第16話 過去回廊
――始まりは、五歳の時だった。
幼いコオヤの家庭は、決して『良い家』ではなかった。酒とギャンブルに溺れる父親と、男と薬に溺れる母親。絶えぬ怒声と暴力は、誰もが抱く『最低な両親』の体現者といっても過言ではない。
そんな家に生まれれば、大概の子供はボロ布のように成り果てるのかもしれなが、彼は違った。親からの虐待を受けてもその身体は何一つとして傷つかず、比較的成熟した冷めた精神性は自己の管理を容易に可能とさせる。
何せ生まれてから一年と経たない内に、部屋内に散乱し放置されたゴミの山から紙幣を見つけ出し、近くのコンビニへと己の分の食事や生活用品を買いに行っていたのだ。とても幼児の行動ではない。
当然両親は、そんな子供を不気味に思った。しかし、酒や薬で低迷した思考能力ではまともな感性などすぐに流されるもの。彼の異常さは無視され、二人はただ己のイラつきを発散するだけの行為を繰り返した。
そうしてその日。いつものように弁当を買い、住居である築三十五年の木造ボロアパートに帰ったコオヤは、室内に見慣れぬ影を発見する。いや、両親が連れ込む欲望の発散相手という点では見慣れぬ人物が部屋に居ることなどしょっちゅうなのだが、その日の影は明らかにこの魔窟には相応しくないものだったのだ。
影は、少女だった。コオヤと同い年程度の小さな女の子。泣き喚くその子の服を笑みを浮かべ、局部を大きくしながら乱暴に剥ぎ取る父親と、それを同じく狂ったように笑い、涎を垂らす口に薬を詰め込みながら見る母親。その光景を見た瞬間、コオヤはコンビニ袋を床に放り投げると、冷めた瞳で一歩踏み込んだ。
繰り返すが、この時彼は五歳である。未だ未熟な身体の幼児であり、本来ならば拙いかけっこやヒーローごっこに精を出すのが一杯一杯の小さな子供。
だが、軋む腐り掛けの木床を音を立てて砕いた彼の踏み込みは、それだけでその身体を残像を残す程に加速させ、一秒と立たずに両親の前へと辿り着かせた。
放たれる右拳。的確に父のこめかみを抉った一撃は、小汚い巨体をきりもみ回転させる。まるでトラックと正面衝突したかのような勢いで発射されたぶよぶよの砲弾は、脆く薄いアパートの壁をぶち抜き、五十メートル以上離れた近くの公園へと着弾。回転していた為に分かりづらかったが、空を旅する間その頭部から脳漿のシャワーがばら撒かれていたのはおそらく見間違えではあるまい。
突如差し込む太陽光と消えた伴侶に、思わずポカンと口を開け呆ける母。その顔面へと、真正面から小さな拳が激突する。アパートに新たな出口を開け吹き飛んだその末路は、語るまでもないだろう。
あまりの事態に泣くことも忘れ呆然と此方を見る少女を横に、吹き込む風を受け目を細めたコオヤは、五年間過ごした思い出の場所に唾を吐きかけるとコンビニ袋を拾い上げその場を後にした。
感慨は無かった。五年も共に過ごしておいて何だが、親子の情など欠片も抱いていない。ただ今までは邪魔でもないので放っておいたが、今回の光景を見て生きているべき人間ではない、と判断して処分しただけのこと。
初めて人を殺したことにも、特に後悔はない。常人と隔絶した実力差を持つ自分にしてみればこの程度、弁当をレンジで温めるよりも簡単なこと。元よりまともで無い環境と素養で育ち、まともではない感性を持った今の彼にとっては、親子であることすらおまけにもならない。
そうして彼は暫くの間、放浪生活を送ることとなる。
『コオヤは強いけど、強くないよ~。僕にとっては~』
――眠たげな声が、聞こえた気がした。
転機が訪れたのは家を出てから二年後。それまで路地裏で生活していたコオヤを警察が見つけ、保護されることになったのだ。
別段、路地裏生活に不備があったわけではない。頑強な身体は怪我も病気もしなかったし、寒さや暑さに喘ぐこともない。食事も、時折絡んでくる録でもない連中から巻き上げた金で十分賄えた。
だが、彼は満たされなかった。何の夢も目的も指標も無く生きる日々。唯一己の持つ『力』でさえ、強すぎて満足に振るえない始末。
イライラは積み重なり、偶々警察に見つかったのをきっかけに環境を変えようと、特に抵抗もせずに保護され、孤児院へと入れられた。
そのままなし崩し的に小学校にも入り。そこで、親友(クオン)と出会ったのだ。
負けた。負けに負けて負けた。今までどんな人間も赤子の手を捻るが如く蹴散らしてきた自分が、今度は蹴散らされる番だった。
最初は悔しくて、がむしゃらに挑んだ。無論、今でも悔しいことに変わりは無いがしかし、何度と無く挑む内に、気付いたのだ。心の何処かで、清々している自分がいることに。
