翡翠色の魂 4

藤子に連れられ、学校を半強制的に早退させられた光は目を白黒させながら一軒の家にたどり着いた。梨香の家である。時間差で雪斗も追い付いた。徒歩と車の差がにくい。


『ようやく来たか。家に入れ。鍵は開けておいた』


烏之瑪の言う通り玄関の鍵は開いており、ちょっと大きな一戸建ての民家の中はがらんとしていた。なんというか広すぎて、生活している感じがないお化け屋敷のようである。しかも市街地から離れている。

梨香は一人暮らしをしているわけではないが、家の中には生活感があまりなかった。雪斗によると、父親と二人暮らしで、その父親もあちこち出張していて、ほぼ一人暮らしをしている状態らしい。烏之瑪が何も言わずに我が物顔で家を闊歩するのも頷ける。

お邪魔します、と呟いて二人は上がった。藤子も無言で入る。烏之瑪は先導して玄関から程近い座敷へと招いた。

中には先客がいた。


「やあ、烏之瑪。さっきぶりじゃの」


白い髭をたっぷりと蓄えたお爺さんが座敷に置いてある七厘で暖をとっていた。確かに寒い日が続いているものの、もう暖房器具を使うほどではない。座敷は温まっていて暑いくらいだ。


『イロリ、さっきぶりだな』

「何々、事は急を要するのだろう? 我らが結姫があの狐に捕まったなら協力するさ。ところでそこな者達は?」

「俺は椋田雪斗という。こっちは藤子だ。で、こっちは蛍野光だ」

「はじめまして」


光がペコリとお辞儀をすると、イロリは少々驚いたような声音で指摘する。


「なんとまぁ、結姫以外にわしが見える奴がいるなんて久方ぶりすぎて緊張するわい」

「その言い方といい、雰囲気といい……あなたは妖怪か」

「それ以外になんと見るというのだ。人型をとっていても、常人には見てもらえぬからの」


雪斗は納得したかのように頷くが、光はちんぷんかんぷんだ。自分だけ何か疎外感を受けている気がする。そもそもの話の行方も分かっていないし。

烏之瑪に視線を向けた。


「で、烏之瑪。俺たちをこんな所に連れてきて一体どうしたいんだ」

『それを今から伝えるところだ』


 烏之瑪はさらりと受け流すと、まず光の方を見た。赤い右目がくるりと動く。


『さて蛍野。お前が今見ておる世界が結姫や椋田が見ている世界だ。まずどう思う』


もう完全に状況を飲み込めていなくてぼうっとしていた光が急に指名されて、びくりと肩をふるわせて口ごもる。どうと言われたって。


「まず何がどうなのかよく分からないんですけど。見えてる景色も何も、カラスが喋る以外に何もないじゃないですか」


そこで、ん? と雪斗は首を傾げた。普通にイロリと話していたから気づかなかったが。


「もしかして蛍野は常人ただびとか?」

「あの、その、常人っていうのどういう意味なんですか」


雪斗は光のその問いで確信する。光は視えない側の人間か。それなら何故、イロリが視えているのか。イロリの存在は常人には見えないような物言いだったが……。藤子は論外だ。結姫の術がかかってる。


「……妖怪が視えるか否かということだ」


雪斗の説明に、光は目を丸くして、


「ファンタジーは本の中だけで十分だと思わないですか」

「待て待て待て。蛍野、今はそういうことを聞いてるんじゃない。俺は、お前は妖怪が見えない人間だと思っていたんだが違ったのか?」


思わずと言った体で雪斗が突っ込みを入れた。光は分かってますよ、と唇をとがらせた。別にからかっているわけでもない。


「先輩の毎回の変人っぷりが炸裂してる奇天烈な行動も別世界を見ているなら仕方なかったと思います……って言いたいんですけど。以前、先輩の知り合いだという店主に言われたんです。先輩の視ている世界の層は俺の見ているものとは違うから、あの人に深入りはするなって。ようやく、その意味がわかりました」


情けないですけど、と頬をかく光はさらに言葉を続ける。


「ここにいるのも怖いと思えるような人? はいなさそうだし……でも正直実感はわかないし、どうして今更見えないものが見えてるのか聞かれても困るんですけど……」


申し訳なく言えば、それで良いと烏之瑪が遮った。雪斗は未だ疑問符を浮かべているが無視する。その問いを含めて、さて本題。


『さっき結姫がさらわれた。相手は我と敵対している妖怪だ。奴は結姫を気に入っているから殺すことは考えにくいが、前科がある。できるだけ早く結姫を救出したい。ここで重要となるのは我の手足となって動いてくれる者だ』


