翡翠色の魂 6

走る。靴を脱ぐ暇さえを惜しみ、履き慣れたスニーカーのままで、寝殿造りっぽい屋敷の廊下を走る。目に見える障子を片っ端から開けて行きながら。

ここでもない、ここでもない。適当に障子や襖を開け放ち、廊下だけでなく座敷にまで土足で入る。バタバタと走ってまた一つ、襖を開けた。


「───先輩?」


やっと見つける。

この屋敷で一番広いと思われる部屋の中心で、ぺたりと座り込んでいる黒髪の少女。結んでいた髪は解かれていて、光より幾分も小さな背中を隠していた。

見間違えはしない、いつも見ていたあの背中。

初めて会った時から、不思議と尊敬したあの姿。

光の、大切な人。


「蛍野君?」


ゆっくりと振り返った梨香の顔は驚きで彩られている。呆気にとられたような表情を見て、光は部屋の入り口でへたり込んだ。良かった無事だ。

朝の顔色の悪さもとうに無くなっているようで、いつもの飄々とした笑みで梨香は光を見た。


「ふふふ。まさか蛍野君が来るとは思っていなかったわ」

「先輩……探しましたよ。勝手な行動はしないでくださいっていつも言ってるじゃ無いですかぁ」


光は泣きそうになりながらそう茶化すと、なんとか立ち上がって、襖を越える。梨香が制止する間もなく光は境界を越えた。

今の梨香にはこの部屋に張られている結界が見える。編んである籠のような網目の結界は、その網に触れるだけで衝撃を受け吹っ飛ばされる構造になっている。それなのに光が触れた途端、ほろほろと崩れていったのだ。

梨香は我が目を疑った。が、すぐに例の店主の気配を感じる。あの強力な妖力はそうそうないから。店主が蛍野に渡した恋愛成就のお守りが役に立っているのだと、烏之瑪と同じように理解した。

なるほど、だから烏之瑪は光を寄越したのだろうと考えると、自然と笑いがこみ上げてきた。烏之瑪が何も知らない光に一方的に事情を話している様子を脳裏に描いたのだ。シュールだ、今更だが喋るカラスはかなりシュールだ。

一人で笑い始めた梨香に、目の前までやってきた光は訝った。


「……何笑ってるんですか」

「ふふ、ちょっとね。でも蛍野君、ここはあなたがいてはいけない場所よ。あたしのことは置いておいて、早く立ち去りなさい」

「嫌ですよ。せっかく来たんだから最後まで頑張ります。一人で帰る手段もよくわからないし。───先輩、預かり物です」


すい、と肩がけの鞄からだした緑色の冊子を取り出す。烏之瑪が持って行けと言っていたものだ。もちろん三味線もあるが……


「あ、一反もめんの上に忘れてきた……」


振り落とされた瞬間、気が動転して三味線を掴むのを忘れていた。どうしよう、と青くなる。

烏之瑪の話ではあれが重要な役割をするらしいのだ。それなのに忘れてきてしまった自分はどうしようもない。


「すみません先輩、三味線を一反もめんの上に置いて来ちゃいました……」


白状すると、梨香は目を丸くした。


「三味線を持ってきていたの?」

「はい」

「……烏之瑪は本気なのね」


梨香は目を伏せた。しばらくそのままでいてから、何かを振り切るようにして、さっと立ち上がる。解かれた髪がふわりと舞った。さらさらとした音がこぼれそうな髪を梨香は鬱陶しそうに後ろへと払う。

そして緑色の冊子──翡翠の日記帳を手に取った。


「これがあれば、三味線は戻ってくるわ」


梨香はページを繰って目的の箇所を探す。

看病の話、文字の話、楽しいことの話、そして平和の話。

妖怪が書いたこの文字にはその妖怪の妖力が宿る。霊力が戻って、さらには妖力という戒めの力が消えた梨香ならば、その微かな妖力から、妖怪の居場所を探し当てることはできるはず。

梨香の霊力は妖力の封印のために抑えられていたために弱々しくはあったが、元々の潜在能力は高いのだ。──因果関係が関わる霊力は、梨香の前世の霊力を引き継いでいるはずだから。

