第11話 理性と本能
――何て、遠い。
そう、素直に思った。どれだけ拳を振るっても、蹴打を放っても、まるで届く未来が見えない。
目に映らず、意識にも留まらず、けれどこれだけ捌かれれば流石に分かった。何かしらの、認識すら出来ない攻撃によって私の攻めの全てが撃ち落されているのだ、と。
未だ自分が生き、形だけでも戦っていられることが信じられない。あの彼が、ここ数日で少しはその気性を理解出来た彼が、何故未だに受身に回っているのかが理解出来ない。
自分など、馬車の前に飛び出した子狐よりも呆気なく圧し潰されその命を散らす、それが戦う前の予想だった。勿論負けようと思って戦いに赴いたわけでは無い、だが覚悟に燃える頭の中に存在する冷静な脳細胞の欠片は、正しく彼我の実力差を認知し、それに違わぬ結果予想を出していた。
詰まりは、自身の完膚無きまでの敗北。その事実を理解していたからこそ、私は奇跡に賭けるという最終手段に出て――今正に、その奇跡の一端を目の当たりにしている。
どうして彼は、仕掛けて来ない? どうして彼は、私を叩き潰さない?
彼の性格ならば、自身が今まで騙されていたと知れば、容易く怒りを顕にするだろうに。もし遊んでいるというのならば、以前刺客に襲われた時のように、もっと楽しそうにするだろうに。
分からない、分からない、理解出来ない。けれどそれでも、私はひたすらに攻め立てるしかない。彼を殺す為、その奇跡を掴み取る為。
あまりに己の予想と違う現実に戸惑いながら、それでも懸命に足掻き続ける。大切なものの為に――今はそれしか、出来ないから。
「せああああっ!」
一際大きな裂帛の叫びを中庭に響かせ、私は彼に襲い掛かって行った。
~~~~~~
幾度となく飛び掛り、しかし幾度となく弾かれる。
戦闘開始から三分。時間にすればたったそれだけだが、交わされた拳の数は既に三百を超えていた。だがそれだけの攻防を経て尚、フェリナの攻撃は一度足りともコオヤの身体を捉えていない。
「くっ!」
戦闘が始まってから初めて、フェリナが大きく後ろに下がり距離を取る。体勢低くいつでも突撃出来るよう身構えてはいるが、その呼吸は荒れ、全身から汗が噴出し、疲弊の色を濃く示している。
たった三分で、と思うかもしれない。だが例えるならば彼女は、常に百二十パーセントの力で全力疾走しているような状態なのだ。しかも、圧倒的な強者に挑みながら負けるわけにはいかないという、全身に鉛の重りを巻きつけられたかのような感覚の中で、である。
その恐るべきプレッシャーは、彼女の身体から急速に体力を奪っていく。限界を超えた駆動も相まって、既に彼女の体力の大部分は空しく散り果てていた。こうして、露骨な休息を取らねばならぬ程に。
(どうすれば良い……? どうすれば届く? どうすれば殺せる?)
気を張り警戒を緩めぬまま、心の中で自問した。
頭の中で幾通りもの殺害方法を検証し、動きが硬直した彼女へと、この戦いが始まって初めてコオヤが口を開く。
「もう、来ないのか?」
「!」
「なら――終わらせるか? この勝負」
声を荒立てることも無く告げられたその言葉には、自身の力への絶対的な自負と、現実を示す冷酷な響きが同居していた。
終わらせる。それは決して此処で手打ちにしようと、もう戦いなんて止めて話し合おうと、そんな生温い提案などでは無い。お前を打ちのめしてそれで終わりだと、すぐさま終わりに出来ると、そう告げているのだ彼は。
フェリナの総身に怖気が走った。もし此処で頷きなどすれば、彼は本当に言葉通りに実行する。この戦いが、その時点で終わる。そう、確信し恐怖した。
戦いが始まる前は、負けることも覚悟していたはずなのに――実際に敗北がすぐ目の前に突きつけられた途端、怖くなったのだ。負けることが、失うことが。
だから彼女は、感じるままに行動した。心の奥底から湧き上がる、何を犠牲にしてでも勝つ、という濁った思いに突き動かされ。
「まだだ……っ! 終わるなら、この戦いが終わるならば、それはっ……貴方が死ぬ時しか無い、あってはならない!」
「! フェリナ、いけない!」
何をしようとしているのか悟ったカルナが咄嗟に制止の声を上げるも聞かず、フェリナは禁手を解放した。大きく変貌する、地に四肢を着けた彼女の姿。
全身がその髪のような栗色の毛に覆われ、骨格を含めた身体の構造が変化する。目はより大きく鋭く、口もまた肥大化し、隙間からは刃のように鋭い牙が顔を覗かせた。
