第9話 金の奴隷
「くふふふふくふ」
一人部屋、と言うには少々広すぎる位には広い部屋の中に、押し殺したような不気味な笑い声が響いた。
多様に飾り付けられた内装は豪華ではあったが、同時にいかにも成金、と示すが如く悪趣味だ。それだけで、この部屋の住人が碌な人間でないことが良く分かる。
「いやいや、やはりわしは運が良い。くふふくふ」
そんな部屋の中央で、またも不気味な笑い声を上げる影。その正体は、醜く肥え太った中年の男――以前コオヤに奴隷を奪い取られた、豪商のトランドであった。
いやらしく舌なめずりする彼の視線の先には、部屋に備え付けられたこれまた悪趣味な飾りつけのされたベッドがある。
流石豪商と言うべきか、巨大で柔らかそうなそのベッドの上には、彼とは違い小柄で細い人影が。
「…………」
それは、少女であった。金色の長い髪を所謂ツインテールに纏め、勝気な瞳でトランドを睨みつけるその顔は、美少女と呼んで相違ない。年の頃は十六・七程だろうか。体は女性的と呼ぶには少々貧相ではあったが、しかし薄い布一枚を纏っただけの肉体は、彼女の美しさと相まって男を釘付けにする艶めかしさがある。
そして何より、少女の耳は長く尖っていた。エルフだ。首には何らかのの金属で出来た硬質な首輪が付けられており、おそらくは奴隷なのだろうと読み取れる。
「…………」
「ふん、この状況になってまでそれとは、随分と強気なことだ。まぁ幾ら睨んだところで、何も出来はしないがな」
少女の敵意を一笑に伏し、トランドはベッドに近づいた。敵意が更に強くなる。だが、それさえも軽く切り捨てて、トランドは遂にベッドへと辿り着く。
そうして反応を楽しむように、わざとらしくゆっくりとベッドに乗ると、少女へと迫る。
「っ! この……!」
思わず、といった様子で少女が手を振りかぶる。そうしてそのまま、自身に迫る脅威へとその手を振り下ろそうとして――
「っあああああ!?」
突然叫び声を上げた。更にはまるで全身を殴打されているかのように、体を縮み込ませ震えている。
「ふん、無駄なことを。既に契約の魔法が成立している以上、反抗することなど出来はしまい」
かつて競売場でコオヤがイリア達奴隷を助けた際には、売買こそ成立していたものの、まだ契約の魔法は掛けられていなかった。その為逃げようと反抗しようと問題はなかったのだが、この少女の場合は既に契約が成立してしまっている。主であるトランドに反抗するような真似をすれば、魔法の効力によって苦しみ、最悪死に至ることになるのだ。
やがて痛みが治まると、少女は苦しそうに大きく呼吸を繰り返した。反抗した際の痛みは契約の魔法を施した者の腕や、奴隷の意志力によって異なるが、少なくともまともに行動出来ない程のものであるのは間違いない。
特にこの少女の場合はその強気な性格が災いし、一際強い痛みを受けていた。それこそ、四肢を切断されるような苦しみを。
「こ、の……っ」
「あれだけの痛みを受けて尚、そんな態度を取れるとはたいしたものだ。だが、もう分かっただろう? 抵抗したところで無駄だ、とな」
「それが、どうした、ってのよ……!」
「つまり、お前は大人しくわしの慰みものになるしかない、ということよ」
にたりといやらしい笑みを形作るトランドの顔を、少女は再び睨みつける。あれだけの痛みを受けながら、彼女の意志はまだ折れていなかった。トランドの言葉を覆すように、彼女は叫ぶ。
「誰があんたなんかの!」
「全く、本当に強情な奴だ。しかしまぁ、それも結局は無駄だがな」
「ふん、それはどうかしらね。たしかに私は、あんたを害することは出来ない。けど……」
「死ぬことなら出来る、か?」
「っ!?」
考えていたことを当てられ、少女はびくりと身体を震わせた。感じる嫌な予感に、思わず両腕で自らの体を掻き抱く。
「お前程度の考えが、わしに分からぬとでも思ったか。大方このまま犯される位ならいっそ、契約の魔法によって死んだ方がましだ、とでも思ったのだろう」