梨香は繰り返している。前世、前々世と、梨香は烏之瑪のために日記を埋めるべく奔走していた。前々世は非業の死を遂げたために、烏之瑪が転生させてくれた。その際に記憶はあまり引き継がなかったけれど、なんとなく契約の事だけは覚えていた。前世は烏之瑪が転生させてくれることを知っていたから、来世に想いを馳せて自ら命を絶った。そして今に至る。

梨香は目的のページを見つけた。「平和がいい」とはっきりと書かれたその言葉に梨香も同意だ。争いは互いを傷つけるだけで何も生まないことを知っているから。


「蛍野君、青いリングの単語カードって預かってない?」

「そういえば」


蛍野は鞄から四つの束の単語カードを出す。赤と黄と青と緑のリング全てを梨香に渡す。これで梨香に渡さないといけない物は全部のはずだ。

梨香は青いリングの単語カードから一枚、紙を千切った。その紙を手に持ったまま、そのページに手を翳した。


「───式紙の四・軌跡の具足・顕現」


ぼんっ、と白い煙に巻かれて紙片が黒光りする具足へと変わる。光はぎょっとして思わず後ずさりした。

かなりの大きさだ。光の背丈よりも大きいのではないだろうか。


「さ、三味線の……ネコマタの位置は分かったわね? 行きなさい」


梨香が言うと、具足はすいっと浮いて外へと出て行く。光は端と気づく。あちらでは烏之瑪と白すぎる狐が戦っているのだ。

不意に梨香が首を傾げた。


「……具足が消された?」


どうやら戦闘のとばっちりを受けたらしい。光が思い至った結論を述べれば、梨香はちっと舌打ちを打つと表に飛び出した。

裸足で庭へ飛び出し上を見上げる。光もそれに追随した。


「───式紙の四・具足・顕現!」


再び具足が現れるが、光はもう驚かない。

具足はまっすぐに飛ばず、ある一定の所でぼんっと紙に戻った。まるで目に見えない壁にぶち当たったような光景に梨香は一人うなずく。結界が張ってあるのだ。光の推測は当てが外れたけれど、本人はたぶん分かっていない。わざわざ言うことでもないからいわないでおこう。

どれほどの結界が張ってあるかわからない。でもきっとあの白すぎる狐のものだろう。さて、と梨香は首を捻った。


「どうしたんですか、先輩」

「ちょっと結界が邪魔でね……。あ、そうだ」


梨香は光を見た。ちょうど良いアイテムが此処にいるではないか。


「ちょっと蛍野君、こっち来て」


梨香は光の腕を引いた。光は訝るばかり。

そのまま梨香は光の手のひらをぴとりと見えない壁に触れさせる。暗示ではなく、強力な異世界形成の結界だったからか、バチィィといって普通より少し派手で痛そうな静電気の音を響かせ、結界は破れた。光はあまりの痛さにうずくまり悶える。

現れたのは二人の異形。片方は白く、片方は黒い。白すぎる狐と天狗型の烏之瑪だ。今回の烏之瑪の変化には異界に漂う霊気を集めて使用しているので、梨香にも烏之瑪にもエコだ。

梨香はにっこりと笑うと、具足を今度は二つ呼び出した。一つは自由になった空へと放って三味線を取りに行かせ、もう一つを戦っている奴らにぶつける。


「ふっとべ烏之瑪!!」

「何故に我!!?」


気づいた烏之瑪が慌てて具足を避ける。あれは移動用式紙だが、少々問題もある。乗って移動するか、蹴っ飛ばされて移動するかの二択であるのだ。

光は見た。にやりと黒い笑みで笑う梨香を。これはかなり怒っている。


「烏之瑪、あんたって本当に役立たずね。そっちの白いのの方がよっぽど役に立つわ」

「お誉めに与り光栄です」


白すぎる狐は腰を折って礼を取る。烏之瑪は面白くなくてぷいとそっぽを向いた。当てつけに小さな風の球をぶつけるのも忘れない。簡単に避けられたが。その風の球が光の頬を掠めそうになる。光はあんぐりと口を開けて固まる。