全体的に大きさは一回り程巨大化し、耐え切れなかった衣服が千切れ飛ぶ。極めつけとばかりに尾の尻尾が三本に増え――彼女は完全なる獣と化す。
「グルルルルルルル……」
犬歯をむき出しに唸りを上げる、一匹の大狐が今戦場に現出した。
「そんな……まさか、獣化するなんて。あれはカリオンの中でも、相当に獣の割合が大きい人しか出来ないはずなのに」
驚愕するイリアに、レストは紅茶を一口味わってから、
「どんな時代、種族の中にも居るものだ。本来出来ないはずのことを成す、特異な才を持った者というのは。とはいえどうやら、無償で使えるわけでも無いようだが」
「ど、どういうことですか?」
「何。軽く計った程度だが――どうやらあの形態を維持することは、彼女に取って相当な負荷であるらしい。このまま使い続ければ、寿命を縮めてしまう程に、ね」
「そんな!?」
驚愕と、心配の眼差しでフェリナを見る。事情は良く分からずとも、今の彼女は敵になってしまったと理解してはいるが、それでも幾日も寝食を共にした仲だ。
特に彼女が来る以前、屋敷の家事の多くを引き受けていたイリアは、仕事を教え引き継ぐ為にフェリナやカルナと多くの時間を共有している。それこそ、友達と呼べる程の友情が形勢される位には。
その上で、イリア自身の優しい性格を考慮すれば――心配を抱くな、という方が無理な話。自然、胸の前で握られた両手に、力が籠もる。
(コーヤさん……)
そうして、縋るように思慕を抱く少年の背中へと祈り願う。あの、とても苦しそうで、悲しそうで――今にも壊れてしまいそうな友人を、どうか救って欲しいと。
人一人救うということがどれだけ難しいか理解していて尚、コーヤさんならば。そう、無力な自分を苛むと共に、希望を託して。
そんな、真っ直ぐな願いを背中に。真っ直ぐな殺意を正面に。強く向けられた本人は、騒がず動じず。
「へぇ。正に本物の獣だな、こりゃ」
軽く言って、欠伸を浮かべる。
その舐めきった態度にカルナが嫌悪を超えて憎悪すら浮かべる前で、四本の脚に力を籠めたフェリナは、湧き上がる戦闘本能のままに地を突き飛ばした。
「ガアァア!」
獣の身体が急速加速。それまででさえイリアやクランの目には残像もまともに残らない程の速度であったというのに、今度はそれよりも更に速い。音を超え、空気を引き裂く異音を後方に置き去りにしながら、その鋭く尖った爪を振るう。
そこいらの剣などよりも遥かに殺傷力の高い、五本の凶刃。鋼鉄さえも容易に切り裂くであろうそれに、しかしコオヤは焦らない。
すっ、と一歩引く。それだけで、凶刃は虚空を切った。
紙一重の回避を見事に決められながら、それでもフェリナは肥大化した本能のまま、更に地を蹴り爪を、牙を限界まで酷使して急所を狙う。
だが、それもやはり容易く避けられる。軽く流れるような動きで、先程までとは違って見えない程速いわけでもないと言うのに、あっさりと。
届かない、届かない、届かない。ほんの僅かな、それこそ千分の一センチにも満たない距離が、あまりに遠い。常人には到底成しえない、獣の本能と身体能力からくる高速攻撃の全てが、余す事無く見切られている。
それは、普通ならばありえないこと。人間であるコオヤに、獣の本能を理解できるはずがない。こうまで完璧に、見切れるはずが無い。
だがそれでも、現実は無情で。フェリナの決死の突撃は、ただの一撃もかすること無くただ空を捉えるだけに終わる。
「ヴアァアアッ!」
「――馬鹿にも程がある」
やがて、何度目の攻防か。遂に攻撃の為に振るわれたコオヤの左拳が、フェリナを打ち抜く。腹部を突き抜ける衝撃に一瞬息が止まり、視界は明滅。意識が飛びかけ――地に叩きつけられる痛みで、浮上する。
「フェリナ! しっかりして下さい、フェリナ!」
己の名を呼ぶ親友の悲痛な声が、意識を黒き海から完全に引き上げた。そうしてすぐ傍で心配そうに此方を覗き込むその顔に、弾け飛んでいた理性が少しだけ回復し、しかしすぐに戦闘本能に覆われかけ――
「フェリナ」
倒すべき敵からその名を呼ばれ、ギリギリで繋ぎ留められる。判然としない思考回路の中、回復も兼ねて警戒と共に様子を窺う。
だが獣らしい犬歯を剥き出しにした恐ろしい威嚇も気に留めず、コオヤは続けた。
「お前、とんでもない馬鹿だな」
見下しているというよりは、単に呆れているような言い方だった。怒りよりも先に困惑を感じ動きを止めるフェリナへと、彼は一方的に言う。
