享楽刹那に蒸気幻想譚

大菊寿老太

日常崩壊カタストロフィ

始まりは没落で幕を切り

 ──僕には寄り添うことも出来はしない


 ──近付くだけで傷つけてしまう


 ──だけど、お前を守ってやるくらいのことなら


 ──それぐらいなら、望んでも、いいだろう?


 フレデリカ・エインズワースという女は少しばかり前に天涯孤独の身となった。数日ほど前に祖父が病で他界した。両親とは、あちらの方から縁を切られたも同然の仲で、その原因が自分でも良く分からない自分にある何かというだけであった。

 加えて祖父には借金があった。自営業のレストランを切り盛りする上で、やむなく借りた分の利息が大きかったらしい。"区画"と自宅兼店舗を手放してようやく返せる金額だった。

 これだけ聞くとメロドラマの主人公のようだが、その代わりに彼女は語る言葉が存在しないほどに見目麗しい人間だった。腰に届く長さの色素の薄い金髪は天上の美姫が金と銀から直接紡いだようで、曇りなく透き通る万年雪を固めた病的に白い肌、やや大きめなアーモンド型をした黄金の左目とアイオライトの右目から成る虹彩異色は神秘的な印象を与える。それらを数千分の一ミクロン単位でのバランスで並べるのに、全知全能の神は二週間以上も腐心したに違いない。ただ見た目だけなら十代後半にやっと見える程度で、身長は一五〇センチ後半ぐらい。実際は飲酒も喫煙も出来る年齢なのに。

 この二〇世紀初頭の大西洋上に浮かぶ島、ウルベスに存在する超機関アーコロジー、アーカムは神に見捨てられたといわれるほどに治安が悪い。現行犯を押さえられなければ問題ない、という意識が人々の根底に根付いているのだ。

 フレデリカの住まう第十二層の第二十四区画はさほど酷くはないが、敏感な人間であれば渦巻く悪意を感じ取れる。誰もが生物の三大欲求と金銭欲に名誉欲、その他諸々に忠実に生きているのだ。他人を食い物にして。

 あらかたの商売道具や金銭的な価値があるインテリアを売り払って、ガラガラになった店内はシックなアイボリーの壁紙のおかげで、未だに落ち着いた雰囲気を保っていた。

 カウンターだけは残っていたから、長い夜を過ごすためにグラスとワインを置いた。朱唇が透き通った器に触れて、その隙間から真紅の液体が流れ込んでいく。芳醇な香りと深いコクがフレデリカを満たしていく。

 少しクラリときてグラスを置いたのと、店の入り口からドサッと音が聞こえたのは同時だった。

 何かヘタ打ったギャングかチンピラの類が負傷して、この店で行き倒れたのだろうか。そんな突拍子もない推測が事実となるのも、このアーカムの常識のようなものだ。

 護身用にトリガープルを数キロほど軽くしたレミントン・ダブル・デリンジャーを取り出した。射撃訓練は幾度となく、居住区の護身術セミナーで受けている。おまけにアーカムだけではなくウルベスの技術は、蒸気機関や科学の本場であるイギリス本土を超えるオーバーテクノロジーの面がある。

 その産物である四十一口径のリムファイア型炸裂徹甲弾が二発、フレデリカの指がケツを叩くのを待っている。厚さ八ミリの鋼鉄の板さえ貫通し、内側からピンポン球ほどの穴を開ける爆発を起こす。

 おそるおそる黒檀で出来た分厚い扉を開けて、デリンジャーの引き金を激発寸前で止めるという高等技術を行った。安全性には欠けるが、その分即座に弾を撃てる。

 六段ほどの石段の横に、そいつはいた。

 とてつもなく大きな男だった。身長は二メートルは確実に超えている。

「よぉ」

 顔見知りの人間に話しかけるような、砕けた口調と言葉に引き金にかけた中指の力がゆるんだ。体躯から低く野太い声を予想していたが、すっきりとした落ち着きのある声だった。

「あの…………誰でしょう、か?」

「ああ……僕は実力行使請負業なんて、物騒な商売をやってる。名前は恨みを買いすぎてるせいで教えられん。それでアンタ、ここの人かい?」

「そ、そう…………です、けど」

 生来の人見知りが災いして、しどろもどろに言葉が出ない。それに拍車をかけるのが男の風体だった。簡単に言えばガンマン気取りやレンジャーかぶれと揶揄される、そういう格好であった。