命に関わる危険があると事前に言われたが、味方に狙われるとは聞いていない。

梨香はその黒い笑みのままで白すぎる狐に問いかける。


「ねぇ、白いの。貴方、どちらの味方なの。どっちつかずの狐。いい加減に腹をくくりなさい。耶赦に従うのか、ほれとも裏切るのか」


後半、冷え冷えとした凍り付くような威圧感をその身に纏い、梨香は問う。初めて感じる梨香の迫力に、光はごくりと唾液を飲み込んだ。

梨香の問いに、白すぎる狐は武器を降ろした。依然として烏之瑪は錫杖を構えたままである。

選択の時。

完全復活を遂げた梨香にはもう小細工は通用しないし、さらには烏之瑪もいる。結界を張れば光に解かれる可能性もある。もう白すぎる狐の行動は十分すぎるほど制限されていた。

その中で、白すぎる狐はにっこりと満面の笑みで笑う。柔らかな温かい笑み。

梨香とは対照的な笑みで、白すぎる狐は笑う。


「貴女に……」


白すぎる狐は何かを言い掛けて、やめた。全員が彼を注目するなかで、不意に光の頭上に例の三味線が降って落ちてきたからだ。


「あ痛っ!」


角こそ当たらなかったものの、その重さは十分に鈍器に値する……ではなく。

梨香はわずかに固まり、白すぎる狐を睨みつけた。せっかくのセリフが台無しになってしまった、もう少しで白すぎる狐の本音を聞き出せるところだったのに、と思いながらも仕切り直すことにする。流石の梨香でも今の流れを無かったことにはできないが、無視することは幾らでも可能だ。


「さぁ、これで貴方は詰んだわ。さあ、いい加減腹をくくりなさい!!」

「今のタイミングでそれを言いますか……? 流石に今のは痛そうでしたよ」


白すぎる狐にまで心配される光、哀れ。

梨香は一瞬ちらりと光を見たが、すぐに視線を戻した。うん、痛がっているなら大丈夫。後でたんこぶを確認しようとひっそりと思う。

それからおもむろに単語カードを取り出すと、白すぎる狐へと、千切った四枚の単語カードを掲げる。


「───式紙・荒武者・顕現!」


叫んで梨香が空へと四枚の紙片を放り投げると、四枚全てが淡く輝き、ぼんっと鳴ると同時に白い煙で覆われた。一つ一つが普通よりも一回り大きい武具となるので、四枚全てを一斉にとなるとかなりの規模で白い煙が漂う。視界を覆うそれは、顕現の証。

ガチャ…ガチャ……

金属のこすれる音が響いたかと思うと、あっという間に視界が晴れた。晴れた視界に現れたのは、黒光りの兜、籠手、胴鎧、そして具足、それらを全て組み合わせた一人の鎧武者である。その梨香達のより一回り大きい荒武者は宙に浮いて狐と対峙する。

白すぎる狐のじれったい態度を切り捨て、梨香はもう別の事へと意識を向ける。だって梨香は知っているから。白すぎる狐は曖昧な場所で揺れ動くことを知ってしまった哀れな操り人形だと、梨香は知っているから。


「二対一なら、烏之瑪でも白いのを押さえつけれるでしょ」

「そうだが……お前、この式紙を強化して使えると言うことは霊力が安定したんだな」

「ええ。曖昧な白いののおかげでね」


皮肉るように梨香が言うと、白すぎる狐はちょっぴり目をそらした。ほら、やっぱり曖昧じゃないと断定されたようである。白すぎる狐は己の立場にさらなる言及を受けるのを避けて、黙秘することにする。

梨香はそんなことお構いなしで、さっと落ちてきた三味線を拾うと、光の手を引いて走り出した。目指すは耶赦のいる部屋だ。


「烏之瑪、任せたわよ」

「承知!」


白すぎる狐は何も仕掛けてこなかった。梨香はその事に多少の憤りを覚えた。

少しは敵らしく私の前に立ちはだかりなさいよ───

それだから曖昧なのだあの狐は。確かに攻撃されたらされたで面倒だが、かといってあの振る舞いのままではこちら側にも躊躇いを生じさせてくる。神霊の類である烏之瑪なら何とも思わないだろうが、人間である梨香はそう簡単に割り切れないのだ。