「そ、そうよ。でもそれが分かったところで何だっていうの!? 反抗するだけなら、意思さえあれば出来る。例え手足を縛り上げても、私が死ぬのは止められないわ!」
背筋を駆け上る怖気を必死で抑えながら、少女は懸命に反論する。だがそれは、トランドの余裕を崩すにはあまりに不足。
「確かにな、普通ならばそうだろう。しかしお前、わしの言ったことを聞いていなかったのか?」
「……?」
「言ったはずだぞ、無駄だ、とな。……両腕を広げろ」
「? 何、をっ!?」
少女の顔が驚愕に染まる。トランドが命令した途端、己の意思とは裏腹に、身を掻き抱いていた腕が綻んでいったのだ。そのまま両腕を広げた少女は、訳がわからず己の腕へと視線を彷徨わせる。
(そんな!? 私の意志とは別に、体が勝手に……!? まさか、これって)
「お前が非常にやんちゃな奴である、というのは捕まえた奴隷商から聞いていたのでな。この間のこともある、念には念をいれようと、特別な契約魔法を掛けてもらったのだよ」
「特、別な?」
呆ける彼女へ容赦なく、トランドは非情な現実を告げる。
「そう。通常のものと違い、わしが命令すればお前の身体はそれに従い勝手に動く。本人の意思など関係なく、な」
「そん、な。それじゃあ」
「そう。お前は死ぬことも出来ず、わしの命令を忠実に実行する玩具になったということだ。くはははは! 特別だけあって金は掛かったが、何、それもわしにしてみれば所詮ははした金よ!」
「この、下衆が……!」
少女が再びトランドを睨む。しかし始めと比べどこか弱弱しい眼光は、彼を何ら怯ませることもなく、むしろその顔を愉悦に歪ませるだけであった。
そうして遂に限界を迎えたトランドが、少女の腕を掴み押し倒す。あまりの勢いに、ベッドがギシリと音を立てた。
「きゃっ!?」
「ふふふ。あの小僧のせいでけちが付いていたが、わしはやはり幸運の持ち主よ。丁度良く奴隷商がこんな上物を捕まえたところに出くわしたのだからな」
「っ、この……」
「抵抗した所で無駄だと言っただろう。所詮はエルフ、人間に、そしてわしには勝てんのだ!」
押し迫るトランドの威圧感と、これからされることを想像し、少女の体が僅かに震える。
それでも、彼女は睨み付けることをやめなかった。例え身体は抵抗出来なくとも、せめて心だけは――そんな最後の意地と共に、ぎゅっと口の端を噛み締める。
「やはり金とは素晴らしいものよ! 金さえあれば幾らでも好き放題出来る上に、誰も文句を言えん。金の力程優れたものなどありはしないのだ!」
「っ」
少女の顔が僅かに苦渋に歪む。何か言い返したいのに、何も言えない自分がどうしようもなく情けなくて仕方がない。
人間達に迫害され、苦しく、辛い中、それでもエルフ皆で力を合わせて生き抜いてきた。そこにはお金などよりも大切で強いものがある――心の底からそう感じていたはずなのに、しかし今、何も言い返せない。
こうしてトランドの下に居るのも、特殊な契約の魔法によって動けないのも、確かに金のせいなのだ。更に彼は財力にものを言わせて何十もの警備の兵を雇っており、この屋敷を脱出することも、あるいは集落の皆が自分を奪還することも、出来はしないだろう。
ならばやはりお金こそが全てなのではないか――そう、心のどこかで納得してしまいそうな自分がいる。それは、少女の強く保とうとしていた心の殻に小さな皹を入れた。
徐々に大きくなる皹によって、彼女の表情が少しずつ、少しずつ崩れていく。かろうじて体裁を保ってはいるが、その顔は今にも泣き出しそうなもので。
「くははははは、世の中金が全てよ! 金に勝るものなど、ありはしないのだ!」
「――いや、二つあるぜ」
突如聞こえてきた声に、涙は止まり、目を見開いた。
「な、なんだ!? 一体誰だ、何処から……っ!?」
部屋中に響き渡る、硝子の割れる大きな音。そうして部屋の中へと、窓を突き破り一つの影が飛び込んでくる。ぼやけた視界に映るそれは、間違いなく最近集落でよく見るようになった少年のもので――