 灰色のテンガロンハット、やや色褪せたジーンズ、白のシャップスにゴツい黒のブーツ、灰色のロングコートが非情に目立った。前を開けているロングコートからは皮のベストとガンベルトが覗いており、鈍い輝きを持った何かが見えたが見ないことにした。そういう血生臭いものを好むような趣味は持ち合わせていないのだから。

 おまけに男はフレデリカの苦手なタイプであった。というより異性という存在があまり得意ではなく、どちらかというと女性同士の友情がほとんどであった。一応言ってはおくが、フレデリカは同性愛者ではない。

 目の前の男は、女に甘言睦言を囁いてからかうタイプだ。幼少期には何度も泣かされたために、初対面でも、このタイプなのかを見極める慧眼を持っていた。

 精悍な二枚目半の男といえばそれだけだが、橙に近い赤が混じった茶髪は肩甲骨のあたりまで伸び、銀灰色の瞳がフレデリカのオッドアイに映る。鼻梁のラインも整っており、眉も柳眉というべき形の良さだ。おまけに、この手の男裏で生きる男にありがちな目つきの悪さがない。顔と体から推測した年齢は二十代か三十代そこそこというあたりか。

「勝手に行き倒れていて悪いけど、少し匿ってくれないか?」

 突然の申し出に面食らった。祖父を失って悲しみからようやく立ち直ったばかりで、両親からは絶縁状に近い手紙を受け取ったというのに、未だに慣れない男──それもこれほどの二枚目半の巨漢──に図々しいと蹴っ飛ばしたくなる頼みをされた。

 だが──不思議と放っておけず、男を無理矢理に立たせると、

「ここに隠れていてください」

 今は使われていない、レストランに使う食材の保存庫に連れて行った。やや狭苦しいところかもしれないが、この保存庫は 使うことを前提として作っていたことを、亡き祖父は笑いながら豪語していた。

 そしてフレデリカは調理台の下にデリンジャーを二挺携えて、店中の明かりを消して息を殺した。

 十分ほどしたところであろうか。外が騒がしくなってきて、複数の男の声が聞こえてきた。出てこい、と叫びながら虚空に発砲している。

 心臓の音が大きくなっていき、息が荒くなっているのを感じた。これほどに綱渡りなのは勘弁願いたい。

「ヤツめ、よくもボスを殺りやがったな!」

「おまけに仲間もほとんど皆殺しだ! ボスの奥さんに子供まで殺っちまうなんて、アイツは人間じゃねえ!」

「落ち着いて探せ、アイツに最新の四十五口径ライフルをブチ込んだんだ。絶対に傷を負っているはずだ」

「そうだよな、だがヤツは自分を狙った人間は、確実に殺す人間だ。もしかしたら、どこかで俺たちの隙をうかがって…………」

「なら探せ、クズ共!」

 ドデカい銃声が闇夜に響き渡った。拳銃が出せる音ではない。確実にライフルか散弾銃であろう。

 バタバタとした大きな足音が店の周りを、しらみつぶしに探し回っていく。どこかでフェンスを蹴り倒す音が聞こえた。どうにも彼らは気が立っているらしい。

 五分後、覚悟していた事態が起こった。

 乱暴に店の扉が叩かれる。黒檀製の頑丈な扉が、壊れそうなほどに激しく揺さぶられている。

 おい、と仲間を呼ぶ声がした。二人掛かりか三人掛かりの体当たりで、ぶち破ろうという心積もりなのか。

 激烈な体当たりではなかった。銃声とともにドアがボロ切れのように吹っ飛んだ。ずいぶんと強力な弾薬を使っているらしく、威力の余波が五メートルも離れたカウンターにヒビを入れた。

