いて、必要なものを買っていく。この時、主に見た目のせいで過剰なまでのサービスを受け、ガーニーを頼む羽目になった。そのガーニー代も厚意で無償というのだから、多い荷物に少ない出費とローリスク・ハイリターンという理想的な結果に終わった。

 朝食はサンドイッチで簡単に済ませた。フレデリカはディナーを重んじるタイプであり、朝と昼は満腹にはしない。空腹というものは最高の調味料であり、あらゆるものを美味しくいただくには、飢えているという前提が必要なのだ。

 本日二回目となるガーニーに揺られて、アパルトメントに着いて、冷蔵庫に買ったものを詰め込み終わると、時計の短針は十一の位置を通り過ぎ、長針は六の位置に差し掛かろうとしていた。少々手間取りすぎたと感じ、買い物の時に聞き込んだおいたレストランへと急いだ。

 徒歩でも充分に行ける距離にあったため、平素より駆け足で行けば間に合わないことはなかった。と言っても予約を入れていたわけでもないし、そもそもカジュアルな店なのだから、そういったものは必要ない。ただ十二時には席に着いていたいという、個人的な感情からくるタイムリミットだ。

 頼んだものは小振りのミートパイとサラダだけ。

 一般にイギリス料理はマズいと言われるが、食事というものに頓着せず、美食趣味のない人間にとってはありがたいものだ。味付けというものは個人個人の好みで行うというのも、手間暇かける美食へのアンチテーゼになるのではないか。

 フレデリカは少々特殊で、合理的に美味しいものを、という考えを持っている。あっさりと済ませるイギリス料理と外国のキメラとも言うべき思想は、料理の完成が手早い癖して美味というものだ。祖父が飲食業であったために、美味い料理がもたらす効果も知っているのだ。

 だから朝と昼を慎ましくして、夕食は豪勢にするのがフレデリカ流なのだ。

「ごちそうさまでした」

 支払いを済ませたフレデリカは公衆電話から、アパルトメントを紹介してくれた人間とは、別の友人に電話をかける。大学時代からの知り合いで、人見知りのきらいがある彼女にとって心強い存在だった。

『もしもし、どちら様でしょうか?』

「ヘンリエッタですか? 私、フレデリカです」

『久しぶりじゃないか! 元気だったかい? 私は変わりないよ』

「新居に引っ越したばかりですけど、私も元気ですよ」

『それで何の用なんだい?』

 フレデリカはここまでのいきさつを話した。祖父が亡くなったこと、今までの住まいを祖父の借金返済のために手放したこと、仮住まいのアパルトメントに住んでいるが、収入を得る手段がないので困っていることを告げる。ヘンリエッタの相槌は次第に落ち込んでいき、その辛さというものを共有できているらしかった。

『フレデリカ、君さえ良ければ私の職場の事務をおすすめするよ。女の子が一人で暮らす分の給料はあるし、仕事もそんなにキツくない。むしろ楽な方だし、うちのボスは話の分かる人だから、少しくらいは融通を利かせてくれるかも』

「助かります」

『私の方からフレデリカを推薦しておくから、また改めて連絡しよう。家の電話番号を教えてくれないか?』

「はい、電話番号は──」

 その後にヘンリエッタは話がまとまり次第、もう一度連絡すると語った。交友関係は少ない方であったが、狭く深く付き合っていたために、毒にも薬にもならないようなことはせず、真摯に力となってくれる人間がほとんどだ。

 こういう友人の存在はありがたいと感じる。ここ最近は人情だけで生きているような気がするから、後で何かお返しでもしよう。そう思って家路につき、クリームシチューの仕込みを始める。作り方は切った材料を炒めて煮込むだけだが、煮込む時間などにこだわりがある。並の飲食店で提供されるものより、美味しいと言い張れる自信はある。そんな出来に仕上がった。

 少し時間をおいておくと、心なしか美味しく感じるのが不思議であった。カレーはスパイスなどが複雑に作用して、時間をおくほどに熟成が進んでいくという理屈は理解している。だがシチューにそういう要素があるのだろうか。