「愛と、暴力だ!」
飛び込んできた影。コオヤは、不敵な笑みと共に宣言した。
「き、貴様、あの時の小僧!?」
「よう。久しぶりだな、トランドさんよ」
「な、何故貴様が此処に」
「何。そこの嬢ちゃんを迎えに来ただけさ」
彼の言葉に、トランドは思わず少女へと振り向いた。馬鹿な、この女は市場に並ぶ前に自分が買い取った奴隷だ。何故その存在を知っている、そして何故この女を求める。
頭の中に幾つもの疑問が浮かんでは消えていく。しかしその何処にも、コオヤが少女を助けに来た、という考えはない。彼にして見れば人間がエルフを助けるなど有り得ないこと。競売場での出来事も、あくまで気に入った奴隷を持っていかれるのが気に喰わず無理やり奪っていったのだろう、程度に思っていた。
「そうまでして、この奴隷が欲しいというのか!?」
「欲しいと言うか……俺は単に、そいつの親から頼まれて助けに来ただけだよ」
「助けに、来た? 馬鹿な、エルフをか?」
「そ。信じられないのは分かるが……ま、良いだろ。その辺の事情は、よ」
軽く肩を竦めるコオヤ。一方のトランドは、己の理解を超えた理由を前に、口をぱくぱくと開け閉めするばかり。
「それにしても全く、手間掛けさせやがって。奴隷商のところに乗り込んだのは良いが、もう売った後だ何て言うもんだからよ。しょうがねえから何処に売ったのか無理やり聞き出して、急いで此処に来たんだぜ。よりにもよって街の反対側とか、面倒過ぎだろ」
「あ、あの奴隷商め、喋りおったのか!? 使えん屑め!」
「気持ちは分かるが責めてやるなよ。誰だって骨の十本も折られりゃ、話したくなるさ。むしろ随分と頑張ったほうだと思うがね、俺は」
「ふん、結局喋ったのならば意味はないわ」
「そうかい。ま、そんなことはどうでも良いさ。俺は別に、あんたと雑談に興じたいわけじゃない。この間のことで、どうあがいても勝てないのはわかっているだろ? ほら、さっさとその子を渡しな」
まさに余裕綽々、とばかりに欠伸さえ上げながら催促する彼に、追い詰められた筈のトランドはしかし、にやりと笑みを浮かべる。これにはコオヤも思わず首を傾げざるを得ない。
「? どうした、気でも触れたか?」
「くく。いや何、貴様はもうチェックメイトをかけたつもりのようだが、しかしこちらにもまだ駒は残っているのだよ」
「はあ? この状況で何言って「おい!」」
言葉を遮り、トランドが声を上げる。その視線の先に居るのは――
「っ!?」
あの、エルフの少女であった。
トランドの意思に従うように少女の体が動き、そっと立ち上がるとベッドから降りる。そうして、盾になるようにトランドの前へと立ちはだかった。
「ふははは、こいつには特別な魔法が契約の魔法がかけられていてな。わしの意思で自在に動かせるのだ!」
「……成るほどねぇ」
「さぁエルフよ、この男を殺せ!」
言ってトランドは、近くにあったナイフを手に取ると、少女へと渡す。抵抗することも出来ずナイフを手にした少女は、苦悶の表情と共にコオヤへ向かって歩を進めた。
「ふはははは、この狭い部屋の中では録に逃げ場もあるまい! まして貴様はこの女を助けに来たと言う。ならば、女を見捨てて此処から逃げ出すような真似も出来まいて」
高笑いを浮かべるトランドを背に、歩く少女が遂にナイフを振り上げる。内心行っていた僅かながらの抗いも打ちのめされ、駆けだした彼女はナイフを振り下ろそうとして――
「ふん」
鼻で笑ったコオヤのハイキックで、容易くナイフを弾き飛ばされた。しかも飛んで行ったナイフの刃は粉々に砕かれており、もう使い物になりそうもない。
残像すら残さぬ見事な早業に、トランドも、そして少女も揃って目を丸くする。対するコオヤは、変わらぬ態度で欠伸を浮かべ。
「で? もう終わりか?」
「ぐ、ま、まだだ! おいエルフ、奴を殺せ! 首を絞めろ!」
