番傘の空 4

むせるような煙たい香が漂う部屋は、どこから一体何が出てくるのか分からないほど怪しい空間だった。進む白世の後ろを黒いのが軽い足乗りで着いていく。隠れる気など全くない堂々とした態度に私は感服した。一応敵陣地だぞ?

部屋の最奥だろうか。豪華な紋様の入っている襖の前でぴたりと白世は止まった。黒いのも間隔をあけて立ち止まる。

白世は躊躇うように声を震わした。


「……やはり僕は人形でしかないようです。この先に何があろうときっと心が揺るがないのだから」


黒いのはただ冷めた目で白世を見ていた。

私は白世の言葉の意味が分からない。一体何を言いたいのか、さっぱり汲み取れない。

この先にはきっと縷々空がいるのだろう。それなら何故、白世は今更開けるのを躊躇う必要があるのか。

そう、白世は躊躇っていた。襖を開けるのを。口では皮肉っているのに、なかなか開けようとしない。本人はそれに気づいていないのだろうか。


「つべこべ言わず開けい」


黒いのが痺れを切らしたように大股で襖へと近づき、思いっきり開けた。

かたん、と音を鳴らした襖の先にはさらに濃い香が焚かれていた。目を凝らせばその中心に影を見つけることができた。外から中へと流れる風でその香がわずかに薄まる。

部屋の中央だろうか、背を向けて縷々空が立っているのが見えた。


「帰るぞ。お前の居場所は此処ではないだろう」


黒いのが私を縷々空に向けて投げた。

縷々空は投げられた私を受け止める。

黒いのは一歩、踏み出した。カーン……と金の棒を打ち鳴らす。シャンシャンと金の輪っかが擦れてなる度に煙たい香が風に運ばれて行き、澄んだ空気へと変わる。開けた視界の向こうには大きな簾。なんだろうあれはと思う前に妙な違和感に気づいた。

なんだ。なにかがおかしい。頭が理解できないならば、体で感じるんだ。

そこで気づいた。

縷々空の纏う気配と呼ぶべきものがまるで違うことに。

あの寂しさが滲んでいた気配ではなく、あの儚さが溢れていた気配ではなく、あの可憐さがこぼれていた気配ではなく。

───全く別の、空っぽな気配。


「縷々空?」


呼びかけても返事をしない。私を手にしたまま、ぼんやりと立ち続けるだけ。


「おい縷々空! 聞こえているのか」


縷々空はぴくりとも動かない。どうしてだ!


『───我こそ、耶赦なり』


地の底から響く、朧気な声がさらに奥まった簾の向こうから響き、姿を表す。

その姿は白い髪、白い肌、白い尾。白世とほぼ瓜二つなのに、もっともっと冷酷な残忍な最凶な気配に、私は射竦んでしまう。


『神代の烏……帰れぬ烏……哀れだな……』

「……聞き覚えのある名前だと思うたら、お前だったのか耶赦。異国へ追放され高天原より名を消された忘却の神狐。これはどういう事なのか。私の契約者と知ってその者を捕らえたのなら、容赦はせぬぞ」


 黒いのが錫杖を一際高く打ち鳴らした。


「目を覚ませ! 食われても良いのか!」

『遅い、遅い……! 食らうた、食らうた。甘し甘し、甘美なる力を蓄えしこの娘は我の物なり』


けたけたと嘲笑う耶赦。不気味なその気配に私は目を背けたくなる。だができない。背けてしまったら、縷々空はどうなるのだ?