烏之瑪は区切って、右の翼だけをバサリと羽ばたかせた。微かに烏之瑪の周囲がざわついて、埃が烏之瑪を中心に舞い上がる。そうして烏之瑪は雪斗に向き直った。


『イロリに触って見ろ』


言われて、雪斗は要領が得ないようだったが言われた通りにイオリに触ろうとした。途端、全く触れられる位置でもないところでバチッと大きく火花が散った。


「……っ!」


あまりの痛さに腕を押さえて悶える。心配した藤子がそのひんやりとした指先で雪斗の手を包む。

その様子を烏之瑪はじっくりと見た後、今度は光にやるよう促した。光は今の光景を見た後だからやりたくないと首を振る。


「絶対痛いってこれ!」

『ええい、黙って触れ!』


どげしっ! と小さいカラス思い切り蹴りつけられ、その拍子に光はイオリの方へ倒れる。顔からいった。あ、死ぬ、とか思ったけれども火花は散らずに柔らかくイオリが受け止めた。


「あ、あれ?」

『こういう事だ。お前、例の店主から何か貰ってるだろう』


烏之瑪が聞けば、光は不思議そうにしながらも胸ポケットの中から一つの匂袋を取り出した。

それだ、と烏之瑪は翼で指し示す。


『呪具だ。店主お手製のな。あれの気配がしてたからすぐに分かったわ。これであの狐の結界を破れるかもしれん。というわけでこいつを結姫救出の時に連れて行こうと思う』


どうだ、とばかりに言うが光は納得がいかない。ただでさえ今の状況がよく分かっていないのに、そんな急に事を進められてもどうすることもできないのだ。

助けを求めるように雪斗の様子をうかがうが、雪斗は雪斗で何事かを思案する素振りを見せている。痛めた手は相変わらず藤子に包まれている。まるで結婚間近のカップルのようだ。


「……先生ってその人と付き合ってんの?」

「ん? いや、違うが……」

『人種ならぬ種族が違う。その紫のだって妖怪だ』

「えっ」


驚愕の事実。だってちょっと変わった趣味のコスプレお姉さんにしか見えないじゃないか。かといえイロリもしわくちゃのお爺ちゃんにしか見えないことを思い出す。妖怪にも色々いるんだなー。


「だが、私は雪斗が好きだぞ」


更なる爆弾発言。これには雪斗も顔を赤らめてむせるしかない。

大いに話が反れたところで、烏之瑪が再び話を戻した。呆れているようにバカップルと化した二人から視線を外した。


『さっきの話だが、お前に選択権はないぞ。結姫の命がかかっているからな。結姫に死なれて困るのはお前等人間たちだろう?』


痛いところを突かれ、光は眉間に皺を寄せる。このカラスはほとほと嫌な言い回しをする。さらには負の要素を組み込んで真っ直ぐに脅迫観念を突きつけてくる。ひねくれずに育った光には嬉しくない交渉術だ。

光は仕方なく頷いた。勿論、安全の保障は欲しいので忘れずに尋ねる。


「命の危機は無いよな? 先輩も、俺も」

『……さあ?』


やっぱりやめる。光は帰ろうと立ち上がった。


『結姫を見捨てるのか?』


くっ、と膝を屈してしまう。先輩を放っておけるほど光という人間はできていないし、何よりもあの小さな背中で精一杯背伸びをする先輩に光は、人一倍の特別な感情を抱いていた。誰にも話したことのない、光の心の宝箱にしまってある感情だ。店主には悟られてしまったようだが、はっきりとは指摘されてないからセーフ。それが今、ほんのりと鼓動し始めているのだ。

光が意を決して烏之瑪に向き直った。頭を下げることもしなければ、見下すこともしない。利害の一致をしただけの即席の関係だが、対等にありたい。だって本の世界では妖怪はなめられてしまうと喰われてしまうイメージしかないから。いや、冗談だ。

雪斗はそんな光を見て青春だなー、と呟く。その手は未だ藤子の手の中。

その雪斗を見てイロリは結姫には良い仲間ができた、これぞ青春、と似たようなことを考えた。

妖怪も人間もどちらも考える生き物なのである。

そうして一拍をおいた光が逃げ出さないところを見ると、烏之瑪はバサリと翼を打つと、真っ直ぐに蛍野を見た。逃げ出さない背中に決意を勝手に見出だすと、今度は雪斗へと向き直る。


『決まりだな。椋田、少しこいつを借りる。何かあったら藤子に頼め。大抵のことなら藤子で十分だろう』

「分かった。だが、一ついいか? ……結姫もだが、決してこいつを死なせるようなことだけはするなよ。人間には人間の事情があると言ったのはお前の方だからな」

『覚えておこう』


烏之瑪はぞんざいに言い放つと、漆黒の翼をバサリと二度打った。起こった風が部屋の中央を突き抜け、納戸へと向かう。生きているかのように活発に動く二つの風は、一つが扉の開閉をして、もう一つは納戸に仕舞われていた三味線を乗せて帰ってきた。

烏之瑪の目の前まで来た風は、烏之瑪が一鳴きすると虚空に消え、かたん、と音を立てて三味線だけが残った。

人間離れ……というよりかは完全に人外の所行に光はもう唖然とするばかりだが、多少は慣れている雪斗でさえ顔をひきつらせている。今のはちょっとだけ吃驚した。手品の領域を遥かにに越えている。まぁ、元から種も仕掛けもない純粋な術なのであるから当たり前なのだが。というかこんな芸当できるなら烏之瑪一匹でも十分な気がする。