「────っ!」

 デリンジャーを握る手に力がこもった。

 長い沈黙が続いている。足音一つしない現状に、妙な恐怖があった。足音を殺すということなんて、このアーカムでは一週間で猫も杓子も身に付ける。

 男たちは未だに店の仲を探しているのだろうか。

 足音で察することは出来ないから、かすかに聞こえている息遣いで推測する。

 店に男たちが押し入って、そろそろ三〇分が経とうとしていた。

「もう良いだろう。次を探すぞ」

 胸をなで下ろして、のろのろとカウンターから這い出たときだった。

「ヘイ! 可愛い仔猫キティが隠れていたぁ」

 レバーアクション式のライフルが、フレデリカのこめかみに突きつけられた。

「いましたぜぇ! もしかしたらサイファーの野郎を匿っているのかもしれねえ」

 サイファーとは食料保存庫に隠した、あの大男のことだろうか。

 デリンジャーを奪われて、無理矢理腕を引っ張られると、床の上に押し倒された。薄桃色のネグリジェはあっけなく引き裂かれてしまい、その下にあった下着が露わになってしまう。

 顔に衝撃が走った。思い切り殴られたらしい。唇が切れたのか、血の味がした。

「オイ、二メートルぐらいある、デケエ男を見なかったか?」

 フレデリカは沈黙で返した。

「答えろォ!」

 ライフルの銃床で殴られた。

 痛みが過ぎるあまり、泣くことも悲しみも、全てが封じられたようであった。

 引き金の用心鉄を延長したレバーを動かして、男は銃弾を装填した。着込んでいる茶色のベストに、フルサイズのライフル弾を収めた箱型弾倉がいくつもある。

 オイ、とだけ言うと、後ろで控えていた男たちが一斉にベルトを外し始めた。

輪姦まわしてから、聞くことにするか」

 緊張がフレデリカの身に走って、慌てて両足を閉じた。陰火の炎を燃やす男たちが、股を広げようと躍起になる中、思わず涙が溢れてきた。

 ──なんで、なんで、こうなるの。

 世の理不尽さと運命の数奇さに歯噛みする。

 フレデリカの両膝にかけられた手が、最後の抵抗を陥落させようとしたときだった。

 ──ズブリ

 目の前で腰を振ることしか頭にない、野獣と化した男の胸から生えているのは、鈍く輝く細身で片刃の湾曲した刀身。

 その根本から向こう側、男の背後に立つ存在。

 刃が抜けたかと思いきや、剣が首を一閃した。すぐに首は落ちずに朱い線だけが残ったまま、男は硬直したようになっていたが、朱線から鮮血が噴き出たかと思えば、フレデリカの腹に首が落ちて、全身が朱く染まった。

「サイファー!」

 ライフルに茶色のベストを着た男が、振り向きつつ絶叫した。

 ロングコートにテンガロンハットといういでたちからは似つかわしくない、極東の島国である日本が生み出した最高峰の刃物というカテゴリに分類される、日本刀という武器を持っていた。刃渡りは一五〇センチを下らない、野太刀と分類される大きさであった。

 銀色に輝く鍔と、赤銅の柄頭の彫金を見れば、この刀を打った職人の魂といえるものが伝わってくる。それはズボンのベルトにある黒塗りの鞘も同じで、どういうわけか東洋の龍を象った彫刻を施し、表面は鉄拵えであった。

 芸術品と実用品を兼ね備えた、極東の英知をまざまざと、この刃の全員が見せつけられていた。

「流石に見ちゃいられねえぞ」

 その銀灰色の双眸は、鮮血にまみれたフレデリカに向いている。

「悪いね、危ない目に逢わせちまって。いつか埋め合わせをさせてもらうからな」

 さて、と呟くとサイファーは男の方を見た。

 踏み込んだ男たちは一人減って四人となっていたが、闘志だけは消えていない。むしろ強まっているように見える。

 ライフルを持っていた男はともかく、残りの男たちもウェブリー・リボルバー、コルトM1860、ボーチャード・ピストルを抜いた。特にM1860を持っていた男は撃鉄を起こしながら抜いたらしく、あとは引き金を引くだけだった。