「誰か一緒だと、もっと美味しいんですけどね」

 その呟きは黄昏の空に溶けて消える。

 夜も更けてから食べた、クリームシチューは非常に美味しくできたが、それを共感してくれる人間がいないことに、涙が出そうになる。少し前までは祖父がいたのだが。

 ──まるで、あの時のように、孤独に打ちひしがれて。

 ただ一人、枕を濡らして《ルビを入力…》眠りについた。



 ◇◆◇◆◇



 翌日の朝は酷いものだった。

 瞼が二目と見られないほどに、赤く腫れ上がっている。それほどに自分は泣いていたのだろうか。胸中に留めた呟きを声に出しても、悲しいことに答えてくれる人間はいない。

 にわかに電話のベルが鳴った。もしかするとヘンリエッタかもしれない。期待を込めて受話器を取ると、そのまま膝を付いて、へたり込んだ。記憶の奥底に封じ込めていた、聞きたくもない女の声がした。

『お久しぶりね、フレデリカ』

「…………なんで」

『大変みたいね、お葬式に引っ越し。辛いんじゃなくて?』

「あなたに、案じられなくたって、私は平気です。何の用ですか、ベアトリクス」

 ベアトリクス・ブルツェンスカ・フォーレンシルト。大学時代のフレデリカに大きなトラウマを植え付けた、もっとも会いたくなかった人間だ。電話で声を聞くことさえ、躊躇われるほどに。

 彼女は一言で言い表すならサディストだ。ただ、その嗜好を満たす方法に、恋人関係の男女を弄んで破局させるというものを選んだのだった。餌食となったカップルは百に迫るほどで、当然のことながら被害者の抵抗があったが、そこはやり口の見せ場であった。

 破局させたカップルの男を、自分の手駒として使う。それも平凡な男ではなく、ボクシングといった格闘技を修めていたり、新聞社や警察にコネを持つなど、力のある男たちで万全の布陣を築いていた。これで正攻法も暴力も恐れることはないのだ。

 フレデリカは大学時代にベアトリクスに立ち向かった。きっかけは友人が餌食となったことだ。彼女も男たちの布陣の裏をかいて、握った証拠や証言を保持し続け、一時的だが停学に追い込むことができた。

 だが報復としてベアトリクスの配下から暴行を受けた。幸いと言っていいのか純潔を失うのは免れたが、肉体の痛みと共にトラウマとして刻みつけられている。一時期、それは悪夢として、フラッシュバックとして、ありありと望みもしないのに思い出される。一ヶ月も休学したが、その後に一念発起して飛び級に飛び級を重ねてのスピード卒業を果たした。ただし、その理由はベアトリクスの記憶を大学を去ることで葬りたいという一心であった。

 その押さえ込んでいた、風化させようとしていた、忌々しい記憶の根元が、今になってフレデリカに語りかけている。

『ひどいわぁ、ちょっと懐かしくなって、声を聞きたかっただけよ』

「私は、あなたの声なんて、聞きたくありません」

 強く告げて、受話器を下ろした。若干ヒビが入ったことから、相当な力で叩きつけたのであろう。

 心臓を鷲掴みにされている感覚が、鈍痛のように身を苛んで、息を吸っても肺に入っていかないような錯覚に陥る。

 過呼吸でも煩った呼吸で必死に息を吸う。電話をしたときから、声を聞いたときから始まった頭痛が酷くなって、目眩さえ感じるようになった。

 長らく封じ込めていた、あの時のことが、脳裏をよぎった。

 ベアトリクスは上流階級の人間だったのか、従えている男たちは中流か上流の人間で、全員が品の良い笑みの似合う男たちだった。

 そんな彼らが下卑た笑いを浮かべて、フレデリカの体を弄んでいく。衣服は引き裂かれて、裸同然のあられもない姿に、男たちは爆笑の感想を漏らしたのだった。そして好きなだけ痛めつける。殴る蹴るだけでは飽きたらず、角材を持ち出して叩きつけた。

 唇が切れて前歯が三本もなくなった。耳、鼻、口から出血し、右瞼は開かないほど腫れ上がった。全治六か月の重傷だった。

 ヘンリエッタが現場に駆けつけなかったら、命も純血も身も心も、何もかも好きなようにされて元の生活には戻れなかっただろう。

 だが怪我も重いものだったが、心の傷はもっと重かった。大きすぎ、深すぎる、一生をかけて付き合うような傷が、その頃まで無垢といえる心に刻みつけられ、言葉も食事も睡眠さえも忘れた。

 ただ何十枚ものレポートを書き続けて、ただ機械のように過ごす日々だった。この頃から飛び級で卒業する、という考えを持っていたのだろうか。その甲斐があってなのか、講師陣に可愛がられていたフレデリカの変貌ぶりに心痛めたのか、二十二歳という若さで卒業した。させてもらった、という表現が正しいのだろう。問題はあったかもしれないが、中退という経歴で終わらせられないほどに、フレデリカ・エインズワースという少女は優秀であったのだ。