「っ!」
トランドの指示に従い、再び苦悶の表情を浮かべながら少女がゆっくりと歩を進めた。そうして、そっとコオヤの首へと手を掛ける。
「だ、めっ……!」
と。体を震わせ、魔法に必死で抵抗しながら、少女が声を出す。そこには小さく、しかし確かな覚悟が籠もっていて。
「殺、して。こんな、風に好きにされる位、なら。私を、殺し、て」
「…………」
「くはははは! 良いのだぞ、殺しても。わしにしてみれば、所詮奴隷が一人死ぬだけよ。痛くも痒くもない!」
「お願、い。早、く。もう……」
少女の手に、力が入る。それはとても女性とは思えないような力強さで以って、コオヤの首を締め付けて。ぎちぎちと嫌な音を立てて、肌に爪が食い込んでいく。
そんな状況を前に唯立ち尽くしていたコオヤは、
「ふん」
再び鼻息一つ、歩き出した。己の首を絞める少女をそのままにして。
まるで少女など存在しないかのように、ゆったりと歩みを進める。魔法のせいで首から手を離せない少女は、ずるずると引きずられながら、思わす目を見開いた。
己に迫る彼等に、トランドが驚愕の叫びを上げる。
「ば、馬鹿な! 今のそいつは、魔法の強制力によって身体のリミッターを外された状態のはず。無抵抗で首を絞められれば、大の男でさえ無事では……!」
「トランドさんよぉ。お前、それ本気で言ってんのか?」
「な、何っ!?」
「大の男なら、あんたが自慢していたあの魔獣を、消し飛ばしたり出来んのか?」
呆れながら告げられた言葉に、トランドは押し黙った。そう、コオヤがいかに規格外の存在であるかは、以前の競売場で見たはずなのだ。その上で考えれば、そこいらの力自慢の男達と彼を同列視するなど、全く以って愚かなことでしかない。
トランドとてこの街一の大富豪にまで成り上がった大商人だ、本来であればその程度気付かぬはずがない。しかし追い詰められ、冷静な思考能力を失った今の彼に、正常な判断を求めるのは酷というものだろう。
それ程までに今の状況、そして何よりコオヤの存在は、彼にとって鬼門となっていたのだ。
「さて、と」
「ひっ!?」
遂にトランドの目の前にまで到達したコオヤが、拳を鳴らしながらにやりと笑う。自身に後がないことを悟ったトランドは、焦りのあまり尻餅をつくと、顔を怯えに歪めながら早口で捲くし立てた。
「ま、待て! その女は返そう、何なら更に金を付けても良い! あるいは宝石か、そうだ、爵位なんかどうだ!? わしの財力とコネがあれば、貴様を貴族にすることも出来るぞ! 他にも欲しいものがあれば言うと良い、どんなことでも叶えてやろう!」
「成るほどねぇ。それじゃあ……」
「それじゃあ!?」
「俺にぶっ飛ばされて無様に這い蹲る、あんたの姿が見たい」
心底楽しそうに、拳を握り締める。それを見たトランドは慌てて後ろへ下がるが、すぐにベッドに突き当たり行く手を遮られてしまった。
「あ、うあ、た、助け……」
「嫌だね」
「ひ、ぐぃあああああああああああ!」
懇願を一蹴し打ち放たれた拳は、的確に顔面を捉えた。ベッドを壊し、幾つもの壁を貫き、ぼてぼてに太った身体が一直線に飛んで行く。
最後には屋敷から飛び出し、トランドの姿は夜の闇へと消え去って行った。自らの空けた巨大な穴から外を見ながら、コオヤは、
「しまったな。これじゃあ姿が見えねぇや」
軽く肩を竦め、呟いた。
「さて」
気を取り直し、少女へと向き直る。トランドを吹き飛ばした影響か、どうやら彼女への命令はキャンセルされたようで、今は首から手を離し床に座り込んでいた。
「面倒な奴も消えたことだし、戻るか」
「……りよ」
「あ?」
疑問の声を上げるコオヤに、少女は自嘲した笑みを浮かべ、
「無理よ。確かに今の命令は消えたけど……でもそれ以前に私は、この屋敷から勝手に出ないように契約で決められているの。だからもし此処から出て行けば、魔法の効果で、私は死ぬわ」
「へぇ」
