翡翠色の魂 8

「どうして……どうしてぇ…………」


烏之瑪の錫杖に大きく亀裂が入る。もう、耶赦の力を抑えきれない。烏之瑪自身の持つ神力はもともと少ないことが今更ながらに悔やまれ、彼は歯噛みするしかない。


「結姫、術を成せ! 早く! 三味線を手に取るのだ。お前がやるべき事は今、それだけだろう。いい加減に目をそらすな、受け入れよ!」


烏之瑪は焦れったくとも梨香へと言葉をかける。もうそろそろ本当に抑えきれなくなっていて、梨香に耶赦を封印してもらわなければ二人とも耶赦の腹の足しとなる。それだけは絶対に避けなければならない。

だが、運命はそんなに都合良く回ってはいない。

耶赦の力が増し、とうとう烏之瑪の錫杖が半ばから砕かれた。


「ぐぁっ!」


力の衝撃をくらい、烏之瑪の変化は解けてもとのちんまりとしたカラスの姿へと戻る。カラスはそのまま遠くへと弾かれて、ごつごつとした石壁へとぶち当たった。

耶赦はゆっくりと歩み、梨香の目の前へと歩いてくる。どろどろとしたおぞましい溶けた顔が、梨香へと迫る。


「式紙の二・腕・顕現」


弱々しくも式紙を呼び出すが、顕現する直前に式符である単語カードが耶赦の妖気に当てられてはちきれた。

無力。

梨香に耶赦を止める冷静さはもうない。


『結姫逃げよ……!』


烏之瑪が小さな体で呻くが、届かない。目の前で二人を死なせたことが、梨香の体を戒める。

耶赦の枯れ木のような指先が、梨香へと伸びた。




「『こんにちわ、卑怯者』」




ぐっ、と。

梨香の背後から伸びた手が伸ばされた手を掴み、そして耶赦を背後に引くように投げ飛ばした。

耶赦は盛大な音を立てて、烏之瑪とは反対側の壁にぶち当たる。耶赦の細い首が折れたようにあり得ない方へと曲がった。

梨香は横から手を伸ばしてきた人物をゆっくりと振り返る。

少しだけ日焼けした手。少しだけ土で埃っぽくなってしまっている見慣れた制服。真っ白な羽織を羽織って真っ白な寝癖だらけの髪。そして鋭い幻術世界の日本刀。

光がまるで白世を取り込んだかのような姿でそこにいた。

光は梨香の肩へと手をおいて、日溜まりのような笑顔を向けてくる。ひやりとした手のひらは彼が妖怪寄りの類に変貌してしまったかのように感じられた。

でもその事は、今の梨香にとってはどうでも良かった。

光が生きている。貫かれたはずの腹の傷は、そんなことが無かったかのようにまっさらに塞がっていた。

そして光から漏れ出る妖力。これは白世のモノだ。梨香は気付いて、かすれた声でどうして、と尋ねた。

光はうーん、と首を傾げる。


「俺もよく分かんないです」

「え。でも、だって、あなた……」

「俺はよく分かんないですけど、こいつなら知ってるんじゃないですか? 白世、出てこい」


シュン……と光の姿がブレると、もとの黒髪に戻った。代わりにその隣へと薄らいだ姿の白世が現れる。


『さっきぶりですね、ボクの愛しい人』

「あなた、どうして……」

『ボクら神妖の母とお会いしました。そこで生き返らせて貰ったのです。ボクの天命は本来なら尽きるはずでしたが、蛍野光と契約を結ぶことでこうして現世に戻ってこれるようになったのです』