幾度も打ちのめされて。しかし、いつしかイライラは治まっていた。
『いやだ! おまえのいったことはまちがいだ。だからいやだ!』
――強い意志を秘めた声が、聞こえた気がした。
二度目の転機は、そのまた更に一年程後。学年が変わり、クラスメートが入れ替わった四月のこと。
詳しい所まではもう覚えていない。確か何かの授業でグループを作って、そこで偶々一緒になったのが最初の出会い。そうして、もう一人の親友――シオンと、口論になったのだ。
始めは下らない言い合いだったと思う。何故言い合いが始まったのかも覚えていないほどに些細なことだ。けれどそれは段々とエスカレートし、そして遂に決定的な一言を口にした。
内容は……やはり良く覚えていない。けれど確か、『家族など下らない』と、そんなことだったと思う。そこから転じて、自分の両親と重ねて彼の家族をきっと本当は録でもない人間だろうと、否定したのだ。
当然シオンは激怒した。そして勢いのままに掴みかかってきたので、殴り飛ばしてやった。吹き飛ぶ小柄な身体。当然、未だ小学生の身には大き過ぎる一撃だ。
手加減はしたものの、暫くは立ち上がれないだろう――そう思っていた心はしかし、震えながらも立ち上がってきた少年の姿によって否定される。
眉を顰め、しかしそんなこともあるか、と気楽に考えた。そうしてよろよろと近づいて来る彼へと、今度は掌打を繰り出す。避けられるはずもなく、シオンは幾つかの机を巻き込んで再びふっ飛んで行った。
周りの子供達はざわざわと騒ぐものの怖がってか近寄らないし、教師は偶々席を外していて教室には居ない。完全なる無法地帯。とはいえ、それももう終わりだと軽く嘆息しコオヤが背を向けようとした、その時。
背後で、動く気配があった。シオンだった。震え、よろけながらも、強い意志を宿した双眸だけが爛々と輝いている。
理解できず、思わず眉を顰めた。途絶え途絶えに何かを言いながら近づいて来る彼を、三度吹き飛ばす。けれど彼は、それでも立ち上がり向かって来た。
殴る。立ち上がる。殴る。立ち上がる。殴る。立ち上がる。殴る。立ち上がる。殴る。立ち上がる。止めとばかりに蹴り飛ばし、しかし立ち上がる。
どれだけ痛めつけても、何度諦めろと促しても、彼は必死で立ち上がってきた。自分から見れば絶対的な弱者であるはずなのに、何故か此方が押されているような気さえする。
結局、決着はコオヤが折れる形で着いた。シオンの言い分を認め、謝罪したのである。
ありえないはずの敗北。けれど不思議と、悔しさは感じなかった。
『自分を超えて、誰かを想う。きっとそれが、愛。かな?』
――春の日差しのように温かな声が、聞こえた気がした。
その日、コオヤはシオンの家へと初めて遊びに来ていた。激突を機に何だかんだで意気投合し、友人となってからおよそ半年。クオンとも下らない言い合いが出来るようになり、三人一緒に過ごすことの多くなった、休日のある日のこと。
クオンから用事があって少し遅れるという連絡を受け、仕方ない奴だと苦笑しながらも家のチャイムを鳴らせば、間も無くシオンが扉を開けて出迎えてくれた。そのまま軽い挨拶と共に中へと案内される。
緊張というわけではないが、誰かの家へとお邪魔するなど今までにないことで、妙な違和感というか、まごつきを感じたのは覚えている。ともかくさっさと部屋へ行こうと、大人しく前を歩く親友の後を追い廊下を歩いていた、その時。
扉が開いた。それなりに長い廊下の、右から二番目。出てきたのは、一人の美しい女性であった。
年の頃は二十から三十といったところか。特段女性に関心を持ってなどいなかった自分には、正確な年齢を見た目だけから算出するのは些か難しい。ただ、そんなことなど問題にならない位、心の中は一つの感情で支配されていた。
温かい。そう、思った。まだ一つの会話もせず、彼女のことなど何も分からない。ただその姿を目にしただけだ。にも関わらず、漠然と太陽の光を一杯に浴びた時のように、そう思ってしまう。
声を掛けられる。自分でも驚くほど狼狽し、情けない声が出た。彼女がくすりと笑みを浮かべ、恥ずかしさについそっぽを向きたくなる。けれど、なんだかそうしたら負けな気がして、下らない意地とプライドで無理やり首を固定した。
ともすれば睨んでいるように見えたかもしれない。だがそんな自分にも、彼女は優しく微笑んで。何も言えず、動けずいると、シオンが頭にはてなを浮かべながらも女性を紹介してくれた。