「だから、もう良いの。私は此処で自分で命を断つから、あんたは早く集落に帰りなさい」
「お前はそれで良いのか?」
「……しょうがないでしょ。そうするしかないんだから」
「下らな」
覚悟と共に下した自身の決断を軽くあしらわれ、少女はコオヤを睨み付けた。自分とて死にたくなどない、しかし仕方がないのだ。ただでさえ強力な契約の魔法、まして今回自分に掛けられたのは更に強力な特別製。おそらくは掛けた本人にすら、解くことは出来ないだろう。
トランドが生きているかは分からない。しかしどちらにしろ、此処に居れば碌なことにならないのは目に見えている。
ならば、やはり死を選んだ方が――そう考えぐっと唇を噛み締める少女に、コオヤは何でもないように。
「しょうがない、ね。それなら――」
「……それなら?」
「こうすりゃ良い」
無造作に引き絞った拳を、少女へと解き放つ。まともに反応も出来ず呆然とする彼女の眼前へと、拳が迫り。何かを砕いたような甲高い音を立てて、ピタリと静止した。
「何、を?」
「なーに。ただその契約の魔法とやらをぶっ壊しただけさ」
その言葉に、少女は思わず目を見開いた。纏まらない頭の中で、そんな馬鹿な、と思考する。
魔法の得意なエルフでさえ解けない魔法、まして特別製。それを魔法を使うどころか、拳で打ち砕くなどと。
しかし、エルフの一員らしくやはり魔法を得意とする彼女には、分かっていた。自身に掛けられていたはずの契約の魔法が、綺麗さっぱり消え去っていることが。
「ありえない。どうなってるのよ、あんたは」
「そう言われてもな。お前もあの集落に居たんなら、俺が普通じゃないこと位知ってるだろう?」
「それは、そうだけど。だからって――きゃっ!?」
納得いかない、とばかりに口を尖らせる少女を、コオヤが突然抱え上げる。訳が分からず目を白黒させる彼女を無視して、そのまま自身の突入してきた窓まで歩き寄ると、窓枠に足を掛けた。
「な、ななな、あ、あんた!?」
「もう余計な縛りもなくなったんだ。いい加減こんな所抜け出して、帰ろうぜ」
「帰るって、どうやって」
「こうやって」
小さく笑い。コオヤは勢い良く、窓から飛び出す。
「んなーー!? こ、此処、四階……っ!?」
驚く少女を尻目に、彼は空中へと身を乗り出すと、軽いステップと共に宙を翔ける。まるで地上を駆けるかのように軽やかなその身のこなしは、少女が一瞬空中に浮いていると認識出来なかったほどだ。
吹き抜ける夜風が頬を撫でる。感じる冷たさに少しだけ冷静さを取り戻し、周囲を見渡す余裕が出来たことで、ようやく少女は現状を理解した。
「そ、空を、走ってる」
「そんな信じられないものを見た、って顔すんなよ。ある程度の実力があれば、この程度難しくもねぇだろうに」
「いやいやいや、そんな馬鹿な」
「そうかね。でも……」
「?」
僅かに後ろへと視線を向け、言葉を切る彼に習い、少女もまた訝しげに目を後方へと向ける。だがそこには夜の暗闇とその中に雑多に立ち並ぶ見慣れた住居があるだけで、特におかしな物は見えそうにない。
訳が分からずコオヤを見れば、同じように此方へと顔を向けた彼と目が合い、互いの近さに改めて自身が抱きかかえられていることを自覚。何だか急に恥ずかしくなって、つい顔を逸らしてしまう。
「どうした、そんなに頬を赤くして。夜風が寒かったかい?」
「こ、これは……そうよ! あんたがこんな空の上を走るもんだから、寒くてしょうがないの! 少しはこっちのことも考えなさいよ!」
「そいつはすまんな。しかしまぁ、俺はこの街の道に関してはまだ全然わからんのでね。こうして見晴らしの良い場所でも翔けなきゃ、集落に帰れんのよ。残念だが諦めな、え~と……リラ、だったか?」
「何それ、私の名前?」
怪訝な顔をする少女を見る限り、コオヤの記憶は正しくないらしい。しかし彼は名前を間違ったことにも悪びれる素振りもなく、
「ああ。違ったか? いかんせんお前の親父に一回聞いただけでな。良く覚えてないんだ」