「先輩?」


ぐるぐると考え込んでいると、いつの間にか手を強く握りすぎていたようで光が心配そうに見下げてきた。梨香は光と目が合うと、にこっと笑って手を離した。


「何でもないわ」

「何でもないことは無いでしょう」


光は足を止めて、突き放された手を伸ばした。ぎゅっと梨香の手を光から握ってやれば、自然と梨香も足を止めることになる。

光は真摯な目で梨香を見た。背が男子の中でも小柄な光より頭一つ小さくて、雰囲気に何だか貫禄があるのに飄々としていて、ちょっとお茶目で、何でも知っていてかっこよくて。そんないつもの梨香がいなくて、どうして何でもないで済まそうとするのか光には分からない。


「先輩、もう先輩は俺に遠慮は必要ないんですよ。辛いことがあるなら愚痴って下さい。俺はもう何も知らない時の俺じゃないんです。先輩のあの落書き帳も突然来たカラスも先輩が助けてくれたことも知ってるんです」

「あら、最初の一つはともかく、最後の一つは何のことかしら?」

「とぼけないで下さい。ヤクバコっていう日本人形から話は聞いています」


梨香はそれを聞いてふぅ、と溜息をついた。首を突っ込みたがる厄介な性質を光が持っているとは知らなくて、さすがにこれ以上誤魔化しても無理だと悟った。

梨香は光に背を向けた。立ち止まって悠長に話している暇は無い。歩きながら、光に梨香の心の内をさらけ出していく。

今まで誰にも語ったことのない、梨香の想いの丈を語るべき時が来たのか。腹をくくろう。

屋敷の奥を目指して、暗い廊下を過去の記憶を辿りながら歩く。光へ、梨香が縷々空と呼ばれていた頃の話をしながら、己が耶赦を封じた部屋の場所を思い起こしていく。梨香は話しているうちに、段々と歩くペースを落としていった。

懐かしく通り過ぎていく、過去の光景と今の風景。

やがて梨香と光は、屋敷の最奥の一番大きい襖を持つ部屋へとたどり着く。そこに耶赦がいるはず。

梨香はとうとう立ち止まる。


「あたしは別にあの白いのに特別な感情を抱いてるわけではないのよ。時々、波のようにやってくる懐かしい気持ちはもうあたしの物ではないから。だから、あたしは白いのとけじめをつけたい。あれにも分からさせてあげなきゃいけないのよ……」


消え入るような声で囁く梨香の表情は光には見えない。隣に並んで歩いていたが、梨香の表情を見る気になれずにいた。

光は最後の襖を前にして言う。


「別に俺は、先輩のやりたいようにすれば良いと思いますよ。先輩が誰であろうが、俺にとっての先輩は結姫梨香先輩ですから」


今までの話を全て聞いて、それでもなお、光は結姫を受け入れる。

日記のこと、烏之瑪のこと、妖怪のこと、前世のこと、白すぎる狐のこと、そして目の前の奥に潜むはずの大妖のこと。

それら全てを聞いても光は梨香を認め、受け止めることができた。梨香にとってこれほど心強いことはない。

梨香は微笑んだ。随分気が楽になるものだと初めて知った。今までこんな込み入った話をした事なんて無かったし、する相手もいなかった。同じ世界を共有できる者がいなかったから。

光だって最初はただの後輩でしかなかったけれど、今では全てを知っている特別になっていた。やっぱり人生は何が起こるか分からないものだと思う。

梨香は光を見た。その視線に気づいた光とばっちり目が合う。


「蛍野君、準備は良いかしら?」

「当たり前です、と言っても俺はいざとなったら先輩を担いで逃げるくらいしか無理ですけど」

「あら、その細い体であたしを担げるの?」

「火事場の馬鹿力って奴ですよ!」

「ふふふ、冗談よ。そうならないように、あたしの全力を尽くすから」


梨香はそう言うと、光の手を取った。ひやりとした梨香の手に光は驚いたが、されるがまま襖に触れた。


バチッ!


「~っ!!? 痛いっ!!」

「さ、これで結界は破れたわね」

「あるならあるで言って下さいよ!!」


涙目の光に、梨香はにっこりと微笑み返した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る