 ──銃声はなかった。

 金属薬莢を使えるように改造された、四四口径のリボルバーが地面に落ちたときに、暴発も同然に発射されてカウンターを穿った。

 早撃ちの体勢を維持したまま立ち尽くす男の首から、鋭く尖った刃が突き出ていた。脊髄反射も考慮して刃を寝せて刺し貫いたのは、見事な手腕というべきだろう。

 剣を払って首を切りながら刃を抜くと、払いの線上に立っていた男に銃火が見舞われた。刀を握っている右手とは逆の左手に、えらく攻撃的な意匠の自動拳銃が握られていた。白銀に輝くガンシルバーのそれは数年前にコルト社が開発したというM1911をベースに改造したのだろうか、いや原形はほとんど留めていない。アーカムの先端技術が生み出したスパイク付きの銃口抑制器を取り付け、全長は六〇センチに迫るほどだが、この大男が使うには妥当な大きさに思えてくる。

 銃火を見舞われた男は頭を跡形もなく吹き飛ばされ、あたりに鮮血と脳漿を撒き散らして絶命していった。巨銃の排莢口から出てきたのは、紛れもないライフル用の四五-七〇ガバメントである。が、全長六四ミリに迫る大型ライフル用弾薬がひどくマッチしているように感じられた。遊底の後退は薬莢の長いライフル弾のためか、普通の自動拳銃とは比べものにならないほど長かった。

 雄叫びと共に別の男が持つウェブリー・リボルバーが火を噴いた。四五口径の弾丸はサイファーの心臓へ一直線のはずだったが、長すぎるといえる日本刀が一瞬だけ霞むと、振り抜かれた位置で止まっていた。足下には斜めに切られた銃弾が落ちている。

 もう一度、刃が振り抜かれて、銀色に輝き精妙なエングレーブを刻んだリボルバーが、射手の手ごと床の弾丸に寄り添うように落ちていく。

 それが地面に落ちる前に、射手の上半身と下半身は泣き別れた挙げ句、上半身は首まで銃弾によって奪われた。四体が乱切りにされて、血の海に沈んでいる。

「こっちを見ろォ!」

 サイファーの大柄な体躯がクルリと回った。

「ガキを人質に取った。さぁ、どうする?」

「…………ガキじゃないと思うぜ」

「どうするって聞いてんだ! こっちはよォ!」

 ボーチャード・ピストルの男がやたらと高い声でわめき散らす。そのたびに腕に力が込められるのか、首のあたりを腕で押さえられたフレデリカは苦しそうに呼吸している。

 気付くとサイファーの後頭部にもライフルが突きつけられていた。

王手チェック・メイトだ」

「あそこで人質取ってるヤツより、君は幾分かマシかもね」

 飄々とした態度にボーチャード・ピストルの男が怒りを露わに、フレデリカの髪を掴むや、銃把で殴りつけた。

 三発も殴られた彼女の顔には、最悪の場合は痣の一つは残るだろう。

「待ってろ」

 サイファーの身体が一気に沈んだ。

「すぐに終わる」

 言い終わったときには状況は帰結していた。

 やったことは迅速の一言につきる。足払いでもやるように、日本刀の一閃で男の胴を両断したかと思えば、その勢いを利用した間髪入れずにボーチャード・ピストルを持った男の眉間を吹っ飛ばし、この世からもおさらばさせてしまった。

 それだけのことであったが、ボーチャード・ピストルの男が脊髄反射で引き金を引けばアウトだ。それを成し遂げたのだから、サイファーの速さは人間では捉えられぬ領域になるのであろう。最速であろう反射行動さえ超えるほどに。

 そんな圧倒的で荒唐無稽な存在が、フレデリカにはたまらなく頼もしい存在に映った。

 鞘に長い刀を納めて、膝を超える丈のコートのどこかに拳銃を収めると、サイファーがフレデリカのもとにしゃがみこんだ。

「大丈夫か? って僕が聞けることじゃないか。ほとんど僕のせいだ」

「……いえ、私が断っていれば良かったんです」

「いや、男というものは自分のケツは自分で拭くべきだったんだ。それなのに他人に頼るなんてどうかしてたよ」

 人一倍大きなサイファーの手が、腕が、力強くフレデリカを抱え上げる。

 突然のことに戸惑っていたが、

「腰が抜けて立てないんだろ」

 事実を指摘されて沈黙した。鮮血を全身に浴び、首が落ちる様を見たせいか、知らない間に腰が抜けていた。感覚的には下半身が痺れて冷え切ったように感じている。

「お望みの場所まで運んでやる」

「そ、そこまでしてくれなくても…………」

「床を這い回りながら動き回るなんて、みっともない姿は英国淑女にあるまじき振る舞いじゃないか?」

 そう言われてフレデリカは沈黙した。色々と生き汚いアーカムの女というより、彼女自身はお淑やかな英国淑女の振る舞いをしている。なにしろ生まれはウルベスではなく、超機関都市ロンドンなのだから。

