翡翠色の魂 7
襖の向こうは更なる異界が広がっていた。ただただ広いだけの座敷がある。四隅が全く見えない。
果てのないお座敷。
梨香と光は奥へ奥へと進む。光はきょろきょろと辺りをせわしなく見渡している。梨香はしっかりとした足取りをもって確信のある方へと歩む。
遠くとも近くともいえない距離。どれだけ歩いたか分からないが、入ってきた襖が見えなくなる頃、誰かが傘を差して座っていた。男か女か傘で隠れて分からない。まだ染められていない真白な紙が張られた番傘は、以前梨香か店主の店で眺めていたものと作りが似ていた。
「やっぱり起きていたのね、耶赦。そんな生易しい封印のつもりじゃなかったんだけど?」
梨香が話しかけると、耶赦と思わしきモノが嘲笑う気配がした。
くすクスくすクスくすくすクス───………
声は反響し、ざらりと耳の奥を撫でてくる。光は気味が悪くなって両手で耳を塞いだ。
梨香は眉を顰めると一つ、柏手を打つ。途端、声が聞こえなくなり、目の前にいたモノも消える。あからさまな幻術だった。
「蛍野君、進むわよ」
「は、はい……」
今ので光はすっかり腰が引けてしまっているが、今更後には引けず、動くのを止めたくなる体を叱咤した。梨香はそれが微笑ましくてならない。
「何笑ってるんですか」
「怖かったら怖いって言っていいのよ」
「こ、怖くなんかないです!」
「こんなに震えているのに?」
きゅっと。梨香は三味線を持たない手で光の手を握る。再び感じるひやりとした指先に、光ははっとした。
「……先輩だって震えてるじゃないですか」
梨香でも。いつも飄々としていて何でも簡単にこなしてしまえそうな梨香でも。震えている。
それはれっきとした恐れだった。
梨香にだって分からない。耶赦から光を傷一つつけないよう守り、さらには封印を施せることができるのか、不安ばかりが募る。
「ふふふ、あたしだって普通の女の子なんだからお化けは怖いのよ」
「いやいやいや、どの口が言うんですかそれ。大丈夫です、先輩以上の電波系女子なんていないので、先輩は普通の女子ができないことでもできますよ」
その言葉には梨香も面食らってしまった。けれど何だかほっとする。ひどい言われようだが、失っていた自信が少しだけ戻ってきた気もした。
梨香はしっかりと前を見る。
「そうね、そこまで言われちゃ、頑張らないといけないわね」
梨香は足を止める。何もない空間に向けて言い放った。
「───追放されし神狐・耶赦! いい加減に隠れていないで出てきなさい! こんな術、あたしが破れないとでも思っているの!」
声の限り梨香が叫ぶと、ゆらりと景色が歪んだ。数歩先の空間だけ異様に歪んで、ついさっき会った番傘を差して座るモノが現れる。
「これでも術を解かないの? いい加減にしなさい」
梨香は業を煮やしたように言い放つ。
「───結びし世界を解き給う」
梨香の言霊だけで視界は晴れる。あのだだっ広い座敷は消え、天井高い洞窟のような空間が生まれる。ぽつりぽつりと灯篭があり明るく照らす。変わらず番傘を差して座るモノは目の前に座っていた。
『待っテいたゾ、小娘……』
「別に待たなくて良かったのよ。というか、またすぐに封印してあげるから」
『そうハいくものカ……』
くるりと耶赦が番傘を背に回せばその顔が覗いた。にたりと骨ばった頬は痩け、口は裂け、眼は虚ろ、髪は異常な艶と輝きがあり、襤褸となった羽織を羽織っている。
耶赦は枯れ木のように細い腕を伸ばして、光を指差した。
「……俺?」
光はきょとんとした。どうして指差されたのかが分からない。
「蛍野君っ!」
はっと気づいた梨香が光を庇おうとするが、無意味だった。
『───穿ち成せ・
ずん、と。
光の腹を地面から現れた槍のように鋭い狐火が貫く。
「……あ、れ……………?」
かは、と。
光が血を吐くと狐火は消えた。
光の身体が傾ぐ。
「蛍野君───!?」
梨香は繋ぐ手から消えた力に茫然とする。一瞬、何がどうなったのかが分からなくて頭が真っ白になった。
力なく冷たい石の床に横たわる光の腹から溢れる赤い液体を見て、ようやく理解する。
「いやぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
溢れる涙とともに、梨香の絶叫がこだました。
◇◇◇
白すぎる狐はざわりと肌を撫でた不快感に、一瞬動きを止めた。
その隙を逃さずに烏之瑪がたたみかけるが、白すぎる狐は呼吸をするように流すと結界を自ら解いた。何かざわめく感じがする。
ひどく不安を駆り立てるその気配に、白すぎる狐はあらがわずに駆けだした。
「何処へ行く!」
急に烏之瑪を意識の外へ追いやって駆けだした白すぎる狐に、烏之瑪はぎょっとする。
それでも冷静な烏之瑪は白すぎる狐を逃がすまいと風を放つ。が、白すぎる狐はいとも簡単に避けてみせた。やはり単純な戦闘能力では烏之瑪は白すぎる狐に勝てない。