縷々空を守るのはきっと黒いのだけだ。白世はどちらかというとあちら側のように見える。私は、この姿だから何もできない。

せめて、もう一度。もう一度だけでも、この足で立って歩けたなら……。


『縷々空、どうしてしまったのだ。気づいてくれ、私を見てくれ……』


ぐすぐすと心がざわつく。

どうにかして、縷々空を正気に戻す方法は無いのだろうか……。

そう思いながらも何もできないでいると、私と縷々空を挟んで、黒いのと耶赦の妖力が爆発的に膨れ上がっていっていく。怖い、やめてくれ、助けてくれ───


「──巻いた風は竜の如し」

『──砕し成せ・覇狐はこ


二人が同時に妖力を圧縮した瞬間、私はもう駄目だと目を瞑った。耶赦はともかく、黒いのまで間の縷々空を無視して攻撃を仕掛けるというのか。

お前は一体味方なのか敵なのかどちらなんだ。

その言葉を飲み込んで身を強ばらせていると、もう一人味方なのか敵なのか分からない奴が縷々空ごと私を抱きしめて、跳んだ。

───白世だ。


「お目覚めください、我が親しき友、縷々空──」


そう言って、白世が縷々空の唇に唇を重ねた。

おおぅ、接吻。これぞ接吻。接吻している者同士の真ん中に挟まれている私は目線が外せないじゃないか。番傘である私に目はないがな。というか白世、そんな事をしている場合じゃないだろう。

私は二人の体温を感じ、白世の長く熱のこもった接吻を見続けさせられてる。こっちの身にもなってみろ。しかも空中だし。身動き取れんし。

白世は黒いのと耶赦の妖力の及ばない安全な場所へ着地すると同時に、縷々空から唇を離した。かくん、と縷々空の膝から力が抜けて崩れ落ちる。


「縷々空!」

「大丈夫ですよ。主様に根こそぎ霊力を奪われていたのを、ボクの妖力で補ったんです。因果を狂わせるので馴染むまで少し辛いでしょうが、生きる屍になるよりはマシでしょう」


小声で私にだけ聞こえるように白世は言う。言ってる側から縷々空が苦しそうに呻き出す。胸をぎゅっと掴み、背中を丸め、肩を震わせる。


「あっ……ああっ…………!」

「妖力は魂にまで定着してしまうから、これは縷々空の業となってしまいますが……。ボクはそれでいいと思います。いつかまた彼女と会えるかもしれませんから、その目印になってくれるでしょう」


白世は脂汗を浮かべて苦しむ縷々空の額にかかる前髪を優しくすいてやる。その表情はとても複雑だ。言葉にできる感情ではない。


『白世、お前はもしかして』

「言わないでください、花笹。ボクは主様の眷族である限り、縷々空にとって害でしかありませんから。でももし、もしもですが───」


白世はその先を言わなかった。白世が何を言おうとしたかは分からないが、きっと白世は何かの条件があったら耶赦を裏切る決心でも着くのだろうか。そう匂わせるような台詞の切り方だった。

縷々空が身じろぎ、のろのろと腕を着いて起きあがった。それを区切りに、黒いのも耶赦も妖力のぶつけ合いをやめる。

白世も切なさ、悲しさ、寂しさ、全てをその心の内へと押し隠し、冷めた目で縷々空を見る。


「ああ、起きてしまったのですね。ボクの妖力を直接流し込みましたから、耐えらないと思ったのですが」


先の優しさに満ちた言葉とは全くの正反対の言葉が部屋に響いて、私ははっとする。

白世、やはりお前は───


「これは失敗しましたね。ボクの妖力が貴女に取り込まれてしまいましたから、これで封印の術でも使われると厄介です。まあ、烏之瑪が弱っている縷々空の助けとなれるかにもよりますが、ね……」

「ぬかせっ!」


黒いのが吠え、耶赦から距離を取る。跳びずさり、ついでとばかりに金の棒を振るい風を生み出すと白世に当てた。白世は身を任せて縷々空から離される。


「……なら、こうつごうじゃない……。うのめ、ぜったいにとけないようなふういんを、かましてあげましょう。にっきはある?」

「ああ。だがしかし、お前にかかってるその呪いを解くことが先になるな」


白世と入れ替わりに黒いのがばさりと翼をはためかせて縷々空の元へやってくる。そして一冊の藍色の冊子を差し出した。


「やしゃをふういんするにはどうすればいい?」

「あれは元神狐ではあるが、今は妖狐と成り果てているから、霊力で封じることができる。お前の霊力を考えると、封じることが限界だろう。霊力を使い果たせば消滅させることもできるが、お前が死んでしまうからな。我が神力を使おうにも霊力が足りぬ。お前の力量次第だ』