 午後のティー・タイムを楽しみ、決してアーカムの風俗には染まってないと、自分の基準では信じている。

 あの二挺拳銃はどこに仕舞ったのであろうか、そんなことを考えてフレデリカは抱えられている事実を紛らわせる。意識してしまったら恥ずかしさで取り乱す。自分の男への耐性の無さは、痛いほどに把握している。

「…………あんまり見ないで下さい」

 ふと見上げてみるとサイファーと目が合った。

 こうなってしまうと変に意識してしまう。恋愛関係の経験が未熟だと、自意識過剰のように異性に対して敏感になるというが、今のフレデリカはまさしくそうだった。

「男の人は…………苦手なんです」

「そうかい、僕はネグリジェが破けているのが、恥ずかしいからだと思ったよ」

 ──ネグリジェ、破けている?

 ──破けている…………。

 ──破けている!?

「お……お、お」

 言葉が羞恥で出てこない。

 サイファーの言った通りに、お気に入りだった薄桃色のネグリジェは破けており、フレデリカの胸元を晒している。凄惨なサイファーによる殺戮のインパクトで忘れていたが、フレデリカは輪姦一歩手前だった。

 あられもない姿を晒すという、気持ちと振る舞いは英国淑女のフレデリカにとって、非常に耐え難く恥ずべき事実であった。

「お?」

 精悍な顔と巨躯にそぐわない、小首を傾げて聞くという、サイファーのそれが引き金となった。

「……お、おろして、グスッ…………下さ、い」

 泣いた。色々と限界に達していたのが、一気に涙という形で表に出たのだろう。

「……僕も泣きたくなってきた」

「というより……見て、いたんですか? 私の、胸」

「顔と背丈に見合わず、ずいぶんとデカいなと思ったガフッ!」

 乾いた音がした。フレデリカの左手が風を切って振り抜かれ、サイファーの頬に赤い手形を残した。多人数を圧倒できる彼でも見切れず、何をされたのか分からぬ速さであった。

「…………最低」

 引き裂かれているネグリジェの胸元を押さえて、半目で自分を抱えている彼を睨んだ。男にそれを拒否する術も権利もないのは、火を見るよりも明らかだ。自業自得のいたたまれない気持ちをどうするべきか。兎にも角にも彼女を運んでやらなければ。

「ご、ごめんなさい。それで、どこまで運べばいい?」

「寝室の……前まで、お願いします」

「了解しましたよ、レディ」

 黙々と何も言わずに運んでくれた。もしかすると胸に関することも、緊張を解くための冗談のようなものかもしれないが、生憎とだが乙女心と常識を初めとする色々なものが分かっていない。はっきり言ってありがた迷惑である。

 ベッドだけが残された寝室の前で、フレデリカは床に足を着けた。凄惨な現場はサイファーが責任持って元通りにしておくと語った。数日後には売り払って借金の返済に充てるのだから、その申し出は非常にありがたい。計算上ではギリギリなのだから、少しでも物件としての価値が下がるのは避けておきたい。

 遠ざかっていくゴツいブーツの音を聞きながら、フレデリカは布団の中に潜り込んだ。この暖かな感触とも、もうすぐお別れだ。祖父のおかげで大学に通うことは出来た上に、優秀な頭脳もあったから飛び級に飛び級を重ねて卒業できた。このウルベスで最も知名度が高いのは、ここアーカムのミスカトニック大学でフレデリカは機関学と医学を修了し、考古学の教授とも懇意だったため考古学にも明るい。

 ならばウルベスからおさらばして、イギリス本土で研究職に就くのがいいのかもしれない。自分をこの島に捨てた両親の鼻も明かせるし、もしかするとあちらの方から頭を下げてくるかもしれない。少々、研究職というものは男尊女卑に傾向があるが、それは苔むした古い考えだと今なら一蹴される。

 ただ、今日知り合ったサイファーという男のことが、どういうわけか頭から離れなかったが、無理矢理に振り払って眠りについた。

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