 それから一年かけてギリギリのレベルで、人並みの心に戻せるよう、ベアトリクスのことを忘れる努力をした。

 そして二十三歳のフレデリカは、今になって思い出してしまった、かつての忌々しい思い出に苦しめられている。

「なんで…………こうなるの……っ」

 壁にもたれ掛かるように座り込んで、深呼吸して息を整える。

 涙は止まらず、瞼を乗り越えて、頬に筋を作って流れる。

 着ていたベージュのスカートに落ちて染みを作るが、フレデリカがそれに気付くことはないのだ。とめどなく溢れる悲しみの滴を、どうすることも出来ず、ただ垂れ流すほかなかった。

「誰か……助けて」

 応える声はない。

 あるわけがないのだ。

 両親からの冷遇を受けた頃から、最終的に孤独になる予感をフレデリカは感じていた。

 だが運命の悪戯では済まないと思うほど、坂道を転げ落ちるように周りから人がいなくなっていく。数少ない友人さえ失うと、自分はどうなってしまうのか。考えても詮無きことに、その優秀な頭脳を傾けていく。泥沼にはまろうとしていたところに、チャイムの音が破った。

「…………どちらさまですか?」

 十中八九聞こえていないと思うくらい、応じたフレデリカの声は弱々しいものだ。

 よろよろとした足取りで、安普請なのを表面の処理で誤魔化したドアに手をかける。

 それっきりだった。ほんの少しドアを開けたところで、彼女の意識は闇へと落ちていった。



 ◇◆◇◆◇



 華々しい人々の活気に満ちあふれる通りから、人一人通れるぐらいの路地に足を踏み入れれば、そこはアーカムの裏だ。公然と無許可で銃器を携帯し、人を食い物にする人間がのうのうと息をする世界だ。

 ブリキで出来たゴミ箱が倒れていたり、捨てられたペットの死骸でヒドいニオイがする。普通の人間なら口から粗相してしまうだろう。

 そこを一人の男が歩いていた。かなり大きな男だ、身長は二メートルを下らないのは確かだ。男の名前はサイファー・アンダーソンといった。フレデリカの店に現れた男である。

 悪臭の中でも彼は眉一つ動かさずに、確固たる何かを持って歩みを進めている。角を一つ曲がると開けた正方形の広場に出たが、家々に囲まれているせいか日が差さず薄暗い。面積は二〇〇平方メートル以上はあるかもしれない。

「待ってたぜ」

 広場にはバラックのような小屋が三つほど並んでいたが、その中でも大きな小屋の壁に一人の男が寄りかかっていた。短く刈り上げた黒髪に、鍛え上げられた一九〇センチ近い体躯から見て、何らかの格闘技か何かを修めているのだろうか。

「マーカス・クルーガーだったか。イギリス本土じゃ、ボクシングの表試合に出られないぐらいのパワー溢れるヤツだとか」

「そうさ、俺が少しでも小突いたなら、ソイツはこの世からオサラバしちまうんだ。今じゃ一介の用心棒さ」

 肩を竦めてから、ボクシングにおける最速攻撃であるジャブを放った。その拳速で生み出された空気の渦は、三メートルも離れたサイファーにまで届くとテンガロンハットを吹き飛ばした。

 舞い上がった帽子を掴むと、少しおどけたように、

「ヒュー! 噂以上だな」

「アンタに恨みはないんだが、俺の店の常連がな、アンタを少し痛めつけてやってくれと、な」

「もしかして女か?」

 何も言わずにマーカスは一気に距離を詰めた。思った以上に速い。数秒もかかっていないだろう。

 渾身のストレートがサイファーへと向かう。見事なまでに心臓の真上をヒットした。ただ小突いただけで人を殺める彼が、全力で急所を打つとどうなるかなど、想像も付かない。

 だがマーカスの表情は暗い。あるべき感触が、胸骨と肋骨を粉砕し、心臓を破裂させる感触が伝わってこないのだから。

「そら、その程度かよ」

 サイファーの挑発に乗った彼は右手の指を揃えて、彼の脇腹へと突き刺すように打ち込んだ。極東の島国に伝わるカラテという格闘技の技、貫手というものだ。

 だがサイファーは倒れない。それどころかニヤリと不適な笑みを浮かべて見せた。

「今は丸腰──というより君が指定したんだが──だからコイツで勘弁してやる」

 マーカスの眼前に分厚いブーツの底が迫った、かと思ったときには身体がガーニーに跳ね飛ばされたように舞い上がると、広場を飛び越えて、その向こうの路地の壁にぶつかった。