烏之瑪はイロリに近くに置いてある風呂敷でこれを包むように頼む。イロリは引き戸から淡い緑色の風呂敷を取り出して、慎重に三味線を包んだ。それこそ、音が鳴らない程の細心の注意を払って。

イロリが包み込み終わると、烏之瑪は光の目の前まで歩み寄る。光の肩に飛び乗った。


『それを持って行け。役に立つ。これは妖かしの類を封印できる代物だ。結姫に渡せ。……ここぞという時以外に鳴らしてはならんぞ』


僅かに厳しい声音で言うと、烏之瑪は光にその三味線を手に取るように促した。これを手に取ったら、もう後戻りは許さない。そんな気配が感じ取れる。

光はごくりと喉を鳴らした。先輩はこんなにも危険なやり取りを幾度も繰り返してきたのかと考えると、背筋が凍るような気になる。こんなのは僕らのような中途半端な子供には荷が重すぎる。

考えれば考えるほど、現実を見据えるのをやめたくなる。だってそもそもカラスが喋ることからしておかしいのだ。夢ではない方がおかしい。


『早く手に取らんか』


ぐさっ。烏之瑪がせかすようにしてくちばしで頬を刺す。痛いのでどうあっても現実らしい。

それでも光は躊躇う。こんなの馬鹿げてると理性が嘲笑う。

見かねた烏之瑪が光の肩から飛び降りた。


『ふん、このひよっこめ。我がこんなにお膳立てするなんて青天の霹靂もよいところだ。有り難く思えよ。──おい、ヤクバコ出てこい』


烏之瑪が言った瞬間、コロリと天井から小さな日本人形が落ちてきた。思わずぎょっとして光も雪斗も仰け反る。

日本人形ことヤクバコは烏之瑪が戻ってくる途中に拾ってきて、天井の梁に潜んでいたのだ。もちろん、今の光にもバッチリ見えている。しかも蛍野家の中では大人しくしてたから存在はバレていないはず。


「あわわわわ、光~っ」

「……何コレ」


ばっちりかっちり目線が合ったヤクバコと光。ヤクバコは恥ずかしがって袖で顔を隠してしまった。


『お前の家に憑いている付喪神だ。代々に伝わる薬箱があるらしいな。それの、だ』


つまり、ひっそりと暮らしていた蛍野家の住人ということか。光は笑うしかない。妖怪が自分の家にまで住み着いていたとは。

平常心、平常心と念じながら取りあえず挨拶してみる。


「……初めまして?」

「えと、光。初めましてじゃないよ。その……光が梅雨に熱を出したときに一度見えていたみたいだから……」

「え、あの時の日本人形……!?」


平常心は呆気なく崩された。以前に夢かと思ってさらりと流していた日本人形は実在したらしい。ていうかあの後にかなり失礼なことを言った気がすると思うと気が遠くなりそうになる。ああ、祟られるのかな。

光の許容量はとっくの昔に越えている。


『おいヤクバコ』

「ひ、ひぃっ! 分かってるよ!?」


ヤクバコは烏之瑪に声をかけられるとびくりと肩を震わせて光の膝元へと寄ってくる。ヤクバコの烏之瑪に対する苦手意識は健在だ。


「光。光が梅雨のあの日に熱を出したのってね、確かに雨のせいでもあるんだけど、本当は悪い妖怪が憑いてたせいでもあるの。それを祓ってくれたのは結姫だよ。私じゃどうにもできないことを代わりにやってくれたのよ。光、結姫を助けてあげて。結姫は弱いの。きっと一人じゃ大変だわ」


真っ直ぐに澄んだ瞳は人間と妖怪の境界線を無くし、率直な言葉はそれらの垣根を越えても届く。ヤクバコの言葉は光の心を強く打った。

──自分の熱は妖怪のせいで梨香がそれを祓った。信じられないが、信じられる要素が今ここには十分すぎるほどに揃っている。

光は唇を噛む。だから僕にどうしろと。

一度決心した心が揺らぐ。こんなに期待されたって、できないときはできないし、失敗するときは失敗する。だが失敗はできないという重圧が、光に重くのし掛かる。

今まで何も知らなかった光に梨香を救わせる。それがどんなに滑稽な話なのかを、光はこの場にいる全員に突きつけてやりたかった。光が梨香を助けに行くと当然のように思っているこのモノ達に。

言えばいい。言うだけなのだ。キミ達は頭がおかしいと。頭の螺子が飛んでいると。馬鹿にすればいい。真摯な目を向けて切実に願っている小さなモノの声に聞こえないフリをして、不安そうにこちらを眺めながら事の成り行きを見守る華やかなモノの視線に見ないフリをして、ただ何も言わないでじっと待っている旧いモノの期待に気づかないフリをして、逃げる事を許さない小さくても大きな存在から目を逸らして。全てを切り捨てるようにして、匂袋を放り捨てさえすればいい。

それなのに。


「──先輩を助けるにはどうすればいい?」


口は彼らの望む言葉を紡ぐのだ。

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