「獣化、だっけか? 確かに身体能力は上がったよ。獣らしく俊敏で、人間離れした動きもしていた。だがよぉ、そんなん意味無い位弱体化してんじゃ、例え奇跡が起きたって俺に届く訳無かろうよ」
「ア、ア?」
意味が分からず、困惑は更に大きくなった。
獣になったせいで人語も話せなくなってはいるものの、その唸りから心情を読み取ったのか、コオヤは更に呆れを深くする。何でこの程度のことも分からないんだか、と。
だがそう思われた所で、彼女には何のことだか分からない。それは獣化の影響によって思考能力が鈍っていることもそうだが、何より追い詰められこれしかないと、そう縋りついた最終手段であるが故に、弱いはずが無いと決め付けているから。
だから、どうして自分の攻撃がまだ届かないのか。それどころか、もう迎撃されることすらない程に遠ざかってしまったのか。それが、理解出来ない。
「断言する。お前は、獣化してない時の方がずっと強いよ。何でか分かるか?」
「…………」
「分からない……いや、そんなはず無いって顔してんな。狐の顔なんて分からんから、何となくだが。まあ、何故なのかと問われれば、理由は単純だ。理性を、捨てちまったからだよ」
不思議と、フェリナは黙って彼の話を聞いていた。増幅された闘争本能のままに暴れ、襲い掛かってもおかしくない獣化した状態であるにも関わらず、だ。
それは多分、増幅されたが故に感じ取っていたのだろう。彼の言っていることは正しいと、本能で。
「理性ってのは、俺達人間――いや、お前達他人種を含めた『人』という存在にとって、大きな力だ。生物ならば従わざるを得ない、本能って奴に抗い勝り得る、偉大な力だ。それがあるからこそ俺達『人』は、本能だけの獣に勝てる」
ふー、と言いたいことを纏めるように、一度息を吐く。
「それに比べればよぉ。獣になることで得られるちいとばかしの強化なんて、雀の涙みたいなもんだ。むしろその技を、思考を、放棄することによる弱体化の方がよっぽど大きい」
「ア、ガ……」
「だがそれじゃあ届かないってか? ま、その通りだわな。ならどうすれば良いのか――単純だ。本能を、理性で制御する。そんな、当たり前のことで良い」
それは、人ならば当たり前のことだった。極々自然で、当然で――それ故に、難しい。
「コーヤの奴、何考えてんのよ……? 自分を殺そうとしている相手に、助言するなんて」
「分かりません。でも、きっとコーヤさんにも何か、考えがあるんだと思います」
「本当に? ただ思ったことを垂れ流してるわけじゃなくて?」
「……多分」
疑わしげなクランに、イリアは目を逸らしてそう返す。
いまいちコオヤの考えが分からない二人だが、きっとフェリナへの説得に繋がるのだろうと、そんな希望的観測に身を任せることにした。というかそれ以上に、出来ることが無かったのだ。
幾ら友人になったとは言っても、たかが数日。事情も知らない自分達の言葉ではきっと彼女に届かない。だが同じく共に過ごし、命を狙われている本人の言葉なら――少しは、届くかもしれない。
「獣の本能に、人の理性。二つを合わせれば、もっと高みに届くだろ。もっとも、俺にまで届くかどうかはまた別だがな」
実に投げやりで、かつ何気に自分の実力を自慢するような言葉。けれどそこに悪意は無く、彼はただ自分に言えることを言っているだけ。
コオヤは努力を重ねてきた人間では無い。むしろいつも怠惰で、フェリナとは真逆の人生を送ってきた人間だ。だから確かなことは言えないが――それでも圧倒的強者からの助言は、彼女の胸に深く刺さった。
「…………」
「! フェリナ?」
僅かな沈黙。後、急速にフェリナの身体が変化を遂げる。
再度の変貌に驚くカルナの前で、全身を覆っていた体毛が次々にその面積を縮めていく。気付けばその体格も、顔も、すっかり人の姿に戻っていて。けれど全てが、前と同じなわけでは無い。
目に見えない所に、変化はあった。そう、何より大切な、『心』に。
「……コーヤさん」
自分を支えようとするカルナの手を振り切って、力強く立ち上がる。脳裏に過ぎるのは、今までの自分。積み重ねてきた、全て。
「……そうだな。私は、間違っていたよ。安易に獣化という手段を取り、積み重ねてきたものを捨ててしまったこともそうだが――何より、逃げたんだ。遠すぎる貴方という壁にぶつかって、理性を捨てて本能に……考えることを、前を目指すことを放棄した」
逃げ出さないと、決めていた。そしてその通り、圧倒的な力の差を見せ付けられても尚、彼の前から逃げなかった。身体、だけは。
――だが、心は?