黒いのはそう言って金色の棒を構える。縷々空の細いうなじにその先端を突きつけた。

周囲に漏れ出ていた妖気が、人間の洗練された霊気へと変わっていく。水を入れる容器を移し換えるように、どんどん縷々空の中の霊力が膨れ上がっていく。


「なまえを、かえしてもらうわ」

「我がそなたの真名を唱えよう───蘭奈」


ぱたぱたと髪がはらみ、着物の袖が舞い上がる。それだけでなく、縷々空の髪が長くなり身長が少し伸び、身体つきが丸みを帯びてくる。黒いのが名を口にしたことにより、劇的な変化が訪れた。──縷々空が成長していた。

しかし、それら一連の動作を耶赦が静かに見守るはずがなかった。


『その霊力を寄越せ……! ───砕し成せ・覇狐』


ゆらゆらと燃え上がる蒼白い狐火がこちらへ向かう。さらに白世が追い討ちをかけようと人差し指を唇にあてがい、世界の構築をしようとする。

だが、


「残~念~賞~。こちらの方が早かったわね」


完全復活を成し遂げた縷々空の元、黒いのは金色の棒を横に凪ぐと耶赦の攻撃が成立する前に打ち消し、さらに白世を吹き飛ばして術の構築を差し止めた。

成長した縷々空が藍色の本を片手に、もう片方の手で私を耶赦の方へ突きつけ……っておい。突きつけるな馬鹿。


「よくもこのあたしに散々な事をしてくれたわね、耶赦。あたしの結婚相手に化けてこの屋敷に数年も閉じこめたのは尊敬に値するわ。でも、それも今日で終わりよ……!」


縷々空から仄白い気配が浮かび上がる。霊力が目視できるほどにまで高まっているのだ。

最後、ちらりと縷々空は白世を見て、目を閉じる。そっと呟かれた言葉はきっと私にだけしか聞こえなかっただろう。

ありったけの寂しさがこもった呟きは白世へと伝わることなく、放たれた。

さようなら。

縷々空の霊力が方向性を持った。

それは術の成立を意味する。


「耶赦。貴方は幾つもの間違いを犯したわ」


一つ。


「あたしに目を付けたこと。烏之瑪がいるのだから、今この時をもって、高天原の神々を敵に回したと同意義よ」


二つ。


「白世を作ったこと。中途半端な作り方をして、結果的には自分を窮地へ向かわせる羽目になったわね」


三つ。


「己の欲を溢れさせたこと。後先考えずに目の前の欲に眩んで、あたしを捕らえただけに納めたのは頂けなかったわね」


くすくすと縷々空は笑った。

そして、白世に目を向ける。


「名前を奪ってあたしの動きを止めても、白世があたしに名前を付けてしまったわ。本当の名前でなくても、あたしを解放するには十分だった。仮の名を与えられたために、希釈されていたあたしの存在がもう一度濃くなって烏之瑪に伝わったんじゃないかしら」


縷々空は藍色の本を掲げた。

本当は用途が違うのだけれど、と苦笑して。


「花笹、ちょっと身体を借りるわよ」

『は?』

「封印の器がいるの。貴方自身を使う訳じゃないけど、器の形を取らせるためにあれの妖力を貴方に通すわ。人型をとれなくなるかもしれないし、何よりもあの力を通すのに耐えれる?」