 体が起きあがらないこと以前に、完膚なきまでに叩きのめされたことを自覚した。それと格の違いというものを。

「悪いね、僕は真正の超人だからな。君程度じゃ暇つぶしにもならないんだよ」

「だろうな、パワーが桁違いだ。あんなに吹っ飛ばされるなんて、夢にも思わなかった」

「貴重な体験だったろ?」

 明らかに煽りの意を含んだサイファーの笑みに、マーカスは舌打ちを漏らしたが悔しさは余りない。中途半端にやられるよりも、清々しく一発で吹っ飛ばされたせいなのか。

 痛む身体に鞭打って起き上がった。骨は折れていないし、脊髄を損傷したわけでもない。以前にガーニーに跳ねられたが、特に大きな怪我はなかったのだ。今回の一撃はそれ以上だったが、別に問題はない。

「それでさ、僕を痛めつけてと頼んだ淫売はどこのどいつだ?」

 一瞬ムッとなったが、目くじらを立てられるようなことをしたのだから、ここは素直に応じるべきだろうと考え、マーカスは口を開いた。

「ベアトリクス・ブルツェンスカ・フォーレンシルトだ」

「ははーん、前に危うく一夜を共にするところだった、あの阿婆擦れか。じゃんじゃん酒を持ってきて、僕を酔わせようとする魂胆が読み読みだったが、経験が違ったな」

「いつか後ろから刺されるぞ」

「それでどうこうというレベルじゃあないんだ」

「まさか…………ナイフが刺さらなかったりするのか?」

 恐ろしい期待をしてサイファーに問いかける。

 返ってきたのは予想の斜め上であった。

「ナイフの方が折れるんでな」

 そう言ってからサイファーは手を振ると、大通りへと戻っていく。

 そこに一人の女が立っていた。やや茶色のかかったボブカットにエメラルド色の瞳、なかなかに見目麗しい二十代に足を踏み入れたばかりの女だ。身長は一七〇センチそこそこか。もしかすると少しばかり低いかもしれない。体型はスレンダーで、その源がしなやかに鍛えられた筋肉によるものだと分かる。

 茶色のショートブーツに黒のパンツスタイルで、白のブラウスの上から灰色のベストを着ている。その佇まいは男装に思えてくる。なまじエメラルド色の瞳は切れ長で、下手すると美形の男にも見えてくる。

「探しましたよ、何の用事であんな所に?」

「果たし合いだよ、主にボクシングめいた喧嘩だったが」

「なるほど…………無事ですか?」

「ンぁ? それは相手が、って意味合い?」

「どちらも、という意味合いだよ」

「そりゃあ、ありがたいけどさ。でも敬語が外れているよ」

 ハッとなって口元を押さえた女に、好色な笑みをサイファーは向けた。こうやって女性をからかう趣味があるのかもしれない。フレデリカの彗眼は正しいと証明された瞬間だ。

 頬を紅潮させて睨むが、その原因である彼はどこ吹く風と全く気にしていない。女は「薦めたのは、やっぱり間違いかな」と呟いてから、サイファーの方を向いた。

「そんなことよりも、実は私事なんだが、マズいことが起こったんだ」

「それってヤバいのか?」

「ああ、前に事務員として紹介した、私の友達がさらわれた可能性がある」

「よーし、救出だ」

 にわかに歩調を速めたサイファーに、女は小走り気味に追い付こうとする。これも身長差が為す弊害なのかもしれない。

「ちょ、ちょっと待ってくれないか!? 普通なら『金にならない』だの『自分で解決しろ』と返すアナタが、一体全体どういう風の吹き回しなんだ」

「まともな理由だぜ? まず第一に君の友人フレデリカ・エインズワースは大学を飛び級で卒業した超インテリの高学歴。第二に僕もお前さんも事務仕事が得意じゃない。要するに優秀な人材のためなら、一肌脱いでも不思議じゃないだろう? というよりヘンリエッタ、お前さんは僕をどういう人間だと思っている?」

「キングオブ利己主義」

「お前さん減俸二ヶ月な」

 女──ヘンリエッタは横暴だ、と騒ぎ立てているが、やはりサイファーにとってはどこ吹く風に過ぎない。

「とりあえず現場に行くか。ヘンリエッタ、案内を頼む」

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