『我らが母に会ったのか』


話に割り込んできたのは烏之瑪である。小さなカラスの姿のまま、こっそりと梨香の傍らに寄ってきていたらしい。

烏之瑪は赤い右目をぎらつかせて、白世を食い入るように見る。


『我のことについては何か言っていたか』

『カラスの子はもうすっかり現世の子になっちゃってるわね、もう帰る気無いのかしら? ───と、仰っていました』

『何、それは我に高天原に帰るなということか!? こうしてはおられん、梨香、さっさとこいつを倒して日記を埋めるぞ!』

「急に元気になっちゃって」


くすくすと梨香は笑った。

その顔にはもうあの悲壮感や絶望感はない。どこから湧いてくるのか不思議な、自信とやる気のあるいつもの梨香へと戻っていた。

光は白世と顔を見合わせると、再び白世を取り込んで、あの白髪の姿へと成る。


「俺、この姿の時は白世の術が使えますから、それであいつを足止めします。その間に先輩はあいつを何とかしてください」


言って、正面衝突を仕掛けようとした光を、梨香は止めた。


「手立てはあるわ。だから三分。三分だけ、どうか私を守って。私の大好きな人達……」


そう言って、梨香は光へキスをする。吸い込まれるような梨香の瞳を見つめていた光は突然の出来事にぎょっとする。

だが振り払えなかった。

光の中にいる白世が歓喜の感情を全身に巡らせたからだ。

体の芯から熱くなるような熱が梨香から伝わり全身を迸る。その感触にますます光は驚いた。

梨香が顔を話したとき、光は真っ赤な顔で目を白黒させていた。


「え、ちょ、は、え?」

「そんなに狼狽えなくても。今のは所有の呪いよ。あたしが広範囲に術をかけても、この呪いを施した対象には影響がでないようにするものなの。ちょっと大きな術を使うから、念のためにね」


一人で百面相していた光はそういうことなのかと胸をなでおろす。内側で白世が馬鹿にしたように笑っているのを感じて多少いらっとしたが、そんな場合じゃないと気を取り替える。こっそり、お前だって喜んでたくせにと悪態だけ付けておいた。

光は今度こそ、耶赦へと向かった。

耶赦は既に起きあがっている。首があり得ない方向へ曲がっていようが、全く気にも止めていない。光は白世が常から使っていた日本刀を顕現させて、切りかかる。

梨香はそれを見届けて、転がっていた三味線を手に取った。烏之瑪がじっとその様子を見つめている。


『何を弾く』

「そうねぇ……指の赴くままに。平安貴族の即興力嘗めちゃダメよ。まだまだ健在なんだから」


梨香は三味線の弾き方なんて知らない。でも弦楽器なんて、最初の紅色の時に飽きるほど引いたから。優雅に這わせる指先はまだ覚えている。

梨香は三味線を構えた。

ゆっくりとかき鳴らす。

猫又が起きるくらい陽気な音を爪弾く。


───さぁ起きて、あなたの愛した平和を守るために、力を貸して。


祈る梨香の目の前に夜色の光が集まり出す。

夜色の粒子はとあるネコマタの少年へと姿を成した。

ネコマタは梨香へと微笑みかける。

梨香も微笑んで、ゆっくりと視線を耶赦へと向けた。

一つの魂が、一世一代の秘術を紡ぐ。

決してほどけない、柔らかな旋律に導かれて行く、猫の呪い。


曲が終わったとき。

耶赦の周囲の空間が歪んだ。

梨香はとっさに叫ぶ。


「蛍野君、下がって!」


繰り出される耶赦の術を切り捨てていた光がぱっと身を翻して跳び去った途端、耶赦の姿は空間にねじ込まれる。


『己……オノレェェェェェェェェェェェェェェェェエエ!! 切り崩せ・剣狐────!』


最後の術もあっさりと光の日本刀に切り捨てられる。優雅に振られる太刀筋は、まさに白世のもの。最後の最後に、己の作りし人形にすら見放された憐れなる同胞。

因果応報、と烏之瑪が呟いた。

力を得るために一人の少女を閉じ込めた耶赦には、ネコマタの作り出す異空間に永遠に閉じ込められる。

追放されし強欲な大妖にふさわしい末路となった。

捻りこまれた耶赦を見送って、ネコマタもまた、姿を消す。さらば、と手を振った相手は梨香と烏之瑪と、そして白世。

光への憑依を解いた白世が、薄らぐ体を折り曲げて、ネコマタに頭を下げる。

やっと、長い因果に終止符が打たれた。

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