翡翠色の魂 5
光は思う。現代科学が発達したこの時代に、これほど乗り心地最悪の乗り物が今までにあっただろうか、いや無かったに違いない。
光は真っ青な顔で身体を伏せて、その乗り物から落ちないように細心の注意を払っていた。よくもまぁ、アラビアンナイト達はカーペットを使って目的地までを移動していたなと、怖さを紛らわすために思った。
光は今、カーペットならぬ一反もめんに乗って空を移動していた。この一反もめんがどこからやって来たかは知らない。とりあえず人懐こいことだけはわかった。
烏之瑪は一反もめんの傍らで飛んでいる。高度は高い。地上からは鳥が飛んでる程度にしか見えないだろうが、もしこのすぐ横を飛行機が飛んでいったら明日の朝刊のトップニュースに違いないだろう。
光は長く息をついて、やっと身を起こした。不安定な一反もめんの上は震える程に怖いけれど、そうも言ってはいられない。
『光、あそこだ』
空を飛んで移動したから、北へと移動したことぐらいしか分からない。海に面する山。烏之瑪はそれくらいの印象しかない場所の、山中のある一点を翼で示した。光は視線をやってみるがよく分からない。
じっと目を凝らしてみるけれども、烏之瑪が指し示す場所はいまいちはっきりとしない。
「どこだよいったい……」
『行けば分かる。一反もめん、結界が張ってあるから我の後ろを慎重に飛ぶのだ。もう暫く飛ぶぞ』
烏之瑪が高度を落とし始める。それについて行くようにして一反もめんはふよふよと浮いていく。
烏之瑪は真っ直ぐと飛ばないで、山を旋回するようにして高度を下げていく。
「何で真っ直ぐに飛ばないんだー!?」
『言っただろう、結界が張ってあると。第一層は暗示程度でお前のその匂袋なら簡単に結界を通ることができるが、事が済むまであまり暗示を壊したくない。ここよりも強固な結界が張られている場所がある。文字通り蟻一匹通さない結界までは編み目を縫うようにして行く。お前の役割はそこだ』
旋回する一反もめんに振り落とされまいと必死な光に聞こえているはずもなく。仕方がないとはいえ、烏之瑪は自分の長口上が完全に無視されてしまったことは悲しかった。
どんどん高度を下げていき、やがて地上が見えた。地上には降り立たないで、烏之瑪は地面すれすれを飛ぶ。一反もめんもそれに合わせて飛ぶ。木々の合間をすり抜け、やがて止まった。
一反もめんから下りようとした光に烏之瑪は厳しく声を上げる。
『降りるな。死ぬぞ』
「は?」
光はよく分からない。どうして地面に降りようとするだけで死ぬのだろうか。
『一反もめんから降りないで、地面に触れ。匂袋の対称はお前自信だから、触れるだけでここにある結界はほどける』
何がやりたいのかよく分からない命令が来た。だが、渋々と光は身を乗り出して地面を触れる。
ぶわぁっ──────
風が吹いて光は思わず目を瞑った。そして次に目を開けたとき、信じられない光景があった。
「遠っ!!?」
『やはりあの店主の呪具は強力だな……いや、店主の忘れ形見というべきか』
すぐ近くで触れた山の地面は、遥か遠くに存在している。山一個分が消えて、その下に広大な草原の中に佇む屋敷が見えたのだ。
山一個分を作り上げていた結界。さらには現世に干渉ができるのは、一個人の術程度のものではなく、遥か昔から隠されるようにして存在してきた自然の一部だ。異界と呼ばれ、現世とは時間を異にする。下手に入ってしまうと帰ってこれないこともある。帰ってきても時間の流れを異にするから、何年も後にひょいと帰ってくる。ここはそういう場所の一つで、そのような浮浪者は神隠しにあったという。
山一個消えたように見えるが、実際に消えたのは光が触れた周囲の部分だけだ。中身が空の卵に穴を開けた状態だ。それもすぐに修正を始めてしまう。
『早く入れ』
烏之瑪に蹴り飛ばされた一反もめんはゆるゆると飛んで、草原の中の屋敷を目指す。
急降下を続ければあっと言う間に屋敷を目前とする。
『蛍野、歯を食いしばれ』
「は??」
『一反もめん、落とすのだ』
「───え」
光が認知しないうちに、一反もめんはふっと身体を下げて光を空気中に置き去りにすると、するりと蛍野の身体を抜けて上へと上がっていく。……蛍野が下に落ちていくだけかもしれないが。
「うっそだあああああああああああああああ!!?」
空中で蛍野は体勢を立て直そうとするが、すぐに目に見えない地面へと触れた……と思ったらすぐにまた下へと落ちる。地面はさほど遠くなかったし、見えない壁のおかげで高度にも差がなかったから、怪我無く地面へと転がった。怪我がないとはいえ、痛いものは痛い。
『着地くらいびしっと決めんか』
「……文化系男子にそんなことを求めてはいけない」
あいたたた、と起きあがればすらりと金属音がして、首元に冷ややかな感触が。
ちらりと視線を向ければ、鋭い刃を持つ日本刀が首元に置かれている。視線をずらしてその持ち主を見た。
白すぎる獣耳に白すぎる尻尾、さらには深草色の単に白の狩衣をまとう者がいた。その顔はまさしく朝方に出会った転校生。
「あれぇ……? えー……」
「まったく。烏之瑪がいたというのになんですかこの正面突破は。一番外側にあった結界はすり抜けたようですし、さらに異界の入り口は一番遠い場所に開ける……そこまでして最後の最後に派手にやらかしましたね」
『ふん。別にかまわぬ。ここまで入ることができたら上々。お前との相対、待ち望んでいたぞ。……蛍野走れ、結姫は屋敷の中にいるだろう!!』
ぱっと蛍野が立ち上がって、駆けた。結姫、その一言だけで十分だ。向けられた刃の恐ろしさなど、これっぽっちもない。
白すぎる狐が反応して行かせまいとさらに結界を張るが、光は自分でも知らないうちにそれを破って屋敷へと入る。結局、白すぎる狐の結界は烏之瑪と彼自身の二人しか隠せなかった。
「……なんですかあれ。ボクの結界を破るとか、本当に人間なんですか」
『特殊な呪具を与えられている。結姫の周りにあれがいて助かった。そしてあれのお眼鏡に敵う人間もいたのがな』
「あれとは……?」
『我らの末の同胞だ』
「ふむ……ボクが眠っている間に主の同胞が増えたということですか?」
『どちらかといえば、存在の仕方はお前に近いがな』
「そうですか。しかしまぁ、これはちょっと予想外でしたね……いいですけど」
烏之瑪と白すぎる狐は相対する。
長年の決着はまだつかない。
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