『……まあ、頑張ろう』

「ありがと」


縷々空は藍色の冊子を黒いのに手渡した。


「日記の力、ほとんど吸っちゃったわ。また一からね。ごめんなさい」

「紅の時もそうだった。仕方あるまい、また次代も頼む」

「いいわよ。とことん付き合ってあげる」


縷々空と黒いのが謎のやりとりをしてから、縷々空は私を開いて差した。パッと藍色の着物の袖が翻る。


「烏之瑪、あいつらの動きを止めて!」

「承知!」


黒いのが金色の棒を高く掲げる。漆黒の翼がばさりと震え、縷々空の霊力よりも洗練された、静謐な空気が部屋に漂う。


「風の戒め織り成りて檻と成り」


ゴォォォッ、と風が吹き荒れて耶赦と白世の動きを止めた。ばたばたと髪が袖が裾が、はためいて視界を覆う。


『烏ッ! 貴様はこの力を持って神妖とほざくのかァァァッ!』

「能力のおかげだ。この冊子に残った妖力を霊力に変換し、更にそれを神力へ変換した。それと持ち前の神力のほとんどを使って作り上げたその檻は今のお前では開けまい。これ以上やれば私が神力を失って消滅するがな……。今のうちにやれ、蘭奈!」

「はいはい」


最後の蘭奈、というのが縷々空の本当の名前なのだろう。だがそれは今は関係ない。

白世を見れば何の抵抗もしていない。何の感情も表に出していない。何を思って、何を感じているのか、私には分からない。

蘭奈……今更言いにくいな。やめよう。縷々空が、私を差したままくるくると回り出す。


「透しませ透しませ・清らかに・廻りませ廻りませ・六道の外れ・逢いませ逢いませ・夢路の関」


謡って舞う縷々空。段々と耶赦の妖力が私の身体を透き通って行くのが分かった。

耶赦は呻く。白世は静かに佇み、薄くなる己の姿を見下ろす。最後にちらりと縷々空を一瞥したように見えた。

透き通った耶赦の妖力は私によく似た番傘を形作った。


『封印して喜ぶナ……! 我、再び相見えンゾ……!』

「それは楽しみね」


縷々空がそう呟いて舞うのをやめたとき、部屋には一本の番傘が転がり、耶赦と白世の姿はなくなっていた。黒いのが興していた風もぴたりと止み、静かな雰囲気だけが残る。

縷々空が私と転がっている番傘を見比べて、転がっている方も手に取る。

耶赦や白世を表したような真っ白な番傘は赤色の私と違ってとても綺麗だった。くすんでしまっている私の色との違いもそうだが、私は白世のせいで穴まで空いてしまっているからな。

全く、私が人型のままでいられたら小突いてやったものを。


「烏之瑪。お願いがあるんだけど」


白い番傘を見ていた縷々空が黒いのに声をかけた。

そうして白い番傘を黒いのに投げ渡す。


「ここに古家のイロリを連れてきて頂戴。そして決して人目の着かないように結界を張って守るように言って」

「分かったが……お前はこれからどうするのだ。村ではもうお前を死んだ者として墓まで作ってあるぞ」

「そうねぇ、今更帰っても神隠しに遭った娘とでも言われてしまうだけだわ……。藍の残りを埋める旅にでも出ましょう。花笹をお供にでもして、ね?」


縷々空が片目を瞑って、私に笑いかけた。

別にそれはいいのだが……。その藍色の冊子の意味が気になったので聞くと、縷々空は、妖怪達の物語を書いて集めたものよ、とますます笑っただけだった。今度、私のも書いて貰おうか。


「藍の残りを埋めても力の足しにはならないぞ」

「紅のを足せば、少しぐらい足しになるわよ。塵も積もれば山となる~♪」


縷々空は鼻歌交じりで微笑ん。

私は地道に自分の妖力が戻るのを待とう。縷々空の荷物にだけはなりたくないからな……。人型が早くとれるようになれればいいんだが、もう取れないのだよな。

そういえば外の世界はどんななのだろう。何があるのだろう。縷々空に連れて行って貰えるなんて楽しみだ。

……いや一緒に行くんだ。私はもう自分の意志があるのだからただの物として運ばれるなんて味気ない。せっかくなのだから自分の足で歩きたい。歩く足がないからやっぱり縷々空に連れていって貰うしかないのだがな。

生んでくれた縷々空に感謝しなければ。




そして数年の月日が経ち。

藍色の冊子が様々な妖怪達の話で全て埋まった後。

縷々空は私を差して、この場所へ戻り。

自ら命を絶った。

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