「私の名前はクラン、よ。全く、それ位一発で覚えときなさいよ」
「悪い悪い。昔から人の名前を覚えるのは苦手でな。それで俺の名前は――」
「知ってるわ、皆が言ってたもの。コーヤ、でしょ」
「……コオヤ、な」
「? だから、コーヤでしょう?」
最早溜息も出なかった。この世界には俺の名をまともに呼べる奴は居ないのか、とどうにも陰鬱な気分になる。このままでは、自分でもどっちが正しい名前なのか分からなくなってしまいそうだ。
そう思い口を尖らせ眉を顰めていると、服の襟元を控えめに引っ張られた。この状況でそんなことが出来る者など、一人しか居ないわけで。
「どうした、嬢ちゃん」
「クランで良いわ。嬢ちゃんよりはましだしね」
「そうかい。で?」
「……がとう」
「は?」
俯き、呟かれた言葉は、コオヤの優れた聴覚を持ってしても聞き取れない程に小さく濁っていた。というよりも、最初の方は実質声として出ていなかったというのが正しいだろう。
何なのか、とじっとクランを見詰めてみる。するとやや間を置いて、彼女は意を決したように勢い良く顔を上げると、
「ありがとう、って言ったのよ!」
先程とは比べものにならない程に顔を真っ赤に染めて、そう叫んだのであった。そうして、すぐにまた顔を逸らしてしまう。
「ありがとう、ね」
「その、あんたにはあのデブから助けてもらったわけだし。お礼位はちゃんと言っておかないと、って思って」
「にしたって、叫ばなくたって良いだろうに」
「べ、別に良いでしょ、聞こえないよりは。後一応言っとくけど、他にお礼は出せないからね。そんな余裕、私にもパパ達にもないし。私の身体なんてもってのほか、よ!」
自身を掻き抱くような素振りを取る彼女に、コオヤは呆れ顔だ。そんなことをしては助けだした意味が無いし、コオヤ自身ぶっちゃけ彼女の身体にたいして興味は無い。
「身体て。そんなもん求めるわけねぇだろ」
「でもあんた、ジンカーさんの孫の……イリア、だっけ? 彼女には手を出してるんでしょ?」
衝撃的な情報に、ピシリと音を立ててコオヤの表情が固まった。
「……誰から聞いた?」
「え? 集落中で子供達が話してたけど」
「あんのガキ共……!」
どうやら噂は更なる広まりを見せているらしい。急ぎ何かしらの対策を立てなければ、虚報が事実になってしまう。特にジンカー辺りは、嬉々として受け入れそうだ。
別段それが原因でエルフ達から嫌われたところで、自身にとってはどうということもない。何も彼等に好かれようと思って手助けをしているわけではないのだから。
だがそれでも、あそこで過ごすのならば、いや何処で過ごすにしろ、余計な面倒ごとは少ない方が良い。あの騎士と戦った時のように面白い面倒ごとならば大歓迎だが、少なくともこの噂は愉快な事態にはならなさそうだ。
すでにこの時点で十分過ぎる程に面倒なのだが、今更それを考えたところでどうしようない。とりあえず集落に戻ったらガキ共をとっちめるか、と適当に結論を出し、彼は少しばかり翔ける速度を上げた。
「しかし、面倒ごとと言えば……消えてくれねぇなあ」
「え?」
「掴まってろ、クラン」
「きゃっ!? 急に何――!?」
コオヤの腕に力が籠もる。突然強く抱きしめられ、上ずった声を出すクランだったが、すぐに傍を駆け抜けた衝撃に思わず目を瞑った。
若干の静寂。恐る恐る目を開ければ、いつの間にかコオヤは足を止め、空中に佇んでいた。そのままじっと後方を見詰める彼の視線を追ってみれば、そこには、
「何、あれ。真っ黒な、人?」
全身黒尽くめの服に身を包んだ、真っ黒な人影が浮かんでいた。此方と同じく中空にしっかりと足を着いたその影の数は、八。あきらかに友好的な雰囲気ではない。
「さて。どうしたもんかな」
呟き吐かれた息が薄く白く染まる。どうやら、まだ夜は長いらしかった。
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