第30話 終端、舞い降りる者

 自分を貫き通した者と、揺さぶられ歪んでしまった者。そう考えればこの結末は、ある種順当なものだったのかもしれない。

 どしゃりと重い音を立てて罅割れた白磁の床に倒れるガレオスの胸部には、大きな風穴が空いていた。向こう側が透けて見える程の、人体に空くには大き過ぎる黒穴が。

 本来心臓があるはずのそこに、鼓動の音はもう無い。限界まで力を籠められた少年の一撃が、命の源を原子の一片すら残す事無く完全消滅させたのだ。


 幾ら世界を砕くような力を持っていても、所詮は人。心の臓を失えば、もう生きてはいられない。


 ポンプが無くなったせいか、ゆっくりと広がっていく真っ赤な絨毯に身を沈めながら、ガレオスが僅かにその身を震わせる。

 ヒューヒュー、と微かに聞こえる蚊の鳴くような呼吸音。位置的に肺も壊れているのだろう、吸い込まれた空気は喉を通り、そのまま胸部の穴から漏れ出て消えて行く。

 しぶとい、と言っていいものか。既に死んだも同然のこの状態を、生きていると判断すべきかは正直疑問な所だが。

 そんな事を思いながら彼を見下ろしていたコオヤは、よろけた体を支える為、無理矢理両足へと力を籠めた。余裕など細胞の隅に至るまで残っていない。それでも、勝者としてこのまま倒れるのは気が引けたのだ。