白すぎる狐はひたすら気が急いていた。何かは分からないが、これはいけないという念が己の思考を支配しているのだ。
白すぎる狐と烏之瑪はその神足であっという間に耶赦の間へとたどり着く。結界を慎重にすり抜けることすら煩わしくて、白すぎる狐は結界を吹き飛ばす。
これを見て烏之瑪は驚いた。白すぎる狐の力はどういうわけか、もはや耶赦が使役する程度を超えていた。自分の創造主の力を上回るなど、聞いたことがない。
白すぎる狐が破った結界に包まれていた部屋は洞窟の入り口となっていた。奥から梨香の慟哭が響いている。それにはさすがの烏之瑪も眉根を顰めた。白すぎる狐の後を追うようにして奥へと向かう。
やがてたどり着いた先に見えたのは、
「梨香!」
泣き叫ぶ梨香と血を流す光と一人おぞましく笑う耶赦の姿。
ここにきて、やっと白すぎる狐は梨香の名を初めて呼ぶ。今まで決して呼ぶことがなかった梨香の名前。
梨香は自分の名前を呼ばれたのに気づき、小さく肩を震わせた。
「…………はくせ……?」
振り向いた梨香の、涙で赤くなった頬に、白すぎる狐は手を伸ばす。梨香もまた無意識のうちに白すぎる狐の名を呼んでいた。
手を伸ばした白すぎる狐は、不意にその動きに変化をもたらした。厳しい表情で梨香の前へと回り込んだ。そして梨香は見る。
「嫌ぁ…………!」
白すぎる狐の腹にもまた、例の耶赦の術が刺さっている事を。白すぎる狐は梨香に向けて放たれたその術から、身を挺して守ったのだ。
白すぎる狐は夜色の粒子となって、姿が見えなくなる。最後に微笑みだけを残して。僅かに唇が震えていたが、聞き取る暇もなく白すぎる狐の存在は消えた。
妖怪にとって、消えるということは無に帰すということだ。
「どうしてこんな……こんなぁ……っ!」
梨香は半狂乱となり、理性の要が取れた霊力が爆発的に膨れ上がった。それを見た耶赦がにやりと笑って手を挙げる。
『───切り崩せ・
鋭い、まるで鎌鼬みたいな、狐の炎が梨香に迫った。ちっと舌打ちを一つして、烏之瑪が前に立つ。
「───解きし世界を結び給う!」
結界を編み、張る。
烏之瑪の錫杖がピシリと鳴って、耶赦の術を相殺した。
◇◇◇
あらあら、珍しいわね。こんな所で引っかかってしまうなんて。
あなたはだあれ? まだ、あなたは寿命を迎えてないわ。
「……ぅ?」
ふふ、人の子。あなた、私の子といた子ね。しかも末の子の加護も貰ってる。でも可哀想に、私の子の運命に巻き込まれてしまったのね。
ほら、起きて。
「ここは……」
黄泉への入り口。岩戸の表。あなたみたいな全然すり減ってない魂は入れなくて引っかかってしまう所よ。
ほらおいで、私の手のひらにお乗り。
「手のひら……? え、でか……!」
私は存在しているだけだからね。ふふ、驚いたでしょう。
「ていうか、声、どこから響いてるんだ……?」
さあ、どこでしょうね? 私にも分かんないわ……あら? また誰かが落ちてきた。今度は狐の子? 本当に珍しい……
「あ、お前、人攫い!」
あは、あなたの知り合いなの?
「んー、知り合いというか何というか…………敵?」
その割には邪気が感じられないわ。どちらかというと、慈しみの気配と恋の気配、後悔の気配ばっかり。
でも可哀想、この子には帰る身体がもうないわ。妖かしものの宿命ね。……ああ、でもこの子もまた、私の眷属の子だわ。そう、追い出されたあの子の子ね。全く、あの子ったらこんな立派な命を紡いでおきながら簡単に捨てて喜ぶなんて。さすがの私も怒っちゃうわ。
「え、どういうこと?」
んー? そうね、秘密。あなたは知らなくてもいいのよ。ああ、そうだわ。あなたにお願いがあるの。聞いてくれる?
「……俺にできることなら」
あは、良い子ね。
あのね、この子もあなたが帰る場所に連れて行って欲しいの。ほんのちょっぴりの私の慈悲。その代わり、あなたにはあの娘と同じ世界で渡り歩ける力をあげるわ。あなたの体にこの子の能力を足せばそれぐらい出来る。でも、ちょっぴり不自由になるかも。
あなたはもう普通の人が見える景色と違うものを見ることになるわ。ただ人が見えるものとあなたにだけ見えるものの区別がつけれないと、あなたはあっという間に人間から避けられるようになるわ。その覚悟があったらの話だけど。
「覚悟……? そうだ、俺、先輩の所へ行かないと! 先輩を守れる力が手にはいるなら何だってかまわない」
あらあら、慌てなくてもちゃんと送っていってあげる。その代わり、ちゃんとこの子も連れて行ってあげてね。
「え……と、今更だけどあなたは?」
私?
私はね、烏之瑪の母よ。
ここで黄泉へと下る魂を運んでくる烏達の母。
黄泉に還ってくる全ての魂の母でもあるわ。
さあ、もうお行き人の子。
まだやるべきことがあるんでしょう?
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