逃げ出していた。そう、思う。彼に指摘されて、落ち着いた頭で考えて。ようやく、それに気付けた。
本能に全てを任せる。成程確かにそうすれば、反射的な戦闘力は上がるだろう。無駄な思考などせず、がむしゃらで読みにくい。けれどそれは所詮、獣の領域での話。
鍛えられた人間の思考、即ち理性は、時としてそれを上回る。積み上げ、形作った自分だけの理性が、本能の反射を凌駕する。
けれどそうする為には、考えなければならない。考え続けなければならない。どう攻めるか、どう守るか、どう勝つか。例えそれが途方も無く遠い、圧倒的強者が相手でも。
フェリナは、その思考の渦から逃げたのだ。どれだけ考えても答えの兆しすら見えない暗闇に囚われ、恐れ、逃げ出した。
仕方が無い。誰だって先の見えない、希望の見えない道は怖いし嫌だろう。けれど、それでは駄目なのだ。普通ならば良くとも、奇跡を掴み取りたいというのなら、目を逸らし背を向けてはならないのだ。
前を向いて抗い続けるからこそ、奇跡に届き得る。そんな簡単なことにさえ、自分は気付いていなかった。否、無意識の内に拒絶していた。その道が、辛いものだと分かっているから。
「愚かだ、私は。ならば何の為に、努力を積み重ねてきたというのか。何のために、獣の力を持つ我らの種族に、理性があるというのか。決まっている――本能だけでは、到達出来ぬ領域があるからだ」
強く、拳を握り締める。幾度も握りこみ、振るってきた拳の形。先程まではこんな基本形でさえ、出来てはいなかった。
鋭く長い、爪の方が強い? ――否。確かに最初はそうかもしれない。だが……正しく鍛えた拳は、その鋭さを容易く凌駕する。
「そうだ、それこそが成長。それこそが、進化。私達カリオンが、今の形を取った理由」
真実は知らない、分からない。けれど今は、そう信じよう。それが正しいと、心がそう感じているから。
「コーヤさん」
だから今、この想いを拳に籠めて。
「今度こそ、私の全てをぶつけよう。何処までも高く、先の見えない貴方という存在に。理性だけで無く、本能だけでなく、その両方を以って。私は今、奇跡へと手を掛ける」
「……狐は知らんが、人なら分かる。良い面構えになったもんだ。良いぜ……掛かって来な」
言いながら、コオヤは羽織っていた学生服の上着を脱ぐと、獣化から戻ったせいで全裸のフェリナへと放り投げた。
「貴方は敵だ。礼は言わないぞ」
「構わんさ。流石の俺も、素っ裸の女は殴りづらい」
「私への気遣いではないのだな。全く……貴方らしい」
「そりゃそうだ、俺は俺だからな。お前が今、お前であるように」
掴み取った上着を羽織り、小さく笑う。
――そうだ、私らしくぶつかろう。きっとそれが、一番強い。
気を全身に巡らせる。獣化を応用し、本能だけを強化して、しかし強い心、正しい理性で制御する。
(確信が、ある。今なら――ずっと出来なかったあの技が、出来ると。本能が、教えてくれている)
幾度と無く練習を重ね、しかし一度も成功したことの無い技。ずっと何が足りないのか分からなかったが……今は、強化された本能がその足りない部分を教え、補填してくれている。
(この技ならば。億に一つ、コーヤさんに届くかもしれない)
あまりに低い確率。しかし上等だ、ゼロだった先程までと比べればよっぽど可能性がある。元より無謀な戦い、賭けるにはそれで十分。
「さあ。勝負だ――コーヤさん!」
決着へ。今、少女は奇跡へ走り出す――。
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