 自分は勝ち、相手を殺した。それも、互いの全てをぶつけ合った闘争の結果、だ。


 ならば、まだかろうじて意識のあるガレオスを前に、無様な姿は見せられない。この程度の相手に負けたのか、と思われるのは心外だった。

 半分誇りで、半分意地で、姿勢を維持する。ふと走った痛みに右腕を持ち上げてみれば、酷使しすぎたせいで絞った雑巾みたいな有様になっていた。


「こりゃ、魔法でも治るか分かんねぇな」


 苦笑する。こうして先の事を考えられるとは、自分は全く以って幸せだ。何せこの場には、もう未来の無い者とて居るのだから。

 自らが未来を奪った相手、ガレオスへと視線を戻し――そこで気付いた。彼の唇が、微かに震えている事に。

 呼吸の為、では無い。何か、言葉を発しようとして、しかし声にならない様子である。


「どうした。遺言でも、あるのか」


 意識は既に半分涅槃に渡っているだろう。此方の言葉が聞こえているかも定かでは無い。

 だが問い掛けに応えるように、敗者の唇が再び動く。


「……――……――」


 出たのはやはり、漏れる空気の風音だけ。

 それでも待つように、コオヤはじっと耳を澄ます。

 けれど次第に小さくなっていく魂の灯火に、諦めたように目を伏せ掛けて――


「……つ、ぎ、……は、……」


 聴こえた。多分コオヤの優れた聴覚でなければ捉える事は不可能な、ほんの小さな囁きが。

 閉じかけた目蓋を広げれば、ぎょろりと魚のような双眸と目が合った。白濁し、命が尽きる寸前の、見えているかも分からぬ瞳。

 でも――こんなにも、強い。


「こ、……ろ、す……」


 上擦り、掠れたその声を最後に、ガレオスの瞳から光が消える。

 もう言葉が紡がれる事は無く、身体が動く事もない。彼は、間違いなく死んだのだ。

 絶対的であったはずの支配者の、存外呆気ない、死に様だった。


「次、か」


 そんなものは無い。その事をコオヤは良く理解出来ている。

 ガレオスは死んだ、仮に蘇生の方法があったとしても、それすら不可能なよう完全に魂を消滅させられ死んだのだ。もう二度と、復活し戦う事などありえない。

 ガレオス自身、分かっていたはずだ。それでも、言った。


「殺意の程を俺に伝える為だけに、か」


 無理だと分かっていても、それでも殺す。それ程の殺意を抱いているのだと、そう示す為だけの言葉であったのだ、あれは。

 無意味な行為だと、嗤う者も居るかもしれない。だが、コオヤはそうは思わない。


「大したもんだよ。最後の最後まで命乞いの一つもせず、外道であり続けていたのだから」


 許せないし、気に入らない。けど――認めても、良いのだろう。彼もまた、己の生き方に殉じた人間だったのだと。


「最初に言った通り、貰うぜ、あんたの命。それも背負って、生きていく」


 必要も無い荷物を背負い。それでも、苦にせず生きていく。

 その万人が余計と切り捨てる重みが、自身を強くすると知っているから――。


「帰るか。後は、軍の奴等の仕事だ」


 今すぐあの無駄に広い自宅のベッドで、深海に沈むように深深と眠りたい。

 このまま眠れば死にかねないが、まあ最低限の治療位はイリア達でも出来るだろう。残りは、目覚めてからゆっくりと治せば良い。

 次元の穴を開く余力もなく、仕方が無いと溜息を吐きながら徒歩で帰還の徒に付こうとした、その刹那。


「何だ、この揺れは。……おいおい、まさか」


 まるで巨大な地震が起こったかのように、宮殿が激しく揺れ始める。

 あのゴーレムの仕業か? とも思ったが、直ぐに違うと断じた。気配で分かる、既に外の戦闘は此方の勝利で終わっている、ゴーレムも打ち滅ぼされたはずだ。

 それじゃあ、何で――疑念を抱きながら周囲の様子を感覚だけで探って、


「こいつは……カウントラスト? 嘘だろおい、あの畜生」


 気付いた。宮殿の各所に仕掛けられていたカウントラストが、発動している。それも、ターゲットを己ではなく宮殿に向けて。


「自分の死さえカウントを進める為に使ったのか? そして狙いは――」


 それ以上、悠長にしている暇は与えてもらえなかった。

 耳を劈くような轟音と共に、宮殿が崩壊して行く。下部がばらばらに崩れ、それに引きずられるように白亜の城が、丸ごと落ちる。

 それはさながら、ビルの爆破解体の如し。良く計算された破壊だ、と感心したい所だが、そんな時間的余裕も無い。


「俺を生き埋めにするつもりか、糞ったれ!」


 悪態を吐き踏み出そうとした脚は、力が入らずふらついてしまった。

 普段通りの彼であればこの程度の窮地、切り抜ける方法は幾通りでも持っている。

 次元の穴を開けても良いし、普通に跳んで逃げても良い。宮殿を丸ごと消し飛ばしても良いし、何なら一度埋まった後で、積もった瓦礫を吹き飛ばしても良い。

 が、それらはあくまで平常時の話。今の、満身創痍で力の一片まで使い果たした状態のコオヤでは、どれも実行する事は困難だ。

 しかし迷っている時間は無い。恐らく崩落に巻き込まれた所で即死する事は無いだろうが、この重体のまま時間が経てば、流石に死ぬ。

 聖王国軍の救助が如何に速いか、何て賭けに乗るのは、ギャンブルの嫌いじゃないコオヤでも遠慮したかった。幸い外までの道は近い、窓なり破壊された壁の穴なりから大空に飛び出せば、それで万事解決だ。

 だが、その近所のコンビニに行くよりも気軽な距離が、限りなく遠い。よろめく身体で稼げる歩幅はあまりに狭く、崩壊の振動一つで容易く揺らぐ。

 まごついている間にも、次々と階下が崩壊していく様子を、コオヤの優れた五感は感じ取っていた。

 後何秒持つ? 自分に問い掛ければ、三十秒位じゃねーの、という投げやりな答えが返ってくる。


 間に合うか――? いや、間に合わせる――!


 こんな所で枯れた中年男性と墓を一緒にするなど、冗談では無い。意地を張って懸命に脚を踏み出すが、疲弊した身体はやはりナメクジのように遅々として進まない。

 残り二十秒――。このままいけばギリギリ間に合う、そう希望を抱いた瞬間。


「ガレオス様の仇!」


 すっかり原型から離れた部屋の入り口、その影から、複数の兵士らしき者達がまろび出てくる。

 無骨な剣と鎧を身に付けた彼等は、崩れる宮殿の振動など物ともせず、一路コオヤを目指してひた走った。この宮殿が崩れることなど分かっているだろうに、瞳には恐れはなく、憎しみと覚悟だけが浮かんでいる。


「ちっ、面倒な!」


 間違いなくガレオスの臣下。それもどんな奇特な連中か、あの非情な男に相当な忠誠心を抱いているらしい。

 感じ取る限り彼等は全て雑兵であり、今のコオヤでも蹴散らす事は十分に可能であったが……。


「時間が足りない、かっ」


 歯を食いしばり、振り下ろされた剣ごと相手を殴り飛ばしながら、コオヤは呻く。

 こんな雑魚を倒すのにも、今の自分では十……いや、二十秒は掛かる。この状況でそれは、致命的なタイムロスだ。

 かといって無視も出来ない。瀕死の自分を害する程度なら、彼等にだって可能だろう。最悪足止めさえ出来れば良いのだから、それこそ羽虫のように纏わり付くだけでも十分足りる。

 後十秒――。残る兵士は五人、たった今減って四人。


(間に合わない。駄目か、こりゃ)


 仕方が無い、救助を待つしかねぇか。そう、気の乗らない賭けに自分の生死を託そうとした、その時。


 ――騎士が、舞い降りた。


 天井に開いた穴。そこからコオヤの目に前に降り立ったのは、真っ白な全身鎧を纏った、一人の騎士。

 見覚えがあった。忘れる訳が無い。この世界に来て初めて、自分の心を躍らせてくれた相手なのだから。

 その腰に今度は四本の剣を携えて。かつて奴隷競売場で戦ったあの騎士は、無言で迫る兵を切り伏せた――。

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