彼女は何と、祖母だという。驚きのあまり再び固まってしまったコオヤを、誰も責めることは出来ないだろう。ともかく、せっかくだからと彼女に誘われ、もう一人の親友が来るまでリビングで共に話をすることとなった。
楽しく、穏やかな時間であった。彼女はどちらかというと受け側で、あまり自分から話すことは無かったが、不思議と話したくなる雰囲気を持っていた。きっとそれは、彼女自身の生来の気質と、長い時間の経験が合わさって出来たものなのだろう。
自然と目が流れる。気付けば彼女を見ている自分が居て、その度に心が温かくなった。目が合うと、音が部屋中に響くんじゃないかと思うくらい心臓が高鳴って。
それが、異常で普通ではないコオヤの、当たり前でしかし少し普通ではない初恋だった。
『砕けやしないさ、決して。それが俺とあいつの、真実の愛、だ』
――子供のように無邪気で、眩しい位に輝く声が、聞こえた気がした。
それからの日々は、賑やかで、騒がしくて、けれど温かいものであったとコオヤは記憶する。恋にはすぐに敗れることにはなったが、あの女性――婆さんとその夫である爺さんは、自分をまるで本当の子供のように可愛がってくれた。時に褒め、時に叱り、共に笑う。
捻じ曲がった感性を持ってしまっていたコオヤが、まともで当たり前の、いやあるいはそれ以上に輝き美しい貫くべき『意志』を手に入れられたのは、偏に彼女等のおかげと言うほかない。あの二人は、彼にとっては実の両親以上に確かな親なのだ。
そして親友達。馬鹿でどうしようもない自分と一緒になってはしゃぎまわってくれた、貴重な仲間。彼等のおかげで今の自分は、躊躇わず自身の意思に従って動くことが出来るのだろう。
強すぎる力を持って一人立っていた彼と、肩を並べて立てる存在。それは単純な腕力や脚力ではなく、心の有り様の問題だ。だからコオヤは、口には出さずとも彼等に憧れ、ああなりたいと願っていた。
きっと彼等のおかげでコオヤは、人でない『何か』から、人間へとなれたのだから。
『コオヤ』
――声がする。自分の名を呼ぶ、眠たげな声。
『コオヤ』
――声がする。自分の名を呼ぶ、強い意志を秘めた声。
『コオヤ』
――声がする。自分の名を呼ぶ、春の日差しのように温かな声。
『コオヤ』
――声がする。自分の名を呼ぶ、子供のように無邪気で、眩しい位に輝く声。
何処とも知らない暗闇の中、ふわりふわりとコオヤは浮かんでいた。此処が何なのかは分からない。天国かもしれないし、あるいは地獄かもしれない。ただ、とても心地よくて、つい己の全てを任せてしまいたくなる。
それはきっといけないことだ。理由もなく直感でそう感じていながらも、彼は動くことが出来ない。どうしようもなく、身体が気だるい。指一本動かすのでさえ億劫だ。
判然としない頭に浮かぶのは、過去の記憶。こんなこともあったのか、とコオヤ自身が忘れていたようなものまでが鮮明に浮かんできて、人間の脳ってのも案外良く出来たものだな、何て場違いなことを思ってしまう。
気付けば、記憶を辿る旅は終盤に差し掛かっていた。真っ黒な『何か』に入り異世界へと渡る自分。その先でのジンカーとの出会い、騎士との戦い、イリア達の救出。集落で過ごした新しい日々。依頼を受けてクランを助けに行き、帰ってみればまたもイリアが浚われて。そうして一つぶっ飛ばしてやろうと、宮殿へと乗り込んで――。
ノイズが、走った。
苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。頭に激痛が走り、いやになるほど鮮明にあの戦いが思い起こされる。
手も足も出なかった。無様に過ぎる敗北だった。親友に負けた時のようにすがすがしくもない、負けてはいけない戦いでの、あってはならない惨敗であった。
炎が灯る。胸の奥で燃える、どす黒い獄炎。己を見下し、あるいはそれ以上に屈辱的な無感情な瞳。向けられる興味を失った平淡な瞳を思い出した瞬間、音が鳴るほどに強く歯を食いしばった。
妄執に彩られ、世界が霞む。聞こえていたはずの温かい声たちは、雑音混じりの壊れたラジオのように奇怪な騒音へと変貌する。あらゆる思いが交じり合い、この奇妙な空間がはちきれそうに軋みを上げた。
『コオヤ』『コオヤ』『コオヤ』『コオヤ』『コオヤ』『コオヤ』『コオヤ』『コオヤ』『コオヤ』『コオヤ』『コオヤ』『コオヤ』『コオヤ』『コオヤ』
頭を振る。大きくなり続ける憎悪と消えて行く温かさに、絶叫を上げようとして。
『コーヤさん』
聞こえた声に、目を見開いた。
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